インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

大谷選手のグローブとマンゴー崇拝

アメリカ・メジャーリーグ大谷翔平選手が日本国内すべての小学校に3個ずつ、合計約6万個のグローブを寄贈というニュース。発表からひと月あまりを経て、各地に届き始めたというニュースが再びマスメディアを賑わせていました。

www3.nhk.or.jp
www.oricon.co.jp

折しもクリスマスに重なったことから「大谷サンタ」さんからのプレゼントという形容も。さっそく使った子どもたちの声が紹介されたり、子どもたちだけでなく教師や自治体の職員も興奮気味だと伝えられたり。贈呈式が行われた学校もあり、また自治体や学校によっては、グローブをいったん展示して、市民や保護者にも見てもらうという措置を講じたそうです。中には「(3学期始業式のお披露目まで)神棚にでも飾っておこうかなと思っております」という学校まで。

まさにクリスマスプレゼント!大谷翔平選手のグローブ愛媛に届く「神棚に飾っておこう」【愛媛】 (23/12/25 18:35) - YouTube

グローブと一緒に入っていた大谷選手からの手紙には「私はこのグローブが、私たちの次の世代に夢を与え、勇気づけるためのシンボルとなることを望んでいます」とあったそうです。もちろん、大谷選手がポケットマネーを何にどう使おうと自由だと思いますし、憧れのスター選手からの贈り物に子どもたちやその周囲の人々が心躍らせる気持ちもわかります。それでもやや狂騒気味とも思えるこうした報道に接しながら、私は思わず「マンゴー崇拝みたい……」とつぶやいてしまいました。

マンゴー崇拝(芒果崇拜)というのは、いまではおそらく中国人でも知っている方は少ないかもしれませんが、文化大革命時期(1966年〜1976年)に行われたマンゴー(あの果物のマンゴーです)に対する一大崇拝ムーブメントのこと。外国の使節からマンゴー40個を送られた毛沢東が、そのマンゴーを毛沢東思想宣伝隊に「下賜」したところ、それが労働者階級への感謝や愛情、さらには毛沢東自身の自己犠牲的な精神のシンボルととらえられ、熱狂的な「崇拝」を生み出したというものです。

ja.wikipedia.org

いまとなってはちょっと信じられないというか、あまりその熱狂ぶりをカリカチュアライズし過ぎるのも酷かなという気もしますが、とにもかくにも当時そのマンゴーは防腐処理を施されて「展示」されたり、マンゴーを煮た汁をみんなで飲んだり、マンゴーの図案が毛沢東バッヂにあしらわれたり、さらにはマンゴーのレプリカが作られて広く鑑賞(?)の対象になったり、果ては「マンゴーは毛沢東からの贈り物であっただけではなく、彼そのものであるかのように取り扱われた」のでした。

じつは私、かつて友人に文革関連グッズのコレクターがいて、一度そのマンゴーのレプリカの本物(ややこしい)を見せてもらったことがあります。おそらく蝋細工であろうそのマンゴーは、台座つきのガラスケースに収められ、ガラスの表面には毛沢東の顔と下賜を寿ぐ言葉がプリントされていました。


The curious case of Pakistani mangoes in China - Prism - DAWN.COM

いまとなってはパロディグッズとしか思えないほどのレプリカ。文革という時代を背景に、常軌を逸していたと言わざるを得ないマンゴー崇拝は、多大な災厄をももたらす原因となった毛沢東への極度の個人崇拝、その危うさを象徴する出来事のひとつとして、後世に語り伝えられるべきものだと思います(前述したように、知っている方はもはや当の中国人自身にもあまり多くはありませんが)。

大谷選手がプレゼントしたグローブをそれになぞらえるなどとんでもないとお叱りを受けるかもしれませんが、ここ数日の「グローブ到着」を熱狂的に伝える本邦の報道に接しながら、私はどうしても違和感を禁じえませんでした。

おそらく大谷翔平氏は、ご自身のプレゼントによってこんな狂騒が引き起こされるとはあまりイメージされていなかったのかもしれません。でも1校あたりグローブ3個、学校の規模も児童数も、それになにより野球が好きかどうかも問わず、一律に配るというそのアイデアは、あまりスマートではないのではないかと思ったのも正直なところです。この時代の、個人的な備忘録としてここに記しておきたいと思います。

ネイティブにはなれない

ことしのお正月にオンライン英会話をはじめて、もうすぐ1年になります。1年と言ったって、基本的に30分のレッスンを週3回ですから、学習時間としてはたいしたことはありません。オンライン英会話以外にスマートフォンのアプリで学んだり、問題集に取り組んだり、検定試験を受けたりしましたけど、それだってたかが知れています。それでもまあ、ほかの言語の学習とともに英語学習が暮らしの中に習慣づけられたのはよかったかなと思います。

こうやって英語を少し真剣に学んでみてあらためて感じたことですが、ほかの言語に比べて教材やアプリや学習に役立つコンテンツが桁違いに多いですね、英語は。これだけ桁違いに大量の情報があふれていると、もはや学ばない理由が見つかりません。が、逆に選択肢が多すぎて「いったいどうすればいいの?」と迷ってしまう、あるいはあれこれ手を出しすぎて成果が出ない・挫折しちゃったなどと悩む……そんな英語学習者も多いんじゃないかと思います。

先日読んだ鳥飼玖美子氏の『やっぱり英語をやりたい!』は、まさにそういう英語学習者の悩みや疑問にひとつひとつ丁寧に答えるという内容で、やはり英語の学び方のヒントを求めている人が多いことを感じさせてくれます。


やっぱり英語をやりたい!

もっとも鳥飼先生のアドバイスは、語学学習者にとってはしごくもっとも、かつ真っ当なことばかりで、手軽に、手っ取り早く、最低限の努力で最大限の効果を上げたいと目論む方にとっては、この本を読んで当てが外れたと感じるかもしれません。いわゆる「1週間でペラペラ」を謳うような教材やメソッドとは真逆の価値観に貫かれているからです。

それは、母語とは違う外語(外国語)を学ぶことはすなわち「異質性とは何かを体得すること」という、最終章に書かれた言葉に集約されています。私はこの言葉に全面的に賛同しますし、だからこそ今後もしAIなどの技術がさらに高まった未来において、もし人類が外語を学ばなくても良いような時代が来てしまったら、つまり人類が異質性とは何かを体得することができなくなってしまったら、それこそが人類の滅亡を意味するのではないかとすら思えます。

qianchong.hatenablog.com
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というわけでこの本は、学習のためのさまざまなコンテンツがインターネットを中心にあふれかえり、さらにAIの普及で学習そのものへの意欲がゆらぎつつある現代の私たち外語学習者に「まあ落ち着いて」と深呼吸を促すような内容になっていると思いました。いろいろと気づきを与えてもらいましたが、個人的にひかれたのは外語(特に英語)学習における「ネイティブ」という言葉の扱いについてです。

ネイティブ信仰の強い方にあえてお知らせしたいことがあります。世界の外国語教育の新たな潮流は、ネイティブみたいな流暢さを目指す必要はない、なのです。
どんな外国語であっても母語話者を目指す必要はないし、ネイディブを基準にする必要もない。そこで、欧州評議会(Council of Europe)のCEFR(欧州言語共通参照枠)も増補版では、native speaker という用語をすべて一掃しました。(72ページ)

ああ、これには虚をつかれる思いでした。私もふだんの仕事で、語学を学ぶ学生を相手に「ネイティブ」あるいは「ネイティブ・スピーカー」という用語を多用しています。でもいまや外語学習では、とくに国際共通語となった英語ではなおさら、「ネイティブみたいな」という軸を学習に持ち込むこと自体が時代遅れになっているんですね。

そういえば、このかん私が英語を学びつつ、あれこれ参照させてもらったなかでも特にYouTubeには「英語の達人」があまた登場してさまざまな学習法やご自身の体験などを披露されていましたが、その多くがネイティブのような発音、ネイティブのような語彙、ネイティブのような統語法……に至上の価値を置いています。私はそうしたコンテンツに触れるたび畏敬の念を抱くと同時にどこか割り切れないものを感じていました。

というのも、私もかつて中国語を学ぶ中で「ネイティブのような」に近づき同化することこそ至上の目標としていた時期があったからです。でもその後、少なくとも自分はネイティブ(のよう)にはなれないのだと悟り(諦め?)ました。そしていまでは、むしろ「ネイティブにはなれない」と心底分かることこそ語学上達の要諦ではないかとさえ思っているのです。CEFRが“native speaker”という用語をすべて一掃したというお話に、意を強くした次第です。

qianchong.hatenablog.com
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ミルクフランス

「ミルクフランス」というパンがあります。ごくごく細くて小さいフランスパンに縦に切れ目を入れて、ミルク味のクリームが絞ってあるあの菓子パン、私は大好きです。ネットで検索したところによると、1981年にタカキベーカリーの広島工場で発案されたものなんだそうです。各地のパン屋さんはもちろん、いまやコンビニパンの定番とも言っていいほどポピュラーなミルクフランス。ここ十年ほどの間に普及したような気がしていましたけど、実際にはそんなに昔からあったんですね。

https://camelia.co.jp/magazine/book/178

上掲のこのページによれば、フランスではクリームのかわりにヌテラ(あのチョコレート味の定番スプレッド)を塗るのが人気なんだそうです。フランスパンにチョコレートとバターを挟んだのを渋谷のVironあたりで売っていますが、あれもおいしいです。私にとってはもう年齢的にかなり背徳の味になりましたが。

そういえば最近は「あんバターサンド」という、小豆餡とバターをパンに挟んだのもよく見かけます。パンに甘いものをダイレクトに挟んじゃうという、考えようによってはかなり武骨な菓子パンですけど、それがかえって食べ飽きない理由のひとつなのかもしれません。というか、日本には昔からコッペパンというものがあって、あれはまさにこうした武骨系菓子パンの嚆矢ですよね。ジャムとかピーナツバター、それもスティッキーズみたいなのじゃなくて、ソントン(懐かしい!)とかのを挟んだだけという。

それはともかく、ミルクフランスです。いまや街のパン屋さんではそれぞれに趣向を凝らしてミルクフランスが作られており、パンもフランスパンの生地だけでなく、より食感や口溶けのいいものに進化しているものもよく見られます。私はパン屋さんでミルクフランスを見つけるたびにたいがい購入していて、これまで一番おいしいと思ったのは新宿駅南口サザンテラスの入り口や渋谷駅の宮益坂下方向にあった(いまもあるかな?)ゴントランシェリエの「ヴィエノワミルククリーム」でした。

ヴィエノワ(viennois)というのは、小麦粉・水・塩・酵母だけのフランスパンとは違って、砂糖や牛乳や卵やバターなどが足された、お菓子寄りのパンらしいです。ブリオッシュなどに近いのかしら。フランスパンよりさっくりとした口当たりで、これはもうミルクフランスからずいぶん離れているような気もします。でもまあおいしいのでよく買っていました。で、きょう新宿は京王百貨店のデパ地下を通ったら、おいしそうなミルクフランスを見つけたのでひとつだけ買い求めました。それがこれです。

これもヴィエノワっぽい口当たりですけど、ちょっと分厚いシュー生地みたいな食感もあって、とてもおいしかったです。それにクリームにはきび砂糖がつかってあるらしく、かなり甘さ控えめでこれもいいなあと思いました。パンに巻いてある帯には「Junibun BAKERY」と書かれていて、ネットで検索したらなんと自分の家の近くに本店があるパン屋さんでした。京王百貨店には支店を出しているとのこと。知らなかった〜! こんどはチョコレートクリームを挟んだのと、あんバターを挟んだのも買ってみようと思います。

「テキトー」に海へ行く

通勤ラッシュ時に、大勢の通勤客が向かう都心方向ではなく、逆方向の空いた電車に乗ってどこかへ行ってみたい衝動に駆られることがあります。そのむかし東京で、今から思えばかなり「ブラック」な出版社に勤めていたころたまたま読んだ『宮本から君へ』というマンガがありました。その作品に、朝の出勤時に会社とは違う方向の電車に乗って海を見に行くというエピソードがあって、当時会社の仕事に相当倦んでいた私はひどく憧れたことを覚えています。

いまの仕事には特に大きな不満はないのですが、毎週決まった時間に定期的な授業のコマを持たなければならない教員という仕事の性質上、有給休暇を完全に消化するのはかなり難しいです。ところが昨日は久しぶりに有休を取ることができたので、そうだ、アレをやってみようと思って、通勤時間で混雑する都心のターミナル駅から、都心とは逆方向の電車に乗ってノープランで「テキトー」に海を目指してみました。

途中で何度か電車を乗り継ぎ、終着駅からはバスに乗って、とある岬の先端にある漁港までやってきました。予想はしていましたけど、海からの風がかなり冷たいです。夏はおそらく行楽客で賑わうんでしょうけど、年末も近くて寒いこの時期、商店街はかなり閑散としていました。せっかく漁港に来たんだから海鮮丼みたいなのを食べたいなと思って、これまた「テキトー」に良さそうなお店をスマートフォンで探しました。

お店の外観は「もしかして休業日?」と思ったくらいひっそりしていましたが、引き戸を開けると中は食事客で満員でした。お店の方が「お名前を書いてお待ちください」と入り口脇にある紙を指さしました。入るときには気づかなかったのですが、十組以上の名前が書かれてあって、お店のお向かいには「待合室」みたいなものもありました。地元ではけっこう人気のお店だったようです。

けっきょく小一時間ほど鄙びた街並みを散策しながら待って、ようやく入ることができました。ここの漁港はマグロが揚がることで有名なのですが、私はマグロにそれほどときめかない人間なので「地魚の刺身定食」を注文しました。その日の地魚の刺身が八種類ほど盛りつけられていて、それぞれに食感がちがっておもしろかったです。でもまあお味は……ごめんなさい、こんなものかしら。

そろそろ帰ろうと思って路地裏を歩いていたら、とてもレトロな雰囲気の喫茶店があったので、ちょうど身体も冷え切っていたことでもあるしと入ってコーヒーを飲みました。他にお客さんは誰もおらず、ゆっくりすることができました。かんじんのコーヒーはあんまりおいしくなかったけれど……(またまたごめんなさい)。

でもまあ、そもそもが思いつきで「テキトー」に海までやってきたのです。せっかく休みを取って、わざわざ遠くまで来たんだから、そのぶん楽しまなきゃ、モトを取らなきゃ……みたいなマインドではない、こういうトホホな休日の過ごし方もいいなと思いました。実際、ここ数週間は心身ともに疲れ切っていたのですが、帰る頃にはとても調子がよくなっていました。

帰る途中に横浜駅で乗り換えたので、崎陽軒シウマイ弁当を買って帰りました。横浜で売ってるシウマイ弁当は東京のとはちがって紙紐でくくってあるのがいいんですよね。で、夕飯にそのシウマイ弁当を食べました。これがきょう一番おいしかったです(最後までごめんなさい)。

AIで人はバカになる?

ChatGPTが世に公開される前の時代ですが、「コンピュータを使うと人は衰える」という記事を読んだことがあります。

project.nikkeibp.co.jp

いや、たしかに、パソコンやスマートフォンを使い始めてからというもの、漢字の「ど忘れ」や家族の電話番号さえ知らないという状況が恒常化して、漠然と「ああ、自分はこうやってどんどんバカになっていくのかもしれない」と思っていました。この記事ではさらにこんな例が紹介されています。

「かつての経理担当者は原価を自分で計算できたが今はできない。コンピュータ任せにしていて理屈を分かっていないから」
「一通りの仕事の流れを把握している人がいなくなった。質問するとコンピュータ端末の画面を指さし、『こういうふうにやっています』と答える始末だ」

きょうび、何か分からないことや知らないことがあるとすぐにパソコンやスマホで検索して、そこで得たばかりの情報を我が物顔で説明する「作法」や「仕草」が定着しつつあります。学生だけでなく教師にさえそんな人がおり、かくいう自分もそこに片足を突っ込んでいる自覚があります。こうして知識を「理屈として分かっていない」状態が積み重なっていき、それでも表面的にはけっこう何とかなっちゃう。それが心底怖いと思うのです。

「ググれ」ば何でもすぐに分かるから学ばなくてよいという風潮はもうずいぶん前から蔓延しています。「にわか」で仕入れた知識でマンスプレイニング*1するバカな人(失礼)は、パソコンやスマホの登場以前だってけっこういました。もちろん男性だけでなく女性にだって(きょうび男性だ女性だというたて分けもあまり意味を持たないかもしれないけれど)。ChapGPTなどの登場でそれらが一層加速しているかもしれません。

そんな怖さへの処方箋を得たいと思って、新聞の書評欄で紹介されていたこの本を読みました。人工知能の研究者である川村秀憲氏の『ChatGPTの先に待っている世界』です。人工知能研究史からChatGPTなど人工知能の現在、そして人工知能の登場を「なかったこと」にはできない私たちは、ではこれからどんなふうに人工知能と向き合っていけばいいのかについて、コンパクトにまとめられている良書だと思いました。


ChatGPTの先に待っている世界

この本を読んで私がいちばん腑に落ちたのは「人工知能が進化しても、意思決定だけは任せることができない」という点でした。

自分が直面している問題がどのようなものであるかを明確に理解するためには、多くの知識と教養が必要になります。つまり、自分が対峙する多目的問題の解像度を上げ、よりよい意思決定を行い、人生において後悔しないためには、自発的な「学び」がますます重要になっていくということです。(215ページ)

ここで述べられている「多目的問題」とは多目的最適化問題ともいい、結論を出す際に複数の条件が関わっているような問題のことです。例えば賃貸物件を選ぶ際に「家賃」という条件を優先するのか(安いほうがいいけれど、そのぶん駅から遠くなるとか)、「広さ」という条件を優先するのか(広いほうがいいけれど、そのぶん家賃が高くなるとか)といったように、複数の条件を勘案しつつ「最適解」を目指す。これは人間が暮らしのあらゆる場面で行っていることで、最終的に私たちは何らかの結論を出さなければなりません。

これに対して現在の人工知能が行っている・行えているのは「単目的問題(単目的最適化問題)」で、ひとつの条件(目的関数)に対する最適化なのだそうです。膨大なデータを元にこの言葉の次に来る最適な言葉は何かを判断しているChatGPTも、ノイズを加えた画像からクリアな画像を復元する精度をパラメータにして画像を生成するStable Diffusionも基本的に単目的問題を解いています。

つまり、多目的問題に対して人間が行っているような判断や決定はAIには行えず、そこは人間が担うべき領域であり、そうした判断や決定が行えるようになるためには自発的な学びによる知識と教養が必要になる。しかもAIを「なかったこと」にできない今とこれからにおいては、それがますます重要になっていくということなんですね。

AIはとてつもなく便利で私たちにとっては福音になり得る一方で、私たちを「学ばせなくする」側面があることにも自覚的であるべきです。ネットやAIで得られた「にわか知識」を自分の血肉となっている知識や教養と混同するような作法や仕草から脱して、バカにならないための努力を、これまでにも増して自発的かつ意識的にしていく必要がある時代になったのだと思います。

*1:“man(男性)”と“explaining(説明する)”を掛け合わせた造語で、男性が女性に対して偉そうに知識をひけらかしたり解説したりする行為を指します。 【3分解説】マンスプレイニングとは?その意味をわかりやすく解説!|Sports for Social ほら、こうやって「3分解説」などで情報を得て、それをすぐにブログで披露できたりしちゃいます。

語学はユンケル程度に効く?

昨日の朝、通勤電車でDuolingoをやっていたら、こう聞かれました。“Are you trying to exercise at least three times a week?(少なくとも週に三回運動するようにしていますか)”。たんなる偶然でしょうけど、Duolingoは時々こういう「どうして自分のことをそこまで知ってるの?」というような質問をしてくるので驚くことがあります。

いえ、以前は少なくとも週に三回、多いときは五回もジムに行って運動していたのですが、最近はとにかく身体の疲労が激しくて、週に二回が精一杯です。よくない傾向だなあと思いつつも、無理をして身体を壊しては意味がないので、疲れたという気持ちに素直に従うことにしています。

ただ、なにごとにせよ習慣というものは、一度手を抜いてしまうとそのままズルズルとやらなくなっていく危険を孕んでいます。せっかくジム通いを六年以上も続けてきたのに、ここでやめちゃうのはもったいない。しかも私がジム通いを習慣化できたのは、なにを措いてもまず運動したあとのあの爽快感があるからです。

おそらく運動によって血の巡りがよくなるとか、そういう効果があるのでしょう。運動する前のあの「ぐだぐだ感」がすっかり消え去って、心なしか風景まで一枚フィルターが外れたかのように鮮やかに見える、あの爽快感は本当に貴重です。私にとってはウェイトの数字が上がるとかダイエットできるとか(私はむしろ太るために筋トレしてますが)よりも大切にしたいポイントなんです。

最近、同じことを語学の練習でも感じます。私は早朝の時間を利用して週に三回オンライン英会話を続けていますが、レッスンの前は早朝ということもあってなんとなく頭と身体にエンジンがかかっていないような感覚なのですが、レッスンが終わったあとは意識がとても明晰になっていることを強く感じます。

まあこれも考えてみれば当然で、慣れない外語でなんとか話し倒しているうちに、脳が活性化されるんでしょうね。私にとって外語学習はほとんど「ボケ防止」のために脳に刺激を与えることが目的なんですが、あながち間違っていないんじゃないかと思います。

ただ筋トレもオンライン英会話も、終わった直後は明晰でシャキッとしているのですが、しばらく経つとまたあの疲労と「ぐだぐだ感」が舞い戻ってきます。そこが寄る年波には勝てない悲しいところです。私はあまり服用したことはないですが、同僚によるとこの感じは、ユンケルとかチョコラBBとかアリナミンみたいな疲労回復系ドリンクを飲んだ後に似ているんだそうです。数時間から半日くらいは効果が持続するという点で。なるほど、確かに似ています。


https://www.irasutoya.com/2013/10/blog-post_9301.html

しかし、外語を話していて脳が活性化されるというのは、自分にとってまだその外語が「よちよち歩き」の段階だからかもしれません。とにかく必死で話しているから、脳のあちこちの部分を総動員せざるを得ないという感じで。私は英語より中国語のほうが多少は楽に話せますが、その中国語だって母語話者と会話した後は脳が活性化されているのを感じます。英語にせよ中国語にせよ、もっとストレスなく自由自在に話せるようになったら、この効果はなくなっていくのでしょうか。

セサミストリートのハーモニカ

留学生の通訳クラスで日本の「部活動」の話題が出て、ひとしきり話が盛り上がりました。中国語圏の国々では学校によってクラブやサークルみたいなのはあるけれども、日本の「ブカツ(部活動)」とはちょっと違うんじゃないか、いや同じだ、自分はいわゆる「帰宅部」だった……などいろいろな話が出ました。

部活というと私は、中学生の頃に所属していた吹奏楽部を思い出します。もはや何の楽器も演奏できなくなったいまの自分からすると、ちょっと信じられないくらいです。

当時はユーフォニウムという楽器を吹いていましたが、私はひそかに別の「ある楽器」の音色に憧れていました。それは毎週土曜日に見ていた『セサミストリート』のエンディングで流れるテーマソングで使われている楽器です。ネットで探してみたら、当時の音源がありました。番組のクロージングで主旋律を奏でているこの楽器の音色が大好きだったのです。最後に入っていた"Sesame Street is a production of The Children's Television Workshop"という声も懐かしいです。


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当時の私はこの楽器が何であるかを分かっていませんでした。金管楽器っぽくてサキソフォンみたいだけれど、それより音程が高いような気がするのでソプラノサックスかしら……などと想像を膨らませていたのですが、吹奏楽部の顧問をしていた音楽の先生に聞いてみたら「ハーモニカだよ」とのお答え。小学校の頃に音楽の授業で吹いていたハーモニカの音色とは雲泥の相違で、もちろん演奏テクニックも桁違いなので、想像が至らなかったわけです。のちにこうしたハーモニカ(半音階が出せるクロマチックハーモニカ、ですか)がジャズなどで使われているということを知りました。


https://www.irasutoya.com/2015/04/blog-post_12.html

ハーモニカといえば大学生の頃、ユーリズミックスの“There Must Be an Angel (Playing with My Heart)”が大ヒットして、その中で使われているハーモニカの音色にも「やられました」。こちらは言わずと知れたスティーヴィー・ワンダーの名演奏です。セサミストリートのエンディングもそうですけど、こうしたハーモニカの音色って、明るいようでどこか哀しさも帯びていて、個人的にはいつ聞いても懐かしさでうっかり落涙しそうになります。


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1985年に発表された村上春樹氏の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の終盤近くに、「ボブ・ディランって少し聴くとすぐにわかるんです」「ハーモニカがスティーヴィー・ワンダーより下手だから?」というくだりがあります。それくらい当時からスティーヴィー・ワンダー氏はハーモニカの名手として知られていたわけですが、セサミストリートのあのハーモニカも素晴らしい。というわけで改めてどなたが演奏されていたのかを調べてみたら、トゥーツ・シールマンスToots Thielemans)氏だということがわかりました。2016年に他界されていますが、とても有名なハーモニカ奏者だったそうです。存じ上げませんでした〜。

toughpigs.com

余談ですが、今回あらためてセサミストリートのことを調べていたら、あの魅力的なマペットたちを生み出したジム・ヘンソン氏は、日本の文楽にヒントを得たと書かれていて驚きました。二人以上の演者がいる一部のマペット文楽のように黒子が操っているんだそうです。本当かしらと裏を取ってみたら、こちらのページにもそんな記述がありました。いわゆる「クロマキー撮影」をする際に「文楽式」の操り方をしていたんですね。

muppet.fandom.com

部活動の話から思い出が次々に蘇って、今さらながらにいろいろなことを知りました。

あとどれくらい生きられるか

職場がある建物の前の広場に臨時の献血所が開設されていたので、ほんとうに久方ぶりですがご協力申し上げることにしました。私の歳では献血はできないんじゃないかと勝手に思い込んでいたのですが、基本的には69歳まで可能なんだそうです。

www.jrc.or.jp

受付で住所や氏名などを書き、説明を受け、体重を測定し、右手の人差し指で静脈認証用の登録をし、医師の問診と血圧測定……というところで、高血圧、とりわけ下の血圧(拡張期血圧)が高すぎるということで、今回は見合わせましょうということに。もちろんこちらの安全を考えてくださったわけですけど、ちょっと残念でした。スタッフの方が申し訳なさそうに「せめてこちらをどうぞ」と減塩のカップラーメンとビスケットを渡してくれました。

普段から血圧は若干高めではありますが、このときは下が120、上は180という、自分史上かつてないほどの高血圧でした。献血前の血圧測定では、こうやって日頃とはかなり違う高い値が出る人がいるんだそうです。帰宅して夜にもう一度測ったら、通常と同じ程度の血圧でした。久しぶりの献血で気持ちがたかぶっていたのかしら。しかしながら献血を断られて、あらためて自分の身体がもうかつての「それ」ではないことを実感しました。

ずいぶん前から男性版更年期障害とでも言うべき不定愁訴に悩まされていて、その解消のためにジムに通うようになりました。そのかいあって一時期はかなり改善が見られたのですが、昨年あたりから以前とは違う「しんどさ」に見舞われるようになりました。ジム通いも数年前までは週に4〜5回だったのに、3回でもしんどくなり、いまや2回行くのが精一杯です。

トレーナーさんからは「トレーニングには休養も不可欠なんですから」と慰められます。それはその通りなのですが、あきらかに体力が落ちているのです。それでも健康診断などの結果はまずまず良好で、特に何かの疾患を抱えているわけでもなければ、薬を服用しているわけでもありません。なのにこの「しんどさ」、この「ぐだぐだ感」ときたら。

自己暗示になりそうですからあまり悲観的なことは考えたくありませんが、これがまさに「老いていく」ということなのかなと思います。以前は当たり前のようにできていたことが、一つ一つやりにくくなり、ついにはできなくなっていく。トレーニングだけじゃありません。暮らしのさまざまな場面で、以前のようにできなくなったことが他にもたくさんあります。

厚生労働省が発表している最新の平均寿命にあたってみるに、私はそこまであと20年ちょっとあります。でもこの「老いっぷり」や「弱りっぷり」をみるに、とてもそこまでは到達できないんじゃないかと思います。少なくとも、現在のように一応行こうと思えばどこにでも行けて、何でも食べられて、学びたいものを学べて……という状態でその歳まで行くのは難しいんじゃないかと。

www.satsuki-jutaku.jp

だから最近は、自分はあともう十数年しかこの世にいられないのだと仮定して、いろいろな物事を考えるようにしています。うっかりそれ以上生きることができれば、それはそれで「めっけもの」ということで、もうそんなに先の未来まで人生を見通すことはできないのだと諦めました。何もかも、というような欲張りな考え方はやめて、続けられるもの・続けたいものを絞り、それ以外からは降りることにしたのです。

不思議なもので、そうやっていったん諦めてしまうと、少しだけ心と身体が楽になったような気がします。あと十数年しか生きられないのですから、“bucket list”に従って、やりたいことをやり、やりたくないことはやらないのです。私と同じ年代で、もっと身体が弱っている方、あるいは闘病している方から言わせれば、あんたは呑気でいいねとお叱りを受けるかもしれませんけど。

qianchong.hatenablog.com

先日そんなことをーー「僕はもうあと十数年しかこの世にいないと思ってます」みたいなーージムのトレーナーさんに言ったら、「ええ〜、いなくなるの、寂しいです」と言われました。社交辞令だとは分かっていますけど、彼の言い方があまりに率直だったので、ちょっと込み上げてくるものがありました。

ウェス・アンダーソンすぎるシンクロニシティ

今日の土曜日は仕事がなかったので、朝からジムのパーソナルトレーニングに出かけました。トレーニングが終わって、すぐに帰ろうと思ったのですが、あまりにいい陽気なので青山墓地を通り抜けながら青山一丁目駅まで散歩して帰ることにしました。途中、雲ひとつない青空に面白いデザインのビルがよく映えていたので、写真を撮りました。

これはiPhoneの写真アプリで「スクエア」を選んで撮りました。学生時代、正方形の写真ばかり撮るベルナール・フォコンの作品が大好きだったので、それをまねて旅行に行ったときなどもよく「スクエア」で撮っています。写真の縦と横が同じ長さなので、特に風景などはときに撮りにくいこともあるのですが、そうやって制約を設けたほうが面白い写真が撮れる(ような気がする)のです。

青山一丁目駅から東京メトロ銀座線に乗って、終点の渋谷駅で東急田園都市線に乗り換えようと思ってふと、逆方向の渋谷ヒカリエに行ってみようと思いました。ヒカリエホールで確か面白そうな展覧会をやっていたことを思い出して。どこかでポスターを見かけて気になっていたのですが、ウェス・アンダーソン氏の旅の写真展です。


www.bunkamura.co.jp

おっと、間違えました。正確に言うと、ウェス・アンダーソン氏の写真展ではなく、ウェス・アンダーソン氏の映画に出てきそうな世界の風景を撮影して投稿するInstagramのコミュニティ“AWA(Accidentally Wes Anderson)”の写真展なのでした。旅情をそそるポップでカラフルで、どこかレトロでキッチュな雰囲気さえあるたくさんの写真が、まるでテーマパークのアトラクションみたいな演出で展示されています。これは楽しいです。

でも一番驚いたのは、それらの多くの写真が「スクエア」でシンメトリカルに対象を撮影していたことです。もちろんさっき取った自分の写真とはまったく質が違いますけど、でもなんとなく雰囲気が似ているような気がして。何の気なしに写真を取って、これまた何の気なしに展示内容もほとんど知らず立ち寄った展覧会で同じような写真に出会うとは。偶然といえば偶然にすぎませんが、不思議なシンクロニシティを感じてしまったのでした。

この展覧会は今年の春にも別の場所で開催されて好評を博し、海外でも巡回されたのちもう一度日本でアンコール開催されているんだそうです。私は何も知らずにふらっと入って受付でチケットを買うことができましたが、本来は入場日時予約制なんだそうです。とにかく無性に旅に出たくなる展覧会。おすすめです。

まだFAXを使っていると言って驚かれる

オンライン英会話のレッスンで新しい教材を使い始めました。最近はずっとニュース記事を使って、最初に全体を音読して発音をチェックしてもらい、そのあと記事についてのディスカッションを行うというパターンで学んでいます。昨日から使い始めたのはengooのこちら。日本の人々は、AIにもっとも不安を感じて「いない」という、なかなか興味深い記事です。


https://engoo.com/app/daily-news/article/japan-least-nervous-about-ai-in-international-survey/dUAnHk2fEe6PZ_do2bzYMQ

ディスカッションでは、チューターさんから日本人がAIに対して不安を感じていないのはなぜだと思うか聞かれたので、私は「ChatGPTのようなAIを使ったサービスはまず英語圏の国々で始まったため、そうした国々ではそれだけ人々の関心が高く、同時に不安も大きいんじゃないか」みたいな答えをしました。

そうしたら「でも日本はこうした科学技術の先進国というイメージがあるんだけど……」と返されました。だもんで「それがそうでもないんです。日本人はちょっと保守的なところがありますから」と言って、例えばキャッシュレス決済がなかなか普及しないこと、いまだにFAXが多くの組織や家庭で使われていることなどを挙げたのですが、前者はともかく後者についてはチューターさんが「ええーっ!」とかなり驚いていました。

一般社団法人情報通信ネットワーク産業協会による「ファクシミリの利用調査」によれば、業務の中で通信手段としてFAXを使っている人は、直近の調査でも43.7%もいるそうです。なるほど、かくいう私の職場にも実はFAXがあります。業務のほとんどはもちろんメールやチャットで行えるのですが、いくつかの行政機関とのやり取りでいまだにFAXを指定されるため、しかたなく残してあるのです。

www.ciaj.or.jp

この件については「私たちはAIが何なのか、AIに何ができるのかをまだよく分かっていないんじゃないでしょうか。だからAIに対してさほど不安も感じないんだと思います」と私は言ったのですが、AIが何なのか、それが今後どういう影響をもたらすのかについては、英語圏の人々だっていまだ五里霧中のはず。となるとFAXがいまだに使われていることにも象徴されるように、日本の人々はとにかく現状維持に傾きがちで、新しい変化になかなかついていけない・ついていこうとしない……という残念な結論に至ってしまうのでしょうか。

……と、上掲の一般社団法人情報通信ネットワーク産業協会による別の調査によれば、米国でのFAX使用率は日本よりも高く、約7割にも及ぶんだそうです。

dempa-digital.com

へええ、これも意外です。この話題を話して驚かれた昨日のチューターさんは南アフリカの方でしたから、米国のチューターさんと話すとまた別の反応が返ってくるかも知れません。さっそく試してみたいと思います。

ちなみに“FAX”を英語で言う際には「フェァークス [fǽks]」みたいな感じで発音したほうがよさそうです。日本語っぽい「ファックス」だといわゆる「Fワード」に聞こえてしまいそうなので。

体育がきらい

語学と演劇

私が奉職している語学学校では、通訳訓練に演劇を取り入れています。年に一度だけですが、秋の文化祭に向けて二ヶ月間ほど「語劇」の練習を行い、一般のお客様も含めた多くの観客に見てもらうというものです。

「語劇(ごげき)」というのは聞き慣れない言葉でしょうか。でも外語大学や語学学校などに通われたことがある方なら比較的なじみがあるかもしれません。つまりは「英語劇」「中国語劇」「スペイン語劇」……などなどを総称して語劇。自分が学んでいる外語でお芝居を上演するという取り組みないしはカリキュラムは、試みにネットで検索してみるとかなりたくさん見つかります。それも日本国内だけでなく海外のそうした学校においても。

これはつまり語学が、なかんずく「聞いて・話す」語学のスキルが身体表現と密接に結びついている(と考えられている)からでしょう。語学業界ではよく「言語の肉体化」などという言葉を使いますが、頭の中で母語から翻訳しつつ話す、あるいは丸暗記したフレーズを前後の脈絡に関係なく繰り返すといったような段階から一段上がって、自分の感情や気持ちに沿った自然な表現としての外語を習得する手段の一環として、演劇のような身体表現が多く語学に持ち込まれているのです。

一番ポピュラーなところでは、ロールプレイと呼ばれる会話練習があります。あれも演劇的な、つまり役を演じることで外語を肉体化しようとする試みのひとつと捉えることができます。畢竟言語を「聞き・話す」というのは一種の身体表現です。特に外語学習においては、母語とはちがう喉や舌や唇や歯などの使い方を覚え、息の吐き方、声の強弱や緩急をコントロールし、ときに表情や身振り手振りなども駆使して(ボディランゲージ)他人と関わる……その意味で外語を聞き・話すことは、スポーツや楽器の演奏などにかなり近いスキルだと考えてもいいかもしれません。

というわけで語学と演劇には親和性がある(と少なくとも私は考えています。通訳などまさに他の人に成り代わって話す作業なんですから、演じることそのものと言ってもいいかもしれません)のですが、学生さんの中にはこの演劇的な練習が苦手、あるいはそもそもこんな練習が必要なのかとこうしたタスクそのものを忌避する方がたまにいます。上述したような、語学と演劇的要素が密接に結びついている事情を縷々説明し、その意義を説いても、どうしてもロールプレイや演劇訓練ができない・やりたくないという人がいるのです。

私自身はロールプレイや演劇が大好きなので、そうした練習を忌避されるとどうしたものかと悩んでしまい、また一方では語学にこうしたスキルが必要なことをなぜ分かってもらえないのかと訝しみ、さらには学校のカリキュラム上ときに学生に「強制」しなければならないことを「これはパワハラに近いのかもしれない」と不安になるなど(実際、以前にはパワハラではないかと「告発」されたこともあります)、なんとも言えないモヤモヤとしたものを抱えながら今に至っています。

体育がきらい

そんななか、書店で偶然見つけた坂本拓弥氏の『体育がきらい』を読みました。この本は主に小中学校、あるいは高校における「体育嫌い」の児童や生徒に焦点を当てて、学校現場における体育の授業、教員、さらには部活動やスポーツそのもののありようについて考察したものです。ですから語学とは違う分野の一冊のように思えるのですが、実は語学の、それも上述したようなロールプレイや演劇のありようについても示唆を与えてくれる内容でした。


体育がきらい

この本では、児童や生徒が「体育嫌い」になる要因のひとつとして、体育の授業で行われるさまざまなタスクが、そうしたものが不得意な児童や生徒にとっては不快で圧力を感じるものであり、「恥ずかしさ」を感じさせるものであり、ときに「公開処刑」のような残酷さをも含んでいるものであるからという分析がなされます。実のところかつての私はこの本で述べられているような典型的な「体育嫌い」の子供でしたから、この分析を大いに共感を持って読みました。

運動が苦手な人にとっては、クラスメイトの前でなにかの技や演技をやらされることが、地獄のような苦しみであるということは容易に想像できます。(中略)他者の前で技や演技を行うことには、どうしても「恥ずかしさ」が付きまとってしまいます。(60〜61ページ)

坂本氏はこうした「恥ずかしさ」について、サルトルの羞恥に関する議論を援用しながら、恥ずかしさが他者との関係において生じること、つまり恥ずかしさは人間が他者とともに生きる「社会性」の獲得に深く関わっているものであること、それがゆえに個々人が感じる恥ずかしさを乗り越えることはかなり難しいことなのだと言います。それは体育や語学に有用だから程度の説明では、ましてやそうした感情の否定やそうした感情の克服を強制するようなやり方では容易に乗り越えることができない、根源的なものなのだと。

それではどうすればよいのかについて坂本氏は、恥ずかしさが他者との関係において生じるものである以上、「他者との関係次第では、恥ずかしさの意味もガラッと変わる可能性がある」と言っています。本人が感じている恥ずかしさに対して、周囲が落胆や嘲笑などではなく、労いや励ましといったポジティブなフィードバックをくれたとしたら。つまりは良好な社会性の中に恥ずかしさを感じている主体(児童や生徒や学生さんたち)を位置づけることができたら、と*1

恥ずかしさが人間存在の根源に関わるものであるとすれば、それを消し去ることはできないけれど、他者との関係の中でそれを中和し、昇華する方向へ持っていくことはできる……ということでしょうか。なんとなく隔靴掻痒感が否めないような気もしますが、でもこの本では終章で、運動によって身体が変わることが自分を変え、自分を取り巻く世界を変えていくことになるという結論に導かれていきます。

一見抽象的ではありますが、これは私にとっては大いに納得できる考え方でした。私自身あんなに「体育嫌い」だったのに、いまではジムのトレーニングなどで身体を動かしたり鍛えたりすることが大好きになりました。それによってあきらかに自分の生き方が変わったという実感を持っています。体育の授業が、単に運動やスポーツが得意な人にとっての天国・苦手な人にとっての地獄というプリミティブな状態から、ひとりひとりがより良く社会性を身につけ、活き活きとした人生を送ることができる、そうしたスキルを育む場へとアップデートされたら、それによって救われる子供はたくさんいるのではないかと思いました。

ひるがえって自分がいま携わっている語学訓練におけるロールプレイや演劇は、果たしてそんなプリミティブな状態に留まっていないか。そう考えると非常に心もとないです。この視点を元に同僚とももう一度とことん話し合ってみたいと思っています。

追記

余談ですが、この本で驚いたのはこの部分でした。

中学校におけるダンス(と武道)は二〇一二年から必修になりました。これは裏を返せば、それ以前はダンスは必修ではなく、主に女子が行うものであり、その代わりに男子は武道を行う、という暗黙の区別があったことを意味しています。そのため、ダンスを必修にするというこの変更は、体育の先生にとっても決して小さくないインパクトを持ちました。(69ページ)

確かに私が中高生のころは、柔道やら剣道やらをやらされてそれこそ地獄の時間だったわけですが、それにしてもダンス必修……。女子は◯◯、男子は◯◯といったような決めつけが消えたのはまあ進歩といえば進歩ですけど、私がやっている留学生への演劇指導などよりもっともっと先生方の苦闘や心労が忍ばれて、ちょっといたたまれない気持ちになります。

*1:ネットで検索中に偶然見つけたこちらの教室のご紹介は、「語学における演劇性」がまさに「良好な社会性」の中で開花している一例ではないかと思いました。『「演じる感覚」磨きとリードアラウド:子ども編

F.O.B COOP

東京メトロ日比谷線広尾駅から西麻布交差点の方へ向かって少し行ったあたりに、かつて「F.O.B COOP(フォブコープ)」というお店がありました。1981年に創業されたお店で、輸入雑貨を販売し、カフェが併設されていて、いまではよくあるタイプの雑貨屋さん兼カフェの先駆けみたいなお店でした。でした、というのはこのお店は2015年に閉店してしまったからです。こちらにその時の記事があります。

広尾の老舗輸入雑貨セレクトショップ「F.O.B COOP」、35年の歴史に幕 - 六本木経済新聞

記事にもありますが、F.O.B COOPの代名詞的な商品だったのが「DURALEXデュラレックス)」社製のグラスです。丈夫で割れにくく安価、それでいて「おフランス製」ということもあってかどこかおしゃれなイメージもある業務用のグラスで、おそらくどなたも一度はカフェで、レストランで、あるいはラーメン屋さんで見かけたことがあるのではないでしょうか。このグラスを最初に日本に紹介したのが確かF.O.B COOPだったはず。


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F.O.B COOPから火がついたその後の雑貨屋さんブームで、とにかくこの「DURALEX」のグラスは広く売られていましたから、業務用のみならず、ご家庭で使用されている方も多いのではないかしら。かくいう私も、もういつ頃買ったのかも思い出せない(それだけ丈夫で割れにくい)このグラスを大小合わせていくつか持っており、日々使っています。

もうひとつ、F.O.B COOPで購入していまだに使い続けているのが、やはりフランスの業務用ガラス製品で有名な「Arcoroc(アルコロック)」社製のお皿です。1984年に購入しました(はっきり覚えているのは当時大学の浪人中だったからです)ので、なんともう40年近く使い続けていることになります。


Arcoroc, Mariella | Replacements, Ltd.

「Mariella」というシリーズの、アール・ヌーヴォー調の装飾がついたこちらのお皿はとにかく丈夫で、さすがに表面には細かい傷が目立ちますけど、いまだに三日にあげず使用しています。パスタをゆでてザルにあける際、その下に置いておいてお皿を温めるなどという「ずぼら」な使い方をしてもまったく平気です。

上掲の記事でF.O.B COOPのオーナーだった益永みつ枝氏が「うちの商品は長く使えるから買い足す必要がないのよ」とおっしゃっていますが、まさにその通り。シンプルでシックなもの、心地の良いもの、適正価格であること……が販売する商品を選ぶ際の基準だったそうで、私が使い続けているこのお皿もまさにそうだなあと思うのです。業務用だけど、丈夫一辺倒というだけではない、暮らしにちょっとした楽しみをくれるこうしたモノって大切だなと今にして思います。そうしたモノたちをいち早く日本に紹介してくれていたF.O.B COOPというお店もまた。

一元屋さんが閉店するって

昨日は麹町近辺でお仕事をして、帰りに東京メトロ半蔵門駅の真上にある一元屋さんへ寄りました。ここは小さな和菓子屋さんで、とくに甘さ控えめで小豆の味が濃厚な「きんつば」がとってもおいしいのです。

qianchong.hatenablog.com

進物ではなく自分で食べるために買うので箱入りではなくバラ売りで4つほど買い求めたのですが、ふとカウンターを見ると「閉店移転のお知らせ」という張り紙が(同じものを配っているとのことで、一枚いただきました)。

思わず「ええっ!」と声が出ました。60年以上の歴史があるというこちらのお店は「諸般の事情」により今月いっぱいで閉店するそうです。張り紙には新小岩駅江戸川区役所近辺で新たに開店を準備していると書かれていますが、お店の方によればそれも今のところは未定なんだそうです。

「残念です〜、私、こちらのきんつばが大好物なんです〜」と申し上げたら、お店の女将さんとご主人は困ったような面映ゆいような複雑な笑みを浮かべておられました。とりあえず私、今月はあと何回か通って購入します。仕事の同僚に配るのと、あと自分用に大量に購入して冷凍しておこうかしら。でもそれじゃ味は落ちるでしょうし……う〜ん、一元屋さんのきんつばが食べられなくなるというのは……ちょっとショックが大きいです。

ラプアンカンクリのストール

フィンランド南西部、セイナヨキ(Seinäjoki*1)の北にラプア(Lapua)という小さな街があります。この街に拠点を置くテキスタイルブランド「ラプアンカンクリ(Lapuankankurit:ラプアの紡ぎ手たち)」は、シンプルかつデザイン性の高い製品で知られています。しかもマリメッコMarimekko)みたいな有名ハイブランドじゃないので、お値段もまあまあお手頃です。

そのラプアンカンクリは、ラプアの工房とアウトレットストア以外にはフィンランドの首都・ヘルシンキと、そしてなんと東京にだけ直営店を出しています。なぜ東京を選んだのかはわかりませんが、ウェブサイトにはこんな説明がありました。

Japanilaisia ja suomalaisia yhdistää samankaltainen estetiikantaju ja arvostus luontoa ja luonnonmateriaaleja kohtaan.
日本人とフィンランド人は、自然や天然素材に対する美意識と感謝の気持ちが似ています。
LAPUAN KANKURIT LIPPULAIVAMYYMÄLÄ TOKIOON LOKAKUUSSA 2019 | Lapuan Kankurit

lapuankankurit.jp
なるほど〜。なんだかうれしいです。というわけで急に寒くなりはじめた先日、表参道からキャットストリートへ抜ける裏道にある東京のお店に行って、冬用のストールを購入しました。これまでもうゆうに十年くらいは使ってきたお気に入りのストールがあったんですけど、さすがにくたびれてきて妻からは「その煮しめたみたいなの(ひどい)、そろそろ買い替えたら?」とまで言われて。

杢グレーというのか、白い糸が混じった灰色のシンプルなストールです。羊毛ですが、ちょっと麻に似たようなザックリしていて「シャリシャリ」とした風合いがあります。以前にネットで買って冬に重宝しているデンマークのブランケットと似ているなと思いました。北欧の人はこういう風合いが好きなのかしら。

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11月でも真夏日が記録されるなど、東京の冬はどんどん「暖かく」なっています。ロングコートを着るような寒い日もずいぶん減ってきましたし、もう今年の冬は薄いダウンジャケットとこのストールだけで乗り切れるかもしれません。

*1:Seinä は壁、joki は川を意味します。どうして「壁の川」という地名がついたのか、興味を持って調べてみたら、“Kysy kirjastonhoitajalta(図書館の人に聞いてみよう)”という「Yahoo!知恵袋」みたいなページ(?)があって、こんなふうに書かれていました。“Seinäjoen arvellaan saaneen nimensä sen syvää uomaa reunustavista seinistä. Alajuoksullaan joki on matalauomainen, kuten Pohjanmaan joet yleensä, mutta Seinäjoen kylän kohdalla jokea reunustavat molemmin puolin korkeat seinämät.” 読解が合っているかどうか自信がありませんが、この街を流れる川の両側に高い壁があることが街の名前の由来みたいです。

イスラエル 人類史上最もやっかいな問題

パレスチナガザ地区を実効支配するイスラム組織ハマスがミサイル攻撃を行い、その報復としてイスラエル軍ガザ地区への軍事作戦を開始したのが10月7日。あれからちょうど1ヶ月、悲惨な戦争の報道に接し続けてほんとうに胸ふたぐ思いの日々が続いています。

これまでにも同様の戦争が繰り返されてきたことはなんとなく知っていても、そのより詳細な背景については心もとないことと、ウクライナ戦争でも感じてきた当事者のどちらか一方に極端に偏った政府の対応やマスコミの報道などに違和感を覚えて、この問題を理解するための入門書を読みました。ダニエル・ソカッチ氏の『イスラエル 人類史上最もやっかいな問題』です。


イスラエル 人類史上最もやっかいな問題

氏はアメリカで生まれ育ったユダヤ人で、書名も『イスラエル(原題は“Can we talk about ISRAEL?”)』となってはいますが、この本はイスラエルパレスチナの双方に対して可能な限り中立かつ歴史的事実に基づいて記述しようという意志にあふれています。

本書の3分の2ほどは、かの地における歴史の流れを追いながら、なぜいま事ここに至っているのかがよく分かるように解説されています。読んでみれば分かりますが、イスラエルパレスチナの二国家共存による和平を目指した1993年のオスロ合意がいかに重要な局面であったのか、その後のラビン首相暗殺がいかに残念なできごとであったのかを知ることができました。

もうひとつ、本書では主に歴史的経緯としてだけ触れられている、20世紀初頭の英国によるいわゆる「三枚舌外交(1915年のフセイン・マクマホン協定、1916年のサイクス・ピコ協定、1917年のバルフォア宣言)」についても、改めてその罪深さを認識することができました。

先日、ネットの勉強会で「功利主義」について学ぶ機会がありました。功利主義は利己主義と同義ではありませんが、当事者すべてが現在のように一切の妥協を許さない姿勢で自らの幸福と利益を最大限追求しつづけたら、この本の副題にもあるように「人類史上最もやっかいな問題」として二進も三進もいかなくなります。

フランスの社会学者アラン・カイエ氏は功利主義を批判して、人間はなにがしかを「受ける」だけでなく「与える」こと、さらには「創造する」ことや「生み出す」ことにも喜びを見出すことができると述べているそうです(これも勉強会で学びました)。私はこれを「減らす、小さくする、引き下がる、降りる……」ことにも価値を見出すことができる智慧のようなものがいまこそ必要だという文脈で受け止めました。

何を言っているんだ、それは「すでにじゅうぶんに持てる者」の戯言ではないかと切り捨てられそうですが、かのオスロ合意はそうした智慧を人類が発揮し得た貴重な機会だったのだなと思うのです。

またこれも本書で知ったことですが、建国の父と呼ばれるベン=グリオン初代イスラエル首相は、イスラエル国家のアイデンティティとして、①イスラエルユダヤ人が多数を占める国家である、②イスラエルは民主主義国家である、③イスラエルは新しい占領地をすべて保有する(ダニエル・ソカッチ氏は「ベングリオンの三角形」と呼んでいます)を挙げ、イスラエルはそのうち2つを選ぶことはできるが3つ全部を選ぶことはできないと語ったそうです。これも上述したような智慧のひとつではなかったかと思いました。

この本は今次の紛争・戦争が起きる直前に日本語版が上梓されており、解説を寄せている元外交官でイスラエルパレスチナに長年関わってこられた中川浩一氏はこう書かれています。

先述の「ベングリオンの三角形」に戻ると、これからイスラエルを再び舵取りするネタニヤフ首相は、第二のイスラエルは民主主義国家であるというスローガンにはあまり関心がなさそうである。重視するのは第一のユダヤ人国家と第三の占領地支配の徹底のようだ。しかし、それはパレスチナ人の積年の憎悪を激しく燃え上がらせることにもつながる。残念ながら二〇二三年は、イスラエルパレスチナの憎しみと恐怖の連鎖がさらに激しさを増す年になるかもしれない。(367ページ)

まさにその予想通りの事態に立ち至ってしまったわけです。つい絶望的な気持ちになりますが、この本の最後に収められた、イスラエルに住む立場の違う3人の一般市民の声が希望を繋いでくれます。巻末には紛争に関する用語集もついていて、これもこの問題の正しい理解を助けてくれます。