インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

すべてをゆるそう

自分の心と身体がそれまでとは違う状態に入ったのだなと如実に感じられるようになったのはここ5、6年のことでしょうか。現実の厳しさに比べてやや軽薄な感じがする言葉ですけど、まさに「老いのリアル」みたいなものがひしひしと迫ってくるのを、なかば驚きながら受け止めつつ、それでも往生際悪くあれこれ抗うことを試してきた……そんな感じがします。

そうやっていろいろと試しているうちに、自分と自分を取り巻く人々や社会との関係、というより自分の側からの周囲の人々や社会への捉え方がずいぶん変わったように思います。平均寿命を持ち出すまでもなく、自分がこの世の中にいられるのはおそらくあと20年もありません。それどころか、とりあえず健康で、自分の望むことが自分でひととおりできるという状態を想定するなら、あと10数年あれば「めっけもの」といったところでしょう。

10数年前といえばあなた、つい最近のことですよ。となれば10数年後もすぐに訪れてしまうわけで。そういう時間のスパンの捉え方が、人間関係や社会とのつながりに対する認識に影響を与えているのは明らかです。ありていに申し上げて、もうあれこれの七面倒くさいことにかかずらっているヒマはないんだと。“bucket list”に従って、やりたいことを率先してやり、やりたくないことは極力避けてやらないのです。

eow.alc.co.jp

そう考えて、ここ数年の間に私はさまざまなものから「降りる」選択をしてきました。ネットのSNSからアカウントを削除し、リアルなコミュニティのつきあいから退き、ルーティンに組み込んでいたあれやこれやを意識的に減らしました。いくつかの趣味ーーこれはむしろ「やりたいこと」なのですがーーも体力や気力を考えてお休みしています。

qianchong.hatenablog.com

一抹の寂しさは残りますけど、そういうある種のあきらめも必要なのだ……と自分に言い聞かせていたら、「おりる」を書名に掲げたこの本に出会いました。飯田朔氏の『「おりる」思想』です。この本では、私たちの社会がやたらに「戦え」「サヴァイブしろ」「生き残れ」と迫ってくることへの違和感を「おりる」という言葉で相対化しようという試みが論じられています。


「おりる」思想 無駄にしんどい世の中だから

基本的には、飯田氏が師事された加藤典洋氏にならって映画や小説から同時代の問題を読み解こうとする手法で、文芸評論という側面があり、その意味では同じようなテーマを論じたニート論やひきこもり論、あるいはマインドフルネス方面の書籍とはかなり違う読書感です。でも私はこの本で提示されている「サヴァイヴ」でも「戦って生き残る」でもなく、「一度死んで、生き直す」という自己肯定に興味を持ちました。

「◯◯しないと、将来大変なことになる」という恐怖感ないしは自己暗示から離れて、「もう『大変なこと』は起きてしまったあとなのだ」という諦観を抱きつつ生きていくというのは、傾聴すべきアイデアだと思いました。これは中国語の“躺平(寝そべり)”や、あるいは英語の“Quiet Quitting(静かな退職)”とも通底するマインドなのかもしれません。

思い返せば、私は若い頃に語学業界の末席に連なってからというもの、つねにキリキリと競っていたような気がします。そういう姿勢がそれなりに奏功したこともあったとは思いますし、それを悔いてもいないけれど、自分の凡庸さをじゅうぶんに理解したいまに至ってみれば、あそこまで競わなくてもよかった、あるいはもっと違う心の持ちようがあったのではないかとも感じているのです。

しかし、そういった思考と実践が若いときにはできないというのがまた、凡庸なる者の凡庸たる由縁でして。だから飯田氏のようなお若い方(1989年のお生まれだそうです)が模索するこうした生き方に惹かれるのかしら。……と、突然ですけど、ピーター・シェーファーの有名な戯曲(映画にもなりました)『アマデウス』の幕切れで、老境にいたったサリエリが言うこの台詞を思い出しました。

Mediocrities everywhere - now and to come - I absolve you all. Amen!


凡庸なる全ての人々よーー今いる者も、やがて生まれくる者もーー私はお前たち全てを赦そう。アーメン!(翻訳:江守徹

私は大学生の時にこのお芝居を初めて見て、戯曲も読んだときに、この「赦し」を老いてようやく自らの凡庸さを抱きしめることができるようになったサリエリの、自己救済の言葉として受け止めました。つまりサリエリは自分で自分を「赦す」ことができるようになったのだと。

その解釈はいまでもあまり変わりませんが、ただ、そこにはかつて感じていたような悲劇性はほとんどなく、むしろ福音とも呼べるようなニュアンスで満たされているような気がするのです。“absolve”はキリスト教的な原罪への赦しという意味があり、その原義はラテン語の“absolvere(解放する・無罪とする)”だそうですし。

「年をとるといろいろ楽になる」というのはホントだなと思います。もっとも「一度死んで、生き直す」のが、そして自分の「すべてをゆるす」のがもっと若いときにできていればそれに越したことはないわけですけど。