インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

サウナと「意識高い系」

私がブログを書いているこの「はてなブログ」には「今週のはてなブログランキング」というのがありまして、毎週楽しみにしています。カテゴリーはふたつあって、はてなブログ全体のランキングと、もうひとつは「増田」のランキングです。
blog.hatenablog.com
増田というのは「はてな匿名ダイアリー」のことを指すネット用語です。もともとこのはてなブログの前身が「はてなダイアリー」で、その当時のデザインを残しつつ、匿名で書けるブログとして人気があります。正規の(?)はてなブログのランキングが多くのブックマークがつく優れた記事が多い(あと、なぜかテクニカル系の記事が多い)のに対して、増田のほうは匿名だけに玉石混交ですけど、多少毒も伴った本音を吐露している記事や、思わず読んでしまうような名文・迷文が多くておもしろいのです。

ちなみに「増田」は「匿名ダイアリー」の英語“Anonymous Diary”からきているそうです。「アノニマスダイアリー」のまんなかにある「マスダ」なんですね。

それはさておき、今週の増田にもおもしろい記事がありました。
anond.hatelabo.jp
わははは、これは手厳しい。確かに昨今のサウナブームにはそういう「意識高い系」のうんちくが多分に介在しているような気はしますね。一流のビジネスパーソンはサウナに行っているみたいな本や雑誌の特集を見かけたことがありますし。かくいう私もこのブログで「意識高い系っぽい」文章をいくつか書いたことがありますから、こちらの増田氏にとっては「マジでムカつく」存在であるかもしれません。

サウナってのは、そういう猥雑で、わざわざ趣味とか言い出すような日の当たるものじゃなくて、
サウナ終わったらビール一気に飲んじゃったりして、健康かどうかすらわからないような、
価値観の判断から離れた、日常生活の隙間に入ってくる、一人のゆたかな時間であるべきなのよ。

そうねえ。私も平日はほぼ毎日ジムでサウナを使っていますが、たしかにそこにいらっしゃるオジサン方は、こんないい方はアレですが、ジムに朝から通っていらっしゃるにも関わらず「健康かどうかすらわからない」ような雰囲気の方が多いです。もちろんテレビも大音量で放映されています。

でも、たぶんこの増田氏がおっしゃるようなオジサンが「一人のゆたかな時間」を過ごすサウナは、もっとディープな、例えば銭湯なんかに併設されているアレとか、最近できたおしゃれなのとは一線を画す老舗のアレとかなんでしょうね。私もそういうところに行ったことがありますが、アレらでくつろいでらっしゃるオジサンたちは、ジムのサウナにいらっしゃる方より一回りも二回りもこの増田さんがおっしゃるオジサンに近いです。

私は正直に申し上げてあのオジサンオジサンしすぎた雰囲気はちょっと苦手なので(やっぱり悪い意味で「意識高い系」なのかしら)、ジムのサウナぐらいがちょうどいいですし、できればテレビもないほうがいいなと思います。でもこの増田氏が「収奪されようとしてる」とおっしゃる気持ちはなんとなく分かります。あのディープなサウナに漂っているある種の倦怠感とか虚脱感みたいなもの、背徳感とすら言えるようなものが、昨今のサウナブーム下で語られるあれこれの言葉にはかなり欠けていますもんね。

本当はフィンランドのサウナみたいに薄暗くて、温度低めで、長い時間入って思索にふけるようなのが私は一番好きです。下の写真みたいなの。でもそれはまさにフィンランドに行って入るからその良さがあるんであって、日本で、この忙しい日常生活の中にアレを持ち込んでどうなるという気もします。ようは棲み分けが大切なんですかね、何事も。

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「脱マスク」に向けて

自宅にいるとき以外、ほぼすべての時間をマスクをして過ごすようになって一年半あまり。コロナ禍の前には冬でもマスクなどしたことがなかった自分にとっては、ものすごい生活環境の変化でした。

もともと私は汗っかきで、かぶれやすい体質で、マスクのようなものが少しでも顔に密着していると、それだけでむず痒くてたまらなかったのに。よく我慢し続けてきたなと自分を褒めてやりたいのと同時に、人間、やろうと思えば変わることができるんだなと改めて思いました。さらには「私はこれはダメ!」というのも、多分に思い込みの要素があるものなのだなとも。

しかしここに来て、もうとことんマスクをつけ続けるのがイヤになりました。また去年のような猛暑の中でマスクをつけ続けるのかと思うと、そこに立ち向かう勇気が湧いてこないのです。加えて日本政府におけるコロナ対策のゴタゴタ感とゴテゴテ(後手後手)感。五輪関係者だけは水際対策もほとんど無きに等しい扱いで「おもてなし」するというのを聞いてからは、さらに「もうイヤ」感が高まっています。もう協力なんかしたくない、と。

news.yahoo.co.jp

でもそこはそれ、家族以外の人と合う際にはマスクをすることが感染対策の点で有効であることは理解できるので、これからも必要最低限はマスクをつけ続けると思います。公共の場所などで、マスク着用が求められる場所ではもちろんそれに従います。でも、明らかに周りに人がいない環境では、もうマスクを外して過ごそうと決めました。

例えば私は、以前から人混みがとても苦手で、コロナ禍に見舞われてからはさらにその傾向が強くなってきてしまったので、毎朝6時過ぎには家を出て、職場に向かうことにしています。そんな時間でも東京都心の電車はそこそこ混んでいるのがすごいというか、みなさまお疲れ様なんですけど、駅から職場に向かう道など、ほとんど人通りはありません。そんな中でも今まではマスクをつけ続けてきたのです。でもこれ、かなり滑稽だなと思うようになりました。

それで早朝のオフィス街などではマスクを外して歩いています。それをはじめた日は久々の爽快感で「ああ、たしかに以前はこんな感じだった」と軽い感動さえ覚えました。でも……向こうから歩いてくる人が見えると、条件反射的にマスクを顔につけたくなっちゃう。いや、すれ違うとしても何メートルも離れていて「ソーシャルディスタンス」は十分なはずなのに、マスクをしていないことで「ヤバい人」と思われないかしらと言う心理が働くんですね。

この一年半あまりの行動様式が、どれだけ精神にも影響しているのかが実感できた瞬間でした。でも私は、常にまわりに注意をはらいながらも「脱マスク」をしていこうと思っています。なんだかこのまま二年目の夏もマスクをして乗り越えてしまったら、乗り越えられてしまったら、とんでもなく心にストレスをかけるような気がしているのです。

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https://www.irasutoya.com/2020/08/blog-post_17.html

追記

ネットニュース編集者・PRプランナーの中川淳一郎氏が、こんな記事を書かれていました。氏の「芸風」がいかんなく発揮されていて読む人を選ぶでしょうけど、私はかなり共感しました。

gendai.ismedia.jp

スペックを下げてみた結果

もうずいぶん昔のことですが、都内の某通訳学校に通っていた頃、クラスにとても通訳の上手な方がいました。課題の音声を聞いて講師から指名されるたびに、とても正確で整った訳出をされるのです。すごいな、と驚嘆しつつも、しかし私はその方の訳出にどこか違和感を覚えていました。整いすぎているというか、まるで翻訳をしたような精緻さというか……。

ほどなく違和感の理由は分かりました。その方は事前に配布された音声教材をディクテーションして文字に起こし、そこに自分で翻訳した文章を添えたノートを作って、授業では毎回それを読み上げていたのです。なぜそんなことをするのかなと、当時の私は理解できませんでした。通訳という作業の本質が、事前に音声を聞くことができないというものである以上、私たちが訓練すべきは「初見(初聴?)」でどこまで精度の高い訳出をできるようになるかという技術です。あらかじめ訳文を用意しておいて、それを読み上げるだけでよければ苦労はありません。

もちろん、ディクテーションして、翻訳して、原発言の区切りに合わせて読み上げること自体も勉強にはなると思います。でもそれは少なくとも通訳技術の訓練ではない何かほかのものです。自分がいま何を学ぼうとしていて、そのためにはどんなことをすればよいのか、すべきではないのか、そういう主体的な学び方をしないといけないな……と、このときの体験は「他山の石」になりました。

何年も前のこの体験を思い出したのは、最近自分の受け持っているクラスでの訓練のやり方を大きく変えてみたからです。
qianchong.hatenablog.com
くだんのクラスメートが、通訳訓練なのにあらかじめ訳した文章をただ読み上げるだけという「本末転倒」に陥ってしまったのは、ご本人の自覚のなさもあるでしょうけど、先に音声教材を配ってしまう学校側のやり方にも問題があったと思います。それもあって、後年自分が通訳訓練を受け持つようになった際、私は事前に一切音声を配布しないと決めました。

もちろん通訳は何の背景知識もなくいきなり「訳せ」と言われてできるものではありません。そのために音声は配布しないけれども、関連資料や参考になる情報はふんだんに出します。その上で「自分がもし本当にこの通訳業務を承けたとしたら、どのような準備をして当日に望むかを考える」というのを生徒さんたちに課してきました。ところが一部のクラスで、このやり方だと難しくてとてもついて行けないという人が続出してしまったのです。

そこで、まず最初に教材全体を視聴させ、語彙をピックアップしてグロッサリーを作り、その語彙をクイックレスポンスなどでじゅうぶんに口慣らししたのち、逐次通訳の練習をする……という構成にしました。実践的な通訳訓練とはほど遠いですが、このクラスの生徒さんたちは日本語のアウトプットそのものがまだ洗練されていない段階の習熟度です。ですから、学校のカリキュラム上は通訳訓練と銘打たなければならないものの、実質的には日本語の音声訓練に近いような教案にしたのです。

それでも、学習の過程で曲がりなりにも「訳す」ことはしますし、初見で訳さなければならないというプレッシャーからも解放されるので、生徒さんたちは比較的のびのびと学んでいるような感じがします。まだ取り組み始めて数週間なのでなんとも言えませんが、授業のスペックを下げてみて今のところはよかった、と思っています。

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https://www.irasutoya.com/2016/04/blog-post_204.html

とにかくみんな欲がないの

日本語学校で会話の授業を担当している同僚が、こんなことを言っていました。「きょうびの留学生は、洋の東西を問わず恋愛に淡泊みたい。恋愛とか結婚をテーマに会話を設定すると、みんな恋愛なんかしたことないし面倒だ、ましてや結婚なんて……って、口を揃えて言うの」。昨日たまたま中国で「横たわり族」が急増というニュースを読んで、「これは中国語でなんと言っているのかな」と思い調べたところだったので、そこにつながる話だなと思いました*1

www.jiji.com

記事によれば「横たわり族」の特徴は「物質的な欲求が乏しく、勤労や結婚、出産に積極的でないこと」だそうです。まさにこれ、同僚が言っていた「とにかくみんな欲がないの」という話と符合します。もちろん中国におけるそれは、日本とはまた異なる社会的な環境のもとでの現象でしょう。かの国の格差は日本の比ではありませんし、受験や就活における競争の過酷さもすさまじいものがあります。

結婚についても、私の周囲にいる中国語圏の留学生と話していると、いまだに華人社会では「結婚に際しては男性が住居と車を用意しなければならない」といった「2021年の現代でも? 本当に?」とこちらが聞き返してしまうような「縛り」について、諦めとも愚痴ともつかない気持ちの吐露を聞かされることがあります。それでも現実には、特に都市部などでは不動産価格も物価も高騰しているため「どうすればいいのか今はわからない」と言う人も少なくありません。そりゃ、人生におけるステップから下りて自由になりたい、「横たわりたい」と思っても仕方がないかなと。

面白いと思うのは、きょうびの留学生(あくまでも私の周囲にいる人たちはということですが)は、例えばジェンダーやLGBTsについての考え方はとてもフラットで、誰が誰を好きになってもいいという人が多いのに(もちろん守旧派もいます)、自分は恋愛経験はないし、特にしたいとも思わないという人がけっこういるという点です。

でも、その一方でネット動画の恋愛ドラマなどはよく話題にしているし、「推し」のアイドルについても盛り上がっています。これはどういうことなんでしょうか。2D萌えと同じで、消費としての恋愛は好きだけど、自分自身がリアルな人間関係であれこれするのはめんどくさいということなんでしょうか。そういうみなさんが、じゃあいちばん夢中になっているのは何かといえば……ゲームなんですよね、これが。

Twitterで教えていただいたところによると、現代の日本のお若い方々もかなり似たような感じで「欲がない」んだそうです。そういえば「さとり世代」という言葉もありました。私自身、昔からあまり愛だの恋だの青春だのといったタームには興味がなくて、その点ではそういう欲はひとさまより薄いという自覚はありましたけど、それでもじゃあ二次元のキャラやゲームで充足できたかというと、まったくそんなことはありませんでした。

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https://www.irasutoya.com/2016/10/blog-post_392.html

まあ私たちのようなオジサン・オバサンが心配なんかしなくたって、みなさん自分のしたいことをしていくでしょうし、いまのお若い人々がダメだとか情けないとか、ましてやもっと欲を持てだなんて言うつもりは毛頭ありません。でも心のどこかに、そういう風に欲が持てない時代にしてきてしまった、先行する世代の私たちの責任みたいなものを感じるのです。

まあ私たちだってそうしようと思って時代を作ってきたわけでもないんですけど。それに私の周囲にいる留学生は、まだ海外に留学しようとしてきている点で、そこそこ欲というか野望みたいなものがある人たちだとは思うんですけど。

追記

ネットで、こういう記事も教えていただきました。その気持ち、分かるなあ……と思う一方で、やはりある程度暮らしが豊かになった末にこういうふうになっていくのかな、とも思いました。

news.yahoo.co.jp

*1:ちなみに中国語では“躺平族”となっていました。

ポエムになじめない

通勤電車内の広告画面で、よくこの動画が流れています。プロサッカークラブ・FC東京のプロモーションビデオです。車内では音は流れず、字幕だけが出るのですが、この動画を見るたびに「ああ、この感覚が、私にはないんだなあ、なじめないなあ」と思って、なんだか寂しいような、腹立たたしいような、とても複雑な気持ちになります。

勝ち負けに本気になる、大人になって忘れてたこと。
離れていても、この思いはきっと届く。
ゴールのたびに大騒ぎできる。スポーツなんてやったことがなくても。
本名も年齢も職業も知らない。でも、仲間だって言える。
どんなときも、どこにいても、東京は寄り添ってくれる。
勝った日は、胸を張って帰る。
夢中で追いかける先に、夢がある。
泣くくらい好きなものって、他にない。
一緒に戦い抜いたから、この一体感を味わえる。
(*一部を抜粋しています)


www.youtube.com

「寂しい」というのは、私にはこうやって他人と何の隔たりも感じずにスポーツに一喜一憂するという感覚が備わっておらず、ちょっと羨ましいような気持ちになるからです。「腹立たしい」というのは、こうしたスポーツ、とくに勝ち負けに対して無邪気に感情を発散させる、そしてそれを人と共有するのが尊いといった感動の押しつけみたいなものを感じて「そうじゃない人もいるんだけどな」と思うからです。

いえいえ、誰が何に感動してもいいんです。私だって優れたアスリートの努力に感服することはよくあって、だからこういう気持ちの表明はほとんど「いちゃもん」みたいなものだと思います。人の好みはそれぞれで、イヤなら見なきゃいいんです。

でも、どうしてもこの動画に引っかかってしまうのは、やはりこうしてやたら人心を鼓舞し、一体感や感動を、さらには勝ち負けまでをも強調するメンタリティが(いまふうに言えば同調圧力ですか)、私たちの国にはやたらに多いなと日頃から感じているからです。特にいま「ゴリ押し」されようとしている東京五輪にも、それはふんだんに表れているように思います。

「人類がコロナに打ち勝った証しに」もそうですし、「絆を取り戻す」や「逆境に耐え抜く力を」もそうです。ちょっと前には、「五輪ポエム」とまで揶揄された、JOCの「がんばれ!ニッポン!全員団結プロジェクト」ウェブサイト(現在は閉鎖中のようです)みたいなのもありましたね。

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先日の記者会見で、「何のために五輪を開催するのか」という記者からの質問に対して、丸川珠代五輪相は「スポーツの持つ力というものを信じて今までやってきた」、東京五輪組織委委員会の橋本聖子会長は「(一丸となってコロナ感染症を抑え込み、乗り越えて)東京大会が開催されることによって、次にしっかりとしたものをレガシーとして残していく」と答えています。いずれも過半数が中止か延期を主張している世論の背景にある不安には答えることなく、勇気や根性で何とかなる・するのだというメンタリティーーいや、悪い意味でのポエティカリティ(poeticality:詩性)ですかーーに溢れています。それが上掲の動画にも共通していると私は思うのです。


www.youtube.com

人が感動するコンテンツには多種多様なものがあるのに、なぜひとりスポーツだけが別格の扱いを受けているのでしょうか。国民の命や健康よりも五輪優先という為政者たちの行動をみるにつけ、そして五輪だけは隔離や行動制限などの対策も、ワクチン接種も別枠で特例扱いになっているおかしな状況を見るにつけ、そんな思いを抑えられません。それで、電車内でもくだんの動画を見るたびに、なんとも言えない複雑な気持ちになるのです。この動画自体は五輪と直接関係はないんですから、FC東京のファンのみなさんには大変申し訳ないんですけれども。

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フィンランド語 107 …主語が主格の単語以外のとき動詞は……

フィンランド語の学習をほそぼそと続けていますが、ごく基礎的なことが時々わからなくなります。例えば一番ベーシックな“主語+動詞”の文章で、主語が複数形なら動詞も複数形にするのですが、Duolingoで練習していると、こんな文章がバツになるのです。

* Kaksi kaunista koiraa rakastavat meitä.
二匹の美しい犬たちは私たちを愛しています。
(*は間違った文であることを示します)

“kaksi kaunista koiraa”が複数形だから、動詞も三人称複数形にしたのに、間違っていると。Duolingoが示す正解はこちらです。

Kaksi kaunista koiraa rakastaa meitä.

動詞が三人称単数形になっています。この点について同じように疑問に思ったフィンランド語の非母語話者は多いようで、Duolingoのコメント欄にこんなのがありました。

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そこに母語話者と思しき方がアドバイスしています。

It’s in 3rd person singular because of the numeral.
三人称単数なのは数字があるからです。

そして……

Koirat juoksevat.
犬たちは走ります。(主語=複数形/動詞=三人称複数形)
Kaksi koiraa juoksee.
二匹の犬たちは走ります。(主語=数字のついた複数形/動詞=三人称単数形)

という例をあげていました。なるほど。でも、こちらの場合はどうなるんでしょう。

Nämä kaksi koiraa juoksevat.
これらの二匹の犬たちは走ります。(主語=代名詞と数字のついた複数形/動詞=三人称複数形)

数字がついているけれど、動詞は三人称単数形になっていません。う〜ん、よくわからなくなりました。それで、フィンランド語の授業で先生に聞いてみました。先生によると「主語が主格の単語以外のとき、動詞は三人称単数になる」とのことでした。

Koirat juoksevat.
犬たちは走ります。(主語=複数主格/動詞=三人称複数形)
Kaksi koiraa juoksee.
二匹の犬たちは走ります。(主語=分格/動詞=三人称単数形)
Nämä kaksi koiraa juoksevat.
これらの二匹の犬たちは走ります。(主語=複数主格の代名詞 nämä /動詞=三人称複数形)

なるほど、“Kaksi koiraa juoksee.”は主語が主格じゃないから動詞は三人称単数形になるのだと。だから“Kaksi kaunista koiraa rakastaa meitä.”も主語が主格じゃないので動詞は三人称単数の“rakastaa”になっているんですね。

そういえば所有文の“Minulla on 〜”も主語(minulla)が所格ですし、「〜しなければならない」の“Minun taytyy 〜”も主語(minun)が属格です。だから動詞はいずれも三人称単数の“on”と“taytyy”になっているんですね。

すっきりしました。

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Kaksi pojat vastaa kysymyksiin.

フィンランド語 106 …日文芬訳の練習・その34

母語でも言えないようなことは外語ではもっと言えない」というの、もっともだと思うんですけど、よくよく考えてみると、言語が違うんだから話はそう単純じゃないのではないか、とも思います。私も例えば中国語で“餘音繞梁”とか“拋磚引玉”とかの巧みな表現を「いいなあ」と思いながら使うけれど、じゃあ日本語でそれをどう言うかとなると、あまり深い表現ができません。

今回は作文の練習なので、まあそのあたりは気にせずに書いてみました。とにかく数をこなすことが大切ですから。ちょうど第二不定詞具格を学んだところだったので、参考書に載っていた慣用的な表現をわざと多用してみました。“suorann sanoen(率直に言えば)”とか“toisin sanoen(別の言い方をすれば)”などです。

中国人と話していると、時々「そんな中国語はない」とおっしゃる方がいます。でも率直に言って、それはその方がご存知ないだけかもしれません。実際のところ、外語同様に母語にもレベルというものがあります。そして母語でも言えないような難解なこと、複雑なこと、抽象的なことは、外語ではもっと言えません。別の言い方をすれば、母語のレベルをできる限り高めておくことで、外語の「伸びしろ」ができるのではないかと私は考えています。


Kun juttelen kiinalaisten kanssa, joskus joku olisi sanonut, ettei sanoisi sellaista ilmausta kiinaksi. Mutta olen suoraan sanoen sitä mieltä, että hän ei vain ollut koskaan oppinut sitä. Totta puhuen, äidinkielellä on myös monenlaisia taitotasoja kuten vieraita kieliäkin. Sitten jos emme voi sanoa (me ei voi sanoa) vaikeita, monimutkaisia ja abstrakteja asioita äidinkielellä, ne ovat mahdottomampia vieraissa kielissä. Toisin sanoen, jos nostamme äidinkielen tasoa mahdollisimman korkealle, meissä kasvaa tilaa, jossa voi oppia enemmän vieraita kieliä.


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男性にとって最も大切な資質は?

華人留学生の通訳クラスで、中国の俳優・胡歌氏へのインタビューを教材に使ってみました。


www.youtube.com

インタビューの一番最後に、“男人身上最可貴的品質是什麼(男性にとって最も大切な資質は)?”という質問がありました。胡歌氏は“誠實、擔當。幽默也很重要(誠実であること、責任を持つこと。それにユーモアも大事)」と答えていて「へええ」と思いました。しかもクラスの華人留学生(両岸三地、つまり中国大陸・台湾・香港の学生がいます)全員が男女を問わず「その通り。責任感と誠実さが一番大切」と同意を与えていて、これも民族の違いみたいなものを感じました。

だって、同じ質問を日本人の学生さんにしたら「優しさ」とか言いそうじゃありません? 初手から「責任感」などが出てきたら「それは引くわ〜」とか言われそう。もちろんきょうび、男性だからこうあるべき、女性だから……ってのはもうあまり意味を持たないような気もします。それでもそれぞれの社会のベースで共有されている価値観みたいなものが垣間見えるような気がして、興味深いなと。

ちなみに私が意地悪く「お金を持ってるってのは大切じゃないんですか?」と聞いたら「ホントはそれが一番だけど、言わないお約束です」だって。

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「安いニッポン」の実感

先日夕飯を作りながらBS-TBSの『報道1930』という番組を見ていたら、「“安い”ニッポン 値段が示す”停滞”」という話題の中で中国アニメの下請けとして日本のアニメーターが雇用されている現状を報じていました。とても興味深い内容だったので、録画しなかったのが残念。こういう日々のニュース番組は「TVer」もあまり上がらないんですよね。

そうしたら、Twitterで画面の写真をツイートされている方が。おお、感謝いたします。このツイートと写真だけでも大まかな話の流れは分かります。


「給与は労働の対価ではなく収益を上げるための投資」。日本総合研究所主席研究員の藻谷浩介氏がそう言っていたのが印象的でした。日本企業は内部留保ばかり蓄積させて労働者に還元していないと。

藻谷氏はこんなこともおっしゃっていました。「日本の経常収支は世界のトップクラス、売り上げも平成元年の二倍になっている。世界でもトップクラスで稼いでいながら、その利益が人件費に行っていない。これは簡単に言うと高齢富裕層の貯金になっている。それを是正しないでアベノミクスで株価だけ上げただけで全然賃上げをしてない。真面目に賃上げに取り組んだ韓国をdisるばかり」。

ひごろ外国人留学生と話をしていると「“安い”ニッポン」というのはかなり広範に共有されている認識だなあと思えます(私が奉職している学校の学生さんたちが比較的裕福な家庭の人ばかり、という可能性はありますが)。あまり大きなことは言いたくないし、言うだけの知識もないですけど、失われた20年が30年になったこの先、凋落の40年、50年になっていかないためにも、このあたりで本当に政治を変えていかなければならないですね。一部の団体や企業ばかりが儲かる五輪なんかやってる場合じゃないです(インバウンドの増加で社会に広く利益が回る予定だったのも、このパンデミックで消え失せましたし)。この秋にも予定されている衆院選(その前の都議選も)、よくよく考えて投票しなければ。

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https://www.irasutoya.com/2016/07/blog-post_4.html

余談ですが、パトリック・ハーラン氏(パックンですね)が、この重慶に本社があるアニメ会社「カラード・ペンシル・アニメーション」日本支社代表の瞿史偉氏について、「逆に中国でこのレベルで働ける日本人がどれ位いるだろうか」と問題提起していて、これもホントにそうだなあと思いました。
news.yahoo.co.jp
いや、でも、最近は流暢な中国語を駆使して中国語圏で働くお若い方も増えていますし、これからまた変わって行くだろうと私は思っています。そのためにも、もっと賃金水準を引き上げて、若い人たちの前向きな努力に報いるようにしなければいけませんね。

日本の「空気」はメダルラッシュで一変するだろうか

かの「インパール作戦」にも準えられる今次の東京五輪、日本政府と東京都は何が何でも強行するつもりのようで、いよいよ「本土決戦」の様相を呈してきました。そんな中、ライター・編集者の中川淳一郎氏が『PRESIDENT Online』に書かれた記事がSNSで「炎上」していました。
president.jp

日本がメダルラッシュともなれば、世間のムードは簡単に変わる。テレビでは、日本人選手が金メダルを獲得するたびに速報が出て、その夜のニュース番組のスポーツコーナーで選手を称える映像が大量に流れるだろう。スタジオのキャスターや解説者は大興奮。選手も生中継のインタビューで番組から番組をハシゴし、ツイッターは喜びと祝福の声だらけになる。

うん、たぶんそうなると思います。中川淳一郎氏のこの記事自体は首肯できないところもたくさんありますけど、私はこれまでに中川氏の著書をいくつか読んでいて、氏の主張には共感するところもたくさんあります。というか、この記事自体が氏一流の「ネタ」じゃないかな(特にマスメディア批判)と私は思いましたが、ともあれ五輪が強行開催されたら、国内の「空気」がガラッと変わるだろうことは容易に想像できます。

そして、そうなったあかつきには、それまで反対を唱えていた、例えば私のような人間は「ぐぬぬ……」とばかりに様々な罵詈雑言を考え出してはぶつけて溜飲を下げようとする、あまつさえ「これで感染爆発が起こってくれたらいいのに」などと、自分の主張の正当性を裏付ける担保として本末転倒な展開を期待しちゃったりする心性に陥りかねない……という指摘にも「そうかもしれない」と思います。

もちろん私は、もとよりスポーツとか体育というものが大嫌いな人間ですから(身体を動かすのは好きですが)、これまでも、そして今回も、五輪競技やメダル数の多寡に狂喜乱舞することは一切ありません。それでもこの夏、少なからぬ人たちが(それも自分の身近な人たちもが)様々な問題を一顧だにすることなくなだれを打って熱狂するだろうことを想像するだけで、なんとも暗い気持ちになります。

そんな私の気持ちを見透かすように、中川氏は記事の最後をこう締めくくっています。

高確率で期待できる日本人選手の金メダルラッシュは、「とにかく悪い材料を探す」ことに躍起になってきた「コロナ、ヤバ過ぎ」派の日常をぶち壊してくれる可能性がある。それでも世間の風が変わらなかったら、いよいよ日本人の集団ヒステリーも末期症状。閉塞感に包まれた暮らしが、これから何年も続くことになるだろう。

お言葉ですが、私はこれは楽観的にすぎると思います。数週間程度の五輪で、この「同調圧力」大好きな私たちの心性は変わらないのではないでしょうか。メダルラッシュでわっと沸いたあとにはすぐ、また「ヤバすぎ」の日常にわっと戻るでしょう。そこに万一、五輪に起因する感染爆発でも起きた日には、それこそ「閉塞感に包まれた暮らしが、これから何年も続くことになる」と思います。というか、これも中川氏は分かっててあえて書いてるんでしょうけどね。

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https://www.irasutoya.com/2014/11/blog-post_175.html

留学生が苦労するカタカナの発音

「ペーコン」、「ウィーナー」、「シフト」。なんだと思われますか。実はこれ、先日留学生が課題で作ってくれた通訳用のグロッサリー(用語集)にあった表記です。それぞれベーコン、ウィンナー、シーフード。日本語の清音と濁音、それに撥音、促音、拗音、長音などが曖昧なために登場するこれらの言葉、ふだんから留学生と向き合っている私たち教員は「ああ、たぶんアレのことですね」と忖度(?)することができますが、社会に出てから市井の日本人にこう言って、はたして分かってもらえるでしょうか。

「シフト→シーフード」はさすがに難しいかもしれませんが、それ以外は前後の文脈で分かってもらえるかもしれません。でも、今日も今日とて「私の国には寝たブタの像があります」という発言があって何かと思ったら「寝た仏陀の像」でした。なるほど、涅槃仏ね。ともあれ、来日何十年になる「ベテラン」の方でもときどきコピーのことを「コッピ」や「コビー」と書いていたりして、なるほど日本語のこうした音は意外に「鬼門」なのだなあと思います。

これは母語にもそういう音があるかどうかで習熟度にも違いが出るのかもしれません。私が観察してきた範囲で言うと、母語にもそういう清音と濁音の違いとか、撥音、促音、拗音、長音のようなものがある方は、当然でしょうけど日本語のそういう音を出すのも、それぞれを出し分けるのも上手です。逆にそれらがない母語の方はよほど注意しないと「切手買って貼った」が「きてかてはた」みたいな発音になってしまいます。

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https://www.irasutoya.com/2016/06/blog-post_393.html

私がいま学んでいるフィンランド語は、撥音、促音、拗音、長音(に聞こえる音)が多い言語です。“kyllästynyt(キュッラストュニュット)”とか“kymmenentuhatta(キュンメネントゥハッタ)”とか“mielenkiinnottomuus(ミエレンキーンノットムース)”など、はねたり、つまったり、ねじれたり、のびたりしまくり。だから、私はフィンランド人に「発音がいいですね」と言われます。もちろんお世辞が99%でしょうけど、たぶん、こうした撥音、促音、拗音、長音の少ない母語話者によるフィンランド語と比べて、それらに慣れている日本語母語話者の発音が聞きやすい、ということなのでしょう。

もうひとつ、現代の日本語にはカタカナの外来語が多いですが、このカタカナの発音でも苦労する方がままいらっしゃいます。ひとつは上述したような音の要素によるものですが、もうひとつは「発音がよすぎて伝わらない」というものです。日本語母語話者は外来語であっても「母音ベタ押し」で発音することが多く、例えば“something”だって「サムシング」のように、つまり「グ→ウ」までしっかりくっきり発音する方がほとんどですよね。それが苦手なのです。

苦手といっても、留学生の発音の方がよほど英語らしいというか、本来の発音なんですけど、それだと日本語母語話者に伝わりにくい。特に通訳をしている時に、地の文に混じって外来語だけ「やけに発音がいい」と逆に分かりにくく、時には滑稽な感じにさえなってしまいます。

というわけで通訳訓練の時など、できるだけ日本語母語話者に分かるような発音でお願いしますねと言っているのですが、何だか申し訳ないような気もします。むしろ日本語母語話者のほうが本来の発音に慣れて行くべきなのかもしれないと思って。でも実際には良くも悪くも超モノリンガル社会の日本で暮らし、仕事をしていこうと思うなら、今のところは「母音ベタ押し」に馴染んでいくしかないんですよね。外来語の発音が良すぎるとたぶん聞き手は「は?」の連続になるでしょうから。

でもこれが、かなり難しいようです。毎年毎年この点を指摘していますが、外語と日本語で共通のカタカナ語を、例えば英語へ訳すときは本来の発音で、日本語へ訳すときは「母音ベタ押し」でと器用に使い分けられる方はそれほど多くありません。でも逆に言えばそういう「職人技」を高めていくことができれば、特に日本の企業などでは高評価が得られるはず。せっかく日本語を学ぼうと決意されたんですから、そういうところまで「オタク的」にこだわってみてほしいと思います。

フィンランド語 105 …後置詞

場所を表す後置詞というのを学びました。これまでにも“lähellä(近くに)”とか“keskellä(中心に)”という言葉は出てきましたが、ここで一気に登場です。中国語を学んでいたときにも、前後左右上下間を表す言い方が一気に出てきて慌てましたが、そのうち慣れてしまいました。フィンランド語もそうあってほしいです。

属格 + takana(〜の後ろに・で)
Aurinko on pilven takana.
太陽が雲の後ろにあります(太陽が雲に隠れています)。
属格 + takaa(〜の後ろから)
Aurinko tulee pilven takaa.
太陽が雲の後ろから来ます(太陽が雲から顔を出します)。
属格 + taakse(〜の後へ)
Aurinko menee pilven taakse.
太陽が雲の後ろへ行きます(太陽が雲に隠れます)。

属格 + edessä(〜の前に・で)
Pilvi on auringon edessä.
雲が太陽の前にあります。
属格 + edestä(〜の前から)
Pilvi menee pois auringon edestä.
雲が太陽の前から行きます(雲が太陽の前を通り過ぎます)。
属格 + eteen(〜の前へ)
Pilvi tulee auringon eteen.
雲が太陽の前へ来ます(雲が太陽にかかります)。

なるほど。“pois”は「去って行く」という感じの言葉ですけど(mene pois! =あっちへ行け!)、ここではあまり意味はないそうです。授業では、他にも後置詞がたくさん出てきました。

属格 + päällä(〜の上に・で)
属格 + päästä(〜の上から)
属格 + päälle(〜の上へ)


属格 + alla(〜の下に・で)
属格 + alta(〜の下から)
属格 + alle(〜の下へ)


A属格 ja B属格 + välissä(AとBの間に・で)
A属格 ja B属格 + välistä(AとBの間から)
A属格 ja B属格 + väliin(AとBの間へ)


A属格 ja B属格 + välillä(AとBの間に・で)
A属格 ja B属格 + väliltä(AとBの間から)
A属格 ja B属格 + välille(AとBの間へ)


属格 + vieressä(〜の横/脇に・で)
属格 + vierestä(〜の横/脇から)
属格 + viereen(〜の横/脇へ)


属格 + ääressä(〜の側に・で)
属格 + äärestä(〜の側から)
属格 + ääreen(〜の側へ)

このうち、「AとBの間」の諸相を表す後置詞には“välissä/välistä/väliin”と“välillä/väliltä/välille”の2パターンがありますが、前者が物と物の間などに使われるのに対して、後者は都市、時間、あと人間関係などに使われるようです。

Kissa on pöydän ha teeveen välissä.
猫はテーブルとTVの間にいます。
Minä olen Helsingin ja Turun välillä.
私はヘルシンキとトゥルクの間にいます。
Äidin ja isän välillä on riita.
母と父の間には争いごとがあります。

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Minä olin Helsingin ja Tallinnan välillä.

骨伝導ヘッドフォンをふたたび

昨年の春に購入して使っていた骨伝導ヘッドフォンが壊れました。音を振動で伝える部分の中で部品が外れたらしく、常にカラカラと小さな音がしています。それでもガマンして使っているうちに「ビリビリ」という音まで加わるようになり、耐えきれなくなって使うのをやめました。保証書のたぐいを保管してなかったので、交換もききません。自分の「ものぐさ」ぶりに愛想がつきます。

qianchong.hatenablog.com

Amazonのカスタマーレビューに、私と同じような不具合を報告している方がいました。このAftershokzの骨伝導ヘッドフォンはかなりお高いですし、また同じような不具合が出るのもいやなので、Amazonで別のメーカーの安い製品を購入することにしました。……が、これまた大失敗でした。

Aftershokz(AEROPEX)と比較してみるとよく分かりますが、造りの粗雑さは歴然としています。かなり「ごつい」感じなので装着感も悪く、ボタンの操作性も比べものになりません。さらに充電用のコードを、いちいちシリコン製の「ふた」を開けて刺さなきゃならない面倒さ。Aftershokzはマグネット式で、日々の使いやすさがまったく違います。やっぱり値段って、それなりに意味というか、根拠があるんですね。

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さらにこの格安品、どうやら骨伝導ですらないみたいです。音がかなり小さく、ちょっとした雑踏に出るともう聴き取りにくくなります。Aftershokzは振動部分をぐっと押しつけるとかなりの雑踏でも聞こえますが、格安品の方はまったく骨に響いてこない。よく見ると小さな穴が開いていて、ここにスピーカーが仕込んであるみたい。あああ、“一分錢一分貨(安かろう悪かろう)”とはまさにこのことですね。

仕方がないので、もう一度改めてAftershokzを購入しました。ヘッドフォンだけでどれだけの出費になっているのか。でも公私ともに語学の音を聴き取りまくる生活なので、一度手にしたことのある快適な音響環境はもう何物にも変えがたくなっているのです。それだけこの、耳を塞がない骨伝導ヘッドフォンはすばらしいです。今度は保証書と納品書をきちんと保管しておこうと思います。

フィンランド語 104 …第二不定詞具格

新しい文法事項として「第二不定詞具格」というのが出てきました。これは「〜しながら〜する」という表現方法だそうです。これまでも“ja”を使って「〜し、かつ〜する」という表現はできました。

Minä istun ja odotan.
私は座って、待ちます。

それを第二不定詞具格を使って、このようにも言えると。

Minä istun odottaen.
私は座りながら待ちます。

第二不定詞具格の作り方は簡単です。動詞の最後についている a か ä を en に変えるだけ。

odottaa(待つ)→ odottaen
syödä(食べる)→ syöden

ただし、a や ä を取ったあと e で終わる動詞については、その e を i に変えてから en をつけます。

lukea(読む)→ × lukeen → lukien
itkea(泣く)→ × itkeen → itkien

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Minä opiskelen suomea kuunnellen musiikkia.

外語学習における「見りゃ分かる」と「一生使わない」について

語学教育において「日常で使わない言葉や言い回しを教えても仕方がない」という批判に対して、そんなことはないのではないか、という逆批判を先日書きました。日常生活では使わなくても、一度でも学んだことがある言葉は、身体のどこかに残ってその人の思想や思考方法を形作る材料になっていると信じたいと。一度でも学んだことがあるのと、一度も学んだことがないのとでは、のちのち大きな違いになって現れるのではないかと。

qianchong.hatenablog.com

これはもう語学とか言語に対する考え方、捉え方の違いですから、分からない人には多分一生かかっても分かってもらえないかもしれません。それに現代は、特に英語教育において従来からの「文法重視」「訳読重視」の学習法がよってたかって批判され、とにかく実用的な、使える英語を叩き込むんだ、との声かまびすしい時代ですから、私みたいな考えの人間は「古い」のひとことで片づけられてしまうかもしれません。

もちろん語学は「使えてナンボ」のところはあります。私だって外語を使って街で買い物をしたり、ちょっとしたおしゃべりを楽しんだりという営みはとても楽しいです。「ネイティブっぽく」しゃべってみたいという欲望も虚栄心みたいなものも、人並みに持ってる。とはいえ、だからといって文法なんか学ばなくていいんだ、日常生活で言わないような単語や表現なんて覚えなくていいんだ、ましてやその言語の文化背景だの歴史だの関係ないじゃないか……とは思いません。

それはまあ、口幅ったい言い方になりますが、その言語に対する敬意というか愛情というか、もっといえばその言語の母語話者が営々と積み上げてきた歴史に対する畏怖みたいなものが外語学習には不可欠だと信じているからです。ひとことで言えば「言語を舐めちゃいけない」ってことですか。

外語学習って、そんなに大仰なものなの? という声が聞こえてきそうです。でも、そうなんですよ。だから常日頃より「こんな面倒くさくて泥臭い営みに自分の人生のかなりの時間を賭けてもいいと、本当に思いますか?」とお聞きしているのです。だから「全国民が幼少時から週に数時間という非効率な英語教育などやめて、英語(など外語)が必要になった人が必要になったときから、しかしそこはそれ死にものぐるいでやるべき」と申し上げているのです。

ところで、「そんな難解な言葉、日常生活のどこで使うんだ」という批判の一方で、「そんな簡単な言葉、どこで使うんだ」という批判もあります。“This is a pen.”を「見りゃ分かる」とか「一生使わない」とかいうたぐいですね。以前このブログでも引用しましたが、橋下徹氏は教育問題をめぐるテレビ番組での討論で、こんなことをおっしゃっています。

最初に“This is a pen.”かなんかが入るけど、あれネイティブの人に聞いたら、まず言わないって言うもんね。日常生活では絶対に使わないと。『これは』っていちいち言わなくても(目の前に見えていて)みんな分かってるわけだから。(『ABEMA Times』より

qianchong.hatenablog.com
私は、英語を学ぶ最初の方で“This is a pen.”が出てくるの、理にかなっていると思います。日本語ととは異なる英語の文型や語順や、主語・動詞・冠詞・補語……などを学ぶためと考えれば別におかしくないと思うんです。

いま学んでいるフィンランド語の教科書も、第一課の一番最初のテキストは“Tämä on kirja.(これは本です)”、“Tämä on kissa.(これは猫です)”でした。教科書には本と猫の絵も描いてあって、たしかに「見りゃ分かる」。でもこれで、フィンランド語の最も基本的な文型である“A olla B.”が理解でき、英語の be動詞 にあたる olla動詞 の人称による使い分けが分かり、目的語の格というものの存在が分かって、これがこのあとどんどん複雑になっていく文法の核になっていきます。

畢竟、母語話者と非母語話者の決定的な違いは、文法をその都度意識に上らせなくても話せるかどうかです。そして外語が上達するということは、その都度意識に上らせなくても自動的に使えるようなるまで訓練を重ねることです。非母語話者が学ぶ場合に文法だけに偏っていてはつまらないかもしれませんが(私は文法好きなのでぜんぜん構いませんけど)、かといって文法を軽視してもいけないのです。

「一生使わない」については、先日 Duolingo でフィンランド語を学んでいて、こんな文章に出くわしました。ディクテーションの画面で、聞こえてきたとおりにタイプしたのですが……

Isossa koirassa on tosi kirkas tähti.
大きな犬の中にとても輝いている星がある。


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全部知っている単語で、すぐにタイプできましたが、意味が分かりません。「大きな犬の中に星がある」? それで正解の英語を見ると(Duolingo のフィンランド語コースには日本語版がないので、英語版で学んでいるのです)、こう書いてありました。“There is a really bright star in Canis Major.”

カニス・メイヤー」って何? 辞書で調べて「ああっ」と声を上げました。「おおいぬ座」。この瞬間にフィンランド語ではおおいぬ座を直截に「大きな犬」と呼ぶこと、この文章はシリウスについて述べていること、それにおおいぬ座の英語での呼び方まで分かって、脳内のシナプスがいろいろとつなぎ変わるような感じがしました。

あとから思い返せばささいなことですけど、こういう瞬間の繰り返しが楽しいのです。夜空のおおいぬ座シリウスを指差してこのフレーズをフィンランド語で言うことはたぶん一生ないかもしれないですけど。Duolingo にはそれぞれのタスクについてディスカッションできる機能がついていて、このフレーズにはこんなメッセージが残されていました。

Love this sentence. I did not know the words kirkas and tähti, only that there was something inside a big dog. The unexpected translation broke the monotony of repeated sentences and really enhanced the learning experience. Thanks for keeping us on our toes, Finnish team!


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うんうん、私もそう思います。

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https://www.irasutoya.com/2015/02/blog-post_26.html