職場の専門学校では、外国人留学生が通訳訓練の一環として日本語の演劇に取り組んでいます。脚本は私が書いているのですが、一昨年に上演した、擬人化されたさまざまな料理たちが「世界三大料理」の座を争うというコメディ『世界三大料理〜帝国の逆襲〜』には、こんなセリフがあります。
アメリカ料理:Make America great again and again and again! 茶番は終わりよ!
フランス料理:ちょっとあんた、まだ性懲りもなく表舞台に登場するつもり?
アメリカ料理:なんだかんだ言っても、やっぱりアタシが出張らないと、世界の秩序は保てないの。実力と人気を兼ね備えた存在って、ある意味、罪よね。
中華料理:ふざけないで! 独りよがりな価値観を押しつけられちゃ迷惑なのよ。世界はもうとっくに多極化してるんだから。
ロシア料理:いかにも。たかだか二百数十年しか歴史のないアメリカ料理が料理界の秩序うんぬんだなんて、片腹痛いでアナスタシア。
中華料理:いいこと言うじゃない。
ロシア料理:これはどうも、痛み入りマトリョーシカ。
中華料理:どう? ここはひとつ、アタシと組まない?
フランス料理:あんた、だんだん節操がなくなってきたわね。
脚本を書く際、私は自分が担当している外国人留学生のうち、特定の誰かを想定してセリフを作っていません。同じ配役の学生がお互いに学び合うという学習効果も期待してダブルキャストやトリプルキャストにするので、なるべく誰が演じてもよいようにしているつもりです。でも上掲のセリフの日本語からは、ひとつだけ比較的はっきりと読み取れる属性があります。それは性差です。
「終わりよ」、「アタシ」、「罪よね」、「迷惑なのよ」、「なくなってきたわね」……これらの語尾(文末詞)から受ける印象は、人によって多少の意見の相違はあるでしょうけど、おおむね「女性らしい」感じではないでしょうか。いわゆる「役割語」というやつです。「そうじゃ、拙者が存じておる」と言えば時代劇に出てきそうな武士で、「そうや、わてが知っとるでえ」と言えば関西のお笑い芸人さん……みたいな*1。
こうした役割語のうち、特に「女性らしい」文末詞について分析した、古川弘子氏の『翻訳をジェンダーする』を読みました。この本では、小説作品における女性の登場人物の話し方について、上述したような「女性らしい」文末詞がどれくらい使われているのかを、翻訳作品・日本人作家による日本語作品・児童文学作品などで比較し、さらに翻訳者の性別や年令によって差があるのかについても調べています。
翻訳をジェンダーする
またそうした作品における「女性らしい」文末詞が、実際の女性の会話ではそれほど使われていないことも示されています。つまり、ここには女性に対するステロタイプな見方が存在するとして、古川氏はそれを「保守的」と呼んでいます。氏の分析によれば「女性らしい」文末詞の使用頻度、つまり「保守的」な度合いは、実際の女性<日本人作家による日本語作品の中の女性<翻訳作品の中の女性と強まり、また同じ翻訳作品でも大人向けの文学作品<児童文学作品と強まり、さらに女性翻訳者<男性翻訳者と強まるのだそう。
つまり「保守的」であればあるほど、ステロタイプの度合いが強い、つまりは「よ」、「よね」、「わね」、「なのよ」などを多用するというわけです。実際の女性はそこまで多用していないにも関わらず。なるほど、私が上掲のお芝居のセリフで多用している「女性らしい」文末詞の数々も、そうしたステロタイプな見方の産物とも言えそうです。
ただ、うちの学校の外国人留学生に限って言えば、私がほぼ無意識のうちに女言葉や男言葉を用いてセリフを書いた台本を読んで、当の留学生諸君は各自のジェンダーにかかわらず、言葉の性差にあまりこだわることなく役柄を選び、そのまま女言葉や男言葉を用いて演じています。なんというか、かなりユニセックスな感じが自然に醸し出されてくるのです。
もしこれを日本語母語話者の学生さんたちが演じるとしたら、役柄の選択から演技まで、かなりジェンダーのバイアスがかかるのではないかと想像します。男性が女言葉を喋るのは恥ずかしいとか、女性が男性言葉を喋るのは不自然だとか……してみると、留学生のみなさんにユニセックスな雰囲気が備わるのは、日本語を母語としていないために、かえって日本語の女言葉や男言葉に先入観や抵抗がないからではないかと思いました。
外語でも、例えば英語の“He/She”とか中国語の“他/她(発音は同じ)”とか、この本でも取り上げられている言葉の性差はあり、またそれらを超克するための三人称単数としての“They”やスウェーデン語の性を限定しない代名詞として定着しつつあるという“hen*2”などもこの本で紹介されています。それでも日本語における男言葉/女言葉のボリュームに比べれば、少なくとも英語や中国語ではそうした性差はかなり少ないです。
こうした文末詞などに無意識のうちに織り込まれている「女らしさ」や「男らしさ」をどう乗り越えていけばよいのかという本書の提起には考えさせられるものがたくさんありました。とはいえ、では実際に上掲のような台本のセリフをいわゆる役割語を極力排して書こうとすると、これがなかなか難しいのです。なんというか、とてもフラットではあるけれど、お芝居のセリフとしては活き活きとした感じが欠けてしまうというか。
この点で私は、この本で主張されている「女らしさ」や「男らしさ」へのステロタイプな(保守的な)スタンスへの批判に共感しながらも、文学作品や、私が書いたような台本の言葉遣いと、現実の言葉遣いに差異があることを、フィクションとしてある程度受け入れる余地は本当にないのだろうかと考えました。それらを完全に取り払ってフラットにするのが本当にいいのかどうかについては、私自身まだ答えが出せないでいます。
外国人留学生が操るユニセックスな感じの日本語の台詞を聞いていて、もしかしたらこういうふうに女言葉/男言葉を凌駕して自由に話すことができるようになることこそ、ひとつの止揚になるのかもしれない……そんなことを夢想しました。