インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

起立・礼・着席

私がいま勤めている学校は、系列の専門学校や大学が都心のキャンパスにまとまった形になっています。同じ建物でもフロアによって学校が違ったりするのですが、先日所用で他のフロアに出向いたところ、ちょうど始業時間で、先生と学生さんたちが「起立・礼・着席」をしていました。

小学校や中学校までなら普通に行われている始業時のあいさつです(かな? 最近の状況は分かりませんが)が、専門学校や大学でもやっているというのは、ちょっとびっくりしました。うちの学校は歴史がけっこう古いのですが、そういう伝統なのかもしれません。ほかの歴史が長い大学や専門学校でも、ひょっとしたらやっているところはあるのかもしれません。

今朝の東京新聞に、小学校の教員で編集者の岡崎勝氏がこのあいさつの話を書かれていました。岡崎氏は小学校の授業でも「起立・礼」などを行わないそうです。授業の始まりと終わりの「けじめ」があれば十分で、岡崎氏にとってはその「けじめ」は時間通りに授業を始め、時間通りに授業を追えることだけであり、それ以外は必要ないのではないかというご意見です。

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私も岡崎氏のご意見に賛成です。自分が授業をするときも同じように「さあ、始めましょう」と言って始め、時間になったら「では、ここまでにします」で終わります。とくに時間通りに始めるのが学生さんに対する礼儀だと思うので、教室に出向く時間に遅れないよう、かなり早くから出勤し、かなり早くから教室に入って準備をしています。昨今のオンライン授業では、手元のスマホの時計で秒針を見ていて、始業時間ぴったりに「さあ、始めましょう」と言うようにしています。

でも逆に言えばそれ以外の礼儀は授業に持ち込まなくてもいいかなと。義務教育段階ならともかく、私が担当しているのは成人が学ぶ学校のクラスばかりですから。授業に遅れてきても何も言わない学生さんもいますが、私はそれをとがめたりもしません。大人になったら自律的に学んでいくのが当たり前ですし、私は「しつけ」を担当しているわけではありませんから。

それから、授業途中で「トイレに行ってもいいですか」と聞いてくる学生さんは多いですが、私はそうやって許可を求めなくてもいいんじゃないかとも思っています。生理的なことですから「ダメ」と言うわけにもいきませんし、「ちょっとトイレに行ってきます」と言って、静かに離席すればいい。もちろん授業前にトイレを済ませておこうなどと意識しないのは、そも学ぶ姿勢としてどうかという意見もあるでしょうけど。

アメリカの学校の状況に詳しい同僚によると、アメリカの学校では小中学校でももちろん「起立・礼・着席」みたいなことはやらないし、終業ベルがなるやいなや、みんなすぐに教室からいなくなってしまうそうです。これは岡崎氏も書かれているように、休み時間をきちんと休む(あるいは教室移動の時間を確保する)のは学生側の権利という意識があるからなんでしょうね。

ミナを着て旅に出よう

先日、ファッションブランド「ミナ ペルホネン」のデザイナー、皆川明氏へのロングインタビューをまとめた『Hello!! Work 僕らの仕事のつくりかた、つづきかた。』という本を読んだので、もう一冊『ミナを着て旅に出よう』という本も読んでみました。こちらもインタビューを元に構成したもののようです。

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ミナを着て旅に出よう (文春文庫)

読んでいるとこのブランドの服がとても魅力的に思えてくるのですが、序文を寄せている松浦弥太郎氏によれば「メンズは皆川さんが自分で着る用のセーターを少しだけ作るくらいらしく、ほんの少しだけお店にならぶそうです」とのこと。同ブランドのオンラインサイトへ見に行ってみたら、若干のメンズ商品も売られていましたが、スタンダードな白いシャツでも30800円! う〜ん、私にはちょっと手が出ません。

それはさておき、この本の中で学校教育、とくに美術教育について書かれている部分に共感を覚えました。氏は文化服装学院でファッションデザインを学ばれたのですが、その前に美術大学を志したことがあったそうです。いまもそうだと思いますけど、美大を目指す学生さんはたいがい「美術予備校」というところに通います。

そこには受験生がたくさん来ていて、それぞれ絵を描いているんだけど、みんな志望校向けの絵を描いているんですね。例えば武蔵野美術大学に行きたい人は武蔵美向けのでっさん、東京芸大に入りたい人は芸大用のデッサンと粘土というように。志望校に入学するための絵を学んでいるというその状況を目にしたときに、正直言って美大に行くことすら、もしかしたら意味がないんじゃないかと思い始めてしまったんです。(36ページ)

私は皆川氏とほぼ同じ世代ですが、同じく美術予備校に通っていながら、そんなふうに考えることができるようになったのはもっとずっと年を取ってからでした。美術やデザイン、というかものつくり、あるいはクリエイション全体に対して向き不向きというものはあるのだな、そしてクリエイションには本当の意味での教養、物事の本質を見抜く力のようなものが必要なんだな、と改めて思います。

qianchong.hatenablog.com

そういうわけで氏は文化服装学院の夜学に通うのですが、そこでもこんな違和感を覚えていたそうです。

入学した文化服装学院は、最初から課題、課題、とにかく毎日課題が多い。授業の出席も厳しいし、とにかく課題を出さないことにはお話にならないという学校でした。僕は良いデザインをするためには、それこそ旅行に行ったり映画を見たり、もっと外を見ることが必要だと思っていたのに、普通に課題をこなしていたらまったくそういう時間が取れない状況でした。
(中略)
今の日本の学校は、学校であることを意識しすぎるがゆえにとても閉鎖的で、内輪受けな雰囲気を背負い込んでいると思います。また、課題に対する評価やコンテストなどは、実際の社会とな無関係なところでいろんなことを判断している気がします。(37ページ)

ここで語られているのはデザイン教育、それも特定の学校のそれではありますけど、他の分野の学校にもある程度共通している問題点かもしれません。もちろんカリキュラムとしてある程度のしばりを設けることは必要でしょうし、またそのように感じたのは才能あふれる氏だったからこそであり、すべての学生に敷衍できるものでもないでしょう。さらにもっと身も蓋もないことをいえば、学校だって経営という課題があって、そのためにはほんのひとにぎりのタレント(才能を持つ人という意味での)だけを相手にできるわけではありません。

それでも、課題や試験や評価のありかたについては、もうここ何年もいろいろな疑問を抱きつつ自分の教案を変えてきていたので、皆川氏の意見も興味深く読んだ次第。特に、大人になってから通う学校(私が勤めているのもそういう学校です)では、もっと「学校であることを意識しすぎる」ことから離れてもいいと思うんですよね。

オンライン授業にはない「冗長性」が必要なのかもしれない

斎藤環氏と與那覇潤氏の『心を病んだらいけないの?』を読んでいたら、最終章に「オープンダイアローグ」の話が出てきました。統合失調症鬱病などの患者に対して、投薬ではなく、患者に関わる家族や友人、医師や看護師など、患者に関わる全ての人が参加した「対話」によって治療の効果を上げるというフィンランド発祥の精神療法です。

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心を病んだらいけないの?―うつ病社会の処方箋―(新潮選書)

非常に興味深かったのは、この療法があらかじめ設定した計画や予定調和に沿って行われない、という点です。斎藤氏によれば……

オープンダイアローグでは治療者の側が一方的に「分析」や「評価」をしたり、治るためにはこれをやれといった「計画」を立てたりはしません。不確実に見えても、患者や家族と同じ目線で、相互の対話につきあっていく。(246ページ)

これに応えて與那覇氏はこう言っています。

「計画抜き」という点は、ぼくにはとても興味深い。つまり目下の企業社会で流布しているPCDAサイクル的な発想ではなく、むしろそれへのアンチということですね。(同)

なるほど、オープンダイアローグは一見、効率とは無縁のまどろっこしい手法のように思えるかもしれません。しかしそこには、心を病むこととその心を持つひとりひとりを前例や効率などといったものさしで画一的にとらえないという人間観があるわけですね。

この人間観については後段で、ベーシックインカム(これもフィンランドで先行的な実験が行われています)について述べた部分にもつながっていきます。斎藤氏は、ベーシックインカムが個々人のより望ましい社会参加のあり方をうながす可能性はあるとしながらも、「きわめて画一化された人間観に基づく発想で、じつは多様性を軽視している」のではないかと言うのです。個々人が必要とするお金や社会資源は均一ではなく、全員に平等なシステムを作れば全員がハッピーになるというわけではないのではないかと。

たとえば、ベーシックインカムが導入されて社会保障が廃止された場合、例えば行政が生活困窮者の相談にのったり支援したりということも必要がなくなるのか。それでいいのだろうかという疑問が呈されています。

(斎藤氏)人と人とが対面しての接触をうながすような制度の「冗長性」があることで、初めてケアされている感覚を当事者が得られ、社会的な孤立やセルフネグレクトが防がれている点を、見落とすべきではないと思うんですね。
(中略)
(與那覇氏)冗長性と聞くと、普通は「ムダ」の同義語だと解釈されて、だったらなくせよと思われてしまう。しかし実際には人が生きていく、あるいは社会を維持する上で「冗長であることが必要」な場面が、多々あるのではないでしょうか。(267ページ)

私はこの対談を読みながら、コロナ禍以後導入せざるをえなくなったオンライン授業のことを考えていました。オンライン授業に取り組み始めてからもう二年近くになりますが、さまざまな実践を通して発見したこと、学んだことも多い一方で、正直に申し上げて私は、少なくとも自分が受け持っているような「実習系」の科目でネットを介したオンライン授業を続けるのは無理があるのではないかと感じるようになりました。

それはまさに、オンライン授業には「冗長性」が欠けているからではないかと。参加している全員がフラットな画面に遠近感なく斉一に表示され、また教員から学生へのアプローチも、学生同士のやりとりもすべてフラットなネット空間で行われる。それはとても平等で効率的な場ではあります。通勤や通学といった時間の「ムダ」が省けるのはもちろん、感染防止という点でも現時点では最良の選択なのかもしれません。

ただ私は、オンライン授業に取り組めば取り組むほど、そういった「しつらえ」の後ろでこぼれ落ちているものがたくさんあるのではないかと思うようになりました。実際の教室においては、教員と学生とのやり取りのほかに、学生同士の横のやりとりも行われます。ときには授業に集中しない私語のようなやりとりもありますし、その時その場所におけるリアルな雰囲気や天候、気温、ノイズ……そういったさまざまな要素をみんなで共有していることが意外に大切なんじゃないかと思うのです。

もちろん一方的に講義をするような授業であれば、オンライン授業でじゅうぶんに代替できるかもしれません。また動画を撮ってそれを視聴するという形のオンライン授業もずいぶん普及しています(私も何本も撮影しました)。でも例えば動画視聴の場合、自分もよくやるのですが、まさに「冗長性」にうんざりしてつい早送りで視聴したりする。それは効率的かもしれないけれど、そのぶん何かを失っているような気もするのです。

対面授業でナチュラルスピードの話を聞いているときには、話を聞きながら自分の中でもあれこれ思考することができていたのが(単に「かったるいな」と思うだけであっても)、1.25倍速や1.5倍速では起動しにくい、そんなこともあるのではないか。みんなが各地から一か所に集ってきて、早送りもスロー再生もできないリアルな時間の流れを共有するというその「冗長性」にも、なにか大切なものがあるのではないか。

この本を読みながらそんなことを考えました。まだうまくまとまらないので、今後も考え続けて行こうと思っています。

成城石井のサラダチキン

よしながふみ氏の『きのう何食べた』最新第19巻に、こんな話が載っていました。ケンジが元カレと約20年ぶりぐらいで再開して、かつてはやせていた元カレが肉体改造で「ナイスバディ」になっていたのをシロさんが気にして、自分もマッチョにならなきゃいけないのかとしばし落ち込む……という話です。

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結局ケンジは別にマッチョが好きではないのでシロさんに「無理して筋肉つけたりしないで」と言うのですが、その時にシロさんが「これから毎日鶏ムネ肉とプロテインの生活になるのかと…」というのに笑いました。そうそう、トレーニングといえば鶏胸肉とプロテインというこの連想は、かなり市民権を得つつ(やや揶揄を込めながら)あるように思います。

コンビニなどでも「タンパク質」何グラムという表示のついた商品が増えましたし、サラダチキンなんかがずらっと並んでいるお店もあります。私も買うことがありますが、どの商品もかなり塩辛くて頭が痛くなるくらいです。それで自分で作るようになりました。低温調理器を使うと、かなり柔らかくておいしいサラダチキンが簡単にできます。

とはいえ、鶏胸肉も一枚あたり数百円はしますし、低温調理するときのジップロックや電気代もかかりますし、もちろんそれなりに時間だって必要だし、あまり割安感はないなと思っていました。そうしたら先日、職場の最寄り駅そばにある成城石井でこんなサラダチキンを見つけました。税込み323円で、原材料もシンプルですし、そこそこ薄味でおいしいです。

www.seijoishii.com

はてな匿名ダイアリーにときどき「自炊は意外にけっこう高くつく」という投稿がありますけど、確かに自炊も食材などにこだわり始めるととめどなく支出が増えていきます。これからサラダチキンはこれでいいかなと思っています。

年齢に関係なく働く

東京は青山のスパイラルビル5階に「Call」というお店があります。デザイナー・皆川明氏のブランド「ミナ・ペルホネン*1」が展開している服飾や雑貨のお店で、食品販売コーナーやカフェもある面白い空間です。

スパイラルといえば、私が学生時代に竣工したおしゃれな空間で、展覧会や演劇などのアートイベントをよく見に行きました。バブル時代に作られたいわゆる「バブリー」な建物ではありますが、同時代の他の奇を衒ったような建物とは一線を画していた上品さゆえか、いま訪れてもちっとも古びた感じがしません*2*3

それはさておき、Callというお店で働いておられる方々は様々な年齢層、というかご年配の方が多いです。それがお店の空間にも一種独特の落ち着きをもたらしているような気がするのですが、この点について皆川氏へのロングインタビューをまとめた『Hello!! Work 僕らの仕事のつくりかた、つづきかた。』という本に、氏の考え方が語られていました。

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Hello!! Work 僕らの仕事のつくりかた、つづきかた。

皆川氏はこのお店を開くにあたって、スタッフの募集時に年齢を「100歳まで」としたそうです。「働くことがなぜ年齢で区切られているのだろうという疑問を持っていた」からだとか。

60歳以上のスタッフを、僕らは「先輩」と呼んでいますが、中には80歳を越えた方もいます。彼らの生きる知恵やマニュアルではない言葉によって、ショップによい空気が漂っている。とても嬉しいことですね。(72ページ)

たしかに、私などアパレルショップと聞くだけでちょっと身構えてしまうようなところがあって、正直とても苦手な空間です。だから服は(あまり新調しませんけど)ネットショップか、ユニクロみたいにスタッフさんとまったく話さなくていいお店(最近のユニクロはレジもセルフです)でしか買わなくなりました。あの「っせー」「したー」的なお若い方の接客も気になりますし。

qianchong.hatenablog.com

見ていると、近い年齢の人たちだけで働いている仕事場に比べて、先輩が後輩に教えていることもあれば、後輩が先輩を助けていることもあります。それが自然に行われているのはいいですね。
若いスタッフが先輩たちから社会的なことを教わり、先輩たちが若い人の指示に耳を傾けている様子を目にすることも少なくありません。
“人生=命”の知恵を重ねてきた年配の人から、若い人が学ぶことはたくさんあるし、“人生=命”を延ばしていく若い人から、年配の人が気づきをもらうこともあるのではないでしょうか。(75ページ)

ああ、いいですねえ。こういう働き方がどんな業態や業種でも可能とは言えないでしょうけど、例えばアパレルだったらどんな年代の人もお客さんになりうる(服を着ない人はいないわけで)ので、接客する側の年齢も多様であってちっともかまわないですよね。こういった試みを企業側がみずから提案していくというのはとてもいいことだと思います。私もこういう場所で働き続けることができたらいいな。というか、いま身を置いている職場でも実践できることですよね、こうした考え方は。

*1:「ミナ・ペルホネン」はフィンランド語から取ったそうです。ミナ(minä)は皆川氏のミナであると同時に「私」という意味、ペルホネン(perhonen)はちょうちょの意味です。フィンランド語学習者からすると、主語の“minä”のあとに動詞がなくていきなり“perhonen”が来るのは奇妙ですけど、まあそんな無粋なことは言っちゃいけません。ホームページの解説によると、同ブランドが洋服から暮らし全体のデザインへと展開していくようになったのを契機に、ちょうちょが美しい翅を広げるイメージを込めてつけたのだそうです。

*2:設計は建築家の槇文彦氏。余談ですが、後年出版社で働いていたとき槇氏にインタビューする機会があって、スパイラルのファサード(正面の外観)に話が及び、私が「裏側はどうなっているんですか」などとバカな質問をして、槇氏が困惑されていたことを思い出しました。側面と裏面は他の建物に囲まれているので、建築デザイン的には特に何も施されていないんですよね。

*3:f:id:QianChong:20210319170223j:plain:w300

そんなに謝らなくても

昨日の東京新聞朝刊、諸岡カリーマ氏の「本音のコラム」。先日の雪で朝刊の配達が遅れる可能性があることを謝罪していた同紙に、ちょっとした違和感を覚えたとのこと。私もおなじように感じていました。

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さらに諸岡氏が指摘されている、ほんの数分の電車の遅れにも謝罪する日本の習慣がひょっとしてカスハラ(カスタマーハラスメント)を助長させているのではないかというのも同感です。私も通勤途中にしょっちゅう耳にしますが、あれは本当にいらないんじゃないかと。数分の遅れを謝罪されて、それで溜飲を下げるなんて乗客はいるのかしら。もともと電車の遅れは不可抗力によるもので気にしていない、あるいは仕方がないと思う人が圧倒的多数でしょうし、ようは誰にも必要のない謝罪じゃないか、ただ車内が騒がしくなってるだけじゃないかと思うのです。

いっぽう電車内で、本当に急いでイライラしている人は型通りの「お詫び申し上げます」程度じゃ収まらないでしょうし、むしろ型通りで「とりあえず謝っとけ」的な態度が声に出ちゃってるあの車内アナウンスにもっとイライラするんじゃないかしら。諸岡氏も指摘されているように、あのアナウンスの背景には「究極のプライド表現」が感じられます。このブログでも何度か書いていますが、中国語には“過於謙虛等於驕傲(過ぎたる謙虚は驕りに同じ)”ということわざがあります。あまりにも謙虚や謙遜がすぎると、人は逆にそこにその人の驕りや厚かましさを見出すものなんですね。

フィンランド語 149 …日文芬訳の練習・その63

先日同僚と話していて驚いたのは、Netflixなどのドラマを「早送りで見る」ということでした。早くドラマの展開が知りたいからだそうです。私も情報系のYouTube動画は早送りすることがありますが、ドラマや映画などではやったことがありませんでした。そう考えると、停まったり飛ばしたりできない映画館での映画鑑賞など、いまやかなり特殊な鑑賞方法ということになります。そのうち演劇でさえ冗長だと思う層が登場するかもしれません。


Äskettäin jutellessani työkavereiden kanssa hämmästyin, että heidän katsoessaan sarjoja Netflixissä, he siirtävät tylsiä ruutuja eteenpäin. He haluavat tietää aikaisemmin, mitä sarjan lopussa tapahtuu. Halutessa kerätä tietoja YouTube-videoilla myös teen sitä, mutta en ole koskaan tehnyt dramaasarjoissa tai elokuvissa. Tästä näkökulmasta elokuvien katsomiset teattereissa ovat nykyään erityiset tilanteet. Koska ne eivät voi pitää taukoja eivätkä hypätä eteenpäin. Ehkä tulevaisuudessa olisi ihmisiä, jotka miettisivät näytelmistä liian pitkiä.


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https://www.irasutoya.com/2014/02/blog-post_1908.html

空き家をもっと流通させていければいいのに

先日休みの日に散歩がてらちょっと遠くのスーパーまで歩いて行きました。住宅街を通り抜けていくのですが、途中に古い大きなお屋敷があって、お庭に巨大な木蓮の樹が植わっており、春には大ぶりな(でもチューリップみたいでかわいい)白い花がたくさん咲きます。今はまだ花の季節じゃありませんが、あの木蓮の樹にはもうつぼみがついているかななどと考えながら歩いていました。

ところがそのお屋敷はいつのまにかなくなってしまっていて、区の道路予定地としてアスファルトで覆われ、フェンスが張られていました。もちろんあの大きな木蓮の樹も消えていました。ああ……。ひとさまのお宅ですから私などが感傷にひたってもしかたがないのですが、なんだかものすごい喪失感です。

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私がいま住んでいるのは東京都の世田谷区ですが、空き家率が高く、空き家の数は「5万戸で都内で最多」なんだそうです。あのお屋敷もそういえばあまり人の気配はなかったような。それでも木蓮の樹は毎年花を咲かせていたのですが、ついにお屋敷もろともご家族が処分されてしまったんでしょうね。

www.asahi.com

家の付近を散歩していると、たしかに雨戸が常にすべて閉まっているような、空き家とおぼしきお宅が多いです。世田谷区は高度経済成長の頃には憧れの住宅地だったと思いますが、その頃に家を建てて移り住んで来られた方たちが年齢を重ね、物故されたり介護施設などに移って行かれたりして、その一方でお子さん世代は古い不便な家には住みたがらず……というような構図が見えるようです。

こうした空き家は今後もどんどん増えていくでしょうね。識者はとうに指摘されていますが、これから都内(特に23区内)の空き家増加は大きな社会問題になっていくのではないかと思います。世田谷区などへたに(?)高級住宅地のイメージがあって不動産がお高いからよけい流動性が下がって、より深刻な問題になっていくような気がしています。

家というものは、特に戸建ての住宅は、人が住まなくなるととたんに老朽化が進みます。だから私が熊本の田舎に住んでいたときは、地元の家主さんが「住んでくれるだけでありがたいから」と格安の家賃で庭付き一軒家を借りることができていました。東京23区内も行政が介入するなどして、空き家を流通させていければいいのにね。田舎と違ってなまじ資産価値が高いだけに難しいのでしょうけど。

セカンドキャリア本をあれこれ読む

現在勤めている職場はあと数年で「定年」になるので、最近はよくセカンドライフやセカンドキャリアについて考えます。実際には定年後も嘱託や非常勤で働き続けることもできるのですが、コロナ禍でどんな業界にも様々な変化が訪れている昨今、あれこれと考え、行動していくことは大切じゃないかなと。

とはいえ私はもともと「ずぼら」な人間で、かつ「意識高い系」ともいえないので、これまで特に積極的に行動をしているわけではありません。とりあえずセカンドライフに関して書かれた本を探して片っ端から読んでいるだけ、という感じです。それでもまあ、何もしないよりはマシかなと思います。なにせ、それらの本にはほぼ例外なく「定年になってから『さてどうしよう』を慌てる人がけっこう多い」と書かれていることですし。

こうした定年後の人生を考える系の本にはいくつかの系統があります。まずは「老い」とどのようにつきあっていくのかという健康系で、これには身体の健康と心の健康のふたつがあります。紙の新聞など読んでいると、書籍の広告にはこうした系統が実に多いです。紙の新聞の読者層が明らかに中高年以上に偏っている証拠ですね。

もうひとつは定年後の悠々自適な生活を彩るためのいろいろなアイデアを紹介している生活系ですが、これは当たり前ですが比較的蓄えや資産のある方々向け。いずれも乏しい私にはさしあたってあまりご縁はなさそうです。そしてさらに、定年後も働き続けたい人向けの職業系、最近はこれをあれこれと読んでいます。セカンドライフというか、セカンドキャリアに関する本ですか。

まだそれほどたくさんの本にあたったわけではありませんが、興味深いのは五年ほど前にベストセラーになったリンダ・グラットン氏の『LIFE SHIFT』をひいて「人生100年時代」を前提に話を説き起こす本がいくつもあることです。60歳や65歳が定年といっても、それから人生はまだ数十年続く、だから前もってきちんと準備しておこう……という流れでセカンドキャリアに向き合わせると。

ずぼらな私など「人生100年時代」といわれてもちょっと途方に暮れてしまって、せいぜい平均寿命くらいまで生きていられたら御の字だと思っています。あまりに長すぎる老後を考え始めたらかえって計画が立てにくくなるんじゃないかとも。それでもまあ、定年を迎えてから少なくとも五年や十年は何らかの形で働いて暮らしを維持していかねばならないのは確実ですから、少なくとも「さてどうしよう」と慌てないようにはしておこうと考えて、いろいろ本を読んでいます。

もうひとつセカンドキャリアについて書かれた本に共通しているのは、これまでの仕事や人生の「棚卸し」をするということ。お金の問題も含めて、今後どうしていきたいのかを見定めるために、これまでどんなことをしてきて、いまどんな状態にあるのかをきちんと「見える化」しておきましょうと。なるほど。まずはここから着手しましょうか。

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https://www.irasutoya.com/2019/10/blog-post_193.html

蛇足ながらセカンドキャリア本を読んでいて感じるのは、その多くが比較的規模の大きな企業で長年にわたって働いてきた方向けのアドバイスが中心になっているということ。これは当然定年を迎える社会人のボリュームゾーンがそこにあるからでしょうから、仕方がないというか当たり前なのかもしれませんが、私のように社会人になってからこちら、何度も転職や退職をし、失業もし、仕事の業界すらあれこれ変わってきたような人間にとっては、ちょっと隔靴掻痒な感じのするアドバイスも多いです。

またセカンドキャリアで役立つ資格として「通訳案内士」が挙げられていたりして、2018年にこの資格が業務独占資格から名称独占資格になり、無資格でも有償の業務ができるようになっている今日ではちょっと首をかしげざるを得ないような記述も散見されます。さらには今回のコロナ禍で仕事の環境が大きく変わった後の世界に対応するセカンドライフ本はまだまだ少ない模様(たぶんこれから増えてくるのでしょう)。

周囲の同僚、とりわけ同世代の同僚にこんな話を向けてみると、「まだまだ、もうちょっと先」と考えている人がけっこう多い印象を持ちます。実のところ私も最近まではそう考えていました。でもその気になっていろいろと本を読んでみると、私の年齢ではむしろ遅いくらいかもしれないと思い直しました。今後もいろいろと学んでいこうと思っています。

盧生の戸惑いがいじらしい

お能の稽古はここのところずっと『邯鄲』の舞囃子を続けています。もう一年近く続けていますが、どこまで行っても次々に課題が見つかって「仕上がる」ということがありません。平行して『邯鄲』の謡も稽古していますが、昨日はシテ(主人公)の盧生(ろせい)が「邯鄲の枕」に臥した直後の部分を教わりました。

この盧生という人物は「若すぎず、年寄りすぎず、人生経験半ばくらいの人物と思われ(the能.com)」、それまでただボーッと生きてきた自分を反省して、楚の「やうひさん(羊飛山)」にいるという高僧に自分はどう生きるべきかを尋ねてみようと旅に出ます。その途中、邯鄲(現在の中国河南省邯鄲市)に投宿して、宿の主人から勧められた「来し方行く末を悟ることができる」という不思議な「邯鄲の枕」で粟のご飯が炊けるまでの間ひと眠りします。

その眠りについたとたん、それまで比較的沈鬱でゆっくりだった謡が一変します。ワキが演じる皇帝の勅使が盧生に呼びかけるのです。

ワキ(勅使):いかに盧生に申すべき事の候
シテ(盧生):そも如何なる者ぞ
ワキ:楚国の帝の御位を盧生に譲り申さんとの勅使にこれまで参りたり
シテ:思い寄らずや王位とはそも何故にそなはるべき
ワキ:是非をばいかで量るべき御身代を持ち給ふべき其の瑞相こそましますらめ時刻移りて叶まじはや御輿に召さるべし
シテ:こはそも何と夕露の光輝く玉の輿乗りも習はぬ身の行くへ
ワキ:かかるべしとは思はずして
シテ:天にも上る
シテ・ワキ:心ちして

「楚の国の帝位を譲ります。あなたはそれだけの瑞相をお持ちですから」という、そんなうまい話がどこにあるんだと盧生は疑い、戸惑いながらも、結局は慣れない輿に乗せられて「オレが皇帝? えへへ、そう?」と舞い上がってしまう。600年以上前に書かれたお話ながら、現代の私たちにもそのまま通じる教訓を含んでいますよね。

この「邯鄲の枕」はその人の「来し方行く末」についての悟りをその人に合わせて見せてくれる不思議な枕です。つまり「突然帝位を譲られる」という、いわば年末ジャンボ宝くじの一等前後賞つきにあなたが当選しました的な夢を呼び込むのは、ほかならぬ盧生自身の在り方によるわけです。

その後盧生は皇帝として50年間の栄耀栄華を極めたのち一気に夢から覚めるのですが、そのカタルシスについて能楽喜多流の謡本にある「曲趣」という解説にはこうあります。

最後に急転直下、田舎の宿に眠覚めて、貧しき我身を省みる時、茲(ここ)に人生夢の如きを歓ぜざるを得ず。極度の転落は始めて真の安心を齎(もたら)す。暗黒の心境より夢裡の逸楽に耽り、然る後真の光明に到達す。

人生に迷い、本当の自分を探して高僧に教えを請おうとした盧生は、自身の在り方が反映された夢によって自分の人生に納得することができたわけです。なんとも考えさせられる話ですし、600年以上前の人々も同じようにわが人生に迷い、自分なりの答えを見出そうと煩悶していたのだなと思うと、胸が熱くなるではありませんか。

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the能.comさんの「演目事典:邯鄲」より。

ノンアルコールビールがどんどん面白くなりそう

ノンアルコール飲料専門ECサイト「MARUKU」さんからメールが届いて、アメリカはロサンゼルスのブルワリーが作っているというノンアルコール・クラフトビール“BRAVUS”の広告が載っていました。広告にも書かれていましたけど、「2015年にノンアルコール専門のブルワリーを立ち上げたとは、なんと先見の明があるんでしょう」ね。

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▲「MARUKU」さんのメールより。

お酒を飲まなくなってからもう五ヶ月ほどになろうとしています。最近はお酒売場を通りかかってもまったく心が揺れなくなりましたから、たぶん「卒酒」はほぼ完成したんじゃないかと思っています。とはいえ「ソバーキュリアス(シラフでいることへの興味)」が基本的なスタンスですから、今後も(例えば何かの記念日とか)飲むことはあると思いますけど。

最近食事のときによく飲んでいるのは「サッポロ・プレミアム・アルコールフリー」というノンアルコールビールです。たぶんいままで試したノンアルコールビールの中でいちばんクセがなくて飲みやすく、泡立ちがよいです。ノンアルコールビールは甘味料などいろいろなものが入っているものが多いのですが、この商品は比較的シンプルな原材料(のよう)です。

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サッポロ プレミアム アルコールフリー

昨年あたりから「ノンアル」とか「微アル」といった飲料がどんどん登場しているような感じがします。「ソバーキュリアス」がより一段と浸透してきたのかもしれません。私自身は「ノンアル」だからといって何もビールやその他のお酒にテイストを寄せなくてもいいんじゃないかと思っているほうですが、それでも各メーカーが努力を重ねて品質のよい(特に味の面で)商品を次々に開発しているのは心強いですし,今後がますます楽しみです。

知性は死なない 平成の鬱をこえて

那覇潤氏の『知性は死なない』を読みました。2018年に単行本として出版された同書にいくつかの論考を加えた「増補版」です。

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知性は死なない 平成の鬱をこえて 増補版 (文春文庫)

その単行本をすでに読んでいた記憶があったので、増補分を中心にもう一度と思って読み始めたのですが、不思議なことに最初から最後まで初めて読む本のように感じていました。同じ本を再読することは時々あるのですが、こんな感じを抱いたのは初めてのことです。

なにか勘違いしていたかなと思ってAmazonの注文履歴を確かめてみたら、確かに単行本が出てすぐに買っていました。しかもこのブログに何やら小難しくてまとまらない感想さえ書いていたのです。

qianchong.hatenablog.com

今回私はこの「増補版」を読んでとても心動かされる箇所が多く、そのために文庫本が付箋でいっぱいになってしまいました。にもかかわらず、たった数年前に読んでいた元の本の内容をまったく覚えていなかったというのは、いったいどういうことでしょう? あまりにも本をあれこれと読み散らかしていて、ごくごく表面的な読み方しかできていなかったということでしょうか。

もちろんその可能性はあります。だいたいこのブログにしたって、ネットで検索しているときに偶然ずいぶん前に書いた自分のエントリが引っかかることがあって読み返すのですが、かすかに記憶はあるものの「こんなこと書いたかしら」と思うことも多いんです。ここでもまた自分が考えたつもりになっていたことが、実はごくごく浅薄な思考でしかなかったという可能性が考えられます。

ですが、多少自分にやさしく考えるなら、たぶんその間にものごとに対する自分の考え方なり受け止め方なりが変わったからなのかもしれません。確かにこの十年あまり、なかでもここ数年ほどの最近は、加齢にともなう心身の様々な変化がそれ以前とは比べ物にならないほどはっきりと、しかも急速に自分にやってきました。いま勤めている職場の定年も間近に迫ってきて、自分と周囲の社会との関係も大きく変わろうとしているところです。

そうやって、それまではあまりあとさき考えずに若い頃からの延長で巡航速度で飛行していたところ、気がついたら燃料がやや心もとなくなっていて、前方にはなんだか高い山脈が迫ってきている、そんな状態になっていたのです。そんな状態でこの本を読んだら、以前とはまったく違う読書感を抱くことになったということなのではないかと。

たぶんこれからも、本を再読してこういう感覚をあじわうことが増えていくのではないかと予感しています。そう考えると、なんだか楽しみでもあります。

視力がいいのに老眼なのはなぜ?

朝起きて新聞を読もうと思ったら、文字が少しぼやけて見えました。老眼鏡はかけているのに、です。これはまた一段と老眼が進んだかしら、それにしては急すぎるな……としばらく不安な気持ちで読んでいました。落ち着いて確かめてみると、左目だけが焦点が合っていません。左と右で見え方が違うので、全体として文字がぼやけているようなのです。

新聞を読み終えて、老眼鏡を外したところで気づきました。左のレンズがなくなっていて、フレームだけになっていたのでした。私の老眼鏡は安いプラスチックの「できあい」のやつなので、いつも鞄のポケットに放りこんでいます。移動中に、何らかのはずみでレンズが外れてしまっていたんですね。

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私は十年前くらいから老眼が始まりましたが、いまでも視力は若い頃と変わらず、両眼とも1.5です。つまり遠くのものはいまでも裸眼でよく見えるのに、近くの文字はぼやけて見えません。視力はいいのに老眼になる・遠くはよく見えるのに近くはよく見えない……という状態がなぜなのかよくわからなくて、ネットでいろいろな説明を読みましたが、いまひとつ腑に落ちません。

老眼と似た症状で「遠視」というものがありますが、私は老眼になる前は遠視でもなく、遠くも近くもよく見えていました(正視というそうです)。また老眼は水晶体の調節機能が衰える(ピント機能が衰える)ために起こり、近くも遠くも焦点をあわせるのに時間がかかるそうですが、私の場合、遠くはいままで通りすぐに焦点が合います。だからかなり遠くから人を発見して驚かれることがあります。

「視力はいいのに老眼」の理由について、腑に落ちる説明を見つけたらまたブログに書こうと思います。

フィンランド語 148 …日文芬訳の練習・その62

元日は「初詣」に行きました。これは年の初めにお寺や神社に行くことです。私はいつも自宅から一番近いお寺に行っています。ここは招き猫の伝説で有名です。昔々、ある殿様がお寺の門前を通りかかると猫が中に入るよう手招きしました。すると突然雷雨になりました。殿様は猫に感謝して、古いお寺の再建を支援したそうです。初詣の後は、福を招いてくれるという招き猫の置物を買って帰ります。新しい招き猫を買ったら、古い招き猫を奉納します。より良い一年であることを願っています。


Uudenvuodenpäivänä minä kävin “Hatsumodessa”, joka tarkoittaa vuoden ensimmäistä käymistä temppelissä tai pyhäkössä. Joka vuosi käyn aina kotini lähimpänä olevassa temppelissä. Tämä temppeli on hyvin kuuluisa onnenkissan myytistä. Olipa kerran, erään hallitsijan kulkiessa vanhan temppelin portin edessä, kissa kutsui hänet sisään. Sitten yhtäkkiä tuli ukkosmyrsky. Hallitsija kiitti kissaa ja auttoi korjaamaan temppelin vanhoja rakennuksia. Temppelissä käynnin jälkeen minä ostan aina onnenkissan koristeen itselleni. Sen sanotaan tuovan onnea. Ostaessani uuden onnenkissan palautan vanhan temppeliin. Toivottavasti tästä vuodesta tulee parempi kuin viime vuonna.


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映画を早送りで見る

気がついたら,ここ数年映画をあまり見ていませんでした。以前は少なくとも週に一本は見るほど大好きだったのに、いまでは一年のうちでも数えるほど。しかも気になった過去の作品を動画配信サイトで購入して見ることは何度かあっても,映画館まで足を運んで見ることはほぼなくなっていました。

仕事が忙しすぎるからという理由はあります。加えて早朝にいろいろな活動を組み入れたので就寝する時間が早くなり、ナイトライフを楽しむことがほとんどなくなったという点もあります。さらには年を取って精力的にあちこち出かけるのが億劫になっているということもあるんでしょう。何だかよろしくない傾向です。

昨日同僚がお昼休みに雑談しているのを何気なく聞いていたら、みなさんいまNetflixに傾倒しているそうです。私はそうしたサブスク全体から全面撤退してしまったので見たことはないのですが、それより驚いたのはNetflixのドラマを「早送りして見る」ということでした。

いや、私もYouTube動画など早送りして見ることが多いので何をいまさらなのですが、情報を仕入れる系統の動画ならともかく、映画やドラマというエンタメ作品を早送りするというのがすごいなと。もはや従来の映画やドラマの鑑賞とは違う行為が立ち現れているわけです。

これも私たちの日々の忙しさの反映なのでしょうか。そういえば私、以前お能の謡(うたい)を倍速で聞いて覚えようとしたことがありました(お師匠、大変申し訳ありません)。発表会で地謡に入る曲が多くて覚えきれないので、時間を節約しつつ覚えようとしたわけです。でも結果は、なぜか記憶がまったく定着しませんでした。

謡が本来持っている速度とかリズムとか間のようなものが、本来の身体感覚と合っていなかったのかもしれません。いや、あるいはアレをもう少し続けていたら、そのうち身体感覚が追いついてきた可能性はありますが。まあそれ以前に、謡を早送りで聞くということそのものが伝統芸能の冒涜のようで、それで心と身体が受けつけなかったのかもしれません。

閑話休題

映画に関しては、字幕が追い切れないから吹き替えに人気があるという話はかなり前から聞いていて、鑑賞のしかたの変化を感じたものでしたが、もはや問題はそんなところにとどまっていません。そのうち映画の冗長さが耐えられないという観客層が増えるのかもしれません。いやすでに増えているからこそのネット配信動画の隆盛なのかもしれません。

ネットで検索してみたら、すでにそういう議論が行われているのでした。例えばこちらの記事。

gendai.ismedia.jp

こちらの記事で、なぜ「ドラマや映画を早送り」という行為が生まれるのか,その背景として映像作品が「供給過多だから」という理由が示されていました。なるほど。供給過多で、あれもこれもの選択肢が多ければ多いほど、人はその受容においてどんどん「ぞんざい」になっていくのでしょうか。

実は私、以前利用していた音楽配信サービスのSpotifyをある時点でやめてしまったのですが、そのときにも同じことを感じていました。自分の前に無尽蔵のコンテンツがあるという設定そのものが、コンテンツに対してとても粗雑な態度を許してしまうような気がしたのでした。

qianchong.hatenablog.com

こう考えてくると、一時停止も早送りもできない映画館での映画鑑賞は、いまやかなり特殊な鑑賞方法ということになります。そのうち演劇でさえ冗長だと思う層が登場してくるのかしら。従来の映画や演劇が廃れていくのか、大切なものとして残されていくのか、それはわかりませんが、私としてはとりあえず今年は映画館で映画をたくさん見たいと思っています。

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https://www.irasutoya.com/2017/06/blog-post_359.html