インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

ハンディファンが一挙に普及した

東京は連日ものすごい暑さになっています。この猛暑に耐えかねてか、往来はもちろん電車の中などでも多くの方が「ぶーん」とやっています。いわゆるハンディファンというやつですか。片手に持つタイプやU字型の首かけタイプ、日傘の柄にクリップで固定するタイプもあれば、一度など「それはもうほぼサーキュレーターじゃない?」というくらい巨大なものを持ち歩いている方もお見かけしました。


https://www.irasutoya.com/2019/07/blog-post_8.html

私はここ数年、猛暑に対抗して日傘を使っています。もう何年も前から「日傘男子」などと称して男性も日傘を使いましょう的なキャンペーンが展開されていますが、私が見渡した範囲では、男性で日傘を差されている方はまだまだ少ないみたい。そのいっぽうでハンディファンは、老若男女を問わず一挙に普及した感があります。日傘には抵抗のある男性も、ハンディファンについてはまったく大丈夫なんですね。

私はといえば、逆に日傘は抵抗がないけれどもハンディファンを持つのはちょっと……という感覚です。これ以上家電を増やして、充電などに手間を取られるのが面倒だ、というのは建て前で、本音のところはなんとなくあの「ぶーん」を持つのが恥ずかしいから。なんのことはない、私は私で凝り固まったジェンダー感に支配されているのかもしれません。

こういう古い観念は日本人だけなのかしら、リアリストたるチャイニーズのみなさんは日傘でもハンディファンでも「暑けりゃ使う!それだけ!」ときっぱり言い切るかしら……と思って、試しに台湾のニュースサイトなどを検索してみたら、日本の日傘男子を紹介するこんな記事がありました。

www.cw.com.tw

記事の本文からは台湾人、特に男性諸氏がどう思ってらっしゃるかはわからないのですが、記事のタイトルが『台灣男人你敢嗎?(台湾の男性よ、日傘を差す勇気はあるか?)』であるところを見ると、やっぱり抵抗があるんでしょうかね。もうひとつ、こちらの掲示板にはこんな意見がありました。“男人可以戴帽子啊,為何要撐傘? 而且男人皮膚曬黑一點顯得更健康陽光(男は帽子をかぶればいいじゃないか、なんで傘を差さなきゃならない? 男は少し日焼けしているくらいが健康的に見えるんだ)”。

www.mobile01.com

これが世論の大勢かどうかは分かりませんが、けっこう保守的な方はあちらにもいるんですね。むかし中国に住んでいたころ、暑い季節にはシャツをたくし上げて歩いている、いわゆる“膀爺(俗にいう「北京ビキニ」)”というオジサマ方に遭遇したものですが、最近はどうなのかしら。

と思ったら、きのう、新宿の地下街で、いかにも今ふうの若い男性がいきなりTシャツを胸あたりまでたくし上げてバサバサやっていたのでびっくりしました。猛暑もここまでになると、もはや体裁など気にしてられっかという感じになるのかもしれません。

カズオ・イシグロを知らないって

オンライン英会話で、英国人のチューターさんにレッスンを受けるとき、英国のトピックを話すことがあります。まだ英国には行ったことがありません、いちど行ってみたいです、都会は苦手なので車を借りて田舎をめぐりたいです、スコットランド湖水地方なんかいいですね……みたいな。

そんなとき私はかならず、カズオ・イシグロの小説が好きで、なかでもいちばんの愛読書は“Remains of the day(日の名残り)”で、いつか主人公スティーブンスが車でたどった道のりを聖地巡礼よろしく訪ねてみたい……てなことを話すのですが、おもしろいのは英国人のチューターさんのほとんどがカズオ・イシグロとその作品を知らないということです。

カズオ・イシグロという名前の発音が聞き慣れないということもあるんでしょうし、そもそも私の発音が悪すぎて聞き取ってもらえてないという可能性もじゅうぶんにあります。とはいっても、かりにも英国人で、ブッカー賞に加えてノーベル文学賞まで贈られている作家なのに、当の英国人にはほとんど知られていないのかなと。

これまで少なくとも十数人ほどの英国人チューターさんにこの話をしましたけど、知っていた方はおひとりだけでした。それもアンソニー・ホプキンス主演の映画をご存知だっただけで、原作は知らなかったって。なかにはその場でネットを検索して「へえ、ノーベル文学賞? すごそうな作家だね!」とおどろく方も。


Kazuo Ishiguro (Writers and Their Work)

でもこれ、そんなに不思議な話でもないのかなと思い直しました。まず、みんながみんな文学に興味があるわけじゃありません。それにノーベル文学賞といったって、じゃあ日本人がみんな川端康成大江健三郎の名前や作品をよく知っているかといえば、ちょっと微妙なところじゃないでしょうか。そもそもノーベル賞自体にこれだけ毎年さわぐ、それも自国の受賞者の有無にばかりフォーカスするというのも日本ならではなのかもしれません。

あと、カズオ・イシグロ氏が日本にルーツをお持ちだということで、日本ではことさら大きくとりあげるというか、ありがたがる(?)傾向があることも否めないような気がします。れっきとした英国人であるにも関わらず、まるで日本人が受賞したかのような語り口も、氏の受賞当時にはマスコミで散見されました。総じてなにかこう、ナショナリズムに酔っている雰囲気を感じます。

蛇足ながら、ここのところ連日マスコミをにぎわせているパリ五輪にも同じような傾向を感じます。先般の東京五輪で、経費の膨張やコロナ禍下での開催、贈収賄に競技施設の赤字収支など、これだけすったもんだし続けてきた挙げ句の「負のレガシー」満載だというのに、なんでまだこんなにもオリパラに夢中で、無邪気に「日本の獲得メダル数は……」などと騒げるのかなあ。

しかもこれまた興味深いことにこの五輪、つまりオリンピックやパラリンピックも、欧米のチューターさんには「あんまり興味ない」という方がけっこう多いんですよね。

紙幣を折る

先日、たくさん溜まっていた外国のお金を寄付してスッキリしたところですが、中国の人民元を整理しているときにこんな懐かしいものが混ざっていました。いちばん左は2角紙幣と1角(1角は1人民元の10分の1)紙幣を重ねて三角形に折ったもの、真ん中は2角紙幣を2枚重ねて折ったもの、右は1分(1人民元の100分の1)コイン9枚を1分紙幣1枚でくるんだものです。つまりそれぞれ、3角、4角、1角ぶんに相当するわけです。

qianchong.hatenablog.com

これらのお金は、中国に住んでいたとき、バスの車内で運賃を払ったときや、屋台で食べ物を買ったときなどにお釣りとしてもらったものです。電子決済が急速に進んでいる現代の中国では想像もできないかもしれませんが、私が最初に中国へ行ったころはまだバスに車掌さんが乗っていて、運賃は現金を手渡しで払っていました。

バスにしろ屋台にしろ、とにかくたくさんのお客さんの支払いに対応しなければなりませんから、少しでもお釣りを渡す時間を節約するために、こうやってまとまった単位をあらかじめ準備しておいたわけですね(たぶん)。1分のアルミ貨など、当時でももはや「分」単位で買い物をすることはほとんどありませんでしたから、10分、つまり1角にまとめておいたほうが使い勝手がよかったのでしょう。

これも今となっては、当の中国人留学生も信じてくれないかもしれませんけど、満員でぎゅうぎゅう詰めのバスに乗っているときにも、プロの車掌さんはまだ運賃を支払っていない乗客を目ざとく見つけては「そこの人、払って!」と声をかけたものです。とはいえ、バスの降車口に陣取っている車掌さんまでは手が届かない……けれども心配はいらず、乗客がお金をリレー形式で車掌さんまで送ってくれて、お釣りがまたリレー形式で戻ってきたのです。

こうした折ったり包んだりしてあるお釣りは、疑い出せば「ほんとうに2角紙幣が2枚なのかしら」とか「ほんとうに中に1分硬貨が9枚入っているのかしら、8枚でもわからないじゃない?」などとなりそうですが、まあ1角や、まして1分単位でごまかされても、その貨幣価値からすればたかが知れています。だからこうやって立派に「流通」していたんですね。バス内でのお釣りリレーもそうですけど、何だかとても牧歌的で、隔世の感があります。

さて、そうやって暮らしの中で私の手元にやってきたお釣りのうちのいくつかがこの写真のお金なのですが、当時の私はお金(紙幣やコイン)に対する中国人の考え方にいたく興味を覚えて、それでいままで保存していました。つまり何というか、モノとしての紙幣やコインに対して私たち日本人ほど思い入れがないというか、紙幣やコインは価値を代替しているだけであって、単なるツールだよねという感覚。だからこうやって使いやすく加工するのもアリでしょと。透徹したリアリストたる中国人の面目躍如だなと私などは思うのです。

キャッシュレス社会ではこれもすでに昔語りになりますが、以前は中国を旅行して「お釣りを投げて寄こされた」ことにカルチャーショックを受ける日本人がいたものです。私はこれも、お金は単なる価値の代替物でしかないから、単なるツールだからという中国人の貨幣観(?)の反映じゃないかなと思っていました。

そこへいくと日本人は紙幣やコインそのものを敬うというか、大切に扱うような文化ですよね。ピン札にこだわるとかもそうですし、ましてや上掲の写真のように折ったり包んだりする使い方はまずしないでしょう。まあ、紙幣の肖像のところを縦にジグザグに折って、肖像画が笑ったり泣いたりするのを面白がる、みたいなのはありますけど。

中国にはほかにも、紙幣をいろいろな形に折る文化(?)があります。試みに“纸币折纸(紙幣の折り紙)”で画像検索しただけでも、こんなにあります。

www.google.com

これは私の同僚の中国人がお財布に入れている、ハートの形に折った1元札です。これは財や福を招くみたいなお守り的意味あいがあるのかなと思ったのですが、ご本人によれば特にそういう意図ではなく、なんとなく長年こうしてお財布にいれてあるだけ、なんだそうです。

外国のお金を寄付する

旅行や仕事で海外へ行った際、現地の通貨を使いきれなくてそのまま持ち帰ってきたものがけっこうな量になっていました。いちばん多いのは中華人民共和国人民元で、毛沢東の肖像で統一される前の懐かしいお札に加えて、いまではほとんど使いみちがないであろう「分」のお札やアルミ貨なんかもどっさりあります。

ほかにも香港ドルとかシンガポールドルマカオのパタカやデンマークのクローネやパキスタンのルピー、さらに若干のユーロや米ドルまで、いろいろ。いつかまた使うこともあるかしらと保存してきたのですが、いつのまにか時代はキャッシュレスに。とくに人民元はけっこうな額があるものの、現金のまま持っていてもしかたがないし、どうしようかなとずっと気になっていました。

中国の留学生に聞いたら「中国に銀行口座があれば、銀行の窓口に持って行って預金に加えてもらえるんじゃないですか」とのことでしたが、私はかの地に口座を持っていませんし、それよりどこかに寄付でもできればいいなと思いました。それで思い出したのですが、確か空港の到着ロビーなんかに、こういった外国のお金を寄付できる募金箱みたいなのがありましたよね。

「空港 外貨 募金」で検索してみたら、ありました。ユニセフがこうした募金の受けつけをされているのです。すばらしいです。

www.unicef.or.jp

空港や一部の銀行などにこうした募金箱が設置されているそうですが、ほかにも宅配便や書留郵便などで直接送ってもよいとのこと。それでさっそく箱詰めして送りました。

またいつかこうした通貨の国々に行くかもしれないけれど、その時はその時でまた両替したりキャッシュレスで対応したりすればいいですし、こうやって何年、何十年もタンスにしまっておく必要はないのです。それより世の中に還流させて、誰かの役に立ってもらった方がずっといい。そうやって還流させることでお金は生きるし、まわりまわって自分のところにも何らかの形でめぐってくるでしょう。

こうやってすべてのお金を寄付しましたが、私が中国に留学していた時にはまだ使われていた懐かしい「外貨兌換券」や、こども銀行券みたいにかわいいデザインの「分」のお札は少しだけ手元に残しておきました。これは現代の中国人留学生と話すときに格好の話題のタネになるので。

メタクソ化

「メタクソ化(enshittification)」という言葉を知りました。AmazonFacebookTikTokなど、ネットで隆興したプラットフォームが巨大化するにつれて、どんどんその仕組みが改悪されることでユーザーにとっての品質が下がっていくという、不可避とも言えるような傾向のことだそうです。ちょっとお下品な表現ではありますが、うまい日本語訳だと思います。にしてもブルシット・ジョブにせよメタクソ化にせよ、あちらの方々はshitがお好きですね。

p2ptk.org

この文章は主にTikTokの「メタクソ化」について語っているのですが、メタクソ化という言葉が内包している概念全体についても、とても分かりやすく書かれています。私はもう降りてしまいましたが、FacebookとかTwitter(X)など、この十年あまりで本当にメタクソ化が亢進したように思います。この記事ではAmazonで売られている電子書籍やオーディオブックについてもこう語られています。

それを購入するということは、DRMによってAmazonのプラットフォームに永久にロックインされることを意味した。つまり、Amazonで1ドルのメディアを購入すれば、Amazonとそのアプリから離脱する際にその1ドルを失うことになるのだ。

そうなんですよね。私は電子書籍がとても苦手で、それは本の厚みや手触りなどがないために読書体験がどうしても記憶に残らないからなのですが、こうやってAmazonに囲い込まれてしまうことにもどこか抵抗感があるからなんだろうなと改めて思いました。友人や家族とも共有しにくいし、古本屋さんに売って世の中にふたたび還流させることもできませんし。


https://www.irasutoya.com/2018/09/blog-post_11.html

仕事がらこういう新しい言葉に出会うたび、これは中国語では何というのかしらとネットを検索する習いになっています。定着した言葉ではないようですが、中国語では少し上品に“垃圾化(ゴミ化)”となっていました。FT中文网の訳注が興味深かったです。より正確には「大便化」とでも訳すべきだけれども、ほんの少し上品に「ゴミ化」と訳すことにしたと。

Last year, I coined the term “enshittification” to describe the way that platforms decay. That obscene little word did big numbers; it really hit the zeitgeist.
去年,我创造了“垃圾化”(enshittification)一词来描述平台衰落的方式。这个粗俗的小词引起了很大的反响,成为了时代的潮流。(enshittification更贴切的翻译应该是大便化,不过为了和此前的惯例保持一致,我们还是翻译为略微文雅的“垃圾化”吧。)
‘Enshittification’ is coming for absolutely everything | 一切都将“垃圾化”?我们如何阻止它? - FT中文网

ネットを検索していたら、メタクソの「メタ」は「メタバース」とか「メタ言語」などの「メタ」と勘違いされるからあまり適切ではないのではないかという意見もありました。なるほど、現代ではそう捉える向きのほうが一般的かもしれません。「メタ・クソ化」つまり「超クソ化」となって、単に「クソ化」を拡大させただけみたいに聞こえちゃうじゃないかと(重ね重ね尾籠な表現ですみません)。

でも、かつて大阪で少年時代を過ごした私にはピッタリの訳語だと思えました。メタクソは要するに「メチャクチャ」をもう少し下品にした、関西ではかなり昔からある表現(もちろん「メタ」が人口に膾炙するはるか以前から)なんですもん。あと、私たちぐらいの年代だと、かつて『少年ジャンプ』で連載されていた、とりいかずよし氏の『トイレット博士』の「メタクソ団」が懐かしいかもしれません。小学生の頃の私は「メタクソバッヂ」を自作するくらいハマっていたんですよね。

そういう背景もあって私は「メタクソ化」がうまい訳だなと思ったわけです。ある新語の翻訳が適切かどうかの判断は受け手の年代などによっても左右されるということですね。「メタクソ化」と訳された方は、私と同じくらいの年代の方で、いっぽう「メタ」に引っかかった方は比較的お若いのかもしれません。こうなると、中国語で「ゴミ化」とやや上品に訳された方にはどういう背景があったのかなと(訳注では「以前からの慣例と一致させるために」と理由が書かれていますが)興味がわきます。

『MOCT』と『もうひとつの昭和』

中学生のころ、無線に興味を持ってアマチュア無線技士の資格を取りました。電話級といういちばん易しい資格でしたが、無線機を買うお金もなかったので無線局を開局することはあきらめました。その後高校でアマチュア無線部に出入りするようになって、そのクラブ局で初めて無線通信を体験しました。一定時間でできるだけ多くの無線局と通信することを競う「アワード」に徹夜で参加したこともうっすらと覚えています。

そのころ、もうひとつ夢中になっていたのがラジオで気象情報を聞いて天気図を作ることと、海外のラジオ局、とくに北京放送やモスクワ放送などの日本語放送を聴くことでした。たしか短波ラジオでなくても中波で聞けたはず。モスクワ放送のオープニングでかかるどこか寂しげな音楽がかすかに記憶に残っています。『モスクワ郊外の夕べ』だったような気もしますが、後年の記憶とごっちゃになっているかもしれません。

でも何事も飽きやすい性格なので、アマチュア無線も天気図作りも日本語放送の聴取もほどなくやめてしまいました。周囲の友人はモスクワ放送などに受信レポートを送ってベリカードを集めたりしていましたが、私はそこまでハマることはありませんでした。

そのモスクワ放送で日本語番組を担当していた日本人や、そこに連なる人々に取材した青島顕氏の『MOCT「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人』を読みました。第二次世界大戦から戦後の冷戦、さらにはソ連崩壊から今日のロシアによるウクライナ戦争にいたるまで、こうした歴史のなかでモスクワ放送に関わることになった人々の人生を丹念に追った一冊です。


MOCT 「ソ連」を伝えたモスクワ放送の日本人

そうした人々の物語もさることながら、私はこの本を読みながらずっと、言語を学ぶこと、つまり語学とはなんと奥の深いものであることかという思いが頭を離れませんでした。この本に登場する人々はそれぞれにロシア語という言語との関わりがあり、その言語を学んで使うことができたがゆえに、激動の歴史と政治の波の中でときに人生の喜びを見出したこともあれば、ときに翻弄されることにもなった人生であったわけです。

以前、黒田龍之介氏の『ロシア語だけの青春』で知った「ミール・ロシア語研究所」の授業風景や関係者のお話も出てきます。黒田氏のご本を読んだときにも思ったことですが、語学はここまでしなければ身につかない、ここまでする気がなければ語学はあきらめるべき、端的に申し上げて「語学を舐めるな」と言われているみたいでした。AIによる機械翻訳や機械通訳さえ実現しつつあるこんにち、おそらく学生さんたちからは「いったい何を言っているのか」とおよそ理解してはもらえないでしょうけど。

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もう一冊、知人のロシア語と英語の通訳者さんに紹介された、香取俊介氏の『もうひとつの昭和 NHK海外放送受信部の人びと』という本も古本屋さんで見つけて読みました。『MOCT』が発信する側に関わった人々の人生を追ったものであるのに対して、こちらはそれを受信する側の人々の人生を追ったものです。


もうひとつの昭和 NHK外国放送受信部の人びと

この本は、NHKの海外放送受信部(現在はすでに廃止されているそうです)に関わっていた人々の、その前史となる人生を掘り起こしたものです。つまりそうした人生の前提があって後年NHKの海外放送受信部に関わることになったという人々の群像を描いているわけですが、ここにも当然のことながら、言語・語学の存在が大きく関わってきます。それも戦争の時代が大きくからんでいるとなれば、諜報、防諜、情報収集、プロパガンダに語学が動員され、それを通して関わる人々の人生を想像もしなかった方向に連れて行くのです。

この本に登場するいずれの人生も、その数奇さにただただ圧倒されるばかりでしたが、なかでもルーマニアベッサラビアとロシア、そして日本という三つの国の歴史に関わりながら生きた、野村タチヤーナ氏のお話には深く考えさせられるものがありました。

特に、第二次世界大戦時にリトアニア領事として多くのユダヤ人にビザを発給したことで知られる杉原千畝に対する評価が、これまで喧伝されてきたものとは大きく異なる点に驚きました。そしてその理由がまた……私のようなものの憶測を差し挟むのは慎むべきですが、少なくとも私は「さもありなん」という心証を抱きました。この本はまだネットの古本屋さんでも手に入れることができるようですから、興味のある方はぜひご一読を。

この『もうひとつの昭和』は、最終章だけ少し雰囲気が変わっています。現在の(本書刊行時点での)NHKに対する批判、とくに公共放送としてのスタンスや真っ当なジャーナリズムのありよう、さらには日本の企業文化・企業風土におけるいわゆる「語学屋さん」に対しての冷遇ぶりなどを、かなり顔を紅潮させたかのような筆致で論じています。

その言語を使うことができたがゆえに、歴史に翻弄された人々。そうした人々の想いや無念までをも引き取ったうえでNHKや日本社会に対してなされている批判に、私はひそかに同意するものです。

わたしに話さないで

カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』じゃないんです。「わたしに話さないで」。より正確に言えば「わたしに話しかけないでください」でしょうか。ヘアサロンで、スタイリストさんとの話が苦手な私は、いつもそう思っています。

先日も髪を切りに行ったのですが、スタイリストさんが天気や天候の話に始まって、仕事や趣味の話、夏休みの有無や過ごし方、さらにはパリ五輪の話題などを振ってこられるので、正直に申し上げてとても疲れてしまいました。なにせ私は五輪に対してまったく興味がなく、あまつさえ近代五輪はすでにその役割を終えており、かつ利権にまみれてしまっているので早くやめるべきとまで思っている人間なんですから。

もちろんスタイリストさんだって、こちらの人となりを会話によって把握してよりよいサービスにつなげようと思ってらっしゃる、あるいはそこまで行かなくてもリラックスした雰囲気を作ろうと努力されている……のだとは思います。だから私もそこはそれ、上述のようなエキセントリックな主張はもちろんいたしません。適当に話を合わせておけばいいのだろうとは思っていますし、じっさいいつも無難なところで適当かつ曖昧な返しをしています。

でもね、もう疲れちゃったの! 歳も取ったし、いつまでもがまんして自分を偽るのはやめにしたいの! スタイリストさんに悪気がないことは重々承知していますが、こんどこそ「ごめんなさい、会話が好きじゃないので、私に話しかけないでくれますか?」と言おう。毎回そう思っているのですが、けっきょく上述のような体たらく。いい歳して「コミュ障」かよと思われるかもしれませんが、じっさいのところまさに「コミュ障」だと思います、私。教師や通訳者なんて仕事をしている人間が言うのもどうかと思いますが。

それで、話しかけないことをサービスのひとつとして掲げているヘアサロンはないのかしらと思ってネットを検索してみて、びっくりしました。ないどころか、ある、ものすごくたくさんあるんです。自分がいつも利用している HOT PEPPER Beauty にも「接客へのご要望」で「なるべく静かに過ごしたい」をチェックして検索ができる機能がありました。知らなかった〜!

ほかにもこちらの、「会話が苦手な人なら思わずうなずく、美容院での“本音”を描いた漫画に共感」という記事に私も共感しました。「追加料金払うので話しかけないで」……まんま私の本音ですよ、これ。

www.walkerplus.com

同じように思っている方はたくさんいるんだな、と心強く感じました。次からは「自分を偽るのはやめたい!」などと年甲斐もなくキレるのではなく、粛々とこういったお店を選びたいと思います。ああ、なんだかホッとしました。

でも、こんな話題でネットが盛り上がるのって、内気でシャイで人見知りであることにかけては世界でも定評のある日本人ならではなのかなと思って、試みに中国語でいろいろ検索してみたら、こんな記事が見つかりました。

news.gamme.com.tw
www.japaholic.com
www.hk01.com

でもこれらはいずれも、日本において「話しかけられないヘアサロン」が人気だということをなかば興味深そうに紹介する記事です。へええ、日本人にはそんなサービスが受けるんだ、みたいな。となるとやっぱりこれは、日本人ならではの現象なのでしょうか。他の国や言語圏でも、同じように感じている方々はいるのでしょうか。

通り魔のようなコメント

経済学者の成田悠輔氏が「聞かれてもない話を延々とする人は通り魔」とおっしゃっていた、とネットニュースで読みました。確かにそんな感じかもと思うと同時に、この「通り魔」的な感じは以前どこかで感じていたことがあるなあ……と考えることしばし、そうだ、SNSを使っていた頃だと思い出しました。

qianchong.hatenablog.com

いまではもうSNSに類するものをほぼすべてやめてしまいましたが、一時期はTwitter(X)を中心に依存症とでも呼べるほどのレベルで浸っていました。その頃にいちばん不快に感じていたのは、ときおり自分の「つぶやき」が予想もしなかったほどの勢いで拡散されたのち、不特定多数の人々から投げつけられる心ない、あるいは悪意のあるコメントでした。

ご本人はおそらくそれほど考えてもおらず、脊髄反射的にコメントやリプライをされているのでしょう。なかには「オレはガツンと言ってやったぜ」的な快感で溜飲を下げている方もいるかと思います。いずれにしても、フォロワー数が増えるにつれてそういう人に遭遇する頻度も上がっていったというのが、SNSから降りた理由のひとつでした。

ひょっとしたら、同じように感じている方もいるかも知れないと思って「SNS コメント 通り魔」で検索してみたら、なんとこちらの「note」にズバリ「コメント通り魔。」という文章を書かれている方がいました。

note.com

心から同感です。悪口と批判は異なります。きちんとこちらの意図を把握してくださったうえでの誤解や思い込みなどへの指摘など、善意の批判であればもちろんとてもありがたい。でも、なかにはツイートの内容やそれまでの脈絡とはまったく違う方向から、罵声や悪口雑言を投げつけてくる人がけっこういました。それもほとんどが匿名で。

まるで暗闇から不意に出現して言葉を投げつけたのち、すぐに暗闇に消えていくような……まさに「通り魔」としか言いようがありません。SNSのみならず、ネットニュースでもECサイトでもこうした通り魔的コメントは散見されます。不特定多数の人々が書き込めるコメント欄やレビュー欄はできるだけ読まない、近づかないのが吉と心得ておきます。

チケットバイ

ふだん通勤には京王線新宿駅を利用しています。主にデパ地下直結のルミネ口か、京王新線都営地下鉄との共同改札、もしくは京王新線東京都庁寄り改札(新都心口)を使っているのですが、この新都心口でよく外国人観光客とおぼしき方々が困った表情で券売機のタッチパネルと格闘している光景が見られます。たぶん新都心口を出た先の、文化学園のお向かい辺りにホテルがいくつかあるので、そこに泊まっておられる方々が多く利用されるからではないかと思います。


https://www.irasutoya.com/2014/06/blog-post_6155.html

しかもこの新都心口は無人改札です。それでみなさんタッチパネルと格闘されているわけ。以前は駅員さんがいましたが、改修が行われて改札機と券売機だけになり、駅員さんとのやり取りができるようにインターホンが設置されています。昨日の退勤時、ここでスマートフォンの音声通訳機能を使いながら、英語でインターホンに訴えている親子連れがいました。スマホで中国語から英語に訳していたので*1、つい聞いてしまったのですが「Suicaを買いたい」とのことでした。

ところがインターホンで応じた駅員さんが「ノースイカ、チケットバイ」と答えたので「???」となって混乱してしまいました。それで見かねて私が「お手伝いしましょうか?」とその親子連れに声をかけました。確かSuicaPASMOなどのICカード、それも旅行者が一時的に利用するような無記名のそれは半導体不足の影響で販売停止になっていたはず。それでその旨も説明したら「そうですか、ありがとう」となって分かれました。

親子連れと分かれたあと電車で帰宅しながら、いろいろと考えてしまいました。半導体不足の影響でICカードが販売停止になるのは仕方がないけど、台湾の「悠遊卡」や「一卡通」なんかは全然影響がないんだよな、さすがTSMCを擁する台湾、とか、新宿駅の南口と西口はいま大規模な再開発で地下通路がものすごく複雑なダンジョンになっているから、外国人観光客にとっては訳が分からないだろうな、とか。

でもいちばん不甲斐ないと思ったのは、申し訳ないけどあの京王新線の駅員さんです。無記名ICカードの販売停止を背景に、おそらく外国人観光客からの問い合わせは急増しているでしょうから、せめて簡単な英語で説明できるように定型文でも用意しておけばいいのではないかと思うのです。日本に来たんだから日本語を使えという主張も私はそれなりに同意ですけど、公共交通機関はもうちょっとだけ外国人観光客に歩み寄ってもいいのではないかと。

特に「チケットバイ」という日本語の語順そのままの英語(?)は、いくらなんでも志が低すぎるというか、外語に対する想像力がなさすぎるんじゃないかなあ。せめて「バイチケット」、あるいは “Please buy a ticket.” くらいは練習してもいいと思うんです。

いつも思うことですけど、そも外語とは、そして母語とは何か、言語や文化の異なる人々と接するとはどういうことかなどなどを(広く浅くでもいいから)涵養する「言語リテラシー」「異文化リテラシー」みたいな教育が求められると思います。早期英語教育にいそしもうとする、その前に。

qianchong.hatenablog.com

*1:なぜ中国語から日本語に訳されなかったのかは分かりませんが、変換の確かさなどで不安があったのかもしれませんね。

SF小説をどうしても読み通せない

SF映画は大好きなのですが、小説となるとどうしても最後まで読み通すことができません。とはいえ中高生の頃は『宇宙英雄ペリー・ローダン』シリーズみたいな、いわゆるスペースオペラ的作品をたくさん読んだような記憶があります。でもよくよく思い返してみるに、SF好きの友人のおすすめ本をいくつかかじって何となく読んだような記憶がでっち上げられていただけで、実際にはほとんど読めていなかったのかもしれません。

SFといえば、ずいぶん前に「日本SF大会」というイベントで通訳業務を仰せつかったことがあって、その時にSFファンのみなさんの盛り上がりぶりに接して、憧れのような気持ちを抱きました。ああ、この輪の中に入ることができたら楽しいだろうなと。それ以来、何度も間欠泉的に挑戦してきたのです。


https://www.irasutoya.com/2018/06/blog-post_264.html

最初はまず古典からということで、レイ・ブラッドベリの『華氏451度』やロバート・A・ハインラインの『夏への扉』などを購入して読んだものの、いずれも最初の数ページで挫折してしまいました。オンライン英会話のチューターさんにおすすめされた、翻訳者の大森望氏をして「バカSFの歴史に燦然と光り輝く超弩級の大傑作」と言わしめたというダグラス・アダムスの『銀河ヒッチハイク・ガイド』も同様に数ページで挫折。

日本SF大会に私を呼んでくれた知人から「SF入門者が、そこからかい!」とツッコまれた伊藤計劃の『虐殺器官』もあえなく敗退しましたし、中国語圏で話題になった作品だからと半ば義務のようにして挑んだ劉慈欣の『三体』も、第一部だけはなんとか読み終えましたが、第二部と第三部は積ん読のまま。結局、第一部ともどもバリューブックスさんに買い取っていただきました。映画『メッセージ(原題:Arrival)』を見て興味を持ったテッド・チャンの短編集『あなたの人生の物語』と『息吹』も、いずれも最初の数篇しか読み進めることができませんでした。

なぜSF小説を読み通すことができないのでしょうか。フィクションを読まないわけじゃないですし、科学技術系のお話も宇宙論から物理学や数学、バイオに古生物にAIに人体……いずれも「好物」で、一般向けの本ですがあれこれと読んではいるのです。なのにどうしてSF小説だけはこうも歯が立たないのでしょうか。いつも拝見している冬木糸一氏のブログ『基本読書』で紹介されている本も、SFだけどうしても読了できません。

huyukiitoichi.hatenadiary.jp

私などが語るのもおこがましいですが、SF小説というものは、類まれなる想像力でこれまでに我々が見たことも聞いたこともないような世界を紡ぎ出すところがその真骨頂だと思います。でもおそらく私は、その想像力が紡ぎ出す世界に自らの想像力が追いついていかないのでしょう。でもそれをいえば、あらゆるフィクション作品が多かれ少なかれ想像力の翼を広げて物語が展開されるものであり、私の想像力もSF小説でなければ何とかその作品世界についていくことができます。もしやこれは、SF小説の世界はあまりに現実離れしており荒唐無稽にすぎると私の脳が決めつけて、初手から拒否の回路が働いているとかでしょうか。想像力の桁がひとつ上がるともうついていけなくなるとか。あまり考えたくないけれど「老い」の二文字が目の前にちらついています。

かくいう私も、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』とか『クララとお日さま』などは最後まで読み通せた上に、深い読後感が残りました。佐藤究の『Ank : a mirroring ape』やアンディ・ウィアーの『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、いずれも巻を措く能わずの勢いで読了しました。

qianchong.hatenablog.com

『プロジェクト・ヘイル・メアリー』だけは真正のSF小説と言えるでしょうけど、そのほかの作品はSF小説に分類できるかどうか微妙なところかもしれません。それぞれが内包しているテーマは「ネタバレ」になりますから書きませんが、私は自分が生きているリアルな現代社会とかなり近しいところでしかフィクションを楽しめない体質になってしまったんじゃないかと思います。昔はけっこうぶっ飛んだ設定のフィクションも楽しんでいたような気がするのですが……やっぱりこれは「老い」の一形態なのかな。

新紙幣

先日、新しいデザインの日本銀行券、新紙幣が発行されました。私はすでに、ほぼ現金を用いない暮らしになっているので、それほど感慨のようなものはありません。それでも20年ぶりに改札、つまりお札のデザインが変わると聞いて、前回の改札時はどんな気持ちだったかなあと思い返してみました。が、まったく記憶がありません。

歳を取ると、直近のことはすぐに忘れがちな一方で昔のことはよく覚えているなどと言いますけど、昔のことすら何の記憶もないというのはちょっとマズいのではないか……と一瞬うろたえたのですが、すぐにその理由が分かりました。当時私は長期派遣の仕事で台湾にいて、改札のタイミングに立ち会っていなかったのです。ああ、よかった。


https://www.irasutoya.com/2024/07/blog-post.html

けさの通勤時にポッドキャストを聞いていたら、徐静波氏の『静说日本』でこの改札の話題が紹介されていました。日本の紙幣や貨幣の種類、発行のされ方、新紙幣に描かれた人物や偽造防止技術の話などとてもわかりやすく解説されていたのですが、この部分だけ「おや?」と引っかかりました。

一個朝代,一個新幣,這是日本從明治時代發行紙幣以來的老規矩。
ひとつの王朝にひとつの紙幣。これは明治時代から紙幣を発行してきた日本のルールです。
静说日本 · 徐静波 ポッドキャストを聞こう

氏によれば、天皇が代替りしたのち数年の準備期間を経て新しいお札が発行されるということで、平成になって数年後の2004年が前回の改札、そして令和になって数年後の今年にまた改札が行われたと。でも昭和の時代には何度か改札があったのではないかと思ってネットを検索してみたら、日本銀行のウェブサイトに「お金の話あれこれ」というページがありました。
www.boj.or.jp
やはり昭和では何度か改札が行われたようです。また、なぜ約20年で改札が行われるのかについては、こちらのページに解説がありました。ひとつは偽造対策のため、もうひとつはその偽造防止技術の維持と継承のためなんだそうです。
www.watch.impress.co.jp
精巧な偽造防止技術が盛り込まれた紙幣はさながら工芸品のようで美しいですけど、その役割はもうほぼ終わったと考えてよいと思います。今回の改札がおそらく最後になるだろうと見ている識者もいるようです。あの時代は一万円札が聖徳太子だったなとか、伊藤博文の千円札が懐かしいとか、昔を振り返って懐かしむよすがにはなりますから*1少し寂しい気もしますが、仕方がないですね。

*1:私は中国の古いお札をいまだに持っていて、毛沢東周恩来劉少奇朱徳の横顔が並んだ百元札とか、こども銀行券みたいな一分・二分・五分札とか、さらには外貨兌換券なんかを見返しては懐かしさに浸っています。でもこれ、もはやどうにも使いようがないですよね。中国の留学生に聞いてみたら、銀行に持っていけば口座の残高に組み入れてくれるんじゃないですかとのことでしたが、私は中国に銀行口座を持っていませんし。どこかに寄付できたらいいんですけどね。

Adobe Premiere Pro で動画を分割・保存する

動画ファイルを分割し、それぞれを保存する方法のメモです。

iMovie を使う

これまではMacBookにデフォルトで入っていたiMovieを使っていたのですが、iMovieには分割した動画を一斉に出力するような機能がありません。そこで①動画を分割したい位置にカーソルを置いて右クリックから「クリップを分割」を選んで分割したら、その分割した部分(黄色い枠になっているところ)を⌘+Cでクリップボードにコピーし……

②いったんこのプロジェクトを保存して終了させ、新しいプロジェクトを立ち上げてから……

③⌘+Vで先ほどの分割した部分をペーストしたのち、「ファイルを書き出す」から任意のフォルダに書き出し……

④また①に戻って次の部分を分割し、コピーし、新しいプロジェクトでペーストし、書き出し……を繰り返すしかありませんでした。非常に面倒で手間がかかります。そこで、Adobe Premiere Pro を使うことにしました。

Adobe Premiere Pro を使う

Adobe Premiere Proでは、①一番左にあるカミソリの刃みたいな「レーザーツール」アイコンを使ってどんどん分割していき……

②プロジェクトウィンドウに「新規ビン(フォルダ)」を作ってその階層に降り……

③分割した映像の上で右クリックから「サブシーケンスを作成」を選ぶと……

新規ビンの中に分割映像が蓄積されていきます。

④そうしたら新規ビンの中の映像を⌘+Aでぜんぶ選択し、右クリックから「メディアを書き出し」を選びます。

⑤そうすると「Media Encoder に送信」ボタンが現れるので、クリックすると……

Media Encoder が立ち上がって、分割映像がリスト化されます。
⑥保存場所のフォルダを確認したうえで左上にある緑色の▶を押すと……

このように保存場所のフォルダに分割された映像が生成されます。

Adobe Premiere Pro から Media Encoder を立ち上げて……というのは一見面倒なように見えますが、iMovie を使うよりもかなり楽に素早く分割・保存できます。このやり方はこちらの動画を参考にさせていただきました。ありがとうございます。


www.youtube.com

こちらの動画では分割を映像のカットごとに自動で行っていますが、私は主に語学教材を作るのが目的なので文章や段落ごとに切る必要があり、この自動で分割する機能は使っていません。でも手順としてはほぼ同じです。

アルファベットの筆記体

留学生の一般教養クラスで、それぞれの国の言語政策について発表を行ってもらいました。中国の留学生が文字改革について説明してくれたあと、質疑応答の中でなぜか「以前は英語の授業で筆記体というものを学んだということですが……」という話になりました。

ありましたね、英語の筆記体。私たちは中学1年生から英語が必修になった世代ですが、最初に筆記体とブロック体でアルファベットを書く練習をしたものでした。薄い赤と青の線が入った専用のノートがあって、筆記体とブロック体の大文字と小文字をそれぞれ何度も練習したのです。


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留学生のみなさんは、おおむね二十代から三十代くらいですが、国によって筆記体の練習をしたことがあるという人もいれば、「筆記体? なんですか、それ」という人もいました。アメリカの留学生は「カリグラフィーなんかを学んでいる人は知ってるでしょうけど、自分は書ける自信がないです」と言っていました。

私は中学生の頃に英語で文通をしていて、その時は筆記体を使って手紙を書いていました。ベルギーとモーリシャスペンパルがいて、赤と青の縁取りがあるエアメール封筒で……って、メールやチャットやSNSがここまで普及した現代においては、もはやなんのことだかわからないでしょうね、文通だのペンパルだのエアメール封筒だのって。そういう時代があったのです。郵便代金を節約するために、蝉の羽のように軽くて薄い便箋を使ってですね、封筒には “VIA AIR MAIL“ とか “PAR AVION” とか書いてですね。


https://www.etsy.com/listing/1277672304/vintage-air-mail-letters-group-cursive

とまれ、パソコンが普及してからこちらは、私も筆記体を使って英語を書くことなどまったくなくなっていました。でも試みにホワイトボードに書いてみたら、大文字はちょっと怪しかったですが小文字はすべて完璧に書けました。こういうのって、マニュアル車の運転と同じで身体が覚えているものなんですね。アメリカの留学生には「とてもきれいです」と褒められました。

「本来の呼び名が尊重されるべき」について

けさの朝日新聞天声人語」に、蘇州の日本人学校の送迎バスで、刃物を持った男に襲われた子どもたちを守ろうとして亡くなった胡友平氏に関連して、名前の読み方についての考察が載っていました。「人は誰でも、その本来の呼び名が尊重されるべきだろう」。胡氏に敬意を表する気持ちは私もまったく同じですが、仮に「フー・ヨウピン」さんとお呼びしたとしても「その本来の呼び名が尊重」されたとは言えないかもしれない、と考えました。

この件、つまりチャイニーズの名前の呼び方については多くの方がさまざまな意見を述べておられて、かくいう私も以前こんな記事を書いたことがあります。

qianchong.hatenablog.com

このときにも書きましたが、私はこの「本来の呼び名が尊重されるべき」についてはどちらかというと懐疑的なんです。理由は、①日本語とは異なる中国語の母音や子音や声調をカタカナで表すのには限界があり、仮にカタカナで読んだところで正確でもないし本来の呼び名の尊重にもならない、②人名は様々な例外があり、読み方の統一は却って混乱を招くし、ほんとうの国際理解・異文化理解・異文化交流にもつながらない、③言語の違いによって異なる人名の呼び方をしているのは「日本だけ」ではない、などの理由からです。

中国語を解さない日本語母語話者であれば、多くの方が「フー・ヨウピン」さんというお名前の6つのカタカナを「高高・高低低低」というイントネーションで声に出されると思います。「フー・チンタオ(胡錦濤)」や「シー・チンピン(習近平)」などと同じように。でもこれは中国語の声調からはけっこう離れてしまっています。「フー」の母音 “u” だって日本語の「う」と「お」の中間くらいの音ですし……もちろん「こ・きんとう」よりは「フー・チンタオ」のほうがよりマシという考え方はあるかもしれませんし、へえ、中国語の発音ではそんな感じになるんだという気づきは大切かもしれませんけど。

ただ私は、お互いが漢字を共有していても、いや、共有しているからこそ、それぞれの文化で異なる音が生まれ、時に面倒くさくて複雑ではあるけれど豊穣な世界を生み出していると考えたい。「本来の呼び名が尊重されるべき」という考え方の後ろには、どこか原理主義にも似た「イデオロギッシュ」なものを感じてしまいます。原音を尊重しているようでいて、その実、日本語の発音がベースになっているという点からは一歩も抜け出ていないのです。とにかく原音尊重だと斉一でポリティカル・コレクトネス的な方向に持っていきたいのは分かるけど、それは逆に思考停止に陥っているのかもしれません。もっと現実の人間の営みと諸言語が混在するこの世界の実相をそのまま受け止めたほうがいいような気がするんです。

それにこうした言語の違いによって異なる人名の呼び方をしているのは「日本だけなのだと改めて痛感」する必要もないように思います。たとえば “Rothschild” が言語や国によって「ロスチャイルド」だったり「ロートシルト」だったり「ロッチルド」だったり(このカタカナ表記だって不完全ですが)しますし、“Levi Strauss(Lévi-Strauss)” だって「レヴィストロース」だったり「リーバイストラウス」だったりします。それぞれの言語の話者が、それぞれの言語のやり方で自らを呼んだり、他者を認識したりしている。

言語をめぐる諸相はとにかく多種多様で複雑で、だから世界はおもしろい。ほんとうの国際理解・異文化理解・異文化交流とは、互いに異なり複雑な現実を踏まえつつ、受け入れ、時に清濁合わせ飲みながら落としどころを探り、他者のありようにも想像力をはたらかせることであって、気持ちよく斉一的な方向に持っていくことではないと思います。

Coffee Break English

移動中やジムでのトレーニング中によく英語のポッドキャスト番組を聞いています。以前は BBC の 6 minutes English を聞いていたのですが、ここのところはもう少し「やさしめ」の、オンライン英会話のチューターさんが紹介してくださった Coffee Break English を楽しんでいます。このページは Season1 ですが、上部にあるメニューの Podcasts から Coffee Break English を選ぶと最新の Season4 まで聞くことができます。


https://coffeebreaklanguages.com/tag/coffee-break-english-season-1/

すべてのエピソードが無料で聞けるこのポッドキャスト、有料会員になるとスクリプトやボーナス音声や単語集などいろいろな特典が利用できるみたいですが、私はとりあえず無料で、番組を聞くことだけやっています。番組だけ聞いていてもかなり勉強になると思うからですが、これだけの内容をタダで聞かせてもらうのも申し訳ないので(広告などもいっさい入りません)、そのうち課金しようかしら。

ポッドキャストに出演しているチューターの Josie さんと Mark さんはスコットランドの方ですが、取り扱う英語(そのエピソードのメインパート)は世界中の様々な英語話者を選んでくれています。イギリス英語、アメリカ英語、オーストラリア英語、ほかにもカナダ人や南アフリカ人やその他の英語話者、さらにはドイツ人やイタリア人が、その土地に関係のあるトピックをご自分の英語で語ってくれるのです。

6 minutes English は基本的にイギリス英語でしか話していませんから、こちらはその点でもいいなと思いました。オンライン英会話でも意図的にいろいろなアクセントの方をチューターに選んできたので、最近は私もだんだん聞き分けができるようになってきました。ああ、これはどこそこの人かしら、などとエラそうに推測したりして楽しんでいます。

Coffee Break English は、英語のレベル的には CEFR の A1〜A2 にあたる初中級といったところで、ちょうど私のレベルにぴったりです。毎回おおむねひとつの文法事項に絞って解説が行われ、それを上手に盛り込んだエピソードになっているのもとてもいいと思います。私はこのポッドキャストで英語の文法用語、たとえば“preposition(前置詞)”とか“present perfect(現在完了)”とか“phrasal verbs(句動詞)”とか“infinitive(原形・不定詞)”とか“modal verbs(助動詞)”などの言葉になじみました。

文法事項の説明もとてもていねいですし、発音についてもイギリス英語ではこう言うけれども、アメリカ英語ではこうなどと綴りの違いも含めて詳しく解説してくれます。また基本的な語彙でもおろそかにせず、「これはどういう意味?」と相手に聞いて、もうひとりが平易な英語で説明するという、その説明の仕方もとても勉強になります。

私は最近 YouTube のプレミアム会員をやめたので、語学関係の動画も広告が入ったり、スリープモードで聞けなくなったりしてしまいました。でもこちらのポッドキャストならそういった煩わしさもありません。アテンション・エコノミーに絡め取られてあれこれ気が散る YouTube より、こちらのほうが落ち着いて学べそうです。もうすぐ Season4 を聞き終わるので、そうしたら最初の Episode に戻って、今度はディクテーションしてみようかなと思っています。

ところでこの Coffee Break シリーズには、英語の他にフランス語・スペイン語・ドイツ語・イタリア語・中国語・スウェーデン語、ゲール語まであって、Coffee Break English でチューターとして出演されている Mark さんがそのすべてに出演しているみたい。しかも以前メールで届いたニュースレターによれば、現在日本語のコースも準備中なんだそう。Mark さん、いったい何者なんでしょう。そのうち Coffee Break Finnish も作ってくれたらうれしいんですけど。