インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

失敗の本質

1984年に出版された『失敗の本質』という本がありまして、現在は中公文庫で読むことができます。その「文庫版あとがき」は平成三年(1991年)、つまり今からもう30年も前に書かれたもので、最後はこう締めくくられています。

企業をはじめわが国のあらゆる領域の組織は、主体的に独自の概念を構想し、フロンティアに挑戦し、新たな時代を切り開くことができるかということ、すなわち自己革新組織としての能力を問われている。本書の今日的意義もここにあるといえよう。(412ページ)

この本を読むと、30年も前の「今日的意義」がいまなお有効どころか、現今のコロナ禍への為政者の対応を見ている限り、ちっとも変わっていないことを痛感させられます。

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失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

この本では、ノモンハン事件ミッドウェー海戦ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦という六つの「失敗」について、そのプロローグから実際の推移と帰趨が詳細に記されています。特に六つの失敗を踏まえて分析を行っている第二章「失敗の本質」は、あまりにも現在の日本と符合する(ちっとも変わっていない)ことが多く、大量の付箋を貼る羽目になります。例えば大きな課題に対する戦略策定において多分に「空気」がその場を支配するという問題。

日本軍の戦略策定は一定の原理や論理に基づくというよりは、多分に情緒や空気が支配する傾向がなきにしもあらずであった。これはおそらく科学的思考が、組織の思考のクセとして共有されるまでには至っていなかったことと関係があるだろう。たとえ一見科学的思考らしきものがあっても、それは「科学的」という名の「神話的思考」から脱しえていない(山本七平『一九九〇年の日本』)のである。(283ページ)

この「空気」はノモンハンから沖縄までの主要な作戦の策定、準備、実施の各段階で随所に顔を出している。空気が支配する場所では、あらゆる議論は最後に空気によって決定される。もっとも、科学的な数字や情報、合理的な論理に基づく議論がまったくなされないというわけではない。そうではなくて、そうした議論を進めるなかである種の空気が発生するのである。(284ページ)

日本軍は、初めにグランド・デザインや原理があったというよりは、現実から出発し状況ごとにときには場当たり的に対応し、それらの結果を積み上げていく思考方法が得意であった。このような思考方法は、客観的事実の尊重とその行為の結果のフィードバックと一般化が頻繁に行われるかぎりにおいて、とりわけ不確実な状況下において、きわめて有効なはずであった。しかしながら、すでに指摘したような参謀本部作戦部における情報軽視や兵站軽視の傾向を見るにつけても、日本軍の平均的スタッフは科学的方法とは無縁の、独特の主観的なインクリメンタリズム(積み上げ方式)に基づく戦略策定をやってきたといわざるをえない。(285ページ)

どうですか、付箋を貼ったうちのほんの一部ですが、ここだけでも現在のコロナ禍への対応や東京五輪をめぐる不可思議な状況ときわめてよく符合しているではありませんか。この本では場の議論が「空気」に支配され、なおかつコンティンジェンシー・プラン(最近よく聞く言い方だと「プランB」ですか)が検討されないという日本軍の欠陥をも指摘しています。これも「このような状態に至ったら、こうする」という明確なプランが示されないまま突き進んでいる今の状況に酷似しています。

現在販売されている中公文庫版には、販促のための特別なカバーがかけられていて、「各界のリーダーが絶賛!」との惹句が踊っています。その一番上に東京都知事小池百合子氏が載っているのを見て、複雑な気持ちになりました。インパール作戦にもなぞらえられる(実際、この本を読むと、現在の五輪へ突き進む状況はきわめて似ています)東京五輪を強硬に推し進めようとしている開催都市の首長が、絶賛?

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このカバーには「なぜ日本人は空気に左右されるのか?」という惹句も載っています。東京都に三度目となる緊急事態宣言が発せられても、もはや多くの人が「お上の言うことなんて聞くもんか」とばかり街に繰り出しています。その意味ではもはや私たちは「空気に左右されない」日本人になったのでしょうか。いやいや、そうではありますまい。変異株などの脅威も取り沙汰されている中、「科学的な数字や情報、合理的な論理に基づく議論がまったくなされ」ずに動いているのだとしたら、それはもはや自律性を失い、まわりの空気に左右された結果ではないかと思うのです。

アスリートもそろそろ声を上げるべきではないか

「一体何を見せられているの?」というフレーズがありますね。直視するのがはばかられるような、こちらが恥ずかしくなってしまうような他人の行為(その多くは恋愛にまつわるもの)なんですけど、つい見ちゃう、というか見られてうれしいというニュアンスも含んだ「高等表現」(?)です。ドラマの感想などをリアルタイムでTwitterなどに書き込んでらっしゃる方がよく使っているような印象があります。

そういう「お楽しみ」なら他愛なくていいんですけど、昨今の東京五輪に関するあれこれには「一体何を見せられているの?」という怒りばかりが湧いてきます。例えば今日現在、緊急事態宣言や蔓延防止等充填措置(「まん延」なんて恥ずかしい表記はしません)がいくつかの都府県で発出される一方で聖火リレーなんてものが行われています。先日沖縄県で行われたそれは、無観客で、かつ周りを囲って見えなくした駐車場で、ほんの少しの距離を走るというものだったそう。何が「聖」火ですか。無意味の極みですよ。

mainichi.jp

それでも日本の大手メディア(全国紙や全国ネットのテレビなど)は、自らもスポンサーになっているため、この期に及んでも正面から五輪の批判を行っていません。スポンサーになっていない東京新聞は最近になって五輪に批判的な特集記事を連続で組んだりしていますが、それでも社説ではまだ旗幟鮮明にしていませんし、スポーツ欄などは無邪気なほどの五輪讃歌であふれています。

それに対して海外のメディアには、かなり辛辣かつ真っ当な「五輪中止論」が繰り返し出るようになりました。それを日本の大手メディアが「海外ではこんな批判が出ました〜」的に紹介するのがまた腹立たしい。ジャーナリズムのかけらもありません。ここまで大政翼賛会的な報道を続けてきてしまったという負の「レガシー」は、今後長期に渡って日本の大手メディアに重くのしかかる「原罪」(常に罪を背負っているような気持ちになる、という意味で)になると思いますよ。

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https://www.irasutoya.com/2017/02/blog-post_177.html

先日は、東スポWebがこんな記事をネットに載せていました。

news.yahoo.co.jp

記事の中でニュージーランドマイケル・ベイカー公衆衛生学教授は、「五輪はグローバルな一体感とフェアプレー精神によって祝福されることを目的としている。低所得国はパンデミックによって荒廃している。そこにフェアプレー精神はない」と述べています。その通りだと思います。

よく「選手がかわいそうだ」とか「アスリートは五輪のために何年も努力し続けきたんだ」とその精神を称える文脈で五輪をなんとしても開催へという主張が見られますが、私はアスリートをそういう努力の方向へむかわせることそのものが間違っていると思います。

そしてまたアスリート自身も、そろそろ「これではフェアではない」と声を上げるべきです。世界規模でパンデミックがまったく収まっていない今の段階で、ましてや日本国内でも圧倒的多数の国民がコロナ禍にあえいでいる中で、自らは五輪の晴れ舞台に立って世界中のアスリートと競い、メダルを獲ったとして、それで嬉しいのでしょうか。誇らしく感じられるのでしょうか。

大手紙のスポーツ欄を見ると、毎日のようになにかの競技の誰々選手が五輪代表に内定という記事が載っており、選手ご自身の喜びの声や決意表明みたいなものも添えられています。が、私は、厳しい言い方になりますが、そういう五輪に出場できるほどのトップアスリートであればこそ、現今の社会状況に鑑みた、責任のある発言と行動が求められると思います。ましてや少なからぬ私たちの税金が注ぎ込まれている国際大会であれば、なおさらのことです。

アスリートが最大のパフォーンスを発揮する要素としてよく「心・技・体」ということが言われますよね。私はその「心」には、現代に生きる一社会人として、あたう限りフラットで公正公平な社会感・世界観を持とうとすることが含まれていると思います。人々に影響力のあるトップアスリートであれば、なおさら。競技業界の同調圧力に屈せず、声を上げてほしいと願っています。

もう染めなくてもお金かけなくてもいいかな

髪の毛を染めるときに「染みてないですか?」と聞いてくるのが謎。そんな記事が文春オンラインに載っていました。

bunshun.jp

私は時々軽い頭皮湿疹が出るので、そんなときに髪の毛を染めると染みます。染みるというか、激痛が走ることもあります。でもいつも我慢していました。染みるのが当たり前だと思っていて。それに一度「染みてないですか?」と聞かれて正直に「染みてます」と答えたことがあるのですが、お店のスタッフは「あらあら」と言いつつ軽く拭き取ってくれるだけで、結局そのまま続行されちゃったことがあったので。

ヘアサロンって、スタッフさんと天候の話など他愛ない会話がつきものとか、シャンプー時に「かゆいところはございませんか?」や「洗い足りないところはございませんか?」と聞かれるとか、ちょっと意味のよく分からない「慣習」が多いところだと常日頃から感じています。それで「染みてないですか?」もそのたぐいなんだろうなと思っていたのですが、本当はアレルギーの可能性があるからだったんですね。

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https://www.irasutoya.com/2017/06/blog-post_2.html

もっとも、現在は白髪が大幅に増えて染めるのも大変かつ不自然な気がしてきたので、グレイヘアーのままにしています。ちょうど黒髪と白髪が半々くらいで、中高年感を絶賛アピール中ですが、実際に中高年なんだからもうこれでいいと思っています。ちなみに、ヘアサロン自体に行くのもなんだか贅沢なような気がしてきたので、先日はいわゆる「1000円カット」のお店で切ってもらってみました。

ヘアサロンとはやっぱりかなり違う仕上がりになりますけど、なんだかこれでもいいかなと思っています。会話もしなくていいし、シャンプーはもともとついてないですしね。1000円カットに行って、妻に「どう?」って聞いたら、「どうと言われても……」と言われました。私の場合、表参道で切ろうが1000円カットで切ろうが、あまり大差ないんだそうです。はい、そうですね。

積極的に身体を動かしていないと死んじゃう

緊急事態宣言が発出されたことによって、東京都では1000平方メートルを超える施設に対して休業要請が行われています。そのため、いつも出勤前に早朝から利用しているジムも休業になってしまいました。せっかく毎日運動する習慣が定着してきたというのに、この事態はとてもつらいです。気持ち的にもつらいけど、身体的にはもっとつらい。日々身体を動かすことが習慣化されてしまうと、逆に動かさないでいることが非常に気持ち悪くて仕方なくなるんですね。

じゃあ通勤時に一駅か二駅手前で降りて歩けばいいじゃないかということになるんですけど、もはや筋トレが日常化していて、そんな程度の「軽い」運動では気持ち悪さが解消できない身体になっています。昨年の一回目の緊急事態宣言のときには、だから職場のオフィスに朝早く行って、腕立て伏せだの、椅子を使った「リバースプッシュアップ」だのをやっていました。

私の場合、筋トレは筋肉をつけるためというよりは肩こりや腰痛を予防するためです。ですから、必ずしもウェイトをかけなくてもよくて、体幹レーニングを中心にしているのですが、それでもある程度の負荷というか、自分を追い込む方向でやらないとぜんぜん身体がスッキリしない上に腰痛なども軽減されません。

パーソナルトレーニングでそんなことをぼやいていたら、トレーナーさんが「新しくはじめたサービスを試してみませんか」とおすすめしてくれました。LINEを使って、その人の要望に合わせたトレーニングメニューを配信してくれるうえに、毎日「しっかりやってますか」とか「今日はメニューをこなせましたか」などのプレッシャーもかけてくれるというサービスです。

せっかくなので、おすすめに従ってサービスを利用してみることにしました。トレーナーさんは私の身体能力をよく分かっているので、私の身体能力でできるギリギリの負荷を前提にメニューを組んでくれます。始めて10日ほどになりますが、なかなかハードです。でもこれなら緊急事態宣言中も身体がなまらなくて済むかもしれません。

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しかし、肩こりや腰痛が慢性化して、ほとんどQOL(クオリティ・オブ・ライフ:生活の質)の低下を招くにまで至ってはじめて、日常的に身体を動かすことの大切さを痛感しました。特に中高年に至った私たちとしては、どれだけ身体を動かして老化に対応していくかが死活的に重要だと感じています。デスクワークが多い私たちにとっては特に。『LIFESPAN―老いなき世界』という本を読んでいたら、こんな記述がありました。

父は初め生化学者になる教育を受けた。ところがコンピュータにのめり込み、ある病理検査会社でコンピュータ担当者として働いた。当然ながら、画面の前で長時間椅子に座って過ごすことになった。それは、恐ろしく体に悪いと専門家が指摘する生活習慣である。喫煙と同じくらい有害だとする研究者までいるほどだ。(247ページ)

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LIFESPAN(ライフスパン)―老いなき世界

これはパーソナルトレーニングのトレーナーさんにもよく言われることです。長時間座って、パソコンに向かい続けることがどれほど身体に悪いか。老化はもちろん抗いがたい傾向ではあるけれど(でも、この本ではその「常識」に真っ向から異を唱えているのですが)、少なくともQOLをできるだけ下げない方向で身体を鍛え続けたいものです。『LIFESPAN』にはこんな記述もありました。

生物学的に見て、体がどれだけ年老いているかを確かめる簡単な検査がいくつかある。腕立て伏せが何回できるかは、かなり優れた目安だ。46歳以上の場合、20回を超えられたらたいしたものである。(148ページ)

おお、これは私、楽勝でできます。でも……

ほかには「座り立ちテスト(SRT)」というのがある。裸足で床に座り、両足をクロスさせる。そのまますばやく体を前に傾けて、一度で立ち上がれるかどうか試してみるといい。若い人ならできる。中年になると、どちらかの手で押してやらないと普通は起き上がれない。高齢者ならたいていは片膝をつかなくては無理だ。(同)

こちらは、まったくダメでした。やっぱり私は、まごうかたなき中高年なのです。ま、これからも積極的に身体を動かしていこうと思います。身体を動かしていないと死んじゃう。冗談ではなく、本当にそう感じています。

五輪に熱狂するだろうか

新宿の街は、昨日も人であふれていました。緊急事態宣言が発出されているなかゴールデンウィークに入った東京ですが、私の職場はオンラインと対面を組み合わせながら「カレンダー通り」に授業をしていて、昨日は都心に出かけたのですが……いや、すごい人出です。

しかもサザンテラスのあたりでは、カフェのオープンスペースや歩道の脇などにマスクをはずして飲食しつつ歓談する方も大勢。ニュースで見た、ワクチン接種が進んでマスク着用が要らなくなったどこかの国の光景に似ていますが、日本はいま現在のワクチン接種率が約2%。このギャップに戸惑います。

vdata.nikkei.com

しかし、戸惑いながらも私自身、みなさんの気持ちがよくわかります。みんな「もう、お上の言うことなんか聞くもんか」という感じなんでしょうね。コロナ禍の発生から一年半にもなろうとしているのに、諸外国で奏功した実績がいくつもある「検査と隔離」はろくに行わず、アベノマスクだ、犬と一緒に動画だ、突然の一斉休校だ、五輪延期決定後に緊急事態宣言だ……などという政治を見せられて、そのうえ今でも「まんぼう」だ、聖火リレーしながら緊急事態宣言だ、IOCのバッハ会長来日前に緊急事態宣言の解除を検討だ、医療現場は逼迫しているのに五輪にボランティアで医師や看護師派遣だ……と、かの「インパール作戦」にもなぞらえられる政治が絶賛進行中なんですから。

先日ネットのJBpressに「東京五輪『日本はIOCに開催懇願』の衝撃情報」という記事が載っていました。そのなかにこんな言葉がありました。「五輪を強行開催すれば、財界が喜び、国民も何だかんだ言いながらアスリートたちの熱戦に酔いしれて批判的言動を忘却させ、ひいては自分たちの支持率も大幅回復できる」。政府の要人がこの通りに言ったわけではなく、あくまで五輪組織委員会某幹部の政府評としてですが、おそらく政府の本音なんでしょう。国民をとことんバカにしていますが、でもまあ国民の側にもバカにされるだけの実態もあるんですよね。あまりにも低すぎる投票率とか。

仮に五輪が中止になったとしても、ここまで判断を遅らせて人命を軽んじ、税金を浪費した責任はきっちり追求しなければいけません。でも「中止は英断だ!」という方向に民意が動いて、7月の都議選で小池百合子氏率いる都民ファーストの会が躍進し、そのあと秋の衆院選で菅政権が評価されるような未来がありそうで、今から暗澹たる気持ちです。小池氏など「五輪中止の責任をとって都知事を辞任します」とか言って、それがまた国民の拍手喝采を受けて、衆院選で国政に返り咲き、日本初の女性首相を目指す……なんて方向に行きゃしないでしょうかね。

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https://www.irasutoya.com/2018/11/blog-post_489.html

政府が小手先の対策ばかりで本腰を入れないのを見抜いて、緊急事態宣言下でも「自分の判断で行動させてもらうぜ」とばかりに繁華街へ繰り出している国民には、ある意味したたかで健全なものも感じます。でも、その一方で選挙権という一番基本的な権利すら行使せず、ひたすらいいように税金をむしり取られて浪費されるのもまたその国民なんですよね。

なんだかんだいって、いまはまだ日本はとても豊かな国なのだと思います。だからまだこんな「狂想曲」を奏でていられる余裕があるんでしょう。私自身は五輪の開催なんてとても無理、とんでもない、と思っていますが、世界の中ではまだまだ豊かなこの国は、インパール作戦を完遂してしまうかもしれません。完遂すれば国民は熱狂し、逆に中止しても国民は熱狂するでしょうか。「お上の言うことなんか聞くもんか」と行動しはじめた国民が、同時にそんな熱狂にいとも簡単にはまるとしたら……そんな日本国民(自分も含め)をどう捉えたらいいのか、いまのところ私には分かりません。

キャッチーでダンサブルなナンバー

YouTubeでお笑い芸人さんの芸を見るのが好きです。テレビのお笑い番組も昔は大好きだったんですけど、最近はほとんど見なくなりました。当たり前かもしれませんが、テレビという媒体は基本的に老若男女を受け手に想定しているからか、そのぶん「大味」な感じがするんですよね。その点、YouTubeで様々な芸人さんが公開している動画には、実験的な、あるいは革新的な試みがたくさん見つかります。

お笑いというのは「話芸」ですから、私は芸人さんたちの「話」や「しゃべり」の技術に特に魅了されます。だから逆にお笑い芸であっても、それが奇矯な行動に重点が置かれているものは、あまり好みじゃありません。奇声を発したり、奇妙な動きをしたりで笑いを誘うよりも、話芸そのもので笑えるほうが、後々までじわじわとその面白みが持続するような気がします。

先日たまたま見て面白いなあと思ったのは、ジャルジャルのコントです。コントというか、zoom会議におけるビジネスパーソンの会話をそのまま流したという体のとても「いまふう」な作品で、全体で20分もあります。こういう形で動画サイトならではのお笑い作品を作っているというのもニクいですよね(テレビでは絶対にできない形態と長さです)。


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移動体通信業界と思しき会社のzoomミーティングで、入社四年目の江良(えら)と入社三年目の井張(いばり)の二人が、入社一年目の朝倉に対して「えら」そうに「いばり」、先輩風を吹かせているところに、客先の福村が登場し、こんな感じでまくし立てます。

今回新しいスマートフォンのアライアンス事業をコンセンサスするというのは業界の成長にとってマストだと思うのでシナジー効果を期待しております。これからスマートフォンマーケティング市場というのはどんどん拡大していくと思うので、バジェットはどんどん超えてKGIを気にせずにKPIにインポータンスを置いて、最終的にリコールを見据えているレベルになっててももういいのかなというのがこちらのオピニオンですね。

わははは、お笑いですからもちろん誇張されていますけど、いかにもいそうです、こういう「ギョーカイ」っぽい話し方をする人。私も通訳現場で一度だけ「このアーティストのニューアルバムはキャッチーでダンサブルなナンバーがコレクトされたコンピレーションで……」みたいに話す方に遭遇したことがあります。そんなカタカナ語満載のマシンガントークに対して江良と井張が圧倒されている中、「しょぼい奴」だと思っていた朝倉が話し出すと……。

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これ以上はネタバレになりますから、実際に動画を見ていただきたいと思いますが、ほぼ話芸だけで、しかも基本的にはビジネス現場の言葉だけでこれだけの面白み。脚本を書いた方は頭がいいなあと思います。しかも福村と朝倉を演じたお二人は素人さん(セミプロと言うべきか)なんですって。さらにジャルジャルのお二人がぐっと後ろに引きつつも、笑いの度合いをさらに高める演技をしているのがまた素晴らしいと思いました。日本人の外語コンプレックスもまた、このお笑いのツボとしてうまく機能しているんでしょうね。

ジャルジャルのお二人にはかつて「フィリピン語で数学数える奴」というコントがあって、これも「通訳」をネタにした面白い(そしてある意味怖い)作品です。


www.youtube.com

私はYouTubeでこういう通訳に関するお笑い芸を見つけるたびにコレクションして学生さんに見てもらっています。「反面教師」になるからです。お笑い芸人さんが通訳者をネタにするということは、しかもそれで笑いを取ることができるということは、世間の方々の「ああ、通訳者ってそうだよね」という「あるある」的コンセンサスがリフレクトされているからではないかというのが私のオピニオンです。

「取り急ぎお礼まで」をめぐって

先日Twitterのタイムラインに、メールの最後を「取り急ぎお礼まで」で締めくくるのは失礼、という趣旨のツイートが流れてきました。それに対して賛否両論もたくさん湧き上がっていたようです。私は少々心穏やかではありませんでした。なぜって、これまで「取り急ぎお礼まで(あるいは「御礼まで」)」とか「取り急ぎご連絡申しあげます」のような締めくくりの言葉をメールに多用してきたからです。

試みにこの十年くらい使っているG-mailで検索をかけてみたら、数百から一千の単位で「取り急ぎ御礼」申し上げておりました(この検索能力もすごいですね)。受け取った仕事のお相手のみなさま方は、そのたびに「なんだ、この人、礼儀を知らないな」と思っていたのかしら、と小心者の私は不安になってしまったというわけです。

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https://www.irasutoya.com/2017/04/blog-post_347.html

その一方で、なぜ自分がこの表現を多用しているのかなとも考えました。Twitterでこの表現を糾弾していた方は「略儀ではございますが、まずはメールにてお礼申し上げます」が正解だと主張していましたが、え〜、それはどうかしら。相手にもよりますが、メールなのに格式張り過ぎているような雰囲気ですし、まずはメールでお礼申し上げ、そののちに手書きの信書を出すつもりでもなければ「略儀ではございますが、まずは」も何もないと思います。

私としては、単に「ありがとうございます」では物足りないので、クライアントに対しては多少かしこまって、でもメールだから簡潔性や即答性を感じさせる(と思っている)「取り急ぎ」を使っていたように思います。でも本当にこれが失礼だと感じる人が大勢いるのであれば、あえて使用にこだわるほどでもないし、リスクは回避して使わないでおくに越したことはないかなと思っていたら、国語辞典編纂者の飯間浩明氏がこんなツイートをされていました。

こうやって権威にすがるのも情けないですけど、なんだか、ほっ。コラムニストの石原壮一郎氏による、デマに惑わされれないように、との指摘もありました。
togetter.com

なるほど、「失礼クリエーター」とは言い得て妙です。かの「江戸しぐさ」にもどこか似ていますが、SNSではこういう言説が次々に登場するものだと心得ておきましょう。そのたびにオタオタしない、と。でもそれに即ツッコミや疑問が呈されるのもまたSNSの良いところなんですけど。

早く日常の暮らしに戻りたい

東京都に緊急事態宣言がみたび発出されて数日。在宅勤務をはじめたものの、早くも肩こりに襲われました。ここ一年くらい積極的にジムに通って肩甲骨など肩まわりを動かして、ずっと無縁だったのに。私にとっては、在宅で作業をしたり、オンライン授業をしたりというのが身体によくないのは明白です。でも毎朝通っていたジムは大規模施設なので全面休業になってしまいましたし、お高いパーソナルトレーニングに毎日行くわけにもいかないし。

先日からLINEを使ってトレーナーさんが運動メニューを提案してくれるサービスを利用しているのですが、狭い自宅で取り組んでいても、どうもいまひとつスッキリしません。やっぱりジムに行って、思いっきり身体を動かさないと気持ち悪い。かといって、近所の公園まで走っていってみれば、同じように体の不調を持て余したみなさんが大挙して押し寄せていて、ものすごい人出になっています。

それに自宅で仕事をしていると、身の回りに仕事の気を散らせるモノが多すぎます。確かに通勤時間が要らなくなるので時間の余裕はできるのですが「小人閑居して不善をなす」のことわざ通り、かえって仕事の効率は下がっているような気がします。やはりここ数年習慣づけてきた、朝に思いっきり身体を動かして、勤務時間中に集中して仕事をして、定時にさっさと帰る、早くそういう日常の暮らしに戻りたいです。

それにしても、一年以上前にも同じようなことを考えていましたが、一年経ってもまだ同じような状態が続くとは思いませんでした。これは……身体から徐々に精神にまで影響が及びつつありますね。よくないことです。何らかの新しい発想でこの長期戦に臨まなければなりますまい。

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https://www.irasutoya.com/2021/01/luffy.html

「なんでもない毎日をていねいに生きる」

ここ数年、折に触れて「次の人生をどうしようかなあ」と考えています。言うまでもなく、いまの仕事があと数年のうちに「雇い止め」になるからですが、実は「次をどうしようか」と考えるのはこれが初めてではありません。学生時代にまともな就職活動もせず(「就活」という言葉もない時代で、かつ学生は「就活」をするものだということすら理解していませんでした。世間知らずにも程があります)、卒業して即路頭に迷ってから今日まで、就職と退職を繰り返し、その間に無職やモラトリアムの期間を何度も挟んできた私としては、これはむしろルーティンワークと言えるのかもしれません。

飽きっぽい性格ということもあります。就職しても、ひとつところに長く勤めていられません。現在の職場にはもう五年以上勤め続けていますから、私としては例外的に長い方です。というわけで、もうずいぶん前から、つまり雇い止めとか定年とかを意識するより前から、「もうそろそろ次に……」という思いが湧いてきて抑えきれなくなりつつあるのです。

身体はどんどん老いていきつつあります。若いときのように何でもいいからとにかく「次」というわけにもいかないでしょう。それでも、この先なにかの「サイン」が訪れたら、また私は性懲りもなくいまある仕事を捨てて「次」に行っちゃうような気がしています。家族も、年老いた両親も心配ではあるけれど、それでも。もともと、それまでのあり方を根本からひっくり返して「がらっぽん!」とやるのが大好きな性格なのです。政治家なんかにしては一番いけないたぐいの人間です。

先日、山口周氏の『仕事選びのアートとサイエンス ~不確実な時代の天職探し 改訂『天職は寝て待て』~』を読みました。『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 〜経営における「アート」と「サイエンス」〜』に続けて二冊を一気に読みましたが、どちらも読みやすくて、またたく間に読了しました。

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仕事選びのアートとサイエンス~不確実な時代の天職探し 改訂『天職は寝て待て』~ (光文社新書)

「アートとサイエンス」という表題が象徴しているように、いずれもカタカナ語がわんさかと出てくる本です。それに山口氏ご自身が大手広告代理店から世界最高峰の名門コンサルティング会社へとキャリアを進めてこられた方なので、私が生きてきた環境とはまったく違う世界のお話でしょうね……と多少身構えながら読んでいたのですが、腑に落ちる箇所がたくさんありました。

特に「天職」について述べられたほうの一冊は、自分のこれまでの環境や、その中で考えていたことと符合する話が多くて驚きました。大変失礼な言い方ながら、山口氏のようなエリートでもいろいろと悩み、苦労もして今にいたっておられるのですね。いや、人は誰しもいろいろなものを抱えながら生きている。当たり前のことですか。

山口氏はこの本の口絵に挿入された、カラヴァッジョの『聖マタイの召命(Vocazione di san Matteo)』という絵を引いて、その題名にある“Vocazione”、英語では“Vocation”または“Calling”と訳される言葉に注目します。日本語では「天職」と訳されるところが、この題名では宗教的なニュアンスを持つ「召命」になっているのですが、これは「神によって使命を与えられること」。つまり「天職とは自己によって内発的に規定されるのではなく、本来は神から与えられるもの」だというわけです。

私はこの“Calling”が「天職」であるという話がとても腑に落ちます。というのも、これまでの自分の仕事は、自分で主体的に選んだように見えて、あとから考えればすべて外から与えられるようにして自分のところにやってきたものだったと思うからです。まさに何者かに“Calling”、コールされるように。私は無神論者で無宗教ですが、ここには自分の存在を超えた何かが介在しているように思えることさえあります。

山口氏はこう書かれています。

天職とは本来、自己を内省的に振り返ることで見出すものではなく、人生のあるときに思いもかけぬ形で他者から与えられるものではないか、ということです。(19ページ)

そしてまた、その他者から与えられるなにかのきっかけがやってくる(私はそれを「サイン」と呼ぶわけですが)のは、「なんでもない毎日をていねいに生きる」ことであると言います。これも私にはとても腑に落ちる一点でした。山口氏はその説明として「人脈の第二階層(同僚ゾーン)」ということをおっしゃっていて、それは親友のように自分のことを裏も表もよく知り尽くしているわけではなく、かといってただの知人のように表面的なことしか知らないわけでもない、日常的に自分の周りにいて自分の仕事を見ている人たち、そういう人たちが上述した「他者」になるのだと。

この人たちとあなたの毎日の仕事の積み重ねが、いわばキャリアのバランスシートに、その営みが健全であれば優良な資産として、不健全であれば不良資産として積み上げられることになるわけです。(144ページ)

う〜ん、正直に申し上げてこの記述はコンサルティング会社にお勤めの山口氏ならではの口吻で、拒否反応を示す方もいるかもしれません。でも大丈夫。そのあとにすぐ「いま、まずやれることを一生懸命やる、これが非常に大事」とか「まず目の前の仕事を誠実にこなす、いま周りにいる人に誠実に対応する、自分らしく振る舞う」ともう少し受け入れやすそうな言葉で補足がついています。この点、大いに同感です。私もこのブログで、山口氏ほどの洗練された説明とは雲泥の相違ながらも、同じようなことを書いていたのを思い出しました。
qianchong.hatenablog.com
qianchong.hatenablog.com
Amazonにおけるこの本のレビューには、「この本は以下に相当する方々しか必要ない。というかお呼びでないと思う。①高学歴、高年収で一流企業等にお勤めのエリート②転職前後や昨今の世情からキャリアのアドバイスを求めている人(但し、最初からそれなりのエリートキャリア)」というものがありました。つまりこの本で語られているお話は、そうしたエリートの転職やセカンドキャリアを考える際においてのみ有効なのだと。

でも私はそんなことはないと思います。「なんでもない毎日をていねいに生きる」というのは、誰にとっても福音となる人生の基本的なスタンスになりうるんじゃないでしょうか。私自身はいま、なんでもない毎日をていねいに生きながら「次の人生をどうしようかなあ」と考えています。そうしていればたぶんまた訪れるであろう「サイン」を楽しみにしながら。

もう国や都など信頼しない

東京都に三度目の緊急事態宣言発出ということで、またまた暮らしに大きな変化が……起きていません、これが。「コロナ慣れ」とか「コロナ疲れ」というわけでもなく、確かに感染者数は増加傾向なので自分も感染しない・感染させないことに努めて気をつけようとは思っていますが、菅義偉氏や小池百合子氏の要請に素直に耳を傾けられないというか、もう愛想が尽きたというか。

諸外国で奏功している「検査と隔離」を一年以上経っても積極的に行わず、ワクチンの確保でも諸外国の後塵を拝し(というか外交力・交渉力で負け)、言葉遊びのように何度も「宣言」を出す一方で補償はとことん渋りまくる。私だけではなくて多くの人が「もう国や都などは頼りにならないから、自分の判断で前に進もう」と考えているのではないでしょうか。いくら行動変容を求めても、もう多くの人が聞く耳を持たなくなってる。コロナ禍のずっと以前から始まっていたことですが、この一年あまりでぷつりと切れてしまった為政者への信頼や期待の代償は、今後日本社会に深い影響を残していくだろうと思います。
qianchong.hatenablog.com
qianchong.hatenablog.com
毎朝通っているジムは、1000平方メートル以上の大型施設なので、明日から全面休業になりました。でももう一つ通っているジムは小規模なので、感染対策をしながら営業を続けるそうです。昨日行ってみたら、当然のように「うちはこれまで通りですから」とスタッフが言っていました。私はそこに「もう政府などは信頼せず、自分たちの責任でやっていく」という自負と抵抗のようなものを感じました。

東京に四つある寄席も「『社会生活の維持に必要なもの』に該当する」という自らの判断で営業を続けていくと報じられていました。東京のとあるミニシアターも休業協力金が一日二万円という額であることに対して「香典のつもりか」と皮肉り、営業を続けるのだそうです。いずれも、もう国や都など信頼しない。自分たちの判断で、自分が正しいと信じた道を行く、という態度表明だと思います。

私自身は、これはとても健全なあり方ではないかと思っています。それぞれが自らの判断で自律的に困難に立ち向かっていくという姿勢を示しているのですから。もちろん、本来なら行政との相互信頼関係があって、より本質的な対処が行えるのが理想的ですけど、明らかに五輪優先、あるいは次の選挙優先で動いているとしか思えない為政者に不服従の態度を示し、なおかつ自分の頭で考えて判断していくというのはいいことではないかと。

私が勤めている学校でも、オンライン授業と対面授業を組み合わせて、なるべく学生が密にならないように気をつけながら授業を行っています。それは緊急事態宣言の発出前後で何ら変わるものではありません。もちろん社会全体で感染者が増えている以上、身近で感染が広まる可能性もありますが、少なくとも「まんぼう」だの「緊急事態宣言」だのでそのつどオタオタしない! という度胸のようなものは身についたような気がします。何だか一抹の悲しさや寂しさや情けなさが漂いますけど。

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https://www.irasutoya.com/2016/10/blog-post_173.html

「ユルさ」が足りません

春からの新年度が始まりまして、いくつかの学校で担当しているクラスも授業がスタートしました。留学生だけのクラスもあれば、日本語の母語話者と非母語話者の混成クラスもあります。留学生のクラスも、華人留学生のみのクラスもあれば、いろいろな国や地域からの留学生が混在しているクラスもあります。

どのクラスでもそうなのですが、この歳になっても授業の開始前はいまだに少々緊張します。教材はちゃんと作ってあるし、教案も立ててあるし、大まかな授業の流れも考えてあるのですが、それでも「何かトラブルがあったら……」という気持ちが抜けきらないのです。本質的に小心者なんでしょうね。けれど、授業の内容を事前に考えすぎると、却ってつまらない授業になるという経験則もあります。それで、毎回の授業が毎回とも一回限りのライブみたいな感覚になります。

駆け出しの頃は「これくらいの時間でこれを説明して、その後練習にこれくらい、そこで休憩を取って……」などと細かく考えていました。が、往々にしてそううまくは行かない上に、授業もつまらないものになるのです。むしろその場の雰囲気に合わせてアドリブを効かせた方がよいこともあります。というか、初手から授業を「こうやってこうやって……」と決めておくというのは、学生さんの存在をまったく無視していますよね。

しかし……。

昨年あたりから、こうしたやり方にもなんとなく「頭打ち感」を覚えるようになりました。どうも学生さんたちが「ノッて」いないというか、楽しそうじゃないというか。それに自分自身もあんまり楽しくないと思うようになってしまったのです。スランプというやつでしょうか。それで同僚に相談してみたところ、こんなことを言われました。

「ユルさ」が足りないんじゃない?

自分で言うのもなんですが、私はどちらかというと几帳面で生真面目なほうで、授業にあたってきっちり準備をしたがる方です。もとより小心者だから、少なからぬ学費を払っている学生さんに、その学費に見合うだけの授業をやらなきゃと自分にプレッシャーを与えてしまう。

もちろんそれは基本的には正しいと思います。某通訳学校では大御所の通訳者さんが「ちゃら〜ん」と学校にやってきて「ええっと、今日私は何を教えればいいんだっけ?」なんてなことを事務方のスタッフに聞いているところを目撃したことがありますが、ああいうふうになっちゃいけないなとは思う。でも、私は授業に対して生真面目に臨みすぎるがゆえに、余裕がなくなってるのではないかと同僚は言うのですね。「なにかの原因で、自分の理想の状態から外れると、表情が険しくなってるんじゃない?」

いや、よくおわかりで。そういう険しい表情になればなるほど、生徒側も萎縮して「ノらなく」なるのかな。というわけで、もう少し「ユルく」授業をするべく努力してみようと思いました。……って、「ユルさ」を醸し出すべく努力しているようでは全然「ユルく」ないわけですが。

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https://www.irasutoya.com/2020/10/blog-post_49.html

フィンランド語 99 …日文芬訳の練習・その29

「ネタバレ」は「他人の楽しみを邪魔する」、「日進月歩」は「引き続き進化している」と言い換えました。最初に日本語で文章を書いてからフィンランド語に訳すのですが、あまり日本語の表現に拘泥しすぎるととんでもない迷文になるのは中国語でも経験済みなので、シンプルにシンプルに。

まだ複雑なことや抽象的なことは書けないので、そこはぐっと抑えて単純な自分を受け入れるのが外語学習における作文の「心得」のような気がします。

最近カズオ・イシグロの小説を読みました。最新作の『クララとお日さま』です。ネタバレになるのであまり詳しくは書けませんが、AIをめぐる叙情的な作品で、とても感動しました。AIが登場して、機械翻訳も日進月歩の進化を続けていますし、将来は外語の学習が不要になるという人もいます。でも外語を学ぶことは、思考を母語の外側に広げることです。人々が外語を学ばなくなり、母語の内側だけで思考するようになったら、人類の思考は退化してしまうのではないかと思います。


Minä luin äskettäin Kazuo Ishiguron kirjoittaman romaanin. Se on hänen viimeisin teoksensa:“Klara ja aurinko”. Vaikka minun ei pitäisi kertoa yksityiskohtaisesti, koska häiritsisin muiden hauskanpitoa, mutta se oli lyyrisen tarinan tekoälyistä. Olin todella vaikuttunut siitä. Meillä on jo ollut tekoälyjä, ja konekäännöksiä on kehittynyt jatkuvasti. On sanottu, että meidän ei pitäisi opiskella vieraita kieliä tulevaisuudessa. Kuitenkin kun me opiskellaan vieraita kieliä, me voidaan ylittää äidinkielten ajatteluja ulkopuolelle. Jos ihmiset eivät haluaisi oppia vieraita kieliä ja ajattelisivat vain äidinkielensä sisällä, mielestäni ihmisten mielet palaisivat alkeelliseen.


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「ウヨい」方々について

私はブログをこの「はてなブログ」のサービスを利用して書いているのですが、「はてな」には面白いブログがたくさんあります。特に「週刊はてなブログ」で毎週発表されている「今週のはてなブログランキング」には、その週に最も多くブックマークがついた記事がずらっと並んでいて、どれも読み応えがあります。そしてみなさん、本当に文章がうまい。私のように文才の乏しい人間はただただ仰ぎ見るばかりです……。

今週のランキングでは『黒色中国BLOG』さんの「#ネトウヨが発狂しそうなことを言う 中国編」という記事を面白く読みました。現時点で295はてなユーザーのブックマークがついています。
bci.hatenablog.com
私は黒色中国氏のお考え、たとえば「男は男らしく、強く、たくましくあるべきだと思っている。身体を鍛えて、武道の1つでも身につけて、女子供を守る。仲間を守る。家庭を守る。国を守る。いざとなったら戦うぞ!」という価値観にはあまり共感できない人間ですが、それでも氏のおっしゃること、とりわけ中国人に対する観察と、そこから生まれるスタンスには「わかるなあ」という部分がたくさんあります。

黒色中国氏は「中国人はガチのリアリストである」と書かれています。いや、ホントにその通りです。私など、中国人、というか華人全体の、あの透徹したリアリズムに日々驚嘆させられ、学ばされています。そしてそんな中国人を少しも知ろうとせず、予断と偏見に満ちた言説ばかり繰り返す頭の悪い「ネトウヨ」に対して黒色中国氏は容赦ない批判を浴びせるのです。中国人と直接話したこともなく「リアルの中国に飛び込んで行こうともせず、ネットでデマや誹謗中傷ばっかりやってるネトウヨはホントにダメな人間だと思う」と。わははは。

私はもう何十年も前の学生時代から、どうして日本の右翼と呼ばれる人々はあんなに頭が悪いのかと、本当に国を愛しているならあんな奇矯な行為に出るはずないじゃないかと思ってきました。もっとも「心ある」右翼の方々からすれば、例えばコスプレして街宣車でがなっている人々など右翼ですらないと思ってらっしゃるでしょうけど。

嫌中嫌韓が嵩じて「断交だ!」などと書き散らす人々はネットにも大量に存在しますが、少しでもものを考えたことがある人なら、本当にそうなっていちばん割を食うのは自分自身だということがわかるはずです。世界はそれほど複雑で緊密に絡みつき、結びついているのですから。想像力がなさ過ぎるというか、動物的な脊髄反射がイタいというか。

まあいつの世にも学ばない・学べない人たちはいますもんね。その系譜は現代の「ネトウヨ」と呼ばれる人々の大半にもしっかり引き継がれているようです。「私自身がウヨい人間であっても、彼らが苦手で、できれば関わりたくない…相手にするのは時間の無駄、と思って避けている」とおっしゃる黒色中国氏に共感するゆえんです。

ところで余談ですけど、フィンランド語で「シャイ」とか「臆病」とか「引っ込み思案」なことを“ujo(ウヨ)”というんですよね。“Tom aivan hirvittävän ujo.(トムは人見知りが激しい)*1”。中国語も学ばず、「リアルの中国に飛び込んで行こうともせず、ネットでデマや誹謗中傷ばっかりやってる」ような「ウヨい」方々というのは、本質的にシャイで臆病者なのかもしれません。

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https://www.irasutoya.com/2019/09/blog-post_98.html

*1:ネットのフィンランド語辞書に載っていた例文です。

クラフトコーラのシロップ

いつも仕事帰りに寄っているスーパーで「コーラベース」というものを見つけました。炭酸水などで割るとクラフトコーラができるというものみたいです。昨日ブログに書いた、ノンアルコールビールと合わせると面白いんじゃないかと思って、買ってみました。

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ネットで調べてみると、福島県郡山市の「小田原屋」さんが作っている製品のようです。オフィシャルサイトでも通販していますが、どうやら業者向けの卸しかやっていないようですね。たぶんうちの近所のスーパーは、仕入れ担当の方がこれを見つけて「おもしろい!」と発注したのでしょう。

odawaraya.bcart.jp

ちなみにネットで「クラフトコーラ+シロップ」などのキーワードで検索してみると、日本全国いろいろなところで商品開発され、販売されていることがわかります。ふだんからコーラをまったく飲まない私は、クラフトコーラがこんなにブームになっているなんて、知りませんでした。

ノンアルコールビールを(それなりに)おいしく飲む

酒量を減らしたいと思っています。というより、年をとってお酒に弱くなり、そんなに飲めなくはなりました。それで一時期は「もう一生分飲んだ」ということで断酒していたのですが、やはりどうしても夕飯にはお酒を合わせたくなって、ついつい飲んでしまうのです。

しかし、もとよりお酒に弱くなっているので、すぐに酔ってしまいます。そして一度酔ってしまうと、もう何もしたくなくなっちゃう。いちおう夕飯の後片付けまでは気合いでこなしますが、そのあとはもう読書をするにしても、こういうブログなどの文章を書くにしても、ほとんどはかどりません。これはかなり時間をムダにしています。

ということで、ノンアルコール飲料を開拓しようと思って、一時期はいろいろと試していました。

qianchong.hatenablog.com
qianchong.hatenablog.com
qianchong.hatenablog.com

しかしこれらも、そう手軽に作れるものではなかったり、少々甘すぎて食事には合わなかったり、そもそもが美味しくなかったりで(注文がうるさいです)、結局は日々の暮らしに定着しませんでした。ところが、先日書店で立ち読みした、ノンアルコールドリンクに関する書籍に興味深い記述を見つけました。「ノンアルコールビールにジュースを足す」というものです。

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はじめよう! ノンアルコール: 6つのアプローチでつくる、飲食店のためのドリンクレシピ109

これまでノンアルコールビールはほとんどのメーカーのほとんどの製品を試してきましたが、どれも「かなりまずい(たいへん失礼!)」と思いました。広告などでは「美味しくなった!」などと喧伝されていますが、そのたびに試しては「ええ〜、どこが〜?」という感じで。

それにノンアルコールビールは、ビールの味に近づけようとする企業努力のあまり、けっこういろいろなものが添加されています。甘味料とかアミノ酸とか、苦味料、酸味料などなど。そういう成分表示を見ちゃうと「そこまでするんだったら普通のビール飲んだ方がいい」という気持ちになっちゃって、どうにも手が伸びないんですね。ほんとにワガママですみません。

ところが、上掲の本に従ってノンアルコールビールにジュースを少量足してみたら、これがけっこう美味しかったのです。特にグレープフルーツなど加えると、苦みがビールっぽい苦みとよく馴染んで、なおかつフルーティー系のビールの味にかなり近くなります。ちょっと白濁系のプレミアムビールっぽい感じもします。こんな簡単なことに、なぜいままで気づなかったのか。

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▲泡立ちはいまひとつですけどね。

というわけで、しばらくはあれこれジュースを変えながら試してみたいと思います。いまのところ、原材料が一番シンプルなキリンの「グリーンズフリー」をベースにしています。フルーツのシロップなんかも試してみたいですね。ただシロップは甘みがかなり強くなるので食事には向かないような気もしますが。

ところで、ノンアルコールビールについてはこちらのサイトで「飲み比べ」が行われていました。最後に出てくる「龍馬1865」はうちの近所のスーパーにも売っていて、なかなか美味しいです。トップ評価の「ヴェリタスブロイPURE&FREE」は知らなかったなあ。どこのスーパーでも見かけたことはないし……と思ってネットで検索したら、Amazonで売ってました。さっそく注文してみました。

www.ienomistyle.com

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ノンアルコールビール ヴェリタスブロイ 缶 330ml×24本