インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

炊事に飽いたわけではないけれど

ほぼ毎日、お弁当と夕飯を作っています。私は買い物や後片付けも含めて炊事が大好きな人間で、これまでは特につらいとも面倒だとも思ったことはなかったのですが、最近はちょっと考えを改めました。その理由は一日のうちで自分が自由に使える時間、特に自分の勉強に充てられる時間がとても少ないことに耐えられなくなってきたからです。

毎日忙しく働いていて、働くだけでは不健康なこと極まりないのでジムに通い身体を動かしていると、一日があっという間に過ぎていきます。炊事を含めて家事は不可避ですが、家事に時間を取られ過ぎていると本を読んだり勉強したりする時間がどんどん減っていきます。気がついたら一週間ろくに本を読んでいなかったということもしょっちゅうで。これではいけません。人は本を読まないとバカになります。

というわけで、食に対するこだわりを一部捨てることにしました。毎日きちんと作るのはやめて、ご飯と味噌汁とその他一品、つまり一汁一菜でよしとします。週末だけ、これまでのように楽しんであれこれ作ることにしようと。え? 出来合いのお惣菜や弁当で済ませれば、さらには外食で済ませればもっと楽になるんじゃないか? いやいや、もうああいった味が濃くて塩辛いものは身体が受けつけないのです。それにプラスチックごみが大量に出るのも心苦しい。実にめんどくさい中高年です。

そんなことを書いていたら、Twitterのタイムラインで偶然こんなのを見つけました。

わははは。毎日のご飯をどうするかというのはどこの家でも共通の課題なのですね。私は疲れて帰ってきた日に限って餃子が包みたくなったりする性格ですが、勉強のためにちょっとそれは我慢しようと思います。

正直、私はこれまでの人生で、炊事に飽いたり、炊事を苦に感じたりしたことは一度もありませんでした。だから今のこの、自分の心境の変化がちょっと意外ですが、反面新鮮な気持ちでもあります。何でもかんでも歳のせいにするべきではないけれど、歳をとって今まで色々とこだわっていたものが少しずつ剥がれて落ちていくという感じです。

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https://www.irasutoya.com/2018/09/blog-post_695.html

カメントツの漫画ならず道

書籍はすべて紙の本を買っています。電子書籍もずいぶん買って読んでみたのですが、どうしても読書の体験が薄いように感じてしまい、読後も印象に残らないことが多いのです。それに電子書籍では、紙の本のように読んでいる最中に束(つか)の厚さを見て「半分くらい読んだ」とか「あと1/3くらい残ってる」という確認ができないのも大きいかなと。電子書籍でも「何%」という表示は出ますが、束の厚さでそれを知るのがなにか読書体験に大きく寄与しているような気がするんですよね。

とはいえ、マンガはすべて電子書籍で購入しています。これも本当は紙の本で読みたいんですけど、マンガはとにかく場所を取るので、極狭な自宅のささやかな本棚がすぐいっぱいになってしまうため、やむなく。今回読んだ『カメントツの漫画ならず道』全2巻もそうでした。

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カメントツの漫画ならず道(1) (ゲッサン少年サンデーコミックス)

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カメントツの漫画ならず道(2) (ゲッサン少年サンデーコミックス)

でもこのマンガは、やっぱり紙の本で読んだほうがよかったと思いました。第1巻にマンガ書籍の編集から製版、製本にいたるまでのルポが出てくるのですが、やはりビジュアルが主体のマンガだけに、それを紙に印刷して本に仕上げるまでにはものすごく多くの人たち、それも職人的な技能を持った人たちの手がかかっているんですね。文字だけの本なら要するにデータだと割り切ることもギリギリ可能ですが、マンガのような表現形態こそ紙の本で流通させなければ、と思ってしまいました。う〜ん、どうしよう。

カメントツ氏の画風は編集者から「筆圧高くて暑苦しい」と評される独特のもので、確かに中世の木版画みたいな雰囲気があります。この線のほとんどを「ポスカ」(水性サインペン)で描いているというのも作中で明かされていて、びっくりしました。ルポマンガという作風は西原理恵子氏の『できるかな』シリーズなどに通じるものがあります(その西原氏もルポしています)が、着地点は(ご本人はそう言われるのを嫌がるかもしれないけど)とても真面目で誠実。

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▲第1巻45ページ

この一見アナーキーな毒がありそうで、その実しみじみしたものが残る作風はどこかで……と頭の片隅で思いながら読み終わって、しばらくしてから「ああっ!」と気づきました。以前Twitterでよく見かけていた『こぐまのケーキ屋さん』と同じ作者さんじゃないですか。

nlab.itmedia.co.jp

フィンランド語 73 …日文芬訳の練習・その9

先日NHKの『ガッテン!』で放送されていた話題です。「うなずき」というか「身振り手振り」というか、とにかくオンライン授業の向こうにいる学生さんの反応の薄さに参っちゃっている教員が多いので、とても興味深く見ました。それから私自身、オンライン授業に生徒として参加する際は、なるべく多くうなずき、反応を返すようにしています。

自分が講師としてオンライン授業をする際も、あらかじめ生徒さんにこの話題を伝え、できるだけ反応を返してくれるように頼んでみました。趣旨を理解して応じてくださる方も多く、こころなしか授業がやりやすくなったように感じています。人間のコミュニケーションって、けっこう繊細な機微の上に成り立っているんですね。少なくとも私は一方的に喋って押し切るだけの知識も技量もないので、こうした機微はとりわけ大切だと思います。

先日テレビで興味深い番組を見ました。ビデオ会議はなぜ盛り上がらないかがテーマで、その原因は参加者の「うなずき」や身振り手振りが極端に少なくなりがちだからだそうです。意識的にうなずくだけでも、コミュニケーションがより活発になるそうです。私も普段からビデオ会議を多用していますが、これからは積極的にうなずき、身振り手振りを多くしてみようと思っています。


Minä katsoin äskettäin mielenkiintoisen ohjelman televisiosta. Sen aiheena oli:“Miksi videoneuvottelut eivät ole niin aktiivisia?” Ohjelma selitti, että ihmisillä ei ole nyökkäyksiä ja eleitä usein videoneuvotteluissa. Jos vain nyökkäisimme aktiivisesti, keskustelu tulisi aktiivisemmaksi. Käytän yleensä videoneuvotteluja, haluaisin lisätä eteenpäin nyökkäyksiä ja eleitä.


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https://www.irasutoya.com/2018/12/blog-post_888.html

オンライン授業への対応に明け暮れた今年(そしてまだまだ続く)

週一回のフィンランド語教室は、今週から全面オンライン授業になりました。教室は横浜にあって、横浜近辺の生徒さんは学校に通い、私のような遠方(?)の生徒はこれまでもオンラインで参加してきたのですが、それが一律オンラインとなったわけです。先生も横浜まで出講されず、ご自宅(たぶん)から授業をされるよし。

ここのところ続いている感染者の急増をみるに、当然の対応ですよね。私が勤めている学校のうちのひとつは現在のところオンライン授業と対面授業を組み合わせて続けていますが、これもそのうちまた全面オンラインになるのではないかと予想しています。オンラインでは対応しにくい実習が多い学校なので、正直そうなったらまたかなり面倒なことになるんですけど、仕方がない。ホント、GoToとかオリンピックとかやってる場合じゃないです。

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https://www.irasutoya.com/2017/10/e.html

私が勤めているもう一つの学校では、この春以来オンライン授業が継続されています。こちらは学校の教務が試行錯誤しながらZoomとLMS(Learning Management System:学習管理システム)を組み合わせて色々なアイデアを試してきています。単に授業をオンラインにするだけでなく、事前の資料配布や事後の課題提出、さらにはそのフィードバックまで。また授業前に教師や教務のスタッフ抜きで、生徒さんだけで情報交換できる待合室みたいなサービスも始めました。

すべてをオンラインで提供したことで、この学校ではいくつかのメリットを感じたそうです。まず、生徒さんの出席率が上がりました。学校に登校しての授業だと、交通機関や体調(気持ち?)などの関係で欠席や遅刻もよくあったのですが、オンラインでは毎回ほぼ100%の出席率に。生徒さんの負担が軽くなったんですね。

また遠方から参加する生徒さんが増えてきました。この学校は通訳や翻訳を専門に訓練するところですが、こうした専門校は東京や大阪などの大都市にしかなく、地方の方は通うのが難しかったんですね。それでも向学心に燃えている方はいて、大昔に私が通っていた頃など、毎週新幹線で仙台から来ていますとか、名古屋から来ていますといった生徒さんもいました。それがオンラインで一気に解決された。地方に住んでらして、通訳や翻訳の訓練を受けたいという方々にとっては大きな福音となったわけです。

生徒さんにとってはメリットが大きいオンライン授業(教育内容にもよりますが)ですが、教師側はどうかというと、私に限って言えばまだオンライン授業へ対応するために教材を調整したり準備したりすることに追われて、オンラインの特長を活かした授業にまで変貌できていないような気がします。まだどこかに対面授業の頃のやり方を強引にオンライン授業へ持ち込もうとしているところがあるような。

例えば通訳のノートテイキングをするときに、Zoomで教材を共有して視聴しつつ、こちらがホワイトボードでメモを取って見せつつといった授業は、共有するアイテムが音声(または映像)とホワイトボードの二つになるので、けっこう面倒です。それでももちろん不可能ではなくて、先日も配信用の授業動画を「音声+書画カメラの映像」同時共有という形で撮りました。ただこれをリアルタイムの授業でテキパキと行うのはもうちょっと練習が必要だと感じています。

ともあれ、コロナ禍が年をまたいでもう少し長く続きそうな現在、かなり大胆に考え方を組み替えて授業を作っていくしかなさそうです。フィンランド語の先生はこういうのがお得意のようで、これまでのオンライン+対面のハイブリッド授業でもホワイトボードとご自分の映像、さらに教室内を映すもう一つの映像も加えて、以前とほとんど変わらない授業を成立させていました。私ももうちょっとあれこれ工夫してみようと思っています。

それにしてもこの2020年は、こういったことに対応しながらあっという間に年末を迎えましたねえ。時の流れが実にはやかったなあ……。

通訳や翻訳の「倫理」

米国のオバマ前大統領の回顧録に記されていた日本の鳩山元首相に関する記述をめぐって、その翻訳についての議論がネットを賑わせていました。日本の大手メディア各社が鳩山氏に対してネガティブな表現となる訳文を載せていたことに対して、さまざまな英語関係者から疑問の声が上がっていたのです。昨日は翻訳家・文芸評論家の鴻巣友季子氏が、専門家ならではのとても分かりやすく丁寧な解説を書かれていました。

news.yahoo.co.jp

英文の解釈をめぐる解説もさることながら、この記事では後半に記されている「翻訳の倫理」という部分に大きな共感を覚えました。

翻訳というのは、「字面を訳すだけでなく、原文を深く読みこみ、深い意図を訳出することである」という一般認識がある。間違ってはいないのだけど、ひとつだけ注意してほしいことがある。深く読み、筆者の意図や言外のニュアンスを汲みとるのは重要だが、その筆者が言っていないことまで訳文に盛り込むのは、ご法度であるとわたしは考える。

通訳訓練でも言外の意味を、それも「まあだいたいこんなこと言ってるでしょ」的に恣意的な言外の意味を盛りたがる方は時折いて、そういう方に「そこまでは言っていませんね」と指摘しても、不思議なことになかなか改まりません。私ごときが言うのもおこがましいのですが、これはいわゆる「なんちゃって通訳」の世界で、とにかく原発言に対するリスペクトと慎重さに欠けること甚だしいのです。これはもうその方の生き方や人間性の問題なんでしょうね。

通訳で原発言にないことは盛らず、原発言にあることはすべて拾おうとするとか、できるだけ活き活きと語りかけるように話す(やり過ぎない程度に)とか、翻訳でも句読点や記号などの使い方に留意するとか、決められたフォーマットを遵守するとか、サービスの受け手の利益や利便性を考えてきちんと訳出できる方は自ずとそうしている、あるいはそうしようと努めています。

なのに、何度指摘しても「なんちゃって通訳」のクセが抜けないとか、暗く小さくボソボソとした声で訳すとか、句読点や記号や数字の使い方が不統一だとか、段落の最初の一字あけを忘れるとか、字幕は句読点のかわりに「半角スペース」だと伝えているのに句読点を使っちゃうとか……そういう方が毎年毎学期一定程度はいます。私はこれはもう講師が教えてどうこうできるものではないかなと、なかばキレかかりながら、なかば諦めの気持ちで、それでも指摘し続けています。

自分の話したいことを話したいように話すのはとても上手なのに、他人の話していることを正確に再現するのはとても苦手な方もいます。通訳や翻訳は畢竟、他人に成り代わってアウトプットをするサービス業ですから、その他人を最大限尊重するホスピタリティのようなものが必要不可欠なのですが、そこにどうしても想像の及ばない方はいる。こんなことを言うと身も蓋もないんですけど、翻訳や通訳にははっきり「向き不向き」があると思います。まあどんなお仕事にもそれはありますから、当たり前なのかもしれませんけど。

辞書によれば「倫理」とは「人として守り行うべき道」だそうです。学生さんの中には「いや、別に通訳者や翻訳者になるつもりはなくて、自分の語学の一環として訓練しているだけだから」という方もいて、そういう方に「倫理」など持ち出しても戸惑うかもしれません。けれど、上掲の記事で鴻巣氏も記されているように、翻訳や通訳は時に言語や文化の異なる相手同士の悪感情を醸成し、歴史を揺るがす結果をもたらすこともあるのです。語学そのものにもそうした怖さは潜んでいる(だからこそ真剣に学ぶに足る)。通訳や翻訳を学ぶ方にはぜひ、その怖さのひとかけらだけでも心の隅に留めておいてほしいと思います。

この件に関して今朝の新聞にこんなコラムが載っていました。なるほど、誹謗ネタとして使うために言外の意味を盛った可能性ですか……。それこそ倫理に悖る行為だと思います。

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日本語を教えるのなんて簡単?

留学生の通訳クラスで、外部から講師をお招きして講演会を行っていただき、その通訳をするという実習を企画しました。今回の講師は台湾人の言語学研究者で、日本人が中国語を学ぶ際に見られる問題点や課題などがテーマとなっています。それで事前に提供されたPowerPoint資料の予習を授業で行っているのですが、その中に出てきた中国語の声調、とりわけ「三声」と「半三声」の違いについて説明した部分が、華人留学生のみなさんは「どゆこと?」と理解できないご様子。ということで私が説明しました。

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第三声は沈み込んだあとに声が「ふっ」と抜けるような部分があるけれども、それをやり過ぎると最初は第二声との区別がつかなくなりがちなので、中国語の非母語話者である私たちはまず、とにかく低く抑えたままにして練習します。また、文頭や文中にある第三声はいちいち「ふっ」と抜けてられないので実質的にはやはり低く抑えたままになる。これを便宜的に「半三声」と呼んでいるんですね。

これらは中国語学習者にとっては、基本中の基本です。でも母語話者である華人留学生のみなさんはこれまで意識したことすらない(それでもできてる)知識なんですね。そりゃそうだ。母語ってそういうものです。

外語学習においては「ネイティブ(スピーカー)信仰」ってのがありまして、とにかくその言語の母語話者に習うのがベストと考える方は多いのですが、それはその方が自らの母語を非母語話者に教える技術なり知識なりを持っている場合に限ります。少なくとも初中級段階においてはそうです。

だから例えば中華人民共和国など、北京語言大学のように、対外的な中国語教育を研究して教員を養成するための専門大学まで設置し、あまたの専門家が「よってたかって」いかに非母語話者に中国語を教えるかを日夜研究しているのです。こういう自らの母語を普及させるための中国の徹底した姿勢、賛否はあるでしょうけど、私はある種の「すごみ」を感じます。

日本語だって事の次第は同じです。私も通訳翻訳教育で留学生に教えていますが、日本語教育を行っているとはとても言えませんし、その知識も技術も乏しいものです。日本語教育という側面で私ができるのはせいぜい日本語の母語話者としてその日本語が通じるかどうか、不自然ではないかどうかの判断くらい、もしくは他にどんな表現・より良い表現がありうるかの提案くらいで、きちんとした文法や語彙やその他の説明は別途日本語教育専門の講師が行っています。なのに世間には、日本語母語話者でありさえすれば日本語を非母語話者に教えることができると思っている方がけっこう多いことに驚きます。

先日Twitterで、こんなツイートに接しました。このマンガに出てくる「ぜったいおれもできるわー おれも日本語教師なっちゃおうかなー」とか「じゃあ私にも出来そうだ」とか「わたしも退職したらやろうと思ってますよ日本語教師!」といった発言に軽い殺意を覚えるのは私だけではありますまい。わはは。そういう方には、じゃあ助詞の「は」と「が」の違いを説明してくれませんかとでも言ってみましょうかね。

まあ私も、中国語の講師としてぶち切れそうになることはたまにあります。「中国語の新聞だったらけっこう読めると思いますよ。漢字の意味が分かるんで」という方(主にオジサン)には何度も遭遇したことがあります。また華人留学生で「日本人に中国語教えるバイトないかなー それなら楽勝なのになー」などと言っている人にも。そういう留学生には、例えば「じゃあ“我學中文學了三年”と“我學中文學了三年了”の違いを説明してみて」などと言ってみるのですが、これまでに明快に説明できた方はほとんどいません。

自分の母語を非母語話者に教えるには知識と技術が要り、ことはそう簡単ではないというの、もう少し広く知られてもいいのになと思いました。これも何度も申し上げている「言語リテラシー」教育のようなものの必要性というところに収斂していくお話ですか。

再び言語リテラシー教育(のようなもの)の必要性について

通訳の仕事をしていると、時々とても奇妙な「言語観」を披露してくださるクライアント(お客様)に遭遇することがあります。そうした方々は、通訳業務の前に決まってこんなことをおっしゃいます。「言った通りに訳してくれればいいから」。つまり通訳(や翻訳)は、単に「一対一」の言葉の変換だと思われているわけですね。

確かに固有名詞や数字みたいなものは一対一の変換でできます。「北京」なら“Běijīng”ですし、「一月一日」なら“Yīyuè yīhào”でしょう。もちろん文脈によって「首都」や「元旦」と言い換えたりすることもあるでしょうけど。でも多くの発言は一対一の変換では訳せません。なのにそうしたクライアントは「北京と言われたら、ベイジンだっけ? そう訳すでしょ? だから私が例えば『バタ弁微開でミニフロ運転*1』って言ったら、その中国語を言ってくれるだけでいいんだよ。簡単でしょ?」とジャーゴン(業界用語)全開の発言を「言ったとおりに訳せばいい」とおっしゃるのです。

ま、ちょっとこの例は誇張していますけど、こんなふうに通訳や翻訳を捉えている方は存外多いのです。だからそういう方はまた、発言の途中で突然切って「はい、とりあえずここまで訳して」なんてこともおっしゃいます。長い発言になると訳しにくかろうと、こちらを慮って(?)くださっているのでしょうけど、言語によって統語法も違うんですから、文章を最後まで言ってくれないと訳しにくいこともあります。これも通訳は単に言葉の置き換えだと思い込んでらっしゃるからなのでしょう。そういえばどこかの政治家が日本語での発言の最後に「ワン、プリーズ」と付け加えたので、通訳者が「何ですか、それは」と確認したら、「そんなこともわからんのか。『ひとつ、よろしく』だよ」と言った……というジョークもありましたね。

今朝の東京新聞に興味深い記事が載っていました。街の看板や案内文、ウェブサイトなどに、機械翻訳の結果をそのまま使ったような奇妙な誤訳の外語(英語)が多いとして、有志が「日本の英語を考える会」を立ち上げたというニュースです。

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こうした問題はどこの国や地域でも見られることですが、私たちのこの日本に限っても、記憶に新しいあの「サカイマッスル」や、このブログでも何度も指摘してきた自治体のGoogle翻訳丸投げ問題など、枚挙にいとまがありません。

qianchong.hatenablog.com
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日本は、ほぼモノリンガルで社会を回すことができ、曲がりなりにも高等教育まで自らの母語で行うことができています。侵略や植民地支配などの結果、土着の言語以外に英語などをかなりの割合で使わなければいけなくなっている国が多い中、これは僥倖といってもいいでしょう。そうした国々では、英語などを使わねばならない現状を受け入れながらも、いかに自らの言語を守っていくかに腐心しています。でも日本にはそうした懸念がほぼありません。

いや、個人的には私、日本語の行く末をとても憂いています。それでも日本語はまだまだ世界の中では「巨大言語」です(話者が一億人以上いる言語は世界でも十個ほどしかないのです)。もちろんその巨大な言語がぎゅっとこの日本列島に圧縮されて使われているというのが特殊なのですが、それでもこの中にいれば豊かな言語生活を送ることができます。

一方で日本は「翻訳大国」だとも言われています。日本はほぼモノリンガルの社会であるがゆえに(といっても明治維新以前は、実用的なコミュニケーションに支障があるほど地方ごとの「お国言葉」は隔たっていたのだそうですが)、昔から海外の知見をせっせと翻訳して自家薬籠中の物にしてきました。なのに、なぜ一般民衆のレベルでは現代に至ってもかくも翻訳や通訳に対するナイーブというかプリミティブな考え方が改まらないのか、大きな謎です。

私見ですが、これは要するに、そも言語とは何か、母語の獲得と外語の習得はどう違うのか、言語の壁を越えるとはどういうことか、翻訳や通訳とは一体どういう営みなのか、異なる言語や文化を持つ人々とのコミュニケーションにはどんな面白さや難しさや、そして一面の恐ろしさがあるかなど、「言語リテラシー」とでもいうべき教養、あるいはそのための教育が日本に決定的に欠けているからではないかと思っています。

幼少時から外語(なかんずく、英語)教育にはこれだけ熱心だというのに、一体これはどうしたことでしょうか。私たちは外語に対するいじましいまでの憧れとコンプレックスを抱いている一方で、いささかナイーブ(うぶ)な心性を持っているんですね。日本語と外語を往還することに対して、単に言葉を置き換えればよいとか、言葉は拙くても誠意があれば通じるなどと、かなり単純で甘い考え方をしているのではないかと。もっと厳しい言い方をすれば言語を舐めているのではないかと。そんな私たちであるがゆえに、こうした珍訳・誤訳が後を絶たないのかなと思います。

外語を学ぶ前に、あるいは外語を学ぶのと並行して、こうした言語リテラシー的な知識を涵養していくことは、外語学習そのものにも有効に働くと思います。また、将来直接外語を生業としない人々にとっても、人間関係を主体的にハンドリングするためのヒントになるなど、人生の中で大きな糧になるのではないかと私は思っているのですが。

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*1:毎回使っている例ですが、これは天然ガスのプラントで働いていたときに使っていた言葉です。「バタフライ弁をほんの少しだけ開けて、最低流量(ミニマムフロー)でLNG液化天然ガス)を流すような操作をしなさい」という意味です。

ヒトの言葉 機械の言葉

川添愛氏の『ヒトの言葉 機械の言葉』を読みました。機械が人間の言葉を理解することについての基礎的な知識を紹介する内容で、母語の習得や外語学習についても多くの示唆が得られる一冊です。

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ヒトの言葉 機械の言葉 「人工知能と話す」以前の言語学 (角川新書)

AI(人工知能)技術の発達で、現在ではコンピュータやスマホなどの「機械」が人間の言葉を扱う場面が日常的に増えてきました。それもテキストや文章のみならず、音声言語の処理についてもこの分野の技術は日進月歩の感があります。その勢い余ってなのか、最近は「まもなく機械通訳が普及して、通訳者の仕事はなくなる」とか「ドラえもんの『ほんやくコンニャク』みたいなシステムが実用化されて、人類は外語学習から解放される(だから英語なんか必死に学んでもムダ)」といったような言説も時折目にするようになってきました。

私などそういう言説に接するたび、職業的な「ナマ」な立場からも大いなる関心と不安を持たざるを得ないのですが、AIや言語処理についての入門書を読み漁っていると、ことはそう簡単ではないということがおぼろげながらに分かってきます。定型的なフレーズだけを使っても対応がほぼ可能な買い物や観光などの用途ならともかく、もっと高いレベルの(専門的で、抽象的で、複雑で、時に曖昧な)コミュニケーションに耐えうる機械通訳的なサービスを実現するのはとてつもなく難しいということが分かるのです。

この本でもその「難しさ」についての例がいくつも紹介されています。例えばそのひとつはこんな感じです。

太郎と花子は『春の小川』と『さくら さくら』を歌った。

川添氏はこの表現には少なくとも三通りの解釈があるといいます。①太郎と花子が両方の曲を一緒に歌った。②太郎が両方の曲を歌い、花子も別に両方の曲を歌った。③太郎が『春の小川』を歌い、花子は『さくら さくら』を歌った。これらを訳すとすればそれぞれ違った表現になりますが、元の発言がそのどれであるかを判断するためにはこの文章だけでは足りず、さらに情報が必要です。それはとりもなおさず、機械がこの文章を理解する際の困難度を示しています。こうした曖昧さというか不明確さ、あるいは「言外の意味」みたいなものを機械が理解するのは容易ではないんですね。

私が台湾で社内通訳者として働いているときに、施工現場でとある日本人技術者がこんな発言をしたことがありました。

向こうにあるあれ、ああしとくのは何だから、何とかしちゃってよ。

これを中国語へ訳す立場にいた私は、その時にその技術者が顔や指で指し示していた方向と、それまでの現場での背景知識と、その瞬間における現場の状況などを加味して、なおかつ若干の再確認をその技術者に入れつつ訳したわけですが、そういう「言外の意味」を機械が理解するのは(いまのところは)ほとんど不可能だということがこうした入門書を読むだけでも分かってきます。

生身の人間の発言は、時に意図的か無意識かに関わらず曖昧な部分が多いですし、冗語や間投詞も入ります。個々人の発音や語彙の選択の癖や偏りもある。それらを一つ一つクリアしていった先に実用に耐えうる機械翻訳が実現するとして、そこまでには超えなければならないハードルがものすごく多いんですね。そう考えると、翻って我々人間の行っているコミュニケーション、特に音声によるそれが、どれだけ高度で複雑なことであるのかということも分かってきます。

この本ではその高度で複雑なコミュニケーションのベースになる母語の獲得についても、興味深い論点が紹介されています。母語の「生得説」と「学習説」など、言語学がご専門の方であれば言わずもがなの大前提のようですが、私を含む一般の人々にはとても新鮮に映るのではないでしょうか。外語の習得にコンプレックスと憧れがない交ぜになった心性を持ちやすい私たち日本語母語話者にとっては特に。

この、母語話者が自分の母語をどうやって身につけたのか、それもほとんど例外なく誰もが成功できるのはなぜかという謎は非常にスリリングで知的好奇心をそそられます。よく、子供は胎児の頃から母語のシャワーを浴びて蓄積を続けており、それが「臨界」に達したところで母語を話すようになるというイメージが語られますが、この本を読むとそれはかなり単純な考え方であることがわかります。

子供たちは、周りにいる大人たちがその言語のすべての知識を与えなくても、また間違った使い方を直されなくても、さらには自分から何度もトライアンドエラーを繰り返さなくても、まるで「一を聞いて十を知る」ように母語を獲得していくのです。それに対して外語の習得では文法や語彙など最大限の知識を学習し、間違った使い方を直され、自分から何度もトライアンドエラーを繰り返さなければ高いレベルでの獲得は難しい。

こうした事実をきちんと学んで知っておくことは、「子供が言葉を覚えるように外語をマスターできる」とか「音声を聞き続けるだけでペラペラになれる」などの怪しげな語学商売に引っかからないためにも大切なことだと思います。そして外語の習得がなぜこんなに難しいのかというこうした論点は、ぜひ初中等教育の段階で学んでおくべきではないかとも。

小学校から英語やプログラミングなどの必修化が行われるなら、それと並行してこうした言語学的な知見を反映した「言語リテラシー」的な科目も組み合わせるべきです。そうした背景知識の学習と並行して英語などの外語やプログラミングなどを学ぶほうが、その知識そのものがより分厚いものになるでしょうし、またその後の人生をより豊かにしてくれるだろうとも思うからです。

カーミット氏がたしなめる

Twitterのタイムラインで、カエルのカーミット(Kermit the Frog)氏によるこんなツイートに接しました。


平易な言葉で、いいことおっしゃいますねえ。でもこの、現時点で12000以上もの「いいね」がついているツイートの右下にあるこのアイコン(赤い丸で示しました)を押してみると「非表示の返信」がいくつかあって、罵詈雑言が並んでいます。こういう人たちはどこにでもいるんだなあ。

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私も時々こうしたリプライをもらうことがありますが、関わるのは人生の無駄なのでミュートしています。ブロックしてもいいけど、ブロックは相手への明確な意思表示なので、曲がりなりにもこちらから反応することになりますよね。それすら無駄だと思うので無視するわけです。

この世界を「ユニーク」なものにしているのは、他の誰とも違う一人一人がいてくれるからとおっしゃるカーミット氏は、しかし罵詈雑言はさらっと非表示にしている。一見矛盾しているようですけど、ヘイトスピーチ表現の自由ではないよと静かに、しかし厳かにたしなめているようで、これまたいいなあと思ったのでした。

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https://prcm.jp/album/93abad53e19d3/pic/80206758

『チョンキンマンションのボスは知っている』を読んで

香港は九龍半島の突端、メインストリートである彌敦道(ネイザンロード)に面して重慶大廈(チョンキンマンション)という有名かつ巨大な雑居ビルがあります。下層階には両替商や貴金属店や飲食店などが入っていて、上層階は安宿やいろいろな事務所になっています。もうずいぶん前のことですが、香港へ行ったときにこのビルの安宿に泊まったことがあります。すぐそばには5つ星のペニンシュラホテルがあるんですけど、チョンキンマンションのホテルは1つ星とか。星をつける意味あるのかしら。

香港人の留学生にも「センセ、あそこに泊まるのは危ないですよ」と言われるのですが、私が泊まった安宿はとても清潔で快適で、特に不安は感じませんでした。もっとも留学生が「危ない」というのは、とにかくごちゃごちゃしている雑居ビルだから、万一火災にでもなった場合に逃げ遅れるからということらしいですが。

それはともかく、安宿に泊まろうとチョンキンマンションの一階に足を踏み入れたら、とたんに複数の黒人男性が寄ってきて日本語で「ホテル、イラナイカ」とか「○○、ヤスイヨ」などと声をかけてくるのに閉口しました。私は上海から夜行列車で広州まで来て、それから香港に入ったのですが、ちょっと風邪気味で体調が悪かったため、面倒くさくなって思わず中国語で“我不是日本人!(オレは日本人じゃない)”と言ってしまいました。そしたら向こうも中国語で“噢,那你是什麼人呢……(じゃあ、アンタ何人だよ)”と困惑顔をしていたことを覚えています。

そりゃそうですよね。日本語で話しかけて、その日本語を理解したからこそ私が反応したのに、その私は中国語で「日本人じゃない」と言っているのですから、辻褄が合っていません。それはさておき、その黒人の彼らが中国語を、それも香港で使われている広東語ではなく北京語を駆使していたことがずっと印象に残っていました。彼らはどこの国の人たちだったんだろうと。

最近、小川さやか氏の『チョンキンマンションのボスは知っている』を読んで、その背景がかなりよく分かりました。この本は、チョンキンマンションなどを拠点にして独自のネットワークを作りながらビジネス(それもときに法的にグレーな範囲のものも含む)を展開しているタンザニア人に取材しています。もちろんこの本に出てくるタンザニア人は客引きのような「しょぼい」商売ではなく、もっと大規模で複雑なビジネスを展開していますから、私に声をかけてきた人たちとはぜんぜん違う人たちなのだと思いますが。

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チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学

私はこの本を「贈与経済」への興味から読みました。贈与経済についてはさまざまな人がさまざまな角度から論じていますが、私はかなり以前に読んだ内田樹氏のこの説明がとても魅力的に思えます。ご自身もおっしゃっているように、これはいまのところまるで「夢物語」なのですが、「金は天下の回りもの」というのをこの年になって特に強く感じるようになっているのです。

blog.tatsuru.com

ただ、今回読んだ『チョンキンマンションのボスは知っている』に出てくる贈与経済(的なしくみ)は、私の予想とはちょっと、いや、かなり違っていました。というか、あまりにもダイナミックすぎてちょっとついていけなさそう。また香港や中国、そして母国タンザニアならではの成立要件もかなり大きいように思います。イスラム教の文化(喜捨など)も絡んでいるかもしれません。さらに、少なくとも自分が参考にするにはあまりに人生の「経験値」がなさすぎるかなとも思いました。

思えばサラリーマンをしていた若い頃に、社員旅行で訪れたシンガポール(そんなバブリーな時代があったのです)で、その街全体から湧き上がるようなエネルギーに圧倒されて「ああ、こういう世界に飛び込みたい」と強く願ったことが中国語学習の大きなモチベーションになりました。それからずいぶん経ち、実際に中国や台湾で働く機会を得て、その時の願いはまあ実現したんですけど、いまこの年になって、正直ちょっともうついていけないなあと思っている自分がいます。

いやいや、私は家族にも友人にもあまりしがらみはないし(というか、できるだけしがらみを捨てるようにしてきた)、日本にも格段の愛着はないので、この先またどこかへ出ていくかもしれません。ぜひともそうしたい。でも、あの湧き上がるようなエネルギーの中に自分の身を投じたいとはあまり思えないんですよね。この本はフィールドワークとしてとても面白い内容でしたけれど、ごめんなさい、今の自分にはあまり響かなかったのでした。やっぱりこれが年を取ったということなのかしら。

フィンランド語 72 …日文芬訳の練習・その8

週に一度のフィンランド語教室、作文を継続して提出しています。一度やめたらもう続かないような気がして。以前にも書いたことがありますが、作文は(会話もですが)とにかく恥ずかしがらないことが肝要だと思います。「こんな幼稚なこと書いて笑われないかしら」とか「習った内容を全然活かしてない作文で先生が怒らないかしら」とかいろいろな考えが湧いてくるんですけど、はっきり言ってそれらは全部妄想です。作り話でもなんでもいいから、とにかく書き続けるのです。

今回も私は「しょーもない」内容の作文を書いて出しましたが、先生は丁寧に添削してくださいました。「弁当」は最初私は「luonaspaketti(食事のパッケージ)」と書いたんですけど、これだと弁当箱だけで中身がない感じになってしまうんだそう。「eväs」という言葉を教わりました。

それから「妻と家事を分担している」というところで「〜と一緒に」の定番「属格+kanssa」を使ってみたのですが、「vaimo(妻)」に所有接尾辞の「ni」をつけて「vaimoni(私の妻)」としたところで、最初は「属格+kanssa」だから「*vaimonni kanssa」としました。

でもこの表現でネットを検索してみても一つもヒットせず、そのかわり「vaimoni kanssa」はたくさん見つかりました。「vaimo」を属格の「vaimon」にしなくていいのかしら。この点を授業で質問してみたら、「vaimo」(というか人?)にまつわる以下の5つの格の場合は原形のまま所有接尾辞をつけて「kanssa」を続けると教わりました(多分以前にも教わったはずですが、忘れていた)。

vaimo 単数主格 〜は
vaimon 単数属格 〜の
vaimon 単数対格 〜をひとつ
vaimot 複数主格 〜たちは
vaimot 複数対格 〜すべてを

この5つの格ではすべて所有接尾辞がつくと「vaimo + ni(si / nsA / mme / nne / nsA)kanssa」になるんですね。「vaimo」を属格の「vaimon」にしなくていい。語学の授業では「以前に習ったことをまた聞いてもいいかしら」などと心配するのも無用なことだと思います。恥を捨ててどんどん聞く。語学ってある種「虚栄心」とのせめぎあいなんですね。

先週の土曜日は仕事をするはめになりました。それでフィンランド語の教室に参加できませんでした。ふだん私は妻と家事を分担していますが、ここのところずっと忙しく、夕飯を作れないこともあります。そんなときはお弁当を買って帰ります。私は横浜の有名な「シウマイ弁当」が好きです。東京でも買えますが、やはり横浜で買うのがおいしいような気がします。


Minä jouduin tekemään töitä viime lauantaina. Siksi en voinut mennä suomen kielen kurssille. Olen tehnyt aina kotityöt vaimoni kanssa, mutta minulla on ollut liian kiire viime aikoina, joskus en ehdi valmistaa illallista. Siinä tapauksessa ostaisin eväitä kotiin. Minä tykkään Jokohaman kuuluisasta “Shiumai”- eväistä. Vaikka voi myös ostaa sitä Tokiosta, mutta luulen, että Jokohamasta ostettu se on kuitenkin paras.


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フィンランド語 71 …読解は「俯瞰的」に

フィンランド語のクラスで使っている教科書で予習をしていたら、文法説明のあとにこんな一文が付されていました。この課では分詞の完了形や受動態などを学ぶことになっているのですが、だんだん文章が複雑な構造になってきて学習者が混乱するかもしれない……というのでアドバイスしてくれているんですね。お堅いイメージの教科書にこうした「人情味(?)」あふれるアドバイスが挿入されているのは面白いです。執筆者の個性なのか、それともフィンランド人の気風なのかは分かりませんが。

Hyvä neuvo: opettele lukemaan suomenkielistä tekstiä niin, että et lue sanasta sanaan, vaan katsot ensin koko lauseen. Tällöin voit paremmin nähdä ja ymmärtää pitkät ja hankalat rakenteet, jotka ovat sinulle outoja.


よきアドバイス:このようなフィンランド語文章の読解をする場合、まずは文全体を見るようにして、単語から単語へ一語ずつ読まないようにしましょう。こうすることで、難解だと感じる長くて複雑な構造をよりよく理解することができます。

これはたしかに「よきアドバイス」だと思います。特に語順で話す言語ではない(その意味では日本語に似ている)フィンランド語の読解においては、頭から一つ一つの単語を追いつつ意味を取ろうとしてもかえって混乱することがあると。もっと全体を俯瞰して意味を捉えた方がよいですよ、と言っているんですね。

これは中国語や英語を学んでいるとき、通訳や翻訳を学んでいるときにも有効なアドバイスだと思います。リスニングなどをしていても、学生さんによく見られるのは頭から全部聞こうとして全体の意味や意図を理解し損ねるという現象です。もちろん理想的には100%聴き取れた方がいいけれど、どうしたって知らない単語や言い回しは出てきます。

その時に、頭から全部理解しようとして一つでも知らない単語に出くわすと、そこで「フリーズ」してその先を聴いていないということがよくあるんですね。精緻な翻訳をする場合ならまた別ですが、話されていることを大まかに理解して、話者の「意図」をくみ取るためには、発話や文章全体を俯瞰する必要があると思います。

そのために「サマライズ(要約)」という訓練を行ったりもします。サマライズは例えば5分程度の音声や映像をメモを取りながら視聴して、そののちその内容を1分程度で誰かに伝えるという練習です。5分のものを1分にするので、当然すべてを再現することはできません。そこで情報全体を俯瞰して、どこが話の骨子でどこが枝葉末節かを見極めるようにするのです。

再現するときに「話の重要な筋道が分かればよく、少しくらい情報が落ちても構わない」とあらかじめ言われていると、比較的安心して情報を俯瞰することができ、「一つでも知らない単語が出たら即フリーズ」を防ぐことができるように思います。日本語母語話者の私たちだって、よくよく観察してみると相手の言っていることを100%聴き取ってコミュニケーションしているとは限らないです。重要なところだけ聴き取って、それをつないで相手の意図を理解している。もちろんそれが苦もなく瞬時にできるのが母語母語たるゆえんだと思いますが。

フィンランド語に話を戻すと、読解の場合まず一文の中の動詞を探すようにしています。それから動詞の人称と時制を確認する。さらに動詞に目的語がある場合はそれを探し、それから修飾語のような「枝葉末節」に踏み込んでいきます。中国語だと形容詞述語文みたいな動詞を介さない文章もありますが、フィンランド語の場合は英語の「be動詞」にあたる「olla動詞」もあり、たいがいの文には動詞が含まれています。

とにかく文の頭からかじりつかず「俯瞰的」に……というのが読解のコツなんでしょうね。「俯瞰的」だなんてどこかの国の首相の、説得力のない答弁みたいですけど。

もっとも、個人的には上掲の文にあった「sanasta sanaan(単語から単語へ)」みたいな面白い表現にすぐ飛びついてしまいます。フィンランド語は日本語の助詞にあたるものが単語そのものに含まれて格変化を起こすので「sana(単語)+sta(出格:〜から)」「sana+an(入格:〜へ)」となり、日本語によく似ているなあと思って。英語や中国語だったら「from〜to」とか「從〜到」みたいに前置詞が必要なのにね。こういう違いが面白いです。

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Helsingin uusi keskustakirjasto on herättänyt jo ennen valmistumistaan huomiota ulkomaillakin.

オンライン授業に「うな担」がほしい

昨晩偶然に見たNHK『ガッテン!』の「ビデオ通話の極意」は興味深い番組でした。オンラインの会議や授業が盛り上がらないのは「うなずき」と「身振り手振り」の少なさというお話。なるほど、そうだったのか。

www9.nhk.or.jp

Zoomなどを使ったビデオ会議システムではカメラと画面の位置がズレているため、対話している相手と目線が合いません。目線を合わせようとすればカメラのレンズを見なければならず、カメラのレンズを見ると画面に映っている相手の顔が見えず……ということになるからです。

これはやってみると分かりますが、相手と微妙に視線を外し合っての対話はどことなく不自然なんですよね。お互いに自分に話しかけている、もしくは相手から話しかけられている感じが薄くなる。番組では、これがまずオンライン会議や授業の盛り上がらない理由として挙げられていました。

それを解決するために、画面とカメラのレンズを一つに合わせるシステムも開発中だそうですが、実用化はまだまだ先になりそう。ということで番組がもうひとつ提案していたのが「うなずき」と「身振り手振り」だったのです。通常の対面形式では、目線が合うと自然にうなずいていたものが、視線の合わないオンラインではうなずきが有意に減ると。そして人は相手がうなずいていないと安心できない、自分の言っていることが伝わっていないような気がして、それで全体が盛り下がってしまうというのです。

確かに、私もオンライン授業を続けてきて、学生さんがうなずいてくれたり、何か反応をしてくれるととても「救われた」ような気持ちになります。特に語学の授業では音声が大切なので、学生さんは一律音声をミュートにして、発言するときだけ音声をオンにするようにしています。こうした環境では、学生からの声の反応がない中、私一人が延々語りかけ続けなければなりません。加えてうなずきなどの反応がないと、もう本当につらくなります。

番組では、会議の参加者に「うな担(うなずき担当者)」を入れる、もしくは全員がうなずくことを意識すると、途端に会議が活発になるという実験結果が示されていました。これは興味深い。私も授業で学生さんたちに、積極的にうなずいてもらうようお願いしてみようかな。

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https://www.irasutoya.com/2019/10/blog-post_611.html

もうひとつ、ビデオ通話では胸から上や、人によっては顔だけが映っている場合が多く、これも「盛り下がる」原因とされていました。せめて上半身、胸以上を映し、なおかつ身振り手振りを映すと、通話が活き活きとしだすというのです。番組ではとあるラッパーさんが両腕を組んで動かせないようにすると、途端に言葉を紡ぎ出せる数が減るという実験が紹介されていました。

しかもラップを伝えている相手が全くの無反応だと、これまた言葉が出にくくなると。逆に相手がうなずいてくれたり、リズムに合わせて動いてくれたりすると、とたんにラップが滑らかに。ビデオ通話でも首から上しか映らず、相手のジェスチャーやうなずきなどの身体の反応が見えないと、流暢性や言葉の検索の幅が失われるということなのだそうです。

いや、これは自分の経験に照らしても、とても首肯できる実験結果です。オンライン授業で学生さんの反応があまりに薄いと、こちらもどんどん元気を削がれていくような感覚になります。また通訳しているときも、聴衆がうなずくなどの何かの反応があると、それに勇気をもらって訳出もしやすい。逆に首をかしげられたり、イヤホンを外されたりすると、それだけで強烈なプレッシャーが襲いかかって訳出が乱れます。

いずれも半年以上オンライン授業をやってきて薄々感じていたことですが、様々な実験結果がそれを裏付けていて、とても面白いと思いました。人のコミュニケーションは、単に言葉の音声だけでなく身体全体の反応も大きな役割を果たしているんですね。あと、音声ということではやっぱり、話す人以外全員が音声ミュートというのは、これはもうどうしたって盛り上がらないです。ああ、大量の音声と画像のデータを安定してやりとりできる通信環境がほしい。5Gの普及が待ち遠しいです。

もうキャッチアップし続けなくていい?

週刊はてなブログ」の「今週のはてなブログランキング〔2020年11月第1週〕」で第二位になっていたこちらの記事を読んで、いろいろなことを考えました。さすがに達人の文章は読み応えがありますねえ。

yashio.hatenablog.com

ひとことで要約してしまうのも乱暴ですけど、この記事は「人が中高年になって徐々に周囲との不適合を起こしていくのは、能力の衰えというよりも『効率的・合理的な選択がもたらす結果』ではないか」ということをおっしゃっています。まさに中高年にさしかかっている自分としては、とても身につまされる話だと思いました。

人は中高年に至って「人生の残り少なさ」を意識しはじめます。そんな一般化をするなと怒る向きもおありでしょうけど、少なくとも私はそれを強く感じます。平均的な寿命という点でも、私はあと20年から25年ほど生きられれば僥倖というものでしょうし、健康寿命ということを考えれば、現在のように曲がりなりにもやりたいと思うことがそれなりにできる時間はもっと少ないと思います。

20年といったら、あなた、本当に短い時間ですよ。だいたい、大学を卒業したのがもう30年ほども前で、あれから今までの時間だってそんなに長くはありませんでした。「あっという間」とも言えないけれど、退屈するほど長い時間でもなかった。毎日毎日バタバタしているうちにここまで来てしまったのです。とはいえ不思議にあまり後悔はないですけども。

この記事では、年をとるに従って、新しいものにとりあえずキャッチアップして試してみるということをだんだんしなくなっていき、気がついたら周囲との間に「崖」ができていたり「いきなりハシゴを外され」たりするということが書かれています。確かに私も、以前ならとにかく「新しい物好き」で、新しいものはとりあえず試してみるという姿勢だったように思います。ネットのサービスはとりあえず使ってみるというのが基本姿勢でしたし、学生さんにもそう勧めていました。新しいスポットができたらとりあえず行ってみたいと思いましたし、大好きなラーメン屋さんの「開拓」にも熱心でした。

でも今は、まさにこの記事に書かれているように「自分の興味や関心の方向が定まってきたから」か、「有限な時間の使い方・振り分け方をコントロールしたいという感覚がより強くなっている」からか、あまり新しいものに手を出さなくなりました。昨今話題の『鬼滅の刃』にもまったく食指が動いていないし、SpotifyNetflixみたいなサブスクも利用していないか、退会してしまったものばかり。しかもこの記事にあるとおり、自分はそれを「合理的に選択していない」という意識なんですよね。

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https://www.irasutoya.com/2016/06/blog-post_27.html

ただ一方で、自分でも不思議なことに、年をとるに従って、とても合理的な選択とは言えないような選択が増えてもいます。趣味でやっている「お能」や「フィンランド語」なんて、その最たるものでしょう(先生方、ご無礼ご容赦のほどを)。それらに一生懸命取り組んだって、老後の暮らしが楽になるわけでは(たぶん)ない。セカンドキャリアのために手に職をつけるなどという目的なら、もっと「実用的」な学びにいそしむべきかもしれません。

かつて本業だった通訳翻訳業は、家庭の状況や業界の変化にコロナ禍も加わって実質「廃業状態」ですし、現在は固定した仕事として複数の学校で勤めている教師業もあと数年、どんなに長くても十年以内には退くべき時期が来ます。貯蓄や資産が潤沢にあるわけでもないし、年金が充分に支給される世代でもない。もうちょっと慌てるべきなのかもしれません。しかし、だからといって若いときのように必死でキャッチアップし続けなければいけないとも思わなくなっているのです。

上掲の記事の筆者氏はたぶん私より一回りほどお若いとお察ししますが、氏もキャッチアップのタイミングを逃すと「かなりの不自由や損を甘受させられるんだ、という怖さを認識してやるほかないんだろうか」と書き、「個人としてできるのは結局、ヤバイと感じたら面倒でも(自分には必要ない、興味ない、別に今困ってないと思っていても)やってくしかないのかも」と書かれているものの、「キャッチアップし続けること」にどこか及び腰な姿勢でいらっしゃるような気がします。

人はそれを「老い」と呼ぶのかもしれませんが、ああもうキャッチアップし続けなくていいんだと思えるようになったことが、損得に関わらず自分の好きなことをやりたいと思えるようになったことが、なんだかラクでうれしいんですよね。そうした自分が、しかしどんどん周囲との不適合を起こして「威張り系」や「昔取った杵柄系」の頑迷な老人にならないためにはどうしたらいいか、そのバランス点はどこにあるのかを考えるのが今の課題だと思っています。

qianchong.hatenablog.com

フィンランド語 70 …日文芬訳の練習・その7

予定が合わなくて、フィンランド語のオンライン授業を一回お休みしました。毎週作文をして先生にメールで送っているのですが、先生は授業後に、添削した文章をメールで送り返してくださいました。ありがたいことです。

今回もずいぶん直されました。やはり格変化を正確にできないのが一番大きな弱点です。これは日本語に置き換えてみれば、私たち母語話者が「てにをは」などの助詞をなんの苦労もなく使いこなせるのに、非母語話者はかなり長い間苦労し続けるというのに似ているような気がします。

それから、日本語の発想に引きずられて、フィンランド語としてはかなり「くどい」表現になっている部分もありました。例えば「内外のお客さんに見てもらう予定です」という部分、私は“Esitämme sen sisäkoulun ja ulkokoulun yleisölle joulukuussa.(私たちはそれを12月に学校の中と学校の外の観客に見せます)”と書いたのですが、先生は“Sitä esitetään kaikille yleisölle joulukuussa.(私たちはそれを12月にあらゆる観客に見せるつもりです)”とよりシンプルに直されました。動詞も受動態を使ってより自然な感じになっています。

もちろん細かいことをあれこれ書けるのも大切ですが、語彙や文法がまだまだ身についていない今は「要するにこういうことが表現したい」というつもりで思い切ってシンプルに書いたほうがいいように思いました。

私は東京の語学学校で中国語と日本語の講師をしています。学生は全員留学生です。欧米の学生もアジアの学生もいます。北欧の学生もいますが、スウェーデン人が数名いるだけで、残念ながらフィンランド人はいません。学校ではこのところ語学の一環として演劇の練習をしています。それは喜劇で、台本は私が書きました。物語は、さまざまな料理たちが「世界三大料理」はどれかを争うというものです。12月に上演して、内外のお客さんに見てもらう予定です。


Minä olen toiminut kiinan ja japanin opettajana kielikoulussa Tokiossa. Kaikki opiskelijat ovat ulkomaalaiset. Koulussamme on sekä länsimaalaisia että aasialaisia opiskelijoita. On myös pohjoismaalaisia, mutta on vain pari ruotsalaista, valitettavasti ei ole yhtään suomalaista. Viime aikoina olemme jatkuvasti tehneet draaman harjoituksia kielten oppimisena. Se on komedia, joka käsikirjoituksen. Tarina on seuraava; monien maiden ruoat taistelevat, että mitkä ruoista ovat “kolme suurta ruokaa”. Sitä esitetään kaikille yleisölle joulukuussa.


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