インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

東京の都心を歩く

街の風景や建物を見ていて、ときどきとてもはかない気持ちになることがあります。「世の中はこんなに複雑で豊穣で、ずっと昔から続いてきて、これからもずっと続いていくのだろう。この風景や建物だって自分が死んだ後もある程度はここに残り続けるのだろう」……という気持ちです。

最近、ジムでの有酸素運動の代わりに、東京の都心をできるだけ歩くようにしています。ちょっとした移動の際には公共交通機関を使わず、歩いて行くのです。そうやって見て初めて気づきましたが、公共交通機関を利用する際の待ち時間や乗り換え時間などを含めて計ってみると、歩いて行ってもそれほど大きな時間差はありません。30分のところが40分になるとか、せいぜいそれまでの1.5倍くらいの時間で歩けてしまいます。

これまではその駅の周辺の街しか知らなかったのが、続けて歩いてみると街全体がもっと大きなスケールで見えてきます。そうやって、東京の都心を点と点をつなぐように歩いていると、改めてこの東京という街のスケールと複雑さに圧倒され、一種の感慨を覚えます。先日は、半蔵門から永田町を通って赤坂見附辺りまで歩きましたが、途中に江戸城の石垣と堀の跡が残っているところがあります。その巨大な石垣を見たときにも、冒頭のような気持ちになりました。

tokyo-trip.org

この石垣は江戸の昔からずっとここにあって、時代の移り変わりとともに街の風景の一部として溶け込んできたわけです。そしてたぶん、今後も何十年、何百年という単位でここに残り続けるはず。石垣のような歴史的建造物だけでなく、例えば目の前に立っている最近落成したあのビルだって、スクラップアンドビルドが激しい東京都心ではあっても、たぶんあと数十年はこの風景の一部であり続けるでしょう。

いっぽうで私は、どんなに努力して、かつ運が味方してくれたとしても、せいぜいあと20年から30年ほどしか生きられないはずです。そのあとにもこの風景や建物は残り続け、その時代に生きる人たちがここを歩き、風景や建物はその人たちを迎え入れているでしょう。よほどの天変地異や大災害が起こればまた違う未来になるかもしれませんが。

それでも風景や建物はまだ少しずつ変わっていくでしょうけど、その場所の起伏や高低差などはたぶんそれほど変わらずにずっと残っていくはずです。そう、東京都心を歩いていると、その起伏や高低差がとてもリアリティを伴って感じられます。それまで公共交通機関で点から点へワープするように移動していたときには感じられなかった「街A」と「街B」の間にある高低差。これはもう確実に今後も何百年という単位でここに残っていくでしょう。地形にことさら偏執的な興味を寄せる(褒め言葉)NHKの番組『ブラタモリ』を引くまでもありません。

東京都心を歩くことで、そんなふうに街が見えてくるというのはとても意外な発見でした。もうかれこれ何十年もこの街に住んでいるというのに。これもまた歳を取ったということなのかもしれません。

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「常在戦場」ってこういうことかしら

コロナ禍の不安におびえながらも、お能の稽古を続けています。五月に国立能楽堂で発表会がある予定なのですが、その頃感染状況はどんな感じになっているでしょうか。最悪、延期か中止になることもあるかもしれません。あるいは「無観客に」……? 不安の種は尽きませんが、誰にも確たることは言えないわけで、とりあえず稽古を続けているのです。

今回私は、能の地謡を二曲、それに自分の舞囃子で出演する予定です。能は「頼政」と「猩々」。舞囃子は「邯鄲」。一番好きなお能の曲目で、しかも中国物。これを舞うお許しが出るとは思ってもみなかったので、今から緊張しています。

qianchong.hatenablog.com
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昨日は「頼政」の地謡のお稽古に行ってきました。このお能はかなり長く、地謡はたぶん板の間の能舞台に一時間半近く正座していなければなりません。謡を覚えて地頭に合わせてきちんと謡えるようにすることもさることながら、足のしびれ対策を考えないと、舞台から捌けるときに動けなくなりそうです。というわけで昨日は、謡の合間に扇を置く際、足を組み替えるなどの練習を一人でしていました。

「猩々」は比較的短いお能なので、足のしびれはなんとかなりそうですが、謡をもう一度おさらいしておかねばなりません。玄人の能楽師のみなさんはすべて謡を覚えてらっしゃるけれど、私のような素人は、かつてきちんと習ったはずなのに、いざ謡おうとすると「うろ覚え」の部分がたくさんあります。それに姉妹と違ってお能として上演する場合にはお囃子が入るので、謡が微妙に違います(囃子に合わせて音を持つ≒伸ばす部分がある)。これも通勤途中に聞きながら身体に覚えさせています。

舞囃子の「邯鄲」はそれほど長くありませんが、途中で舞う「楽(がく)」が少し特殊なのと、最後の「キリ」にいくつか珍しい型が入っていて、まだまだきちんと舞えません。それで鋭意練習中なのですが、昨日の地謡のお稽古で、大先生が急に「ちょっと舞ってみますか」と振ってこられました。おおお。玄人の能楽師はふだんから稽古を積んでいて、「常在戦場」とばかりにいつ何時でもすぐに舞えるように仕上がっているそうですが、素人の我々はなかなかそうも行きません。大先生のこの「無茶ぶり(失礼!)」は、その玄人の心構えを表しているようにも思えました。

ということで、大先生の張扇(はりおおぎ)によるあしらいと、先輩方の地謡で舞いました。一応最後まで舞えましたが、かなり心許なかったです。常在戦場じゃない私は、落ち武者状態で稽古を終えました。

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https://www.irasutoya.com/2016/11/blog-post_267.html

ペーパーフラワー作りが感慨深い

コロナ禍への対応に明け暮れた一年。早いもので、もう学年末、卒業式のシーズンが迫ってきました。思い起こせば一年前の今頃も、もうコロナ禍の影響が出ていて、学校全体で行う卒業式は中止に。でもそれじゃ卒業生があまりにかわいそうだからというので、私たちの学科だけで「手作り」の卒業式を開いたのでした。

それから一年、今年もまた卒業式は中止となってしまいました。そこで今度も私たちの学科だけでやろうということになり、いまその準備をしています。手作りでこういうイベント……となれば、つきものなのは色とりどりの折り紙で作るチェーンと、薄いクレープ紙で作るペーパーフラワーです。

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ペーパーフラワーはまずクレープ紙を何枚か重ねて、「蛇腹状」になるように折って、真ん中を輪ゴムでとめて、それから一枚一枚花びらを開いていく……というあれ。あらかじめ両端にはさみでいろいろな切り込みを入れておくと、表情の違うペーパーフラワーができて楽しいです。ああ、年度末の総括文書なんか書いてないで、一日中これやっていたい(こらこら)。

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で、仕事の合間を縫ってちまちま作っていたら、同僚が百均ショップで「こんなのあったよ」と買ってきたのが、ペーパーフラワー用にあらかじめ蛇腹状に折ってとめてあるクレープ紙。おお、卒業式入学式シーズンのニーズに合わせて、こんな商品まで開発されているのですか。素晴らしい。ということは今のこの瞬間にも、日本各地でこれを一枚一枚広げてながら「かわいい!」「きれいにできた!」と業務からの逃避をしている学校関係者が大勢いるということかしら。こんなの、日本だけですかね。

いえ、でもその気持ち、分かります。本当に大変だった一年を反芻しながら、ですよね。みなさん、ほんとうにお疲れさまでした。で、私はこのペーパーフラワーで飾った黒板の真ん中に描く「チョークアート」を仰せつかったので、今どんなのを描こうかと思案中です。

「○○先生の授業は準備不足ではないか」という声に対して

勤め先の学校は学年末ということで、学生のみなさんにアンケートを取っています。今年一年の学習を振り返って、授業のどんなところが役に立ったか、逆にどんなところが役に立たなかったか、教材についてはどうか、教師については……と、無記名で忌憚のない意見を集め、今後の教学に活かそうというわけです。

教師の中には、一部でこうしたアンケートに対して「学生に迎合的になる」として疑問視する向きもあるようですが、私はいろいろな意見を集めるのはいいことじゃないかなと思っています。もちろん、教師に「忖度」して本心からの意見や要望は出てきにくいのではないかとか、学校での勉強は後から振り返って「ああ、あれがいまこんな形で活きるんだな」と思えるようなものが多いので、いまここの段階での学生の要望をすべて聞き入れて行ったら収拾がつかなくなるという意見も分かるのですが。なんだかポピュリズムの問題と似ているような。

それはさておき、今年のアンケートでは複数の留学生から「○○先生の授業は、準備不足ではないか」という声が聞かれました。学生さんというのは授業中にボーッとしているようでいて(失礼)、けっこうこちらの技術や準備不足などを鋭く見透かしているところがあって、明らかな手抜きをする教師にはなかなか手厳しいのです。

私はかなりな小心者なので、そういう批判を受けないよう、授業の準備はかなりするほうです。これでももうずいぶん長い間やってきたので、だんだん手慣れて省力化できるようになりましたが、駆け出しの頃は本当に時間がかかりました。あまりに時間をかけすぎて、あるいは教材に凝りすぎて、先輩教師に忠告されたこともあります。いわく「ありものの教材でもそれなりに効果のある授業ができるのがプロというものですよ」。

確かに。それでも通訳訓練では「ありもの」や市販の教材にあまり食指が動かなくて、毎学期「何か新しい教材になるような音源や映像はないか……」と常に探し回っています。特に中国語の場合、現地の社会の変化があまりに早くて、ほんの数年前の話題でもかなり古びた感じがします。もちろん古い話題だって中国語には違いないんですから、それはそれと割り切って訓練すればいいのですが、なんだかこう、リアリティが薄いものは訳していても楽しくないんじゃないかと。

でもこうした教材作り、常勤で働いている教師ならまだしも、時給で働いている非常勤の先生方にもお願いするのはちょっと無理筋なんじゃないかと思います。だって教材作りは時給にならない授業時間外の作業なんですから。実はアンケートで「○○先生の授業は、準備不足ではないか」という意見が来るのは大抵が非常勤の先生方の授業です。その先生に「もう少し授業の準備をしていただけると……」とお願いするのは、当然の要求だと思う一方で、ちょっと気が引けもするのです。

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https://www.irasutoya.com/2018/01/blog-post_699.html

いや、いささか口幅ったい言い方になりますが、私自身は非常勤の時でも「時給ぶんの授業をすればいいでしょ」とは思わずに教材作りには時間をかけていました。「あの先生の授業は手抜きだ」と言われるのが怖かったからです。私は複数の学校に勤めていて、非常勤で授業をしている学校もありますが、そこでも最初は「手弁当」で教材を作っていました。その学校では後に「教材作成費」として授業のコマ数ぶんの時給以外にも報酬をつけてくれるようになりましたが。

こういうのはもう、教師その人自身の価値観とか仕事観みたいな話です。身過ぎ世過ぎの手段と割り切ってこの仕事をしているか、それともそうじゃないか。でも自分の労働は時給ぶんだけは提供させてもらうけど、時間外の教材作りなどはお断り(あるいはできるだけ省力化)というスタンスの教師がいたとして、それを強くは非難できないように思います。「同一労働・同一賃金」を徹底させるなら、常勤・非常勤を問わず労働ぶんに応じてきちんと報酬を支払うべきだと思うからです。

もちろん常勤の講師には授業以外にも実に細々とした事務作業や「ブルシットジョブ」が(またまた失礼)ついてまわり、それも「込み込み」で報酬が設定されています(それも本質的にはどうよ、と私などは思っていますが)。常勤・非常勤の別をなくし、教師が全員「同一労働同一賃金」で働けるようにするというのも、すぐには実現できないでしょう。それでも現実には、学生から講師の(特に非常勤講師の)準備不足を指摘される……先生方を管理する立場の者としては、どうしたものかなあ……と毎年考える羽目に陥るのです。

オンライン授業に欠けていたもの

台湾の大学に留学しようとする日本の学生が増えている。理由は、学費が安く、就職に有利だからーー。先日の新聞に、こんな記事が載っていました。

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中国語ができる人材=即戦力ってのが引っかかる上に、台湾の大学も様々なので安易な理想化は禁物ではないかなと思いつつも、こういう時代になったかと感慨深いです。遠隔授業中心の日本の大学より「期待通りに授業が受けられ」る台湾のほうがという需要もあるのかもしれません。これもまた、東アジアでは一番コロナ対策が後手後手に回ってしまった日本の、失政の影響と言えるかもしれません。

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https://www.irasutoya.com/2020/04/blog-post_283.html

勤め先の学校では学年末を迎え、オンライン授業などコロナ禍対応に明け暮れた今年度の総括を報告書にまとめているところです。書きながらこの一年を反芻していますが、日本の学生さんたち同様、外国人留学生にとっても明らかに負の影響が大きかったのではないかと思わざるを得ません。異国で一人パソコンやスマホに向かって学び続け、夏休みや年末年始に帰郷もできなかった……。その寂しさは想像するに余りあります。特に優秀な学生ほど「私は、一体ここで、何をしてるんだろう」と思ったみたい。

なかには、Zoomなどによるオンライン授業でしか学生と教師が接しない科目というものもあり、そのうちでも特に非常勤講師の先生方と学生との間に、相互信頼関係が構築されないまま一年が過ぎてしまったという事例もありました。専任や常勤の講師はまだ色々なチャンネルで学生とつながっており、時には登校日なども設けて直接の対話をしたり、相談に乗ったり、いろいろな
コミュニケーションが図られていたのですが、一部の非常勤の先生方はそういう「雰囲気」を醸成するチャンスなしに学生と向き合ってきたのです。そのため、教師の指導方法について疑問を呈したり、定期試験の採点基準について疑義を差し挟む学生が例年よりも有意に多かったように思います。

オンライン授業でも、やり方によってはゆたかなコミュニケーションを作り出すことはできると思いますが、そこはそれ、教師の方も初めての体験だったわけで、どうしても「痒いところに手が届かない」小さな局面が生まれます。そうした小さな局面が積もり積もって不信を育てて来てしまった……。これは一部の先生を管理する立場にある私にとっても、大きな反省点です。

もちろんすべての非常勤講師のオンライン授業に毎回つきあって「監督」することもできませんから、ある程度のコミュニケーションの齟齬は避けられないとは思うのですが、それにしても単に授業をオンライン化することにとどまらず、対面授業とはまた違った形の、それもメンタル面でのフォローなりケアなりがかなり重要なのだと、遅ればせながら気づいた次第。学生にも講師の先生方にも、申し訳ない気持ちです。

感染状況の進展によって、来年度の授業がどうなるかはいまのところまだわかりませんが、少なくとも今年の轍は踏まないようにしたい。そう思って総括を書いています。

フィンランド語 88 …日文芬訳の練習・その21

帰宅途中にZoomミーティングに参加した話を書きました。住宅街の中にある小学校の校門前から日本語と中国語でスマホに向かって話していたのですが、往来の人にはかなり奇妙に映ったと思います。すみません。

「屋外でZoom会議をした」というのを、最初は “kävin verkkokokouksessa ulkona” としていました。“käydä(訪れる)” には「出席する」の意味もあって、かつその場所は内格(ssA)で表される……という教科書どおりの書き方。先生からは “verkkokokousu(ネット会議)” を表すのに “etänä(遠隔で・リモートで)” という言葉もあるよと教えていただきました。“etana” とウムラウト抜きで書くと「カタツムリ」の意味になるから注意、だそうです。

先週、夕方からの会議の予定があったのに、忘れて帰路についてしまいました。帰宅途中で連絡が入りましたが、すでにかなり離れていたので、スマホから会議に参加することになってしまいました。幸いなことに(もしかしたら残念なことに)今は「Zoom」があるのです。屋外でZoom会議をしたのは初めてでしたが、意外なことに、コミュニケーションは通常とそれほど変わらずスムーズでした。いまや私たちはいつでもどこでも会話できます。でもはたしてそれは便利と言えるのでしょうか。わかりません。


Viime viikolla illalla minulla oli kokous, johon minun on osallistuttava. Mutta unohdin sen ja meni kotiin. Sain tekstiviestin työpaikalta, kun olin matkalla kotiin, mutta olin jo ollut niin kaukana, jouduin osallistumaan kokoukseen älypuhelimellani. Onneksi - tai ehkä valitettavasti - nyt meillä on Zoom-tapaaminen. Se oli ensimmäinen kokemus, kun kävin etänä kokouksessa ulkona, mutta kuten aina, keskusteleminen oli suhteellisen sujuvaa. Nyt me voidaan keskustella milloin ja missä tahansa, mutta onko se todella hyödyllistä vai ei? En ole varma.


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いつかたこぶねになる日 漢詩の手帖

私は詩というものが分かりません。いや、唐詩宋詞にも、俳句や短歌にも、また明治期以降の新体詩にも「いいなあ」と思うものがたくさんあって惹かれ、中には諳んじているものだってあるけれども、自分で紡ぎ出すことができないのです。詩心というものに乏しい人間なんでしょうね。

子供の時のトラウマもあります。小学校の国語の時間に詩を書く授業があって、たしか私は「風」に関する詩を書いたのでした。自分ではとても上手に書けたつもりで、帰宅して母親に読んで聞かせたら、母親は「なーんか」と軽く一笑に付したんですね。

「なーんか」というのは大阪弁で、説明が難しいですが、「なにをまあつまらないことを言ってるんだお前は」的なニュアンスの言葉です。とにかくそうやって笑われたのがとてもショックで、それ以来詩を書けなくなりました。あのときの母親はひどかったなあ。自分は俳句をやっていて、歳時記に作品が載るくらいの母親だったから、なおさら。

まあそれはさておき、長じてから通ったことのある文章教室でも詩やコピーライトのようなものを書かされたことがあるんですけど、これもまた箸にも棒にもかかりませんでした。講師の先生がコメントに苦労しているのが文面からありありと伝わってきて、恥ずかしくも申し訳ない気持ちになったことを覚えています。

そんな詩とはきわめて縁遠い私ですが、この本には圧倒され、打ちのめされ、そして久しく忘れていた(忘れようとしていた)詩への憧憬が強くよみがえってくるのを感じました。小津夜景氏の『いつかたこぶねになる日 漢詩の手帖』です。

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いつかたこぶねになる日: 漢詩の手帖

基本的にはウェブメディアに発表されたエッセイを一冊に編んだものなのですが、毎回さまざまな漢詩を取り上げ、それを実にさまざまな詩の文体で「翻訳」して読み解いています。登場する漢詩杜甫、蘇軾、陸游白居易李商隠……などなど中国の詩人のものあり、新井白石夏目漱石菅原道真など日本人で漢詩をものした人々の作品あり、それだけに時代も古代から近代までさまざま。

そしてまた「翻訳」される日本語のスタイルも、定型詩あり、自由詩あり、読み下しあり、漢詩を俳句に置き換えてみた実験的なものありと多種多様です。しかもそのどれもが実にたくみで、当意即妙で、圧倒的な語彙の豊かさに裏打ちされているのです。少なくとも“學而時習之不亦説乎”を「学びて時に之を習う亦説ばしからずや」と読む(読まされる)ような「チンプン漢文」(©高島俊男)とはまったく違った世界が広がっています。

日本の定型詩である俳句や短歌が「五・七・十七・三十一という素数から構成されている」というジャック・ルーボー氏の引用。「そもそも漢詩定型詩ではなく、明治になるまで日本で唯一の文語自由詩だった」という松浦友久氏の指摘。さらに作中の典故の多さから解釈が難しいとされる李商隠の作品を「記憶や喪失に蝕まれ、強い暗示性でもってヴァニタス、すなわち人生の虚しさを描くといったバロック的性格をもっている」との評。

はたまた、中国人が文字の書かれた反故紙を「惜字紙」と読んで敬い専用の焼却炉で焼いたという話(日本にもあるそう)。フランスの友人がコロナ禍のロックダウン中に「百個の漢字の読み書きを覚えると決めた」ことに対して「書き順を知らずして百個覚えるのはたぶん無理だよ」と助言したエピソード(私は初めて漢字の書き順を知っていることの愉楽を覚えました)。絵画を鑑賞するとき人は画面の奥の二次元世界に入り込む必要があるのに比べて、彫刻の鑑賞は「わたしたちといまここにある時空を共有」するという共生体験ではないかという見立て。

漢詩をはじめとする詩の面白さを様々な知識でもって教えてくれる上に、詩に連なるさまざまな文学や芸術についての考察がとても新鮮です。そして、そこで持ち出される知識がまたなんとも幅広い。博覧強記というのとはまた違って、この豊穣さはなんと表現すればいいんでしょうか。作家の池澤夏樹氏が帯の惹句に「この人、何者?」と書かれていますが、ほんとうにそんな印象です。巻末の参考文献を見る限り、中国語にも通じていらっしゃる方のようです。ほんと、何者?

平安時代の貴族にして詩人である島田忠臣を紹介している段で、小津氏はこう書いています。

忠臣という人はいつも自由かつ平明で、その見識の高さに読者が思わずひるんでしまうような書き方をしない。こういうのはもって生まれた性格なのか。それともつちかった教養のおかげなのか。

これは小津氏ご自身にもあてはまるのではないかと思いました。読み終わってすぐ、この本の前に刊行されている『フラワーズ・カンフー』と『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』もネット書店で買いました。届くのが楽しみです。

追記

フランス在住の小津夜景氏は、現在コロナ禍の影響からか日本に滞在されているそうで、池澤夏樹氏との対談が行われるという情報に接しました。仕事があってリアルタイムでは聞けなかったのですが、チケットを買いました。アーカイブで楽しむつもりです。

takobune.peatix.com

腰痛対策用のパソコンスタンド

慢性的な腰痛がいっこうに軽快してくれません。痛くなる場所は決まっていて、歩いたり、ジムで筋トレをしている時はなんともないのですが、デスクワークをしていると痛くなります。これはもう、要するに座って仕事をするときの姿勢に何か問題があるのですね。

それでジムのトレーナーさんにも相談していろいろと指導を受けています。指導を受けて身体を動かす中で分かってきたのは、ひとり「座り方」のみならず、全身の身体の使い方に偏りがあって、それが腰痛として現れているのではないかという点でした。特に私の場合は「骨盤がきちんと起きていない」のだそうです。ソファや電車のシートに浅く腰掛けるときのように骨盤が背中側に倒れすぎている。

もちろんデスクワークではそうならないように背もたれのない椅子……どころか、最近はバランスボールを椅子にしているのですが、それでも理想的な骨盤の起き方になっていないのが腰痛の主因であるようです。そういえば私は子供の頃から「胡座(あぐら)」をうまくかくことができません。どうしても背中側に倒れてしまいそうになる。これも骨盤がきちんと起きていないからなのでしょう。

それともう一つ、デスクワークで使っているノートパソコンの位置が低すぎて、そのために常に前屈みのような状態になっているのではないかという指摘も受けました。なるほど、骨盤は後ろに倒れかかっている一方で、上半身は前屈みになるということは、ちょうどその動きが相反する部分である腰に過分な負担がかかっているのは分かるような気がします。

というわけで、パソコンの画面をもう少し上げて、視線をできるだけ水平に保てるようにしました。同じように考える方は多いようで、ネットで検索してみると腰痛予防のためにパソコンの位置を上げるための製品がたくさん売られています。そのうちのひとつをさっそく購入して、使い始めました。これを使って、視線をほぼ水平に前へ向け、背骨をストンと骨盤に乗せた状態を保つのです。

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Almoz ノートパソコンスタンド

この製品、折れ曲がっている部分がかなり硬く作ってあるので、とても安定感があります。アルミの表面仕上げも上品で、ノートブックパソコンにもなじんでなかなかよいですが、ノートパソコンなので腕が少々疲れます。こうなると外付けのキーボードを買って腕だけは下げるようにしたほうがいいかなあ。バランスボール、パソコンスタンド、外付けキーボード……腰痛対策を進めていくと、仕事のスタイルがどんどん「異形」なものになっていきます。

你好小朋友 中国の子供達

ネットでたまたま見つけた動画を留学生の通訳訓練に使ってみました。1983年に出版された写真集『你好小朋友 中国の子供達』の写真家・秋山亮二氏の動画です。

youtu.be

一目見て、いいなあと思いました。子供たちの表情がとてもいい。この写真集は長らく絶版だったようですが、最近復刻版が出たそうです。それですぐに購入しました。リンク先にも写真の一部が紹介されています。

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www.shashasha.co

なんでしょうねえ、かつての中国の子供たちの、その表情を見ていて、あるいは街の風景を見ていて、思わずこみ上げてくるこの感情は。もちろんひとつには、いわゆる「旅行者のノスタルジー」がありますよね。かつて自分も訪れた中国の「古き良き時代」を懐かしみ、変貌著しい現代の中国に幻滅するといった、勝手なノスタルジーです。

私が中国に住んでいたのは1990年代の終わり頃ですから、もちろんこの写真集の時代の中国は知りません。それでも写真を見ていると、当時はまだ確かにこんな空気感があったなと思います。そして今、それがかなり薄まってしまったことについて、あるいは全くなくなってしまったことについて、外野の我々は勝手な感慨を抱くのですが、それは現地の人々にとっては「大きなお世話」でしょう。

それでもこの写真集が今になって復刻されたということは、やはりこれらの写真の中に、なにか失われてしまった大切なものが残っていると多くの人々が感じているからでしょう。復刻版は日本語と中国語で解説などがつき、中国でも販売されて反響を呼んでいるよし。たぶん中国の人々にとっても(私たち以上に)こみ上げてくる何かがあるのだと思います。

もうひとつ、この写真集に出てくる子供たちのたたずまいからは、なにかこう内側に充実した生命感のようなものを感じます。復刻版の巻末に添えられたインタビューで秋山氏は「みんな本当に楽しそうだった。発展するエネルギーっていうのかな、明日は今日よりいいはずだって確信しているエネルギーがあったと思います」と語っています。うんうん、そんな感じ。もちろん実際の子供たちにだっていろいろな感情はあるはずですし、子供がみんな天真爛漫で純粋無垢だとも思いませんけど、少なくともこういう表情をしている子供たちが周囲にいるだけで、何かこちらもエネルギーをもらえるような気がします。

上掲の動画で秋山氏は「当時撮影した子供たちがどんなに立派になっているのか、会ってみたいと思います」とおっしゃっています。そしてその後実際に再訪中して、その願いが叶ったそうで、その再会に取材した動画も見つけました。これもいい雰囲気です。通訳訓練のあとに留学生のみなさんにも見せたのですが、見終わったあとに拍手が起こっていました。

youtu.be

巻末のインタビューで秋山氏はこうもおっしゃっています。

僕は本当にとてもいい時に中国に行ったなあと思います。だから、また中国に行って子供達を撮りたい、見てみたいという気持ちがある一方で、もしかしたら今行っても撮りたいという気持ちにならないかもしれない、とも思います。(中略)ただ比べるだけではあまり価値がない。

確かに、かつて訪れた場所をずいぶん経ってから再訪してみると、その間に自分の中で膨らませていたノスタルジーが無残に打ち砕かれて興ざめすることがあります。過去は二度と戻ってこないし、私たちは常に前を向いて進んで行かなくちゃならない。でもその時に、過去と今を結ぶ線の間にどんな変化があったのか、どんな別の変化があり得たのかを想像することは、これからの進み方を考える上で大切かもしれません。その意味でもここに収められた写真は貴重だと思います。

台湾の“魚酥”

台湾の友人が“魚酥”を送ってくれました。うちの招き猫も喜んでいます。これ、おいしいんですよねえ。

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“魚酥”はこの「味香魚丸店」が元祖らしいですが、友人がお店を紹介したテレビ番組の動画も教えてくれました。


非凡大探索_正宗創始小吃_淡水60年魚酥

なるほど、二度揚げしているんですね。それにしてもこの食感の軽さ。直接食べてもおいしいけど、味噌汁とかスープに入れてもよさそうです。あえて例えるなら「かっぱえびせん」みたいな味と食感ですが、大きな違いは「味の薄さ」です。台湾のこれは本当に薄味で、ほっとするお味。油で揚げてあるのに、油っぽさはほとんどありません。しみじみおいしくて食べ飽きない味です。

日本にも同じようなスナック菓子はありますが、日本のはなぜどれもあんなに塩っ辛いんでしょうね。スナック菓子に限らず、日本の加工食品はおしなべて味が濃すぎると思います。

じい散歩

最近、東京都心をできるだけ歩くようにしています。男性版更年期障害とでも言うべき不定愁訴は週に三回ほどのジムの筋トレでかなり解消されたのですが、有酸素運動が足りません。といってジムのドレッドマシンで三十分も四十分も走り続けるのはあまり面白くない。それなら仕事先からジムに行ったり、あるいはジムから帰宅したりする間の一部、あるいは全部をできるだけ歩くようにしようと。

例えば新宿で仕事をしたあとに外苑前近くにあるジムに行く場合、これまではいくつかの鉄道路線を乗り継いで三十分ほどで移動していたのですが、結構遠回りになります。これを直線に近い形で歩いてみるとほぼ四十分程で到着する事がわかりました。電車に乗るのと十分程度しか変わりません。

先日は半蔵門で仕事をしたあとにやはりジムまで歩いてみましたが、これも意外にすぐ到着できました。電車や地下鉄に乗っているとそうした距離感が曖昧になるのだなと思いました。実際に点と点をつなぐように歩いてみると、東京の都心がこれまでとは違った様相で見えてくるのがなかなか面白いです。

いつもは駅周辺の街と別の駅周辺の街を「飛び飛び」に体感しているのが、ひとつづきになる。もともと街はひとつづきなんですけど、「ああこの街のこの道の先が、あの街のあの道につながっていたのか!」と改めて分かることで、もう何十年も行き来して知っているつもりになっていた東京都心がすごく新鮮に見えるのです。

しかもその道々に面白そうなお店や変わった建物があって飽きません。もちろんこうした道も、毎回歩くようになるとだんだんその新鮮さは失われていくでしょう。というわけで、時には路地を一本入ってから並行して走る道を歩いたり、わざと地下鉄の駅を一つか二つ乗り越して戻ったり、いろいろな歩き方をしようとしています。

そうやって歩くことを意識していると、不思議なもので「歩くこと」に関する本と次々に出会いました。昨日書いたペール・アンデション氏の『旅の効用:人はなぜ移動するのか』もそうですし、そのあと図書館で見つけていま読んでいるレベッカ・ソルニット氏の『ウォークス 歩くことの精神史』もそう。そして複数の新聞の書評欄で取り上げられていて興味を持った藤野千夜氏の小説『じい散歩』もそうでした。

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じい散歩

この小説、読みだしたら止まらず、最後まで一気に読んでしまいました。主人公の新平は九十歳になんなんとするお年寄りですが、いたって健康かつ食欲も旺盛。認知症の気配が見え始めた妻、引きこもりで同居している長男、「自称・長女」の次男、アイドル絡みの事業を志すも失敗して出戻ってきた三男というかなりユニークな家族に加え、さまざまな人物が入れ代わり立ち代わり登場する物語。

みんながそれぞれに面倒くさくて、きわめて小市民的で、弱みもいっぱい持っているのですが、とことん悪い人間はひとりも登場せず、なんだかんだと問題はありながら「それでも人生は続いていく」という不思議な明るさのある世界です。折しもコロナ禍で何かと閉塞感の漂う昨今、それに加えて政治家や官僚の劣化があまりにも進みすぎて本当に気分の晴れない毎日ですけど、ああそれでも我々はこうやって生きていけるのかもしれない……というなにか励ましのようなものを感じた小説でした。

なにせ主人公の新平がその歳ですから、物語の時間のスパンは戦前から現代までと極めて長いのですが、重さは一つも感じさせないのが作者の筆致の妙です。しかも身近なエピソードを語る際にも時間の前後がぽんぽんと入れ替わり、これも軽妙な読書感に貢献しているように思えます。さらに時間軸は現代のコロナ禍にまでつながり、最後にちょっとした「しかけ」まで。物語をじゅうぶんに楽しみました。

旅の効用 人はなぜ移動するのか

昨年ベストセラーになった、ハンス・ロスリング氏の『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』に、「世界はどんどん悪くなっている」と考えてしまう「ネガティブ本能」について書かれた一章がありました。ネガティブなニュースは耳目を集めやすいためどんどん伝わってくるのに対して、ポジティブなニュースはことさらに取り上げられることが少ないため、全体として「昔はよかった」と思い込む一方で未来に対して悲観的な見方をしがちだというのです。

そうした思い込みやバイアスを排して世界を正しく見つめようというのが同書の趣旨なのですが、ロスリング氏と同じスウェーデン人のペール・アンデション氏が書いた『旅の効用』(これまた欧州ではベストセラーになっているそうです)にもこれと通底するような指摘がありました。

憎悪に発展する可能性のある不安の九割は、見知らぬ事柄に対する無知、つまりは、故郷以外の世界を知らない経験不足が原因だと私は確信している。(310ページ)

本当にそうですね。ネットにはレイシストのみなさんがあまた跳梁跋扈していますが、その発言や書き込みを読むと、現地の状況や現地の人々と直に接したことがないのが透けて見えます。いちど旅にでも出てみれば、そして現地の人々と行き会ってみれば、ずいぶん違う印象を持つはず。その上で批判すべきところがあれば批判し、恥じるべき無知は恥じて世界観をアップデートさせればよいのです。

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旅の効用:人はなぜ移動するのか

旅に出てみれば、しかもそれが、何もかもお膳立てされたパックツアーやお金に物を言わせた豪華客船のクルーズなどではなく、可能な限りの少人数(理想は一人)とノープランであればあるほど、それまでの自らの価値観や世界観が大いに揺さぶられるものです。読書にもその「効用」はありますが、やはり実際の旅において、精神だけでなく肉体でも感じられるあれやこれやは、確実に自分の視野を広げ、無知を解きほぐしてくれます。

ペール・アンデション氏はスウェーデンの旅行誌『ヴァガボンド』の共同創業者で、バックパッカー・ヒッチハイカーとして世界各地を旅行してきた人物だそうです。この本にはそんな氏の経験から紡ぎ出された、旅に関する様々なエッセイが収められています。特に「リピーターを笑うな」と題された一節には大いに共感しました。

人は遅かれ早かれ、絶えず新しい場所を訪れようとはしなくなる。ビールのジョッキや各種の鳥をコレクションするように、旅の体験をコレクションしようなどとはしなくなるのだ。そうしたコレクションなど無意味だと、不意に感じるようになるのである。

そうそう。私も以前は、世界中の「ここにも行きたい、あそこにも行きたい」と思い、とはいえそうそう海外に出かけられるわけでもないため一種の焦燥感のようなものにとりつかれていたのですが、最近はかなり旅に対する考え方が変わりました。むしろ同じ場所を何度もたずねて、まるで別の自宅に「ただいま」と戻ってきたかのような感覚を味わうのが楽しくなってきたのです。

しかも事前に入手していた有名な観光スポットの情報やビジュアルを再確認するだけのような旅ではなく、観光地でも何でもないごくごく普通の街の、市井の人々が暮らしているエリアに(できるだけ邪魔にならないように)分け入って、ノープランでただただ流れに身を任せるような旅が楽しいと思えるようになりました。

スケジュールに追われることもなく(とはいえ、始まりと終わりだけはどうしたって決めなきゃならないですが)、誰かにお土産を買わなきゃなどと思うこともなく、観光地ではないので他の観光客ともほとんどすれ違うこともなく、従って観光客目当ての客引きや物売りの人々に旅情をぶち壊されることもなく……現在の感染状況が落ち着いたら、またそんな旅に出かけたいです。

こんなある意味わがままな旅は、やはり同行者がいると実現しにくいです。というわけで、家族には申し訳ないけれど、次回もまた一人で旅に出かけることになると思います。

フィンランド語 87 …日文芬訳の練習・その20

東京という街は、気候的にはあまり過ごしやすい場所ではないと思います。夏は異様に蒸し暑いですし、冬は異様に寒いですし。東京の冬程度で「寒い」などと言ったらフィンランドの人に怒られそうですけど、たしかに屋外の寒さはそれほどでもないものの、屋内が寒い・屋内の快適さに乏しいと思います。

理由はセントラルヒーティングが発達していないから。もちろん床暖房など立派な設備がある建物は別ですけど、私のような一般庶民の「ウサギ小屋(死語?)」の室内は、冬が本当につらいです。かつて過ごしたことのある北京や天津の冬は、厳しかったけれども屋内が天国でした。身軽に過ごせて、かつ洗濯物なんかもすぐに乾いちゃうあのスチームの快適さが恋しいです。

台湾の夏は、気温こそ東京より高い日もありますが、南国特有のカラッとした太陽の光で、あれはあれで「いさぎよくて」好きです。台湾もそこそこ蒸し暑いですが、東京のあの、なんともいえない不快さが少ないように思います。まあこれも「隣の芝生は……」のたぐいで、外国だから贔屓目に感じているのかもしれませんが。

自分で作文をしたときは、「東京の夏」とか「冬」というのを “kesät Tokiossa” とか “talvet”などと複数主格で書いていたのですが、“kesällä Tokiossa on 〜” のように所有文で表すのが普通だと直されました。こういう語感が(当たり前ですけど)まだまだ全く育っていません。

以前、台湾に住んでいました。南国なので夏はとても暑いですが、意外に快適です。私は東京の夏のほうが過ごしにくいと思います。それは暑い上に湿度が高いからです。中国の北方にある北京にも住んでいましたが、冬は川や池が凍るほど寒いものの、やはり意外に快適でした。暖房設備がしっかりしていて、部屋の中はTシャツ一枚で過ごせるほど温かいからです。日本の北海道も同じだと聞きました。私は、暖房の貧弱な東京が日本で一番寒いのではないかと思います。


Ennen minä asuin Taiwanissa. Se on eteläinen maa, ja kesällä oli erittäin kuuma, mutta yllättävän mukavaa. Minusta kesällä Tokiossa on huonompi Taiwanissa, koska sää on sekä kuuma että kostea. Olin asunut myös Pekingissä, joka on pohjoinen kaupunki Kiinassa, ja talvella oli hirvittävän kylmä, kuin joet ja lammet jäätyisivät. Mutta on myös suhteellisen mukavampi viettää kuin Japanissa, koska keskuslämmitykset ovat täydellisiä, ja me voitaisiin asua huoneissa vain t-paidassamme. Kuulin, että talvet Hokkaidossa Japanissa ovat samoissa tilanteissa. Minun mielestäni Tokio on Japanin kylmin kaupunki, koska sen lämmityslaitteet ovat niin puutteellisia.


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翻訳の授業 東京大学最終講義

「翻訳の正しさは原文とは無関係で、百パーセント現実との照合で決まる」と筆者の山本史郎氏は主張します。つまり原文と訳文の間の語彙や文法などよりも、その二つの文が現出させる世界がぴったりと一致していることが何より大切なことなのだと。

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翻訳の授業 東京大学最終講義 (朝日新書)

ここではもはや「直訳か意訳か」という問いは意味を持たず、原文と訳文の間に横たわる様々な言語的要素(文法・語彙・音韻・文体・意図……)を検討しながら、その間にどれだけの「相似性」を持たせることができるかに翻訳の成否はかかっているというのです。

そしてまた、AIの登場で実務翻訳は限りなく「通訳」の領域に近づいて集約されて行き、しかもその集約されたまるごと全部を近い将来AIによる「訳」が担い、一方で人間がこれからも担い続けるのは文学の翻訳のみであろうという予想も提示されています。

 (文学テクストは)統計的確率を基本原理とし、例の数の多さが適切性の判断の拠り所となる機械翻訳とは、全く逆向きのベクトルを持ったものです。
 これに対して、情報を正確に伝えることが目的の実用テクストについては、近い将来、AIの発達とともに、すべてコンピュータで翻訳の行われる時代が来るでしょう。そして、このような「実用テクストの翻訳」とは、言い換えれば、文書をも含めた意味での「通訳」の領分にほかなりません。つまり口頭・文書をとわず「通訳研究」はAI研究のなかに吸収されてしまうだろう、ということです。(91ページ)

ごくごくシンプルに言い換えるならば、通訳者と実務翻訳者はAIに取って代わられ、文芸翻訳者だけが人間の職業として残るということですね。この見立てに対して、みなさんはどう思われるでしょうか。

私自身は、ことはそう単純ではないのではないかと思いました。口頭における人間の発語は文章ほど整っていないこと(口述された文章ひとつとっても、文章になったものと実際の音声にはかなりの隔たりがあります)、音声の持つニュアンス(高低・速度・間・声色・語気・語勢・滑舌など多くの要素)が発話に大きな意味を与えていることなどからです。またすべての発話が「実用テクスト」と「文学テクスト」に峻別できるのだろうか、きわめて実務的な発話であっても文学的な要素が織り込まれることはあり、むしろ両者はグラデーションを成して存在しているのではないかとも思いました。

それでも、この本で示されている「翻訳観・通訳観」に新鮮な驚きがあったことも確かです。そしてまた、プロの翻訳者がどれほどの精魂を傾けて原文に向き合い、それを上回るほどの精魂を傾けて訳文を(なかんずく日本語を)書いているのかについても圧倒されました。

「AIの普及で通訳者や翻訳者の仕事はなくなってしまうのでしょうか?」と生徒さんによく聞かれるのですが、そんな生徒さんにはまずこの本を薦めてみることにいたしましょう。読んだ上で、それでも通訳者や翻訳者を目指したいと思えるかどうか。もっとも例文がすべて英語なので(山本氏が英文学者なので当たり前ですが)、中国語クラスの生徒さんにはあまりピンとこないかもしれませんけれども。

アップデートされていない

フィンランド語のニュースサイトをのぞいていたら、橋本聖子五輪担当大臣が東京オリンピックパラリンピック組織委員会の会長就任要請をうけたという話題が載っていました。見出しには“joutui vielä selittelemään omaa ahdisteluskandaaliaan(自らのセクハラスキャンダルについて、なおも説明する羽目に陥った)”と大書されています。

www.hs.fi

MYÖSKÄÄN Hashimoto ei ole säästynyt kuprulta. Hän oli keskellä seksuaalisen häirinnän skandaalia vuonna 2014, kun hänestä ja häntä yli 20 vuotta nuoremmasta miestaitoluistelijasta levisi valokuvia, joissa kaksikko halasi ja suuteli.


橋本氏も過ちと無縁ではありません。2014年には、20歳以上も若い男子フィギュアスケート選手に抱きついてキスをしたというセクハラスキャンダルのまっただ中にありました。

日本から遠く離れた北欧フィンランドのニュースでさえ「ハラスメント」が見出しに。諸外国ではこうしたセクハラがどれだけ重みを持って受け止められるかがよくわかります。日本のメディアはこの点にやや及び腰ですが、この件に関する視点があまりアップデートされていないように思えます。本当に恥ずかしい。

そうしたら、自民党竹下亘氏がこの発言です。

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▲今日の東京新聞朝刊より。

「男みたいな」を批判されそうなので「男勝り」にしたと。これでニュートラルな表現に戻したと思っているとしたら、何が問題なのかをいまだにまったく分かっていないですよね。というか、日本語の感覚自体がもう何十年もアップデートされていないようです。言葉の吟味が粗雑すぎます。言論の府たる国会に仕える議員としても失格ではありませんか。

今年の箱根駅伝でも「男だろ」と選手を鼓舞した監督がいましたが、こうした主に中高年のオジサン・ジイサンたちの周回遅れっぷりは本当に腹立たしい。言葉狩りじゃないかって? いいえ、日本語には他にも、人を評価し、鼓舞する言葉があまたあります。自分の言語感覚をアップデートさせ、現代に即した価値観を身につけましょうよ。