インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

日本語のアウトプットに消極的なのはなぜ?

私が勤めている学校のひとつは、学生が全員外国人留学生です。母語は中国語、英語、タイ語スペイン語ベトナム語、イタリア語、ミャンマー語スウェーデン語、ロシア語……と実にさまざま。ビジネスレベルの日本語習得を目指すと同時に、通訳や翻訳の訓練も行っています。通訳や翻訳は、本当はそれぞれの母語と日本語の間で行いたいところですが、ビジネスの現状に鑑みて「英語←→日本語」と「中国語←→日本語」の2クラスに分かれて訓練しています。

私はこの「英語クラス」と「中国語クラス」両方の学生と授業で顔を合わせていますが、日本語力、特にアウトプットする日本語力の伸び方にかなりの違いがあると感じています。どちらのクラスも入学時にはだいたい「N2」、つまり日本語能力検定試験2級くらいの方がほとんどです。ところが2年間の専門課程で学ぶ間に、英語クラスの学生はどんどん日本語のアウトプットが洗練されて行くのに、中国語クラスでは伸び悩む方が多いのです(もちろん個人差はあります)。

英語クラスの学生には英語が母語の人もいますがごく少数で、多くは英語が非母語の方たちです。つまり第二言語の英語と第三言語の日本語を使って通訳や翻訳の訓練を行っている。これは学校のカリキュラム上「英語や中国語以外の言語←→日本語」というクラスを設置するのが難しいからです。でも当のご本人たちは母国でももともとマルチリンガルな環境で育ってきた方が多いので、そういう一種の「ハンディ」もものともせず、貪欲に学んでいます。見ていて眩しいくらいです。

いっぽう中国語クラスの学生は、そのほとんどが中国語母語話者です。ビジネスの現場では基本的に北京語(普通話)を使うので、通訳や翻訳の訓練も「北京語←→日本語」で行います。なかには広東語や台湾語が自分の言いたいことを最も忠実に伝えられる母語だという方もいますが、ほとんどは北京語(普通話)が母語、あるいはほぼ母語と同じように運用できるという人たちです。

すると、こういうことが起きます。

英語クラスの学生は、日々教室で(いまはオンライン授業も多いけれど)日本語を使い続けることになります。お互いの母語が異なるので、共通言語として日本語が選ばれるのです。もちろん英語も堪能ですから英語で話す場合もありますが、欧米系の学生とアジア系の学生ではやはりその実力に少々差がある場合が多く、結局は日本語でコミュニケーションするのが一番フラットでお互い気持ちよく話せる。というわけで、どんどん日本語が上達していきます。

ところが中国語クラスの学生は、英語クラスの学生と話すときは日本語を使うものの、中国語母語話者同士だとすぐ中国語に戻ってしまうのです。当たり前といえば当たり前ですけど。そしてやはり母語で会話したほうがストレスも恥ずかしさも少ないので、次第に中国語クラスの学生とばかり話すようになる。こうして英語クラスと中国語クラスの間になんとなく壁のようなものができ、日本語のアウトプット力にも差がついていくのです。

もちろん私たちはそれに対して、積極的に「混ぜ込み」を行います。通訳や翻訳のクラスはもともと英語と中国語に分かれているから無理ですが、それ以外のクラスではなるべく英語クラスと中国語クラスの学生が混在するようペアやグループを作って、お互いの共通言語が日本語だけという状態をできるだけ多く作ります。また英語や中国語でおしゃべりに興じている学生がいれば「日本語で話しましょう」と声をかけます。

本音を言えば、私はちょっと疑問です。義務教育でもないうちの学校の場合、その学びを選んだのはご本人です。ご本人なりになにか目標があって、わざわざ日本へ留学にきたわけです。日本に留学して、日本語を上達させようと思っている以上、自らがなすべきことは自分が一番良く知っているはず。なにも私たちが必死になって「日本語で話しましょう」という必要はないと思うのです。

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https://www.irasutoya.com/2013/04/blog-post_7854.html

それはさておき、上述のように英語クラスと中国語クラスの留学生に「日本語を使う頻度」の差が生まれると、2年間の間にそれはかなりの差となって現れてきます。英語クラスでは2年間で日本語のアウトプットがかなり上達する方が多いのに対して、中国語クラスでは2年間たってもかなりアウトプットがおぼつかない方が多い。発音も曖昧なら「てにをは」もしょっちゅう間違う(まあこれは留学生にはかなり難しいのですが)。ふだんのお喋りならまだしも、通訳や翻訳をするような複雑で抽象的な内容のアウトプットはほとんど「ボロボロ」だったりします。

しつこいようですが、もちろん個人差はあります。でも最初はほとんど同じスタートだったのに、英語クラスと中国語クラスでは2年間で大きな差がついてしまうのです。これはやはり日々の言語生活の送り方が大きく影響していると言わざるを得ません。とにもかくにも日本語をアウトプットし続けた英語クラスに対して、水が低きに流れるようについつい母語である中国語でばかり会話してきた中国語クラス。

いささか自慢めいて恐縮ですが、私がかつて中国に留学したときは(まあ中年になってからで後がなかったということもありますが)、絶対に中国語を話せるようになってやるという強い意志を持っていました。そのために、同じ日本人留学生と話す際にも日本語ではなく中国語を使っていました。常に頭を「中国語モード」にしていなければ聴けないし話せないと思って。せっかく留学したんだから日本語を話したら損、くらいに思っていました。

それに同じ母語話者同士が、あえて外語でコミュニケートするというのが「クール」だと思ったんですよね。だから留学生のみなさんにも「中国語母語話者どうしであっても日本語で話しましょう」と強く、何度も勧めています。でも、これまでにいくつかの学校で都合十数年ほどこれを言い続けて来たんですけど、それを継続して実践した人はまったくいませんでした。試してみる人はいても、すぐに中国語でのおしゃべりに戻ってしまうのです。

同じ母語話者同士でも外語で話すというのは、ある種の「演技力」が必要です。が、これだけ言い続けても実践する人がいないということは、さすがに「無理筋」なのでしょう。それでも立場上責任はあるので「日本語で話しましょう」と声をかけ続けるのとは全く違う方法で、中国語母語話者の留学生の、日本語のアウトプットを増やす方法を考えて行かなければなりません。ただ、私が担当しているのは通訳や翻訳の訓練ですから、まったく中国語を使わないというわけにもいかない(というか、かなりの比率で授業に中国語を持ち込む必要がある)というのが悩ましいところです。

中国語は日本語とかなり構造の違う言語ですが、漢字という共通のツールがあってこれが意味の把握にはかなり大きな力を果たしてくれます。だから日本語の理解という点では中国語クラスの学生さんのほうが英語クラスの学生さんに勝ることが多い。でも日本語を音として捉え、音としてアウトプットする能力においては、その差は歴然としています。そこで文字を介さず、音としての日本語をアウトプットするために通訳訓練法を応用してシャドーイングやリプロダクションなども取り入れています。でもこれとて授業時間だけでは到底足りず、自助努力が必要なのですが、留学生のみなさんは積極的に取り組まないのです。

加えて今年に入ってからのオンライン授業では、恥ずかしがって顔さえ出さない人もいます。音としての日本語どころか、顔まで出し渋る……ここまでコミュニケーションに非積極的では、日本語が流暢になるなどあまり期待できないですよね。非日本語母語話者の話す日本語について、ちょっと不当に思えるほど評価が厳しい「ほぼモノリンガル社会」日本で働きたいと思っているのに。

ひとりでパフェを注文できない?

今朝の東京新聞、連載四コマ漫画の『ねえ ぴよちゃん』はこんな話でした。

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なるほど、大の男が「期間限定グランドデラックスパフェ」を頼むのは恥ずかしいというわけです。深読みすれば、お父さんは一人でこのパフェを注文するのは恥ずかしいから、ぴよちゃんを誘ったのかもしれません。ちょうど昨日「男らしさ」について書いたところでしたが、なるほどこれも「あるある」だなと思いました。

東京新聞朝刊は最終面に「私の東京物語」というコラムがあって、いまは漫画家の吉田戦車氏が連載されています。その吉田氏は三十年ほど前に『伝染るんです。』という作品を描かれていたのですが、いまでも覚えているのがヤクザの兄貴とチンピラ子分との会話です。ネットで探したらなんと「Amebaマンガ」の試し読みに入っていました。

dokusho-ojikan.jp

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コワモテの男がアイドルショップでグッズを買うのは恥ずかしいと。しかも店員さんに対して「これは人に頼まれて買いに来ただけ」というアピールになる(実効性は乏しいですが)領収書さえ認めない……これに当時の私は大爆笑したわけですが、そこには男性ならではの「あるある!」が感じられたからなのでしょう。昨日ブログで引用した「サウナで見知らぬ人と我慢比べ」と同じくらいのくだらなさですけど。

qianchong.hatenablog.com

ことほどさように、男には男らしくあれという「有害な男らしさ」が刷り込まれているわけです。でもその「男らしさ」なるものをもう少し注意深く観察してみると、何の根拠もない思い込みに過ぎません。誰が何を食べても、何を買ってもいいんですから。それでもこの「男らしさ」が一人自分の意識を変えるだけでは済まなくて、他人にも、そして社会全体にも広く共有されているからこそ、なかなか変わって行かないんですよね。

上掲のぴよちゃんにはそういう意識がないから無邪気に「このパフェはお父さんのでしょ」と言っていますが、店員さんの視線と苦笑はそのままお父さんの赤面に影響しています。いやまあ、マンガの中の世界にどうこう言いうのも野暮ですけど、ただこれも私たちの社会の現状をよく表しているなと思ったのです。

私自身、三十年前に『伝染るんです。』を読んだときとは違って、いまだったら一人でパフェを注文したり、アイドルショップでグッズを買ったりするの、普通にできます。「普通にできます」というところにまだ意志の力を必要としているのが透けて見えますが。でも、あれから三十年を経た現代の人々の(特に若い世代の男性たちの)意識はかなり変わって、そんな意志の力さえ必要ないくらい自然に、当たり前に、自分の気持ちを表現し行動に移すことができる人が増えていると思います。

もちろんこの国はまだまだ男性中心に物事が動いていて、その頑迷さにうんざりすることも多いですけど、少なくともいい未来に向かって進んではいる。そう楽観したいと思います。そのためにもまずは自分から声を上げ、どんどん行動に移していくべきですね。まずは……秋を迎えて栗のおいしい季節になったから、マロンパフェでも食べに行きましょう(そこから?)。

これからの男の子たちへ

昨夜遅く、録画しておいたテレビ番組を見ようとテレビをつけたら、ドラマ『半沢直樹』をやっていました。これまで一度も見ていないので話の筋はわからないながらも、なんだかテンポよく「謎の解明」みたいなのが続くのでしばらく見ていました。が、登場するのがアグレッシブな男ばかりで、威嚇、挑発、冷笑、侮蔑の果てに大声で怒鳴り散らし土下座……気持ち悪くて消してしまいました。エンタメで作り事の世界とはいえ、どうしてこういう物語が受けるのかなあと。

ちょうど太田啓子氏の『これからの男の子たちへ』を読んだところでした。私がこの本で最も大きな共感と「震え」のようなものを持って読んだのは「有害な男らしさ」という言葉と、自分の感情を言語化することに長けていない男性という指摘でした。また自分の子供時代から始まる数々の嫌な記憶、それも長らく忘れていた記憶までが蘇って少々驚きました。それらはまさに「有害な男らしさ」への信奉から生み出された、男らしさへの強要、いじめ、性暴力の数々です。かくも心の奥深くに刻み込まれていたのかと。

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これからの男の子たちへ: 「男らしさ」から自由になるためのレッスン

小学生の頃は、この本でも取り上げられている「カンチョー」のほか、大人数で寄ってたかって服を脱がせる「カイボウ」などはよく見られました。私はその加害側にも被害側にもなっていませんでしたが、それらを傍観していたことの痛みは今でも感じます。長じて、体育やスポーツが苦手なことに対する劣等感や、その反動である一種の憧れのなかで悶々としていた頃もありました。学校や職場におけるホモソーシャルな人間関係も、いまならすぐに逃げ出すところ、ただひたすら耐えていた時期もありましたねえ……。

もっと陰湿な側面では、男性同士で性体験の豊富さを自慢するような雰囲気、逆にそれらが乏しいことに対する劣等感、性風俗への周囲からの誘いとそれを拒否することに対する侮蔑……男性とはこういうものであるというまさに「有害な男らしさ」刷り込みが、なんとまあ長年月にわたって繰り広げられてきたことよ、とため息をつきます。そして今もまた、そうしたものに自分が脅かされていないか、あるいは他人に求めたりはしていないか、さらには自分がそれを撒き散らす存在になっていないかと、粛然とした思いにとらわれるのです。

とても卑近な例ながら、この本に引かれていて思わず笑ったのは、対談で清田隆之氏が披露しているサウナの例です。「サウナで一緒になった人と無言のうちに我慢比べみたいになって、先に出たほうが負け……みたいな意識って“男性あるある”だと思うんですよ」(81ページ)。あるある! もうほんとうにくだらないんですけど、そういう根拠のない男性性の張り合い、そうした心性は「有害な男らしさ」がもたらすものと確実につながっていると思います。思えばスポーツジム(私はジムでサウナを利用しています)って、そういう心性が容易に顔をのぞかせる場所なのかもしれません。

この本で印象的だったのは、著者の太田啓子氏が繰り返し繰り返し、私のような中高年男性に対する「諦め」にも似た心境を語っておられることです。ここまで凝り固まり、「有害な男らしさ」を骨の髄まで体現してしまった男性たちにはもう期待できないと。本のタイトルじたい『これからの男の子たちへ』ですもんね。それは私も(残念ながら)認めざるを得ません。周囲の多くの人々を見てもそう思いますし、自分自身この本で改めて自分の「有害な男らしさ」の、そのあまりの根深さに気付かされました。この本で述べられていることに全面的に共感し、僭越ながら、若い頃からそういう「男らしさ」への強要に疑問をいだき、自分の考え方をアップデートしてきた自負が多少なりともある自分であっても。

qianchong.hatenablog.com

それでも私は、そういう「有害な男らしさ」をこじらせ、凝り固まらせたような年寄りにはならないよう努力したいです。そしてできればそういうスタンスを周囲に広げていくことにも。また、自分の感情を適切に言語化することが苦手にならないよう、これからも大量に読み・書くことを自分に課して行きたいと思います。

やめましょうよ。

朝日新聞デジタルに、興味深い記事が出ていました。菅政権の発足に伴って文部科学副大臣政務官が初登庁したという記事ですが、認証式などで時間が遅れ、なんと深夜11過ぎになったうえ、同省の職員が100人以上待機して出迎えた……というものです。

www.asahi.com

早速ネット上では批判が噴出しているみたいですが、みんなおかしいと思っているのに誰も声を上げず、トップもそれを変える勇気がなく、結局思考停止のまま前例を踏襲してしまう。これに限らずハンコやファックスに代表されるこの国の「変わらなさ」はあちこちに見られます。思考停止や前例主義もここまで来ると空恐ろしくなります。

新型コロナウイルスの影響はあちこちに及んでいますが、個人的には「よかったこと」もあったと感じています。それは前例主義で続けられてきた無意味に近い会合の多くが簡略化ないしは廃止されたことです。私が勤めている学校の一つでは、毎月教職員が全員集まって会議を開いていました。部門横断で情報を共有したり、検討事項を話し合ったりする会議で、それに先立つ部門ごとの会議もたびたび開かれていました。ところがこれらの会議、今年の春からは一度も開かれていません。それでも業務は滞りなく進んでいます。いや、所々滞りはあるけれど、それらは担当者間のメールのやりとりでほとんど解決している。つまりああした会議のほとんどは、本来必要ではなかったのです。

また学校法人全体での会合もあって、巨大なホールに教職員が集まり、理事長が訓示を述べるという「儀式」もありましたが、これもオンラインでの動画配信に変わりました。「三密」を避けるためではありますが、これも非常に合理的な変化だったと思います。何も全教職員が同じ時間に一斉に仕事の手を休めて、時間と労力を使って(本部のあるキャンパスから離れた場所にある部署もあります)一同に会し、リアルタイムで訓示を聞く必要はありません。動画やメールならば、必要とあれば何度でも確認することができますから(する人はあまりいないかもしれませんが)、訓示や指示を徹底するという意味でもこちらのほうが合理的。

でも、こうした前例主義を、私も含め多くの教職員が「なんだかなあ」と思って来ながらも、ついに誰からも「やめましょうよ」とは言えなかった。結局、新型コロナウイルスという「外圧」によってあっけなくその非合理性があらわになり、強制シャットダウンに至ったわけです。なんだか、私たち日本人の一番ダメなところが如実に現れているような気がして、とっても情けない気持ちです。

最初に掲げた朝日新聞の記事についている写真を見ると、狭い廊下でかなり「密」な状態で出迎えています。花束を抱えて歩く先頭の文部科学副大臣氏はマスクもしていません(写真が不鮮明ですが、口だけを覆うフェイスガードをしている?)。記事によれば、このお出迎え後にも記者会見があり、「職員は未明まで対応した」とのことです。ほんとうに「やめましょうよ」、こんなこと。

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ゼロミート

先日、仕事の帰りにスーパーに寄ったら、精肉売場で「ゼロミート」という商品のキャンペーン販売をやっていました。大豆を使用したハンバーグやハムやソーセージとのことで、興味を引かれて買い求めてみました。

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ネットで調べてみたら、これらの商品は大塚食品が手がけているんですね。私はお肉大好き人間で、ベジタリアンでもヴィーガンでもないのですが、畜産が温室効果ガスの排出や穀物の大量消費につながり、地球環境的にはあまりよろしくないという知識だけはあります。大豆ミートは以前からよく使っていましたが、こうした代用肉の選択肢が増えていくのはいいことだと思います。

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この二つのハンバーグ、本当に「そこそこ美味い」です。加工食品なので、味付けは個人的には「美味しすぎる(複雑で様々な味が感じられすぎる)」と思いましたが、大豆で作られた肉の食感は挽肉にかなり近いです。「おまけ」でついてきたこちらのハムはいかにも代用品っぽい食感と味でしたが、ハンバーグはすごくいいなあと思いました。

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代用肉、あるいは代用食……というと昔々に見たテリー・ギリアム監督の映画『未来世紀ブラジル』を思い出します。あの映画に出てきた代用食は元の形を失ってかなり不気味なものでした(もとの料理の写真がついている)が、このゼロミートは比較的洗練されていると思います。いろいろな料理に応用できる、味をつけていないバージョンも出してくれないかな(缶詰の「グルテンバーガー」などは昔からありますけど)。

バカに絵は描けない

私は学生時代、美術大学の彫刻科で学んでいました。サラリーマンになるのがいやで「俺はアーティストになる!」と息巻き、浪人までして入った大学でした。アーティストになるんですから、当然教職課程も取らなければ就職活動にも無関心でした。けれど一年、二年と在学するうちに己の才能のなさに気づいて呆然とし、絵画にも彫刻にも興味を失い留年までするうち、その反動で演劇に没入して行きました。でもその演劇だって部員数名の弱小サークルでちまちまと演劇「ごっこ」をしていただけで、今から思うと誠に貧相な美大生活でありました。

これはずいぶん後から悟ったことですけど、絵画にせよ彫刻にせよ演劇にせよ、あらゆるアート作品というものは個人が好き勝手に個性の発露をさせるもの「ではない」んですね。「爆発だ!」ってな調子で、個人の中から突如として沸いて出てくるようなものではなく、それは過去からの芸術史の流れを踏まえた上で現代に立ちあらわれてくるものです。ですから、基本的にこれまでの芸術史の流れとは完全に無縁な創造というものはなく、どんなアートの表現もそれまでの歴史の影響を受け、その上でいまという時代に問われるべき意味を持つものです。

それはどんな学問も、その学問の歴史や先行研究を踏まえて新たな学説が世に問われるのと同じです。歴史や先行研究を全く無視した学説など誰も評価しませんよね。そうした諸学問では論文によって世に問われるものが、芸術では作品という形を取っているだけなのです。例えば現代の様々な音楽も、それまでの音楽の長い歴史の上に成立しているのは結構よく知られています。ロックもジャズもポップスも、歌謡曲だってアイドルのヒットソングだって、その前史、そのまた前史、さらにそのまた前史からの流れの末に生まれ、位置づけられるものです。

だから現代に生きる芸術家は歴史を学び、同時に現代の様々な知見について深い洞察を持っている必要があります。私のように、小学校の頃ちょっと絵が上手でマンガなんか書き散らしていて、それで自分には才能があると勘違いして美大にまで行っちゃっただけの、歴史も哲学も科学も……ほとんど造詣がないような人間に、優れた作品を作れるはずがなかった。こう言うと語弊がありそうですが、端的に言って「バカに絵は描けない」んです。豊かな教養と、学問に対する情熱と、自分を取り巻く世界を見つめる真摯な姿勢がなければ、優れた芸術など生み出し得ない。

優れた芸術家というものは、優れた教養人であると思います。ご自身の分野の歴史を踏まえ、同時代の作品からも影響をうけ、時に批判し批判され(批判と悪口は異なります)、世界の現在と未来についても高い見識と洞察力を持つ、あるいは持とうと努力している人こそ優れた芸術家と呼ぶにふさわしい。芸術が人々の心を陶冶するものである以上、それは当然のことですよね。もちろんこれは芸術家に限らず、どんな分野にも共通していることだと思いますが。

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https://www.irasutoya.com/2014/03/blog-post_2687.html

ごっこ」ながらも演劇にのめり込んでいた当時、東京の演劇シーンはちょうど「小劇場ブーム」と呼ばれる時代でした。中でも時代の旗手の呼び声高かった、鴻上尚史氏率いる「第三舞台」のお芝居はずいぶん見に行きました。昨日、その第三舞台の流れをくむ「KOKAMI@network」の公演『ハルシオン・デイズ2020』の主演者コメントのうち、俳優・石井一孝氏のコメントが批判されていました。同公演の公式Twitterでは「先に出した文章が、一部認識が浅く、間違った表現であった」とツイートが書き込まれ、公式ウェブサイトではそのコメントが差し替えられています。

www.thirdstage.com

石井一孝
『蜘蛛女のキス』というミュージカルでモリーナという愛深きトランスジェンダーを演じたのは10年ほど前だったか。「女言葉や女性としての自然な所作」という設定が難しく、膨大なセリフもなかなか覚えられず、七転八倒の毎日でした。しかし仲間達と絆を重ねあい壁を超えると、女でいたいというモリーナの心が、男の私にも伝わり、生き生きと女を生きられたのだ。今回は哲造というゲイの役。モリーナとは違い、男として男を愛する役ではあるけれど、自分のいつもの言葉とは違うセリフで、難しい役であることは似ていると感じる。けれど今度は最初からうまくいく...気がしている。しかし鴻上さんとは初めまして。「生きる!」というテーマに立ち向かうのはきっと大変な毎日になると思う。でもHalcyon days(穏やかな日々)を少しでも早く迎えられるよう、気を引き締めて挑みたい。

ところが、その時点で私は、差し替えられる前の文章を他の芸能ニュースサイトなどで読むことができました(現在は差し替えられているようです)。
thetv.jp
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lp.p.pia.jp
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差し替え後の文章と読み比べてみていただきたいのですが、私はこれは「差し替え」というより「隠蔽」だと思います。公式ウェブサイトの「書き換え後」の文章を石井氏自らが手がけたのかどうかは不明ですが、自ら書いたのだとすれば先の発言(文章)からこの文章に変わったその思考経路についてぜひ説明されるべきだと思います。そしてもしご本人ではなく興行元(ウェブサイトの管理者)が書き換えたのだとしたら、それは「臭いものに蓋」のそしりを免れないのではないでしょうか。

私は学生時代に第三舞台を見ていた当時から最近に至るご著書まで鴻上尚史氏のファンですが、その鴻上氏が昨日Twitterに書き込まれていた、石井氏を不問にするに等しいこのツイートにも少々がっかりしました。「ずっとアライでありたい」と思っておられるなら、なおさら。まずは謝罪をという姿勢はもちろん共感できるのですが。

「原文」では「またきてしまったのか……オカマ役が」、「今ではもうすぐに女になれる……気がしている(笑)」などと、性認識・ジェンダーに関してあきれるほどの無理解や不見識が露呈しています。マヌエル・プイグ氏の『蜘蛛女のキス』にせよ、鴻上尚史氏の『ハルシオン・デイズ』にせよ、こうした役を演じるだけの教養と器量と人格を備えている方なのかどうか、はなはだ疑問です。バカゆえにアーティストになれなかった私が言うのも大変おこがましいですけど。

追記

今朝の東京新聞朝刊で、北丸雄二がこの件を取り上げておられました。そうですよ、カッコ悪いですよ。

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中国語のあまりに巨大な存在感について

何十年か前、はじめて香港へ行ったときのこと、とあるお茶屋さん(茶葉の販売店)で中国語(北京語)を使ったら、あからさまに無視されたことがありました。何度話しかけても、まるで私がそこにいないかのように無視をする。私も海外ではいろいろな目に遭ってきましたが、ここまでの差別的な対応は初めてでした。

私のそばには二人連れの若い日本人観光客がいて、その店員は笑顔で接客していました。実はこの日本人観光客は英語で話しかけていたのです。店員が私には「塩対応」だった理由はこちらの風体が怪しかったからという可能性もありますが、ともかくこれは、中国語を使うことでネガティブに受け止められることがあるということを知った最初の体験になりました。

台湾で働いていたときはもちろん中国語を使っていましたが、私は自分の「北京ふう」あるいは「大陸ふう」な中国語にどこか居心地の悪さを感じていました。台湾でも北京語ベースの中国語(“國語”と台湾の人々は言います)が広く使われていますが、私がいた台湾南部はそれとはかなり発音の異なる“台語”(台湾語)が主流の社会。だからといって「北京ふう」が忌避されるということはもちろんないのですが、冗談交じりでよく“北京腔”(北京訛り)と言われていて、ここでも若干のネガティブ(というほどではないけれど)な空気がありました。

新疆ウイグル自治区をあちこち旅行したときにも中国語を使いましたし、それですべての用が滞りなく足せました。当時は私の中国語に対するネガティブな反応も感じませんでしたが、中国政府による同化政策が苛烈を極めているいまだったらちょっと臆して使いにくいかなと思います。少なくともどこかに後ろめたいような気持ちを感じざるを得ないでしょうね。

中国語圏というのはかくも広大で、中国語(北京語・普通話)が話せれば東アジアから中央アジアのかなりの範囲で使うことができ、その意味では便利な言語ではあります(それどころか欧米でも便利だったりする)。ただその中国語のあまりに巨大な存在感について、一学習者としてはもう少し内省的でありたいな……とも、ここ数年考え続けています。

qianchong.hatenablog.com

最近、中国・内モンゴル自治区における中国語教育強化のニュースにたびたび接しています。先日は新聞の読者欄でご自身の体験を紹介されている、この投書を読みました。十八年前にして、この状況。かの国の覇道は近年に始まったことではなく、非常に根深いものなんですね。

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こういう状況をみるにつけ、そしてその背後にあるものをつらつらと考えていくうちに、自分が中国語を教えていることにも一種の侘しさが漂ってきてしまいます。もちろん言語そのものに罪はありません。問題はそれを使う人間の側にあります。英語もそうですけど、広い範囲で多くの人々に使われ、そのプレゼンスが高まっている言語を使うときには、どこかにもう一つの醒めた視点が必要なのではないか。そんなことを考えています。

中高年にとっての筋トレ

「現代ビジネス」のウェブサイトで、俳優の大村崑氏が筋トレをされているという記事に接しました。御年88歳。年齢は違うけれど、記事を読んで大村氏のおっしゃることに首肯することしきりでした。私も数年前の、腰痛と肩こりと不定愁訴に喘いでいたあの頃のまま筋トレしないでいたら、たぶん今ごろとんでもない状態になっていたと思います。

gendai.ismedia.jp

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https://youtu.be/AfRds_We3js

でも一方でこの記事、「筋トレにハマりムキムキ」というタイトルに編集氏の無理解が透けて見えるようにも思いました。筋トレは、特に中高年の多くにとってのそれは、ムキムキになるためじゃないんです。少しでも長く自分の身体を自分で支え、自律的に使えるようにするためと、QOL(生活の質)を上げるためなんです。

筋トレには様々な種類(種目?)があって、大村氏も「スクワット」やら「ラットプルダウン」やら「シーテッドロウ」やら「アップライトロウ」やら……様々なものをトレーナーさんと一緒にやっておられます。それらはもちろん、肩を鍛えるとか背中を鍛えるとか、目標とする筋肉が細かく分かれているのですが、実際にやってみると単にその筋肉だけに焦点を当てているわけではなく、個別の筋肉のトレーニングが全身と関わっていることが分かってきます。

例えば大胸筋を鍛える「ベンチプレス」も、継続して取り組んでいると実は大胸筋だけで挙げているわけではなく、身体全体の使い方が洗練されたのちにウェイトの数字も上がるというのが分かってきます。基本的には大胸筋が力を出せるようフォームを細かく指導されますが、それには大胸筋だけでなく、背中や腕やお腹やお尻や、はては足の位置にも注意のポイントが及んでいたりして、すごく奥深い(私も最初は胸なら胸だけに意識を集中させればいいのだと思っていました)。

もちろん正しく筋トレを継続していけば体型も変わってきて、それももちろん楽しいんですけど、それはあくまで副産物……くらいに思っておくのが中高年の筋トレで大切な点ではないかと思います。誰かを圧倒するためでも、エエカッコするためでもない、身体の不調から自分を解放してQOLを上げるための筋トレ。だから「筋トレ」と聞いて真っ先に思い浮かぶ「ムキムキ」とか「ボディビル」みたいなイメージからはだいぶ遠いところにある、というのが実感です。

qianchong.hatenablog.com

試験も成績もいらない?

夏が終わり、期末試験の季節がやってきました。私が勤めている学校のうちの一つは四月に開講して、前後期の二学期制なので九月の末に前期末試験があるのです。毎年この時期になると不思議に思うのは、普段の授業にはあまり身が入っていないように思える学生さんも、この試験時期ばかりはものすごくセンシティブになっているということです。

試験範囲を細かく確認してきますし、成績評価についてもその基準を知りたがります。試験を行う教室に何を持ち込んでいいのかを直前まで気にしている人もいます。いずれも学期開始時に印刷された授業案内を配布し、授業でも何度も伝えているにもかかわらず、直前になってにわかに、それらに敏感になるようなんですね。

もちろん私は何度でも繰り返して説明しますけど、どうして試験だけはこんなに真剣なんだろうと、ちょっと不思議な気持ちがするのです。試験だから真剣なのは当たり前だろう、それで成績がつき、後々の人生(進学とか就職とか)にも影響するのだから……とおっしゃるでしょうか。まあそれは当然理解できます。でもそれって損得勘定ですよね。

そして同じ損得で考えるなら、なぜ普段の授業に身を入れずに、期末試験という一点にのみかけるような「リスキー」なことをするのかが分からないのです。普段からコンスタントに学び、訓練し、技術を身につけておく(私が担当しているのは通訳科目なので、身体技術という側面が比較的強いです)ほうが一番自分にとって「得」じゃないですか。

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https://www.irasutoya.com/2017/10/blog-post_515.html

私は期末試験を控えてセンシティブになっている学生さんに、「普段みなさんきちんと学んできているんですから、実力で受ければ大丈夫ですよ」と言います。これはイヤミじゃなくて、本当にそうあってほしいという祈りのようなものです。それに私は普段の授業でこまめに全員の訳出(通訳すること)の録音をとってはその都度評価しており、そのいわば「平常点」が成績の6割、期末試験は4割で按分しています。この割合はもちろん授業案内にも書かれており、授業の初日にも説明しています。だからなおさら期末試験一点突破という戦略(?)は奏功しないはずなんです。

……でも。

ここに至って私は、なんだかこういうシステムそのものが「学び」という観点からすればとても不毛なものに思えてきます。だって学びは、特に私が担当しているような大人の学びは、義務教育とは違って自分で選んだものです。なのに初志をどこかに置き忘れて、コツコツと技術を身につけることをせず、期末試験だけ目の色が変わるというのもおかしいじゃないですか。

それに私自身、なにも厳格に試験を行い厳格に採点して、まるで戒めのように不合格とか再試判定などを出すことに何の喜びも感じません(当たり前ですけど)。学生のみなさんがなにがしかの学びを得て、自己肯定感や達成感や幸福感を味わって、それぞれの人生の糧にしていただけたら一番うれしいのです。

そう、試験を行うとか、成績をつけるとか、そういうシステムはいらないのかもしれません。普段の授業で評価はするけれど、それも誰かと比較して順列をつけるためではなく、その学生個人の努力目標を指し示すものでさえあればいい。学校全体の枠組みから行くと、試験を行わず成績もつけないということはできないのですが、そこはそれ(大きな声では言えないけれど)なんとでもやりようはあると思います。

語学の達人の言葉に注意する

先日、フィンランド語のオンライン講座に出ていたら(最近はずっとオンライン)、先生がかつての教え子でフィンランドに留学し、現在はあちらで結婚されている方の新聞記事を紹介してくれました。その生徒さんはその昔、私たちと同じように週に一回のフィンランド語講座に通ってある程度学んだあと、留学されたそうです。

先生いわく「週一回の教室通いという意味ではみなさんと全く同じ」。だけれどもその他の日の過ごし方がぜんぜん違っていたとのことでした。その新聞記事にも紹介されていた学習法によると、講座のない日も毎日三時間フィンランド語を勉強し、辞書を適当に開いて見つけた単語を片っ端から覚えていくというやりかたで5000語ほどの単語を暗記してしまったそう。ものすごい努力です。

そういう努力家のお話を聞くと、おお、自分も頑張らねばと思い、焦るのですが、同時にそれは無理だなと絶望的な気分にもなります。少なくともいまのような仕事と家事のやり方をしている限り、私が一日三時間の語学に使える勉強時間を捻出するのはまず不可能ですから。それでいきおい「ああもう仕事なんか辞めてしまいたい」などと思うのですが、ひとしきり妄想にふけったあと、また心の平静を取り戻してこうつぶやくのです。「人は人、自分は自分」だと。

そう、語学に限りませんけど、人と比べることには何の意味もないんですよね。人それぞれに抱えているものが違うし、人生のステージも違う。そりゃ極端なことを言えば中高年の私にだって他人と同じように一日二十四時間が与えられていますし、何かを始めるのに遅すぎるということはないのです。でも現実はそう甘くない。

結局私は「人は人、自分は自分」と割り切って、いま自分にできることを自分なりにやり続けていくことしかできません。昨日は「何かをあきらめるのには技術が必要」などと書いておいて矛盾するようですが、何も全部ダメだと投げ出してしまわなくてもいいのです。ロシア語の黒田龍之助氏が『外国語の水曜日』で書かれていたように、「外国語学習にとって最も大切なこと、それはやめないこと」なんですから。

qianchong.hatenablog.com

語学において「人は人、自分は自分」と割り切るため、私はSNSなどにある語学関係の書き込みやツイートに注意深く接するよう心がけています。SNSには数多の語学の達人がいて、それぞれの学習法や学習の成果を披露されています。それらはもちろん実体験から導き出された貴重な視点と成果ではあるのですが、あの人はこうやっている、この人はこうやっている……というのを読み続け、圧倒され続けているうちに、まるでそうしていない自分がとんでもない怠け者のように思えてきて、自己肯定感がどんどん削られていく。これはよろしくありません。

またこうした達人の言葉は、一種の高揚感をももたらすので注意が必要です。新しい語学書、それも「これまで挫折したあなたもきっとこの本で飛躍できる系」の語学書を見つけたとき、そこに書かれているメソッドが斬新かつ効果的に思え、なんだか自分が生まれ変わったような、ワクワクする明るい未来が待っているような妙な高揚感に包まれることがあります。これって「自己啓発本」を読んで包まれる高揚感と同種のものなんですよね。いわゆる「キャリアポルノ」というやつです。

でも語学の達人の箴言にせよ、新しいメソッドを謳う語学書にせよ、それをすべて自分に当てはめることはできません。上述したように人それぞれに抱えているものが違うし、人生のステージも違うからです。自分は自分で毎日なすべきことを一つ一つやっていけばいいし、またそれしか自分にはできないのです。

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https://www.irasutoya.com/2017/06/blog-post_41.html

あきらめる技術

ハ・ワン氏の『あやうく一生懸命生きるところだった』を読んでいたら、「ホンデ病」という言葉に出会いました。韓国で、美大を目指す受験生たちがかかる不治の病ーーというのはもちろん諧謔で、入試の競争率が極めて高い難関美大への挑戦を何年もくり返しては挫折することを指す言葉なんだとか。「ホンデ」は漢字で書けば「弘大」で、ソウルにある弘益大学校のこと。Wikipediaによれば「韓国全土から美術家・デザイナー・建築家・ミュージシャン志望の多くの学生を集めている。韓国を代表する美術家やデザイナーが多く輩出されており、芸術界やメディア界に一定の影響力を持つ」のだそうです。

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あやうく一生懸命生きるところだった

筆者のハ・ワン氏ご自身は、三浪した末に四度目で「ホンデ」に合格したそうですが、普通の大学受験ではありえないほどの浪人生活を送ってしまった理由をこう書いています。「美大の最高峰であるホンデへの合格が人生を変えてくれると信じていたから」、つまり「一流大学に入りさえすれば人生は必ず成功する」と思っていたから。でも実際に入学してみても何も変わらず「その考えがどれだけウブで単純なものだったのかわかるまでにそう時間はかからなかった」。そして当時を振り返ってこう総括するのです。

ほんの少し顔を上げて周囲を見渡すだけで、ほかの選択肢がいろいろとあると気づくのに、執着してしまうとそれが見えなくなる。たった一つ、この道だけが唯一の道だと信じた瞬間、悲劇が始まるのだ。(翻訳は岡崎暢子氏)

なんとも含蓄に富む言葉ではありませんか。世の中「諦めたらそこでおしまい」とか「ネバー・ギブアップ」という言葉が絶対善のようにもてはやされていますけど、なにかに執着していると周りが見えなくなり、そこから抜け出せなくなる、多様な可能性に気づけなくなるということは往々にしてあると思います。

何を隠そう、私もかつて美大や芸大を目指した受験生でした。さいわいにも「ホンデ病」にはかからず一浪の末に美大に入学しましたが、そのぶん美術への熱が冷めるのも早かったように思います。いや、熱が冷めるも何も、自分に才能がないことをイヤというほど思い知ったのですけど。それはさておき、美大予備校には日本版「ホンデ病」とでもいうべき症状を呈している方が多くいたことを覚えています。日本の「ホンデ」に当たるのは東京藝術大学です。いまはどうだか知りませんが、当時は三浪、四浪は当たり前といった世界でした。当時予備校ではこんな自虐的な替え歌が流行していました。

発表を待つ君の横で僕は時計を気にしてる
季節はずれの雪が降ってる
藝大の発表はこれが三度目と
寂しそうに君がつぶやく
(中略)
いま春が来て君はきれいに散った
去年よりずっと見事に散った

イルカの『なごり雪』の替え歌ですね。これが受験生の心に刺さりまくって流行するくらい、「藝大病」に侵された浪人生がたくさんいたわけです。受験科目であるデッサンについても、こんな替え歌がありました。

形狂ってます
形にじゅうぶん注意をするのよ
調子もちょっぴり控えめにして
あなたは浪人でしょ うまく描かなきゃだめなの
講師の言うこと 気にしちゃいけないわ
上手に書くのよ 形狂ってます

敏いとうとハッピー&ブルーの『わたし祈ってます』ですか。時代を感じます。私としては、当時は当時でそれなりに情熱を持って受験に臨んでいましたし、あたら青春を無駄に過ごしたあの時期もまあなんというか愛おしくもありますし、才能はなかったまでも美術を学んだことがその後の人生の糧にもなっている(と思いたい)しで、特に後悔というほどのものはないのです。が、もう少し顔を上げて、視野を広くもつことができていたら、より風通しのいいところに行けていたかもしれないな、とは思います。

ハ・ワン氏は「懸命な人生を生きるうえでは、あきらめる技術も必要だ」と書かれています。そう、継続や努力や我慢の技術だけでなく、あきらめる技術、撤退する技術も身につけるべきなのだと。私は受験からもう何十年も経てしまった中高年のおじさんになっちゃいましたけど、いまでもこの「あきらめる技術」はうまく身につけることができていないように思います。

言語がするのが難しいのですが、「あきらめる」は何も100をゼロにすることだけではないですよね。美大受験で六浪も七浪もするような視野狭窄に陥ることなく、さまざまな執着の棘を注意深く一本一本取り除いていく技術、そういう「あきらめる技術」が自分のいまの仕事にも暮らしにも必要だと最近よく思います。いやこれは、なかなかに難しい技術かもしれません。

スポーツにおける暴力

先日、夕刻に何気なくテレビをつけたら、NHKの『鶴瓶の家族に乾杯』という番組で過去の総集編みたいなのをやっていました。たまたまそこにプロレスラーのアントニオ猪木氏が登場し、氏のトレードマーク(?)である「ビンタ」を街で出会った人につぎつぎとかましていたのですが、まだこんなことをやっているんだ(いや再放送だから「まだこんなことを放送しているんだ」ですか)と思いました。

氏のビンタは「闘魂注入」と称されているそうで、けしかける笑福亭鶴瓶氏も、ビンタを受ける市井の人たちも、その「芸風」を楽しんでいる風情さえ感じられましたが、私には嫌悪感しか湧いてこず、すぐにテレビを消してしまいました。「闘魂注入」だなんて、まるで戦前の旧日本海軍が下級兵士を「教育」するため(その実、体罰)に使われた「海軍精神注入棒」と全く同じ発想ではありませんか。気持ち悪すぎません?

ネットで猪木氏のこの「闘魂注入ビンタ」を検索してみたら、こんな解説がありました。

国会議員当時の1990年5月16日、早稲田予備校での講演(題目「五月病卍固め」)で、予備校生のパンチを腹部に受ける余興を行った。その中の予備校生一人は、実は少林寺拳法の有段者であり、力を込めて殴った。この不意打ちに準備できなかった猪木は反射的に予備校生にビンタを打ってしまった。予備校生は猪木ファンであり、ビンタを受けた直後に「ありがとうございました」と一礼した。この様子は、テレビカメラにより録画されており、全国に流れた。その後、縁起が良いと東大受験生が受験前に猪木にビンタをお願いし、全員合格を果たした。このことから、縁起ものの『闘魂ビンタ』が生まれた……
猪木の「闘魂注入ビンタ」ってなんなの!? (2014年2月5日) - エキサイトニュース

「縁起もの」って、アンタ……自分で自分の頬を張って気合を入れるとかならまだしも、他人からそれを受けたら単なる暴力じゃないですか。洒落のわからないやつだなと思われますか? 総じて日本のバラエティ番組などに出ている古いタイプのお笑い芸人さんやタレントさんには、こうした「いじめ」や「暴力」と紙一重(もしくはそのもの)を芸風とする人が多いですけど、そんな芸はもう時代錯誤だと思います。いまは2020年ですよ。

そんな問題意識に重なる記事が昨日の新聞に載っていました。ヒューマン・ライツ・ウォッチが制作したこの動画です。「スポーツから子どもの虐待をなくそう」。芸能界だけでなく、スポーツ界にも、それも若い人たちに対する年配世代からの暴力が温存されている。私たちのこの日本の根深い問題を扱っています。


#スポーツから子どもの虐待をなくそう

ヒューマン・ライツ・ウォッチはニューヨークに本部を置く国際的な人権NGOで、世界各国の人権状況を監視し、告発と低減を行っている団体です。合わせて同団体の特集ページを見に行きました。機械翻訳などではない、きちんとした英語版・中国語版もあります。読み終わって、これは私たちの恥だと思いました。

www.hrw.org

「スポ根」という言葉が示すとおり、日本ではスポーツと根性が切っても切れない関係にあり、その根性の要求がエスカレートした末の暴力や抑圧とスポーツは深い親和性を示しています。いえ、多くのスポーツのおおもとがそもそも戦い・競うことである以上、どこの国にもそうした親和性はある、もしくはあったのでしょう。そうした戦闘性を現代に合わせてルール化しソフィスティケートさせたのがスポーツ競技であるはずですが、中にはそれを体現できない人たちがいるのです。

もちろん、すべてのアスリートやスポーツ関係者がそういう心性を宿しているとは思いません。私にも個人的にリスペクトしている素晴らしいアスリートは大勢います。でもそうした素晴らしい方々を遥かに上回る規模で、ここに告発されたような心性を深く宿して自省しない人々がまだ大勢いるわけです。近年では、例えば高校野球において過度の練習や試合への出場を制限する方策が取られ始めているとは聞いています。それでもこうして心あるアスリート自身が不利益に怯えながらも声をあげなければいけないのが現状だなんて。

上掲のヒューマン・ライツ・ウォッチによる告発サイトは膨大な文章量です。体罰・強要・強制・暴力・暴言、はては性暴力まで……読んでいて本当に胸ふたぐ思いですが、これは必読です。ヒューマン・ライツ・ウォッチの提言は主に以下の四項目に集約されています。

・スポーツにおいて、指導者によるスポーツをする子どもへのあらゆる形態の暴力・暴言等を禁止すること。
・暴力・暴言等を受けずにスポーツに参加する権利等、スポーツをする人の権利を明確にすること。
・スポーツをする子どもの指導者全員に研修を義務づけること。
・スポーツをする子どもへの暴力・暴言等に気づいた大人に通報を義務づけること。

こんな当たり前すぎるほど当たり前のことが、私たちの国では2020年の今日にいたっても確立されておらず、暴力を良しとする心性が温存されてきている。アントニオ猪木氏の「闘魂注入」が公共放送でなんの配慮も注釈もなく流れる。そうした日本の特異性があまりにも突出しているからこそ、こうした告発が日本語でなされることになり、なおかつ英語と中国語で世界に発信された……これが私たちの恥でなくてなんだというのでしょう。

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“好朋友”と“老朋友”

ネットで「中国語の“好朋友(親友)”は死語?」という話題に接しました。とある学校で教えておられる中国語の先生が「この単語はあまり使わないから」と教科書にある“好朋友”の入った例文を教えないのだそうで、すでにこの言葉は古くなってしまったのかと。

私は母語話者ではないので確実なことは言えませんが、“好朋友”は、フォーマルな場面では今でも使えると思います。例えば私のような中高年が“他是我四十年來的好朋友”などと言うのはごく普通ではないかと。少なくとも死語ということはないのではないでしょうか。

そりゃもちろん、くだけた言い方なら“兄弟”でも“闺蜜”でも“哥们儿”でも“姐们儿”でも“死党”でも“铁子”でも“发小”でも(あ、これは「幼なじみ」ですか)いいと思いますけど、語学の初中級段階では基本的かつフォーマルな言い方をまずおさえておく方がいいと私は思います。特に外国人の我々は。

周囲にいる中国語母語話者の留学生の十数名にも聞いてみましたが、全員「普通に使えるし、今でも使ってる」と言っていました。ただちょっと改まった感じ、ないしは子供が使うイメージがあるとのこと。「改まった感じ」と「子供が使う」というのは相反するように思うかもしれませんが、それだけベーシックな言葉ということなんですね。日本でも幼稚園生などにいきなり「マブダチ」は教えないでしょう。まずはお行儀よく「おともだち」と言いましょうね、と教える。それと同じです。

語学の教科書、それも初中級段階のそれは一般的にベーシックで硬い表現が載っているものです。私も教科書の中国語があまりにフォーマルすぎて、時に堅苦しくて、つい「もっとリアルなものを」と思っちゃうので、そういう例文を飛ばしたくなるお気持ちは十分に分かるのですが、くだけた言い方や様々なバリエーションは後からいくらでも学べるので、まずは手堅いところを学ぶのが吉かなと思っています。

qianchong.hatenablog.com

先生方の中には「大陸ふう」の“儿化音”や軽声を極端に排したり、逆に「台湾ふう」の言い方や繁体字(正體字)を「あれは正式な中国語じゃない」などと言ったりする方が時々いらっしゃるんですけど、私はもう少しフラットかつ広い視点で中国語を捉えて教えた方がいいんじゃないかなと思います。とはいえどこかに軸足を置かないと初学者は混乱するので、私は「教科書はこうだけれど、他の地方ではこうも言う」とか「いちおう基本としてこれを学ぶけど、慣れたら好きな方にシフトして」などと言うようにしてます。

中国語は話者の数が桁違いに多く、それだけにとてもバリエーションの豊富な言語です。「二人以上の中国語母語話者の前で『この表現はアリですか?』と聞いてはいけない、必ずケンカになるから」というのは、中国語学習者の間では「あるある」なんですけど、それだけ地方によって、また個人によって「これが中国語らしい中国語だ」という基準が千差万別ということですね。だから初中級段階では一応オーソドックスな教科書で素直に愚直に学んでおいた方が、あとで応用がききます。

いまふうの中国語は、いま現在はリアルかもしれないけれど、どこまでそれが続くのかも、どんな場面にまで敷衍できるのかも未知数です。初中級段階でそこに手を出すのは、ある意味リスキーです。だから教科書の中国語が「いまここ」のリアルな中国語と少々ズレていたとしても、それだけで「時代遅れ」とか「役に立たない」とか、ましてや「死語」などと言っちゃうとしたら、それは行き過ぎじゃないかなと思います。

ちなみに“好朋友”と似た言葉で“老朋友(旧友・古くからの友達)”という言葉もあります。これもかなりフォーマルというか、ふだん顔を突き合わせている人に使うとかえってよそよそしく慇懃な感じのする言葉です。決して悪い意味じゃないんですけど、ちょっと改まりすぎている感じ。

この“老朋友”で真っ先に思い出すのは、“樣板戲*1”のひとつ、現代革命京劇『紅灯記』に登場する日本の憲兵隊長・鳩山です。丸眼鏡にチョビ髭、でっぷり太ったお腹という典型的な日本人悪役造形のこの鳩山、鉄道のポイント切り換えの仕事をしている李玉和(実は共産党の地下工作員)を怪しいとにらみ、自宅に招待します。そして紋付袴姿で登場した鳩山が日本人訛りの中国語(といっても、それらしく喋っているだけで流暢な中国語ですが)で慇懃無礼に挨拶する際、この“老朋友”を使っているのです。


【经典老电影】【红灯记】1971 The Legend of the Red Lantern(高清HD)革命样板戏
※54:55あたりから。

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https://www.sohu.com/a/118949399_417856

これなど、日本人の鳩山がわざわざ“老朋友”を、それも内心憎々しく思っている相手に使っていることで「イヤらしさ」が醸し出されています。言葉は、ようは「言い方」や「用いられ方」なんですね。

*1:中国の文化大革命期に、江青などが主導して鑑賞を推奨した「革命模範劇」のことです。

Duolingoにフィンランド語が登場

すでに1500日以上英語学習を楽しませてもらっている外語学習アプリのDuolingoに、なんとフィンランド語版があるのを発見しました。英語でフィンランド語を学ぶバージョンで日本語には対応していませんが、どうせ(?)英語学習も続けるので一石二鳥です。

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Duolingoのフィンランド語はまだベータ版ですが、初級から中級くらいまではカバーしているようです。ネットで“Duolingo Finnish”を検索してみると、けっこう前からリリースされていたみたい。いろいろな国の人がフィンランド語を学んでいるようです。Facebookには学習者のグループまでできていました。

www.facebook.com

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私はいま「ダイヤモンドリーグ」にいるんですけど、これは英語学習者だけのリーグかと思っていたら、Duolingoの全ユーザのリーグなんですね。つまり英語を学ぼうとフィンランド語を学ぼうと、学んだぶんのポイントが加算されていくようです。フィンランド語のDuolingoは始めたばかりで基本中の基本ばかりやっているので、英語と違ってどんどんポイントが増えます。あまり簡単にポイントを増やせてしまうと、学習の負荷がかからなくていけませんね。

ともあれ、これからもDuolingoは重宝しそうです。これまでずっと無料で使わせてもらってきたのですが、この辺で有料版の「PLUS」に乗り換えようかな。これだけのコンテンツを提供してくださっているんですから、少しはお金を払わないと申し訳ないような気もします。無料版は広告をたくさん見せられるので、別に申し訳なく思う必要もないのかもしれませんけど。

Zoomで顔出しを嫌がる学生さん

コロナ禍の影響で、奉職している複数の学校はいずれもZoomを使ったオンライン授業が続いています。今年の春頃にオンライン授業が始まった時は、一時間ほどパソコンに向き合って授業をしているだけでもぐったりと疲れていましたが、最近はようやく身体が慣れてきたようで、「オンライン授業ならではの身体の使い方」が分かってきたように思います。

ところで、若い学生さんたち、特に留学生の一部には、オンライン授業で絶対に顔を見せない方がまま見られます。自宅から参加しているので「すっぴん」の顔を出したくないということなのかな、とも思いましたが、男女を問わず顔を見せない人はけっこういるんですね。もちろんスマホしか持っていなくて「パケ死」や「ギガ死」が心配なので音声のみで参加しています、という人もいて、これは仕方がないと思うんですけど。

Zoomの映像はミュートにしていないけれど、顔を写さない、つまり首から下だけを写して授業に参加している人もいます。逐次通訳訓練の場合、訳出している時の顔の表情やアイコンタクトなどもけっこう大切だと私は思っているので、できれば顔見せして参加してほしいんですけど、授業の告知時に「できるだけ映像をオンにして参加してください」と書いておいても、毎回顔を隠している人がいます。あれはなぜなんでしょう?

というわけで、昨日は華人留学生の通訳クラスで、顔を出していない数人に「なぜ顔を出さないんですか?」と聞いてみました。そうしたら、お答えは「恥ずかしいから」。う〜ん、ZoomなどWeb会議システムでは画面上にほかの参加者のみならず自分の映像も映るわけですが、その自分の映像を見たくないということなのかしら。よく通訳訓練などで、録音された自分の声を聴くのが恥ずかしいとおっしゃる方はいますが、それと同じような心境なのかな?

しかしですね、これは学校の授業だから許されるかもしれないけれど、仕事でWeb会議システムに参加していて「恥ずかしいから映像をミュートします」などと言えるでしょうか。ほかの参加者は顔出ししているのに、自分だけミュートした画面の後ろに隠れて存在を消すなんて、端的に言って失礼だと思うのですが。

というわけで昨日はちょっと頭にきて「華人社会ではどうだか知らないけれど、日本社会で日本の人々と一緒に働こうと思うなら、そういう態度は受け入れられないだろうし、信用も得られないと思いますよ」とたしなめました。すると、みなさんしぶしぶ顔を出したのですが、それでもカメラから遠く離れて自分を小さく映したり、カメラの半分を紙のようなもので隠したり。どこまでシャイなんだ。

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https://www.irasutoya.com/2018/12/blog-post_25.html

……でもここに至って、私のこういう「たしなめかた」も、世間的にはパワハラとかアカハラとか言われちゃうのかもしれないな、と思いました。日本社会とか日本の人々といっても一様ではないですしね。それに「Zoomではこれこれこうあるべし」みたいな同調圧力や謎ルールがどんどん増えるのも、個人的にはあまり好ましいとは思えません。折しも先日、Zoom会議のホストが参加者の表示順を並べ替えられるという「カスタムギャラリービュー」が実装されて、話題になっていました。

www.msn.com

私はこういう、Zoom会議ですら誰が上座とか上司の画像は大きくとか、ハンコは上司に向かって傾けて押すべしとか、そういう謎ルールが大っ嫌いな人間です。でもその自分が留学生には「Zoomでは顔出しが基本」と強要している。これも「人それぞれ」の自由であるべきなのかな。ただ私は、通訳というのは人と人とのコミュニケーションを仲立ちする職業だと思っています。その職業を目指して訓練している学生さんが、なぜそこまでコミュニケーションに消極的なのかというのが不可解なのですが……。