インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

とことんヒラ社畜的な私

新型コロナウイルス感染症が拡大する中、学校現場では新学期を迎えようとしています。私の職場では二月中から通退勤時のラッシュを避けるための時差出勤が奨励され、三月に入ってからは休講や行事の取りやめが相次ぎ、学生の春休みに合わせて教職員もなるべく学校に来ないで仕事をするようにと、つまり在宅勤務が指示されました。

それでここのところはずっと自宅であれこれの作業をしていました。以前フリーランスで翻訳の仕事をしていた時期があって、あの頃がちょうどこんな感じでした。その時も思ったのですが、この仕事のしかたはすこぶる身体に悪いです。翻訳をしていた頃は締切に追われて、朝起きたら朝食もそこそこにパジャマのままパソコンに向かい、夕方までそのまま座りっぱなしのこともよくありました。

家が狭いこともあって、仕事も食事も休憩も全部同じテーブルの同じ場所。一日だけならともかく、こんなのが何日も続いたら体に良いわけがありません。案の定、腰痛や肩こりもすごいことになっていました。今回の在宅勤務でも、そこまでひどいことにはならなかったけれど、同じような感覚を味わいました。

家が広くて仕事部屋や書斎みたいなものを持っているとか、自律的に「ここからは仕事!」と切り替える意志が強いとか……そういうのが備わっていない私のような人間は、やはり「出勤する」というのがけっこう大切なんだなと改めて思った次第です。自由な働き方に憧れているくせに、ホントは「9時5時」が一番性に合っている。一匹狼なんてとんでもない、判で押したように小屋と牧場を行ったり来たりする羊の群れみたいな人間なのです。在宅勤務が始まった頃は「もっと『ゆるい』働き方を」などとブログに書いていたくせに。

qianchong.hatenablog.com

ともあれ、今日からまた出勤して仕事をすることになり、内心ホッとしています。学校の授業や行事の開始は五月の連休明けまで延期されましたから、今月は教材の準備や、自宅にいる学生への対応や、その他の雑務に充てることになります。そう、在宅勤務をしていた三月は、正直に言ってこれらの業務がてんで捗りませんでした。これも人によると思いますが、私は在宅で仕事をすると生産性がガタ落ちなのです(ふだんから生産性は高くないけど)。

自分の家にいると、家族もいて落ち着かないし、趣味の誘惑もたくさんあるし、なにより他人の視線もないし、内線電話もかかかってきません。ついついSNSは見ちゃうし(ここのところ遠ざかっていたのに)、積ん読本が「私を読んで」と秋波を送ってくるし、通勤時間を利用して毎日コンスタントに取り組んでいた語学の練習もおざなりになりがち……。

ああ、こうやって書いているとつくづく自分の本性はとことん社畜的な体質なんだと思います。なおかつマネジメントにも長けていないから、人に指示して業務をまとめることも不得手です。社畜的なのに加えて、とことんヒラ社員的なのです。

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https://www.irasutoya.com/2015/09/blog-post_62.html

「Pretender」とシンコペーション

YouTubeでチャンネル登録していつも見ている、Dr. Capital氏の動画。先日はOfficial髭男dismの「Pretender」を取り上げていました。いつもの通り、音楽理論の豊富な知識を背景に、「こんな魅力が隠れていたのか!」と気づかせてくれる切り口がとても新鮮です。


Official髭男dism の Pretender - Dr. Capital

今回は「Pretender」の「Bメロ」に現れる、「均一に鳴っているコード+シンコペーションのベースライン」がとても「キャッチー」だと解説されています。そしてここがいつも楽しいのですが、こうした「技法」が他のアーティストの作品でどのように用いられているかを紹介してくれるのです。今回はビートルズの「Maxwell's Silver Hammer」と、ビリー・ジョエルの「Zanzibar」、もうひとつ、ランディ・ニューマンの「I Love L.A.」が例示されていました。

「Zanzibar」は中学生の時に聴いて以来、ずっと好きな曲です。ビリー・ジョエル自身はどこかで「自分ではいい曲だと思ってるんだけど、そんなにヒットしなかったんだよね」と言っていましたが。


Billy Joel - Zanzibar (Audio)

なるほど、「Zanzibar」の「サビ」で「I've got the old man's car/I've got a jazz guitar/I've got a tab at Zanzibar」と歌われている部分の後ろに、断続的に入っているのがシンコペーションのリズムなんですね。ここが「Pretender」で「もっと違う設定で/もっと違う関係で/出会える世界線/選べたらよかった」と歌われている部分の作りと共通していると。アーティストが作品を作る際に、どれだけの思考を積み重ねているのか、こういうところからも垣間見えます。

「Pretender」のPVは背景に「東方電影院」というネオンサインがあって、その向こうには台北駅の大屋根が見え、途中に「西門店」と書かれた看板が出てきます。途中で映る街の風景もいかにも台北で懐かしい感じなんですけど、ネットで検索したら、その場所まで特定して楽しんでいる方がいました。素晴らしいです。「Pretender」そのものは特に台湾やアジアに取材した作品じゃなさそうですけど、面白いですねえ。

nanasepn.com


Official髭男dism - Pretender[Official Video]

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自宅でのバーチャルなお稽古

週末はできるだけ外出を控えるということでずっと家にこもっていました。せっかくの週末、仕事をする気にもならないので(こらこら)積ん読してあった本を片っ端から読んでいます。でもそれだけでは腰を痛めるので適度に運動、あとは家事。それからお能の稽古です。

いま取り組んでいるのは六月にある予定の温習会(これもどうなるかはわかりませんが)で舞う予定の舞囃子「融(とおる)」です。最初に長い謡があって、それから早舞(盤渉舞)があって、最後に仕舞と同じ寸法の舞がついています。中盤の早舞は「五段」という少し長めのもの。

お師匠からは、「次はどの型だったっけ」と思い出しながら舞っているようだと、融独特の「遊興」的な境地にならないので、何度もお稽古を重ねて自分なりに研究してみてくださいねと言われています。遊興の舞ですから、ある意味「一生懸命舞ってます」的な必死さが抜けて「余裕をかましている」くらいになりたいところですが、かといって「ま、こんなもんでしょ」的にこなれ過ぎちゃうと、いかにもはしたない。

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https://www.irasutoya.com/2016/01/blog-post_133.html

ふだんは自宅でお稽古しているのですが、例によってダイニングテーブルと椅子を片付けたほんの僅かなスペースしかないので、立っているところと向きを変えるところ以外は、ほとんど「実寸」での練習ができません。ご自宅に実際の能舞台と同じくらいのスペース(3間四方≒6メートル四方)がある方ならいいですけど、都会の極狭アパートじゃ無理ですよね。みなさん、どうやって稽古なさっているんでしょう。

地域の公民館を借りている方もいるようですが、グループならともかく個人にはなかなかハードルが高いです。ダンススタジオなどのスペースを借りたこともあるのですが、これはかなりお高いのでそう頻繁には使えません。都心の地下街とか、大きなビルの前にある公共スペースなどで、ダンスの練習をしている方々を見かけることがありますが、ああいうところでやるのは……でも、お能の場合は扇を持っているので、かなり目立つような気がします。

結局自宅の狭いスペースで、「ここは三足(三歩)行ったつもり」とか「ここで大きく回っているつもり」などとバーチャルなお稽古に甘んじるしかないのです。

薄暗がりが好き

私は「薄暗がり」が好きです。と言ってもそれは屋内についてだけで、屋外に出たらぱあっと明るいほうが好きですが。特に今日のような雪が降っている日など、しんと静まり返った家の中で電灯はつけず、雪の白さに反射してわずかに入ってくる外の明るさだけで本など読んだりしていると、無上の幸せを感じます。

若い頃は雪見酒が好きでしたが、いまはもう昼から飲むこと自体がしんどいので、やらなくなりました。褞袍(どてら)などに身を包み、寒いのにわざわざ縁側などに出て、股火鉢などしながらお酒を飲むなんての、もう一度やってみたいですけど、たぶん今やったら数分ともたずに奥に引っ込んでしまうかもしれません。

薄暗がりの中にある室内が好きなので、なるべく部屋の電灯をつけないで過ごしたいんですけど、私の妻は逆にとにかく明るい室内が好きで、あちこち電灯をつけて回ります。私が薄暗がりの中で新聞など読んでいると「目に悪いから」とダイニングテーブルの上にある電灯をつけちゃう。もとより老眼ですから、明るくしたほうがたしかに読みやすくはありますが、テーブルの隅々まで影がほとんどない空間というのは、なんだか落ち着きません。

谷崎潤一郎氏に『陰翳礼讃』という文章があります。日本の事物における、何もかもハッキリクッキリとはさせず、どこかくすんだ、沈み込んだ、茫洋としたたたずまいに一種の「美」を見出した名文です*1が、私もその美意識に共感するものです。もっともこの文章は、読んでみると分かりますけど、どこかお年寄りの繰り言的なくだくだしいところがあります。だから現代ではあまり「受け」が良くないかもしれません。

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陰翳礼讃 (中公文庫)

でも、薄暗がりは、ほんの数分待っていれば目が慣れてくれるものです。かつて東日本大震災の直後に、電力不足のため街中の電灯が間引かれていた時期がありました。あの非常時を懐かしむのも不謹慎な気がしますし、街の明かりは防犯などの意味合いもあることは分かっているのですが、それでも私は「ああ、これくらいでちょうどいいな」と思っていました。ほどなく電灯は元通りになってしまいましたけど。

能楽でも「薪能」とか「蝋燭能」という、通常の公演に比べて遥かに明かりの少ない中で行われる形式があり、聞いたところによると、過度にかつ安易に「幽玄」を強調しているからか、能楽通の方々からはあまり好まれていないみたいです。でも谷崎氏が書かれているように、豪華な能装束に金糸銀糸が散りばめられているのは、適度に暗いところでとぼしい明かりを反射する「レフレクターの役目をしたに違いない」とも思えるのです。谷崎氏は「もし能楽が歌舞伎のように近代の照明を用いたとしたら、それらの美感は悉くどぎつい光線のために飛び散ってしまうであろう」と言うのですが、これにもいたく同感です。

ところで「暗いところで文字を読むと目が悪くなる」というのは、ネットで検索してみるとどうやら迷信に近いそうですね。瞳孔は近くの文字を見るときに収縮しようとするのに対して、暗いところでは光を取り入れるため瞳孔が逆に開こうとする。このため、たしかに目が疲れやすくはなるものの、それと視力の低下は直接関係ないんだそうですよ。

*1:私はこの本で初めて“手澤”という中国語を知りました。

社会の静けさに明るい未来を見る

都民は不要不急の外出を避け、できるだけ自宅にとどまってほしいという呼びかけをうけて、ずっと家にこもっています。もともとはこの週末にチケットを買ってあったお能の公演があったのですが、ぎりぎりまで開催を模索したものの結局延期になりましたという通知が来ました。もうひとつ、カルチャーセンターの語学講座も一昨日の夜に休講との電話連絡が入りました。

メインの勤め先である学校からも、この春の新学期スタートを五月のゴールデンウイーク明けまで延期しますという連絡が来ました。非常勤で行っている他の学校からはまだ連絡がありませんが、こちらも何らかの対策が取られることでしょう。いずれにしてもこれまでに経験のない事態に直面しているわけですが、こんな中でも外に出て働き、社会を回しておられる方々ーー公共交通機関や物流やスーパーなどの店舗や、そして公務員の方々ーーに感謝したいと思います。

そしてまた、ここまで社会が停滞し、未来への希望もまだあまり見通せない中でも、暴動や略奪のようなことが起きていない点にも驚嘆しています。ニュースに接する限り、これは何も日本だけの現象ではなく、感染症の蔓延がもっと深刻な諸外国でも目立った破壊的活動は見られないよし。これは疫病というある意味誰の責任にも帰することができない事象に対して(一部の政治家は責任をどこかに負わせることに必死ですが)人々の間にある種の理性が働いているということなのでしょう。

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急に具合が悪くなる

哲学者の宮野真生子氏と人類学者の磯野真穂氏の往復書簡をベースにした『急に具合が悪くなる』を読んでいたら、がんの代替医療を巡る議論に関連して、「民間セクター・専門職セクター・民俗セクター」という概念が紹介されていました。自らの体の不調に対してどういう選択をするのか、そこでいちばん重要な役割を果たすのは家族や友人・知人といった自らの日常を構成する「民間セクター」です。

そこから、専門的な知識を持ち、権威からの付与による資格を持つ人々(つまりは医療者)にどういう選択をしたらよいのかの判断を求める、これが「専門職セクター」。ところがその専門職セクターに対する信頼がどこかで揺らいだり失われたりした際に、そのかわりとなって信頼や希望を与えるのが「民俗セクター」で、これが権威はないけれども明確な指針を与えてくれる代替医療という存在だというのです。

ここではエビデンスに基づいた判断をするという科学的な態度よりも、どれだけ希望や信頼が置けるかという、言ってみれば非科学的な態度が重視されているわけですが、それが完全に非合理的なことだとは思えないと磯野真穂氏は言います。専門職セクターから正しいと言われる標準治療を受け続け、それでも状況が改善せず、何が正しいのか、どう決定すればよいのかに疲れた患者が代替医療に救いを求めるのもわかると。

逆に、たとえ結果として最善の方法ではなかったとしても、ある程度の方向性を指し示してくれることこそ専門家セクターに求められることではないかと。さらには最善の結果にならなかったとしても民間セクターたる私たちはそれを責めないという覚悟が必要ではないかと。

この議論は、ここのところの新型コロナウイルスを巡る私たちと感染症の専門家との関係をも示唆しているようで興味深く読みました。いまのところ私たちが自暴自棄な行動に走らずに落ち着いて対処できているのは、私たちがまだ専門職セクターの人々に希望を信頼を託しているからなのでしょう。それはこれだけネットが発達した社会で、世界中の動きがデータになって可視化され、リアルタイムで私たちに届けられていることとも無縁ではないと思います。

今次の感染症が拡大し始めた当初は、「ごま油を鼻の穴に塗ると効く」的なデマがいくつも飛び出してほんの少しゴタゴタしましたけど、すぐに淘汰されて聞こえなくなりましたよね。また一部の国や民族などに憎悪の目を向ける差別的な言動も見られましたけど、これだけ全世界的に感染が広がったいま、そんなヘイトもかなり無効化された感じがします(もちろん一部には依然として馬鹿な人たちがいますけど)。

感染拡大の今後は全く見通せませんし、いまこの時点で感染症の症状に苦しんでいる人もいるので少々不謹慎かもしれませんが、私はいまのこの、どこか奇妙で共和的とでも言えそうな人々の冷静さや静けさ、科学的態度への信頼に、明るい未来を見るものです。今次の新型コロナウイルス感染症の流行は、私たちに新しい世界観や人間観、そして個々人に新しい人生観をもたらすかもしれません。

「プレッパー」ではなかった私たち

不要不急ならぬ「必要火急」の用事で都心に出た帰り、いつものスーパーに夕飯の材料を物色しようと立ち寄ったら、レジに長蛇の列ができていました。「あ、もしやこれは……」と思って売り場に回ってみると、案の定あちこちの棚が空っぽの状態に。ざっと見たところ、缶詰や即席麺や冷凍食品などはもちろん、野菜も肉類もかなりなくなっています。昨年の大型台風が接近した時もちょうどこんな感じでしたけど、みなさん都知事の発表やニュースやワイドショーなどで居ても立ってもおられず、買い求めに殺到しているのでしょうか。

でもよく見ると、葉物野菜や魚介類などは普通に残っていました。これは要するに、比較的長く保存できたり、冷凍できたりするものを中心に買い占めているということなのかな。私はいつも通りに買い物をしましたけど、うちは夫婦二人だけで比較的気楽な食生活だからそんな余裕をかましていられるのかもしれません。小さいお子さんがいるとか、お年寄りがいるとかのご家庭だと、気の使いようも私たちなどの比ではないでしょう。

ネットのニュースやSNSでは、こうした「すっからかん」のスーパーの棚を写真や映像に収めては拡散させています。数週間前のトイレットペーパー騒ぎの際、「みんながそうしているから」という理由で大勢がデマと知りながらも同じ選択をして、それが拡大する「バンドワゴン効果」が指摘されたばかりだというのに、本当にみなさん懲りない方々です。SNSはもうそういうものだから仕方がないですけど、マスメディアには大きな責任があると思います。

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https://www.irasutoya.com/2016/06/blog-post_40.html

こうした買い占めに関して、ネットで興味深い記事を見つけました。この記事では、日頃から今回のような非常事態を想定して備えをしている人々を「Preppers(プレッパーズ)」と呼んでいます。

www.technologyreview.jp

「アマゾン流の必要なときに、必要なものを、必要なだけ生産または調達するジャストインタイム方式はとても効率的ですが、レジリエンス(回復力)が欠落しています」という指摘は、本当にその通りだなと思いました。これは何も今回に限らず、地震や台風などの災害に備えて、食品や生活必需品を常備しているかどうかという問いかけでもありますよね。私もあまり家にものを置きたくないタイプの人間なので、水や簡易トイレなどの備蓄はありますが、食品についてはあまりきちんと揃えてきておらず、反省することしきりです。

また、買い占めや「駆け込み買い」を誘発するバンドワゴン効果への対処として、とある掲示板サイトがコロナウイルスに関する投稿の削除を開始したというのにも注目しました。「この種の投稿はこのサブフォーラムにも社会全体にもまったく意味が無いので、できるだけ早急に投稿を削除するようにしています」とし、削除する理由は「プレッピングは日ごろから非常事態に備えることです。今になって急に、自分で使うためにN95マスクが3箱必要になったからといって品不足を引き起こすことではありません」と。いや、耳が痛いです。

……と、こんなブログを書いている私も、煽りに加担している可能性がありますね。このあたりで止めておきますが、ひとつだけ、これだけ物流などのシステムが発達した現代の大都市である東京で、人間の生存に関する極めて根源的な不安である飢餓への恐怖が湧き上がるなんて思いもよりませんでした。そんな「飢餓」なんて大げさなものじゃない? でも食糧が尽きるかもしれないという心配は、突き詰めれば飢餓への恐怖ですよね。

あの大震災のときにも似たような恐怖が湧き上がって一時期スーパーの食品棚から商品が消えましたが、今回はあの時以上の恐怖が買い占めに走る人々を突き動かしているような気がします。大震災はたしかにインパクトとしては大きいけれど、それでもいずれ回復、復興していくだろうという「先」が見えました。今回の感染症はその「先」がどこになるのか今のところ全く見えていないという点が大きいのだと思います。

謝辞なんていらない

ネットで検索していたら、とある大学での卒業式における「謝辞」を見かけました。型通りのものとは全く違ったスタイルのその謝辞は、SNSなどでも「パンク」だ「ロック」だなどと形容され絶賛されていました。

www.univ.gakushuin.ac.jp

個人的にはこの謝辞で、「私は素晴らしい学績を納めたので『おかしい』ことを口にする権利があった。大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間とは違う」と述べつつ、「私たちには言論の自由がある。民主主義のもとで言論抑制は行われてはならない」としているところに大きな違和感を覚えました。素晴らしい学績を納めていなくても口にする権利があることを守るのが言論の自由だと思うからです。

でもその一方で、「卒業生総代答辞の多くが、ありきたりな言葉の羅列に過ぎ」ず、「見事な定型文と美辞麗句の裏側にあるのは完全な思考停止だ」という部分は、たしかにその通りだと思いました。私も卒業式などにおけるああした「送辞」なり「答辞」なり「謝辞」なりの“千篇一律”ぶりが好きではなく、自分の大学の卒業式にさえ出席していないくらいです。

ただ、定型文と美辞麗句ではない形でも、様々な思いを述べることはできると思います。その意味で、くだんの「謝辞」はあまりにも荒削りですし、「感謝を述べるべき皆さまなんてどこにもいない」と言い切ってしまうのはやりすぎじゃないでしょうか。自分がここに生かされている事実と、生かされている環境というものは、自分自身でも気づいていない多くの人々の営みから作り出されているのですから。それが人間の社会というものだと私は思いますし、そこに想像が働かないのはやはり幼いと言われても仕方がありません。

でもまあ、こうしたお若い方の意気軒昂な「謝辞」を頭ごなしに否定せず、そのままウェブサイトに掲載した大学当局の判断はいいなと思いました。謝辞の上には注釈がつけられていて、「内容が謝辞として相応しくないといった意見もありましたが、本学部は多様な意見を尊重しオープンな開かれた学部でありたいと考え、原文のまま掲載しております」とあるんですけど、これはいらなかったかもしれません。そんなものは一切つけず、どのような謝辞であっても黙って受け止め、静かに卒業生を送り出してあげるだけでいいんじゃないかと。

昨日たまたま読んでいた、大村はま氏の『教えるということ』に、こんな一節がありました。

「卒業生がいつでも先生、先生と慕ってくれるのが、なによりもうれしい」とか、そのとき、「先生ほど楽しい職業はない」と思うとかいうことばを聞くことがあります。
私の受け持った卒業生は、「先生のことを忘れない」と言ったこともないし、また私も忘れてほしいと思っています。私は渡し守りのような者だから、向こうの岸へ渡ったら、さっさっと歩いていってほしいと思います。後ろを向いて「先生、先生」と泣く子は困るのです。「どうか、自分の道を、先へ向かってに(ママ)どんどん歩いていってほしい。私はまたもとの岸へもどって、他のお客さんを載せて出発しますから」。卒業した生徒がなにか自分で言ってこない限りは、私はあとを追いません。「どうぞ新しい世界で、新しい友人を持って、新しい教師について、自分の道をどんどん開拓して行きますように」そんなふうに子供を見送っております。(70ページ)

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新編 教えるということ (ちくま学芸文庫)

以前にも書いたことがありますが、私は自分が受け持っている留学生のみなさんも、卒業したらもう振り返らなくていいから、ぜひ前を向いてほしいと思っています。卒業生の中には、折に触れて教員室を訪ねてくださる方や現状報告に来てくださる方がいて、それはそれで嬉しいんですけど、母校なんか忘れていいから、どんどん前に進んでいってほしい。そしてもし学校で学んだことが何かの役に立ったと思ったら、それを教師への「謝恩」という形で返さなくていいから、自分のあとから進んでくる人たちに伝えてほしいと思います。

qianchong.hatenablog.com

くだんの謝辞は「ロック」だ「パンク」だと持ち上げられていましたけど、「ロック」だっていうなら、大村はま氏のほうがすぐれてロックじゃないかなあ。私のことは忘れろ、振り返るな、前を向け!……って。

ヨタへロ期

東京新聞の朝刊を読んでいたら、「ヨタへロ期」という言葉に遭遇しました。評論家の樋口恵子氏の造語で、健康寿命(自立して日常生活を送れる期間)と平均寿命の間の十年前後を指すのだそうです。加齢により様々な場面で自分の思うように行かないシチュエーションが増え、文字通り「ヨタヨタ、ヘロヘロ」になりながら暮らしている時期だと。ちょっと自虐が入りながらも、自らの老いを受け止め、老いに向き合おうとする意志が感じられて、なかなか味のある言葉だなと思いました。

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記事によれば、最新の統計で健康寿命が女性74.79歳、男性72.14歳。平均寿命は女性87.14歳、男性80.98歳。なるほど、この十年前後の期間はたしかに身体の機能が衰え、介護などのサービスが必要になる「ヨタへロ期」ですね。ちょうど私の両親がこの年代で、まだ要介護にまではなっていませんが、帰省するたび暮らしが大変そうで、とても心配になります。

「ヨタへロ期」に対する樋口氏の提言が記事に載っていますが、そのうちのひとつ「シニア食堂」に絡んでおっしゃっている「調理定年」という言葉にもとてもリアリティを感じました。歳を取るにつれて食事作りが面倒になり、簡単に食事を済ませようとする結果、栄養失調などにつながってしまうというのです。

たしかに、私の両親はどちらも料理好きで、出来合いの惣菜や店屋物などをほとんど使わずまめに三食を作っていましたが、歳を取るにつれて「料理が面倒になった」と言っていました。母親など、あれだけ料理好きだったのに、持病のパーキンソン病もあって、現在はほとんど厨房に立っていません。まあ包丁を持ったりするのも危ないので仕方がないのですが。

私自身はいまのところ(もちろん)調理が面倒ということはなく、むしろ生きがいなのですが、それでも歳を重ねるとだんだん億劫になっていくのかなあ。記事には触れられていませんが、なるべく手を抜きつつしかし食事の豊かさは確保するために、もっと冷凍食品や調理家電などを駆使することを考えてもよいかもしれません。私自身はいずれもこれまで(なかばバカにして?)遠ざけてきたんですけどね。

樋口氏はこの「ヨタへロ期」について、昨年末に『老〜い、どん! あなたにも「ヨタヘロ期」がやってくる』という本を上梓されているよし。さっそくネット書店で注文してみました。

「言の葉」のフィンランド

職場から業務は基本的に「テレワーク」として学校へは極力出てこないようにとのお達しがあり、通勤時間の浮いたぶん、これまで「積ん読」だったたくさんの本を消化できるようになりました。とくに大部の本はこうやってまとまった時間があるときじゃないとなかなか手が伸びません。そんな中で読んだのが吉田欣吾氏の『「言の葉」のフィンランド』です。

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「言の葉」のフィンランド―言語地域研究序論

500ページ以上もある学術書で、フィンランド社会を理解する「鍵」としての言語という視点から、フィンランドにおける言語政策や言語教育について研究・分析を行っています。個人的にはフィンランド語そのものの構造や言語学的な分析に興味があって読み始めたましたが、そうした記述はあまり多くなく、その点では少々期待とは違った内容でした。とはいえ逆に、フィンランド史を概観した上で、周辺諸国との関係も踏まえながらフィンランドがどのような言語環境にあり、それにどう対応してきたのかについて詳細に知ることができました。

とりわけ収穫だったのが「言語的人権」という観点から、フィンランド先住民族であるサーミ人とその言語であるサーミ語、さらには移動型民族であるロマと呼ばれる人々とその言語ロマニ語(ロマ語)について記述されている部分です。とくにサーミ人に関する章で、言語の多様性と生物の多様性、あるいは人間社会の多様性を結びつけて論じている部分は、そもそも言語とはどんな機能を持っているのかに始まり、人間が現実世界を切り取る方法としての言語、世界が独善性に走ることを防ぐ機能としての言語の多様性など、非常に示唆に富む内容です。

言語ごとに世界の切り取り方が違うということは、それだけ現実世界の事象に対する多様な視点、多様な光のあて方を人間に提供するということです。この本にはドイツの言語学者であるレオ・ヴァイスゲルバーのこんな言葉が引用されていました。

人類の世界に言語がひとつしか存在しないのであれば、存在(Sein)の世界を人間が認識する道は人間の主観によって永遠に固定されてしまうであろう。この危険性を言語の相違は防いでいるのである。すなわち言語の多様性人間の言語の才を利用し尽くし、種々の必要な見方をして人類を言語による目標に導く多数の鍵である。(太字部分は原著では傍点)

なるほど、言語による世界の切り取り方が違うからこそ、人間の独善的な解釈が幅を利かすことができなくなる。そう考えればすべての学問で活発な議論が起こり、批判的な検証を行うことができるのも、言語の多様性があるからこそなのですね。まさに知は差異にこそ宿る、人々の多様性にこそ宿るというわけです。ここで論じられていることは、私たちが母語以外の言語を学ぼうとする際にぜひとも知っておきたい、そも言語とは何かという「言語リテラシー」とでもいうべき基本的な知識だと思います。

この本では他にもフィンランド手話についても多く紙面が割かれており、そこでも音声言語と手話言語の違いと共通点、手話言語に対する多くの誤解、日本手話と日本語対応手話(シムコム)との違いなど、手話言語に対する基本的な知識も学ぶことができました。

余談ですが、書名にある「言の葉」がいいですね。「言の葉」は辞書によれば「言の端(は)」であり、紀貫之の和歌「やまとうたは人の心をたねとしてよろづのことのはとぞなれりける」にもあるように、心の種から育った樹の端に茂る葉っぱという形象なんだそうです。言語を葉っぱに例えるのが面白いですけど、興味深いのはフィンランド語の「葉っぱ」は“lehti”で、これには「新聞」の意味があるんですよね。そしてフィンランド語の「新聞」は“sanomalehti”ともいい、もとの意味は「メッセージの葉っぱ」で、つまりまんま「言の葉」なんです。新聞が「言の葉」だっての、新聞大好きな私としてはとてもうれしいです。

電子書籍が「どうしてもダメ」な理由

私は電子書籍が苦手です。とはいえ、これまでにおよそ150冊くらいは購入してきました。これだけ普及しているのに電子書籍に手を出さないのも何だか固陋で頑迷な爺さんまで一直線のような気がしますし、使ってみれば新しい発見があり、自分も変わるかもしれないと思って。でもそれだけ読んでみた上での結論は「やっぱりどうしてもダメ」でした。

電子書籍は、何冊持っていても場所を取らないし、いろいろな端末で読めるから持ち歩く必要もないし、持ち歩くとしても軽量で疲れないし、その場で検索したり調べたりすることもできるし、いまさら私が言うことでもありませんが、とにかくいいことばかりのはずなのです。なのにどうしてこんなに「ダメ」なのか。

まず、電子書籍は読んでいるときの「手応え」がとても希薄なのです。最初は単に慣れの問題かとも思っていたのですが、電子書籍を読み始めてもう七〜八年は経とうというのにまだ慣れません。ずいぶん以前に内田樹氏が『街場の文体論』という本で、人は本の厚みを感じながら読書をしているというようなことを書かれていて、とても共感したことを思い出しました。たしかに私も、紙の本を読みながらときどき本の小口を見て「あと1/3くらいかな」などと確認したりしています。

内田氏は、読書というのは「いま読みつつある私」と「もう読み終えてしまった私」の共同作業だと言っています。読了するときの、何かがかちっと音を立てて合わさる時みたいな爽快感や達成感を念頭に置いて読み進むから「わくわくどきどき」するのだと。

電子書籍で困るのは、「もう読み終えた私」の居場所がないということです。どこで待っていていいのか、わからない。だって残り頁数がわからないんですから。極端に言えば、自分が二頁で終わるショートストーリーを読んでいるか、二〇〇〇頁ある『戦争と平和』みたいな長いものを読んでいるのか分からない。もちろん、デジタル表示で「残り何頁です」ということは見れば分かります。でも、頁数をチェックしながら、あと残り何頁だからそろそろ読み方を変えないといけないなとか、そういう面倒なことは僕たちはできないんです。実際には、手に持った本の頁をめくりながら、手触りや重み、掌の上の本のバランスの変化、そういう主題的には意識されないシグナルに反応しながら、無意識的に自分の読み方を微調整しているんですから。その作業は微細すぎて、読んでいる本人の自分が何をしているのか、気がつかない。(58ページ)

qianchong.hatenablog.com

それから、私は本を読み終わったあと、内容をもとに文章を書くことがありますが、そのときにも電子書籍は意外に不便だなと感じています。ただこれはパソコンなどの環境にもよると思います。私は本をそばに置いてノートパソコンで文章を書きますが、ただでさえ狭いノートパソコンの画面に電子書籍のアプリとWordなどの文書作成ソフトを開いておくのが面倒で。Kindle専用のデバイスも持っていたのですが、あまりに使い勝手が悪い(反応が遅い)ので手放しました(現在では改善されているかもしれません)。

また電子書籍は付箋を貼った位置にすぐ飛べるので便利ですが、なぜかちっとも心に引っかかってこないのです。自分で付箋を貼ったはずなのに「なぜここに貼ったのだろう」と思うことも多くて。いや、貼ったのはこの文章のこのフレーズや言葉だ、というのは分かるんです。でもその脈絡というかそこに「!」ときた時の心情が再現されない。

自分でもなぜなのかはよくわかりませんが、これも電子書籍の「自分が一冊の本のどの辺りにいるのかが分かりにくい」という特性に関係しているような気がします。付箋を貼った時、私の場合は本の見開きの右側だったか左側だったか、またページのどの辺りだったかという位置情報が記憶に絡んでいるような気がします。でも電子書籍は文字の大きさなどを変えると、情報の位置がフレキシブルに変化しますよね。

さらに紙の辞書と同じで、ぱっと全体を見通せない(一覧性が低い)ことも読書の記憶を追体験するときに不便だなと思います。例えば大きな版の書籍の場合(私は料理本などもよく買います)、Kindle端末やiPadやノートパソコンで全体を一覧するの、やりにくいですよね。できなくはないけれど、全体を表示すれば文字が小さすぎて読めないし、読むためにはズームする必要がある。それらの操作全体がストレスになります。

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https://www.irasutoya.com/2017/11/blog-post_482.html

もうひとつ、電子書籍で不便なのは家族と本を共有したいときです。妻はマンガというものをほとんど読まない人なのですが、年末にテレビドラマ『きのう何食べた?』にハマり、私が全巻持っているコミックスを勧めたら興味を示しました。ところが私はマンガはまず紙の本で読んだあと、どうしても手元においておきたいものは電子書籍版で書い直しています。もったいないけど、マンガというものは書棚のスペースを異様に占めるものなので。

きのう何食べた?』も最新の数巻を除きすべて電子書籍を再購入して持っているのですが、電子書籍は簡単に人に貸せないんですよね。私の端末を貸せばいいんですけど、そうするとこちらは読書や作業ができません。同じアカウントで違う端末から見ることはできるのですが、それだと他の人が私のライブラリをすべて見ることができてしまいます。

ebook-trend.com

いや、別に他人に見られて困るような本を買ってはいないですけど、ライブラリを全部オープンにしちゃうのはちょっと抵抗あるんですよね。というわけで電子書籍は本を気軽に他人へ貸すこともできないので、これも不便だなと思うんです(いまのところ。そのうち任意の一冊を選んで共同で閲覧できるとかの機能ができるかな。もうできているかな?)。

というわけで、時代遅れだとか古い人間だとか言われても一向にかまわないので、私はこれからも紙の本を手放さないと思います。マンガと料理本はこれからも電子書籍を使うかもしれませんけど。料理本を見ながら料理するときは、電子書籍が楽なんです。将来「ぺらっ」とした薄い端末ができて、マグネットかなんかで冷蔵庫にぺたっと貼れるようになったら最高です。

あ、『きのう何食べた?』は結局、もう一度紙の本を全巻買い直して妻にプレゼントしました。私は都合三回これらの本を買ったことになります。

フィンランド語 56 …受動態現在形

新型コロナウイルスの影響で二回ほど休講になったあと、ようやく授業が再開されました。「クラスター感染」を防ぐ意味からは、①小さな教室内で、②先生と生徒が密集して、③近距離で会話するのはどうかとも思いましたが……。一応学校の判断で、教室のドアは開け放したまま、先生もマスクをつけて授業という形が取られていました。

新しい文法事項として「受動態」を学びました。受動態というと「〜される」という中国語や英語などのアレを思い浮かべますが、フィンランド語の受動態はかなり守備範囲が広く、かつ話し言葉で多用される重要な表現なのだそうです。今回は受動態の現在形を学びました。ということは過去形や完了形などにもこの受動態があるということですかね。ともあれ、今回学んだ受動態は以下の三パターンです。

1.不定人称(主語が定まっていない文での動詞の形)

Suomessa puhutaan suomea.
フィンランドではフィンランド語を話します。

これを「フィンランドではフィンランド語が話されます」と「受動態っぽく」訳してもよいのですが、先生によればこれは「〜される」というよりも、単に事実を述べていると解釈したほうがよいそうです。「puhua(話す)」という動詞が「puhutaan」になっていて、これが受動態現在形です。

2.「〜しましょう」

Puhutaan suomea.
フィンランド語を話しましょう。

動詞の受動態を先頭に置くと「〜しましょう」という呼びかけになるそうです。

3.話し言葉

(Me) puhumme suomea.
私たちはフィンランド語を話します。
Me puhutaan suomea.
私たちはフィンランド語を話します。

上はこれまで学んできた普通の文章で、動詞が一人称複数の形になっているので、主語の「Me」は省略できます。下は話し言葉での表現で、会話の場合は圧倒的にこちらが使われるそうです。本来は話し言葉なので、こうやって記述すること自体が矛盾していますが、先生によると、最近のスマホでのチャットなどでは使われる(書かれる)のだとか。1.の文頭にある「Suomessa」やこの3.の文頭にある「Me」はいずれも省略できません。省略すると2.の「〜しましょう」という意味になってしまうからです。

動詞を受動態現在形にするのは比較的簡単です。動詞の語尾が「vAタイプ」かそれ以外に分け、それぞれ以下のように作ります。

● vAタイプ

nukkua(眠る)→ nukutaan
① Minä(一人称単数)の形にする→「nukun」
② 最後の「n」を取って、単語に「a,o,u」が含まれていれば「taan」を、含まれていなければ「tään」をつける。
③「taan/tään」の前が「a/ä」なら「e」にする(それ以外ならそのまま。「nukkua」の場合はそのまま)。

ottaa(取る・もらう・拾う)→ otetaan
① Minä(一人称単数)の形にする→「otan」
② 最後の「n」を取って、単語に「a,o,u」が含まれていれば「taan」を、含まれていなければ「tään」をつける。
③「taan/tään」の前が「a/ä」なら「e」にする(それ以外ならそのまま。「ottaa」の場合は「e」に変化)。

●それ以外

単に動詞の最後をのばして「n」をつけるだけ。kptの変化もなし。簡単です。
syödä(食べる)→ syödään
ajatella(考える)→ ajatellaan
tykätä(好む)→ tykätään
nousta(上がる)→ noustaan

受動態現在形の否定は、すべて「ei」を使います。そのうえで動詞の最後についている「an/än」を取ります。つまり……
nukutaan → ei nukuta
otetaan → ei oteta
syödä → ei syödä
ajatella → ei ajatella
tykätä → ei tykätä
nousta → ei nousta

こうしてみると、vA以外の動詞では、「ei + 動詞の原形」になっちゃうんですね。これは後々読解などをするときに混乱して誤読しそうです。

こうしたことを学んだ上で、授業ではいくつか作文練習をしました。

私はこの本を読みます。
Minä luen tämän kirjan.(主語と動詞が連動していて「この一冊の本」なので、目的語は単数対格)
日本ではこの本が読まれています。
Japanissa luetään tämä kirja.(主語と動詞が連動していないので、目的語は単数主格=原形)

私はこの本を読みません。
Minä en lue tätä kirjaa.(否定文なので、目的語は単数分格)
日本ではこの本を読みません(読まれていません)。
Japanissa ei luetä tätä kirjaa.(否定文なので、目的語は単数分格)

この本を読みましょう。
Luetään tämä kirja.(主語なし=主語と動詞が連動していないので、目的語は単数主格=原形)
この本を読まないでおきましょう。
Ei luetä tätä kirjaa.(否定文なので、目的語は単数分格)

私たちはこの本を読みます(書き言葉)。
(Me) luemme tämän kirjan.(主語と動詞が連動しているので、目的語は単数対格)
私たちはこの本を読みます(話し言葉)。
Me luetään tämän kirjan.(主語と動詞が連動しているので、目的語は単数対格)

私たちは二週間後にフィンランドを訪れます(書き言葉)。
(Me) käymme Suomessa kahden viikon kuluttua.
私たちは二週間後にフィンランドを訪れます(話し言葉)。
Me käydään Suomessa kahden viikon kuluttua.

私たちは日本人です(書き言葉)。
(Me) olemme Japanilaisia.
私たちは日本人です(話し言葉)。
Me ollaan Japanilaisia.

今回クラスメートとこの作文をしていて、これまであやふやだった目的語の格について少し整理されてきたような気がしました。

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Japanissa syödään riisia.

バッハ・古楽・チェロ

先日の東京新聞に、オランダのチェリストアンナー・ビルスマ氏のCDに関する小さな記事が載っていました。親交のあった日本の音楽評論家・佐々木節夫氏の死去に際し、ビルスマ氏の発案によって東京の教会で行われた追悼コンサートを収録したCDが発売されたという記事です。

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アンナー・ビルスマ in 東京

アンナー・ビルスマ氏といえば、もう何十年も前に購入したバッハの『無伴奏チェロ組曲』のCDだけを持っています。当時大好きだった絵本作家の長谷川集平氏ビルスマ氏のこの一枚を激賞していて、それに影響されて購入したのでした。今回新聞記事を読んで初めてビスルマ氏が昨年亡くなっていたことを知ったくらいクラシック音楽界隈には明るくない私ですが、この『無伴奏チェロ組曲』は人生の愛聴盤と言ってもいいくらい何度も聴いてきました。

新聞記事に載っていた東京でのコンサートのCDも購入したいと思ってネットを検索してみたら、そのCDと同じ内容の付録CDがついた書籍が出版されていることを知りました。それがこの本です。

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バッハ・古楽・チェロ アンナー・ビルスマは語る【CD付】

CDに収められている演奏も素晴らしいですけど、この本の内容がまた読み応えがありました。上記の東京でのコンサートでフォルテピアノ奏者として共演した渡邊順生氏と、この本の構成と翻訳を担当した加藤拓未氏によるインタビューです。このときビルスマ氏はすでに神経の麻痺によって現役の演奏活動からは退いていたのだそうですが、それを微塵も感じさせないほどの活き活きとした音楽論や演奏論に、門外漢の私でさえ引き込まれてしまいました。

こうしたインタビュー本や対談本は、とかく内容が浅く薄くなりがちという先入観のあった私ですが、この本についてはそんな浅薄さは皆無です。これは渡邊氏の抑制の効いた、かつ的確な質問と、加藤氏による達意の翻訳が大きく貢献しているのだと思います。

特に『無伴奏チェロ組曲』全曲を詳細に解説した部分については、手元にあるCDの音を聞きながらゆっくりと読み進めました。楽譜の詳細に立ち入っていく記述は(それこそ門外漢の)私の手に余る内容でしたが、それでも「なるほど、そんなことを考えながら演奏していたのか」と反芻しながらあらためて聴けたことは大きな喜びでした。

詳細な音楽論の他にも、はっと目のさめるような「ビルスマ語録」に何度もうなりました。例えばヴァイオリンと一緒に演奏するピアニストについてのこんな記述。

一部のピアニストは聴くことより、弾くことに熱中してしまう。ヴァイオリンと一緒に演奏していても、夢中になりすぎて、ヴァイオリンにできることやできないことがあるにもかかわらず、おかまいなしに引いてしまうんだ。(中略)良いピアニストというのは、ヴァイオリンに可能なことを知ったうえで弾く人たちだ。つまり頭の中で自分にできることはなにか、提案できる演奏家のことなんだ。(121ページ)

そして……

「良い演奏家」というのは、一見しただけではわからないことを、楽譜から読み取って演奏に反映している演奏家のことなんだ。(125ページ)

また、アンサンブルについては……

もちろん技術的な練習は、ある程度、自分でやるしかないが、音楽を学ぶうえで、個人だけで練習するよりも、グループで練習したほうがいい。なぜなら自分だけで練習していると、視野が狭くなり、行き詰まるので、楽しくなくなる。それが、グループで練習をすると、必ず自分にはできないことをできる人がいて、刺激になり、成長につながる。また、メンバー同士で議論が起こり、やはり音楽に広がりが出てくるんだ。(209ページ)

これらの発言は、音楽という芸術が独善に陥らないよう、ビルスマ氏が常にフラットな視線を保とうとしていたことの表れではないかと思えます。そしてそれはひとり音楽のみならず、どのような表現にも通じる哲理ではないかと思うのです。

ビルスマ氏は、カナダのピアニスト、グレン・グールド氏の演奏はあまり好みではなかったようで、その点に触れたくだりも興味深く読みました。そのくだりで渡邊氏は、自身は最初グールドの『ゴルトベルク変奏曲』に惹かれたとしながらも、こう語っています。

しかし、ほどなくして、それは「グールド」に惹かれているだけで、「バッハ」に魅せられているのとは違うと思い始めたんです。グールドをとおしてバッハを見ているうちに、だんだんとその違和感が大きくなっていったんですね。
録音された名演奏に傾倒しすぎるのも危険なことだとわかりました。これはグールドに限らず、ホロヴィッツでもフルトヴェングラーでも同じことですが、ある天才の演奏に感動するのは良いけれど、天才たちはどんどん先へ進んでいくのに、凡人である私などが、自分の中でそうした天才のひとつの演奏のイメージを固定化してしまうと、もう先へ進めなくなってしまいます。(207ページ)

渡邊氏は演奏者としてこのくだりを語っておられるわけですが、これは鑑賞者である私たちにもとても新鮮な視線を提供していると思いました。私はグレン・グールドによるバッハの演奏が大好きで、愛聴してきたアルバムもいくつかありますが、もう一度バッハならバッハ、つまり作曲者の作品そのものに立ち返って、さまざまな演奏家の様々な解釈を聴き比べてみたいと思いました。

ともあれ、この本の対談を味わった後に、付録のCDを聴いてみると、とりわけその音楽が深く身体に染みてくるように思えました。こんな贅沢な音楽体験はなかなか(本番のコンサートでさえも)味わえるものではありません。

多様性の意味を分かっていなかったのかもしれない

BLOGOSで偶然みつけたこちらの記事、とても興味深く読みました。現在国境も言語も超えて一元的に運営されているTwitterが、近い将来「分散型SNS」に移行するという話題です。特に「ドメインブロック」を利用して分散化したSNS同士が「嫌なら見るな」ないしは「嫌なものは見ない」を実現できるというのは、現時点での人類のありよう(というか限界)を如実に示しているようで興味深かったのです。

blogos.com

まずは、筆者である御田寺圭氏のこの記述。

私たち人間は、視覚的情報によって物理的距離感を推し量ることには長けているが、物理的実体の伴わない情報と自分との認知的距離感を取ることはきわめて苦手である。

だからこそTwitterを含むSNS上のコミュニケーションが「『自分には本来的に関係のないことかどうか』という判断を鈍らせてしまう性質を伴っている」とおっしゃるのです。

これは本当にその通りだと思います。SNSを眺めていたらあっという間に時間が過ぎてしまうというのは、ひとえにこの本来は自分に関係なかった事柄に延々つきあわされ、リンクを辿らされた結果です。また、感動や憤怒や落胆や驚愕やらの感情をやたらに刺激されて、大勢が「脊髄反射」的に反応した結果「炎上」が起きるのも、こうした距離感の不全が関係しているのでしょう。

私はこうしたいわば「身の丈サイズの距離感」を失うことが自分の時間をどんどん奪っていくことに耐えられなくなり、ほとんどのSNSから足を洗ってしまいました。いま使っているのはTwitterだけですが、それも自分からツイートしたり、誰かのツイートに便乗したりすることはやめてしまいました。

さらに、Twitterのこの「設計変更」の背後にある事情を御田寺氏はこう分析しています。

すなわち、グローバル社会が理想的に追求してやまなかった「多様性」とは「相互理解を前提とした共生」を結実するのではなく「相互理解が無理であることを理解したうえでの決別」へと終着するということだ。

はああ、なんとも情けない人類ではありますが、今の段階ではまだ人類に「相互理解を前提とした共生」としての多様性を受容できる器が備わっていないのではないかと。

もちろんこれは反面、価値観の異なる存在の排除を肯定することになり、まんま差別的な思想だと受け取られる向きもあるかと思います。また様々な問題や課題から目を背け、「臭いものに蓋をする」ことにもつながらないのかと。でも私には、現時点で人類の多くが、SNSというお手軽なツールを介して脊髄反射的に攻撃し合うという幼児性から脱することができていない以上、無用な争いを避ける・リソースをもっと他に割くという点でむしろ建設的ではないかとも思いました。

私がほとんどのSNSから足を洗おうと思ったのは、もっと「自分の持ち場」で自分のなすべきことをやろうと思ったからでもあります。すべての問題にコミットし続けていたら、心身ともに疲れ果ててしまいます。広く関心を持ち続けることはもちろん大切ではあるものの、自分の器量を越えて関わることはできない。なのにSNSは「これにも関われ、あれにも関われ」と不断に袖を引っ張り続けるのです。

もとより人間はすべての人と分かりあうことなどできないし、分かりあうことのできない人が自分のすぐそばで暮らすことを長く許容するほど器用で柔軟な認知機能を有していない。

御田寺氏が記事の終盤近くでこう書かれていますが、これはいったん自分の生まれ育った環境から抜け出て、異文化や異言語の環境で暮らしたり学んだりしたことがある方には案外ストンと胸に落ちる認識ではないでしょうか。「話せば分かる」「誠意があれば伝わる」がもっとも頼りなく聞こえるのが、そうした異文化や異言語の環境ですから。

世界は自分が考えているよりもずっとずっと広い。この言葉は私にとって、人々の多様性を自覚させるための呪文です。でも同時に、その多様性とは自分ひとりでは受け止めることができないほどに、言い換えれば自分が考えているよりもずっとずっと多様なのだ、多様すぎるほど多様なのだということを、私はよく分かっていなかったのかもしれないと思いました。

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https://www.irasutoya.com/2018/05/vr_24.html

職員室のモノを捨てる

題名にある通りの、そのものズバリの本です。小学校の教諭である丸山瞬氏が、職員室にあった何十年前のものとおぼしき「ベル」を片付ける話から始まるその内容は、学校現場に勤めたことがある方なら誰もが「そうそう!」と頷くことしきりです。そしてその一つ一つについて様々なアイデアを駆使しながら仕事の効率化と合理化を図っていく、その粘り強い姿勢に感動を覚えてしまいました。

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職員室のモノ、1t捨てたら残業へりました! ―「捨てる」から始まる仕事革命!

いや、私は今「学校現場に勤めたことがある方なら誰も」と書きましたが、これは言いすぎかもしれません。中にはきれいに片付いていて、モノの在り処がきちんと定まっており、教職員の動線も整理されている、風通しの良い現場もあるでしょう。私もこれまで常勤・非常勤を含めて様々な学校現場にお邪魔してきましたが、企業が経営している社会人のための学校は総じて比較的きれいな印象があります。ごちゃごちゃしていて汚い(失礼)なのは、公立の学校や歴史の古い語学学校などに多かったような。

ごちゃごちゃしている学校では、たいてい何十年前のモノですかというような書籍や書類やその他わけのわからないものが教員室にたくさん置かれています。常日頃は授業に追われて忙しすぎるので、ついついそのままにしてあるものがどんどん堆積している感じです。

たまに時間があるときなど、古参の教職員に「コレは一体何ですか?」と聞いてみると「ああ、それは大昔に使った〇〇(ここ数年、いや十数年は一度も使っていない)」とか「さあ? 私も知らないけど。というか私がここに来たときにはすでにあったような」とかいうブツだったりする。この本の著者である丸山氏が最初に片付けた「ベル」は、なんと終戦直後に使われていた、始業や就業を知らせる「振り鐘」だったのだそうです。いやはや……。

私が現在奉職している学校の教員室にも、多くのモノがあふれています。特に書籍や書類は「これは一体いつのですか」というものも多く、十数年も前の「最新時事」本とか、すでに制度が変わってしまっている資格に関する教則本なども含まれていました。私はちょうど「図書委員」なるものを拝命していたので、この春休みを機に本棚の一斉片付けをしてみました。そうしたら、本当に必要な書籍類は全体の約6分の1ほどにしかなりませんでした。その他はすべて、ここ数年から十数年の間、書棚に鎮座し続けてきたわけです。

こうしたことが起こるのは、ある意味「誰も責任を取ろうとしない」からだと思います。学校現場は様々な教職員が出入りする場所ですし、勝手に処分したら教職員の誰かから不満や異論が出るかもしれない。でも忙しい日常の中で全員に確認するのは大変。だからとりあえずそのままにしておこう……で、これが数年、十数年、ときに数十年にも及んでしまうのです。

私は今回、「私は図書委員ですから、私が責任を取ります」と宣言して、常勤・非常勤の講師が集まるミーティングの前を狙って本棚の一斉片付けに着手しました。方法は、かの「こんまり」方式です。一旦書棚からすべての書籍を広い場所に出して並べます(今回は大きなテーブルを使いました)。そうやって一覧できるようにしておいて、講師の皆さんに「少しでも必要だと感じた書籍は取り置いてください。それ以外はすべて処分します」と伝えました(こんまり氏は「そのモノに『ときめく』かどうか」を基準にされますが)。

私が書棚からすべての書籍を大テーブルに並べるときは、若干の抵抗がありました。表立って反対はしないけれども、顔の表情に現れているのです。これ、私はある理由からその表情がとても良くわかるのですが、それはあたかも自分の一部を引き裂かれでもするような、極めてエモーショナルな表情です。「モノを捨てる・処分する」ということに対して、生理的にある種の嫌悪なり恐怖なりを感じる人というのはいるんですね。

だから片付けを行うときには、段階を踏んで、きちんと周知徹底した上で、しかし期限は設けて、なおかつ「少しでも必要なら捨てなくていいんですよ」というケアをすることがとても大切です。この本の丸山氏も、そこはとても用意周到に実行されています。

私はさきほど、「ある理由」から片付けに抵抗がある方の表情がよく分かると書きました。

はい、それは、私がかつてある学校で大々的な片付けを行った際、上述のような周知徹底を怠ったがゆえに(自分ではしたつもりでしたが)巨大な批判を招いてしまったという過去があるからです。その時の周囲の反応があまりにも激烈だったために、私はその学校を辞めざるを得なくなりました。周囲と問題を起こして職場を去るのは慣れている私ですが(ひどい人間です)、あれほどの激烈な反応は心身を病みそうになるほどこたえました。

私はモノに対してあまり執着のない人間だと思いますが、世の中には逆に、モノに対して私などが想像もつかないほど愛着を示す方がいるのです。学校現場とて人間社会の縮図。しかもこう言っては大変失礼ですが、学校の教職員というのは結構エキセントリックな、と言って悪ければ個性的な方が多いんです。そうした方々との合意を注意深く図りながら、残業を30%減らし、さらに新しい取り組みまで生み出すことに成功した丸山氏の努力に私が心から敬意を表するのは……実は、上述のような黒歴史があったからなのでした。

もちろん学校現場は営利目的の企業のオフィスとは違います。何でもかんでも合理的・機能的にすればよいというものではなく、ある種のカオス的な状況や澱(おり)みたいなものも、教育や研究活動には必要なのかもしれません。けれど、そこにも限度というものはあります。何十年も使われてこなかった「振り鐘」のようなモノを「これは、これこれこういう理由ですでに必要ではない」と判断を下す・下せることもまた、教育や研究に携わる人間には必要なのではないでしょうか。

とまれ、この本は「なんだか職場がごちゃごちゃして、仕事がはかどらないなあ」と思ってらっしゃる教育現場の方々におすすめです。特に管理者的立場にある方に読んでいただきたいと思います。私のような現場のヒラ教師が大鉈を振るうより、よほど効率的に事が進むと思いますから。

無邪気な冷笑

ジムでベンチプレスの休憩をとっているときに、トレーナーさんと「五輪は延期ですかねえ」という話になりました。新型コロナウイルスによる感染症が、WHOも「パンデミック」だと認めざるを得ないほど広がっている昨今。それでも「開催一択」といい続けている組織委員会や政府やスポーツ関係者に日々あきれている私は思わず意気込み、「どう考えても無理でしょ。いっそのこと中止にすればいいんですよ」的な一刀両断を語ってしまいました。

でも本当は分からないんですよね。新型コロナウイルスの世界規模での蔓延がどういう動向になるか、そのとき五輪の関係者はどのように反応し、対応するのか。考えてみればあまりにも複雑な問題で、ステイクホルダーも多すぎますし(それがまた五輪をいびつなものにしているわけですが)私のような素人が軽々に判断を下せるものではありません。にもかかわらず私は、まるでそうすることが自らの聡明さを証明するとでも思っているかのように、物事を極めてシンプルな結論に落とし込んでしまうのです。

いつになくこうやって内省的になっているのは、ちょうどレベッカ・ソルニット氏の『それを、真の名で呼ぶならば』(翻訳は渡辺由佳里氏)を読んだところだったからです。米国でトランプ大統領が登場してからこのかた、「危機の時代」における米国の諸問題に切り込むエッセイの数々は、まるで日本のことを語っているのではないかと思えるほど。それだけトランプ氏と安倍氏が相似形ということなのかもしれません。

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それを,真の名で呼ぶならば: 危機の時代と言葉の力

なかでも一番心に響いたのは「無邪気な冷笑家たち」と題された一篇です。さまざまな問題に直面したとき、評論家や専門家だけでなく私たちひとりひとりも「非常に強い確信を持って、過去の失敗、現在の不可能性、そして未来の必然性を宣告する」とレベッカ・ソルニット氏は指摘します。そうしたマインドセットを氏は「無邪気な冷笑」と呼び、「その冷笑は、人が可能性を信じる感覚や、もしかすると責任感までも萎えさせてしまう」と言うのです。

これは鋭い指摘だと思います。上述したような私の一刀両断も、つまりは複雑な問題に関心を寄せることをやめ、未来の可能性に目を閉じてひとり「してやったり」「俺は言ってやったぜ」的な自己満足にひたるようなもの。Twitterなどでもよく見かける態度ですよね(それにうんざりして、最近は読まず、書き込みもしなくなってしまいました)。でもそれはレベッカ・ソルニット氏に言わせれば「無抵抗と敗北への道を開くこと」になります。

私が「無邪気な冷笑」を懸念するのは、それが過去と未来を平坦にしてしまうからであり、社会活動への参加や、公の場で対話する意欲、そして、白と黒との間にある灰色の識別、曖昧さと両面性、不確実さ、未知、ことをなす好機についての知的な会話をする意欲すら減少させてしまうからだ。そのかわりに、人は会話を戦争のように操作するようになり、その時に多くの人が手を伸ばすのが、妥協の余地のない確信という重砲だ。

レベッカ・ソルニット氏は「わたしたち自身にとっての希望とは、将来は予測不可能なものだとわきまえることであり、何が起こるのか実際に知ることはできなくても、わたしたちの手でそれを書くことができるかもしれないと信じることである」と言います。私たちの国が空気を読むことばかりに腐心して議論を好まず、選挙においても驚くほどの低投票率を示し続けるのは、こうした希望を持ち続ける姿勢に欠けているからなのかもしれません。そしてその姿勢を損なっているのは「無邪気な冷笑」なのだと思いました。

「マンスプレイニング」という言葉があります。「男性が、女性を見下すあるいは偉そうな感じで何かを解説すること」あるいは「相手が自分よりも多くを知っているという事実を考慮しようともせずに解説し出すこと」(Wikipedia)ですが、これはレベッカ・ソルニット氏のエッセイがきっかけになって生まれた言葉なのだそうです。私はこの言葉を知って、自分の中にも潜んでいる同様の心性に気づきました。言ってみれば、この言葉によってある種の差別意識が前景化されたわけですね。

この本の「まえがき」には「ものごとに真の名前をつけることは、どんな蛮行や腐敗があるのか――または、何が重要で可能であるのか――を、さらけ出すことである」と書かれています。「無邪気な冷笑」もまた、自分の中にある、ある種の心性を明らかにしてくれる言葉になりました。