インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

ちょっと「ルンドゥン」まで

JR山手線に乗っていたら、車内の動画ディスプレイでANAの広告が流れていました。西島秀俊氏が出演する「ANA国際線でどこいく?」というCMです。YouTubeでも見ることができます。


ANA国際線でどこいく?(30秒)

この広告を見て「おおっ?」と思ったのは、西島氏が最後にロンドンのことを「ルンドゥン」と言っていたからです。

ご案内の通り、JR車内の映像広告には音がなく、セリフには字幕がついています。この広告では登場人物が航空便の行き先を「しりとり」でつなげて行くという設定で、「ル」で始まる都市名に悩んだ西島氏が苦し紛れに「ルンドゥンまで」と言って、グランドスタッフに「ロンドンですね?」と突っ込まれるというオチになっていました。

それで早速YouTube動画を確認してみたというわけです。なぜかといえば中国語のロンドンは「ルンドゥン」に近い発音(倫敦/Lúndūn)だからです。もし西島氏が窮余の策として中国語を使った(という筋書き)とすれば、いかにも中国語のプレゼンスが増している今っぽいじゃないですか。でも確認してみた結果、西島氏は「ルンドゥン(高低低低)」と言っていました。惜しいなあ。せめて中国語っぽく「低高高高」で言ってくれたら、分かる人は分かるってんで、さらに深みがあってクールだったのに〜。

……って、こんなくだらないことを考えて悔しがっているのは私だけですか。

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https://www.ana.co.jp/ja/jp/book-plan/airinfo/network/international/

いまどき「嫁探し」だなんて目も当てられない

私は「嫁」という言葉が好きではありません。特に「うちの嫁」とか「嫁にもらう」などといった物言いが大嫌いです。とはいえ、私の周囲にもお連れ合いのことを「嫁」と呼ぶ人は存外多く、かといってそのたびに「その言い方に違和感をお覚えではないですか」などと論戦を挑むのも面倒、かつその勇気もないので、いつも内心忸怩たるものを抱えております。

女性が男性の家に入る、嫁ぐという観念じたいが好きではありません。とはいえ、自分も結婚して籍を入れている。しかもうちの場合は妻が私の姓に変えましたから、世間さまからみれば実質「嫁いでもらった」ことになります。あまりエラソーなことは言えないかもしれません。それでも「嫁」という言葉に染み付いている家父長制的な考え方や男尊女卑の匂い、さらには「うちの嫁」という時に漂う「上から目線」感などもあって、私はこの言葉を使えないなあと思っています。

その意味で、現在議論されている(けれどなかなか進展が見られない)選択的夫婦別姓に賛成ですし、諸外国で実現しつつある、同性婚を含むさまざまな婚姻の形にも賛成です。日本はこの点、政府の動きも、それを支持する人々の観念も本当に遅れていますけど、それでも自治体によっては「パートナーシップ制度」などが生まれつつあります。私はこうした、より多くの人々が自分の生きたいように生きることを後押しする制度の拡充、その動きは止まらないと思いますし、もっと声を上げてそれを加速させるべきだと思っています。

……と、数日前に録画してあったNHKの『チコちゃんに叱られる!』を見ました。妻がこの番組のファンで録画しているのです。番組の中で、チコちゃんの顔のCGを作っている(ここは「大人の事情」で伏せられてますけど)チームが休暇を取れるようにする「働き方改革のコーナー」というのがあって、カラスのキョエちゃんが日本全国を回って「岡村(岡村隆史氏)の嫁探し」をするというのがここのところシリーズになっています。

www4.nhk.or.jp

実際のところは、全国各地の特産物などを紹介するコーナーなのですが、そこに「岡村の嫁探し」という側面をもたせて、笑えるコーナーにしようとしています。キョエちゃんが岡村氏の写真を見せながら、現地にいる女性に片っ端から「この男と結婚してくれませんか」と声をかけ、全員から一様に「ムーリー」と手でバツを作りながら拒否される。それが何度も繰り返され、岡村氏自身の自虐的なコメントが入ってチコちゃんが笑う……。

つまりこのコーナーを作っているNHKのスタッフはこれが「笑い」になると思っているようなのですが、私はちっとも笑えませんでした。この「嫁探し」というのは驚くほど古い感覚だと思います。冒頭に書いた男尊女卑もそうですけど、男女とも「適齢期」になったら結婚すべきという考え方の押し付けによる「結婚しない人、結婚できない人いじり」でもありますし。

キョエちゃんは以前は「岡村の嫁」と言っていたのですが、今回は「岡村のお嫁さん」とややソフトな言い方に変わっていました。NHK内でもいくらか「これはちょっと」という声があったのかもしれません。あるいは投書などが届いているのかも。でも、「嫁」を「お嫁さん」にしたって、根本の古臭い考え方は変わっていません。価値観が多様化した現代に、しかも日本人が普段常識だと思っていながら実はその理由を気づいていない問題に切り込むという番組にして、この旧態依然感はどうしたことでしょうか。

先日キョエちゃんは香川県東かがわ市に行き、様々な女性に声をかけて断られた末に、東かがわ市の「ご当地ヒーロー・てぶくろマン」にまで声をかけます。ところがそばにいた人に「てぶくろマンは男性なんですよ」とたしなめられる……。これなども、ご当地キャラが男性だということで結婚相手にならない、つまり結婚は男女でなされるべきものとの固定観念を無条件で支持しています。これもちょっと痛々しいくらいのあまりにも古い感覚で、めまいがしました。

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https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2020104974SC000/?spg=P201800178400000

最近のNHKは、特にその報道はあまりにも政権寄りの恣意的(というより不作為)なものが多く、受信料をきちんと払っている身からすればなんとも腹立たしいです(投書しても「なしのつぶて」ですしね)。それでも「NHKにも心ある職員はいるはず。その人たちを応援しよう」と思って受信料を払い続けています。以前ブログにも書きましたが、言論法・ジャーナリズム研究の山田健太氏が「社会の公共財として、みんなで少しずつ負担して公共的なメディアを支えることで、民主主義の発展に寄与することをめざしている」というのに大いに共感するものでもありますし。

qianchong.hatenablog.com

でも最近の『チコちゃんに叱られる!』、なかでも「働き方改革のコーナー」は本当に興醒めです。同じように感じている方は多いと思いますし、投書や意見なども少なからず届いていると思うんですけど……。どこまでこのコーナーが続くのか、どこでやめるのか、見届けたいです。ヘンな意味で来週の放送が楽しみになってきてしまいました。

歌って楽しむ外国語

図書館で借りた黒田龍之助氏の『外国語の水曜日―学習法としての言語学入門』という本を読んでいたら、「歌は外国語の学習に多大な効果をもたらす。発音練習にもいいし、文化に触れることにもなる」と書かれていました。たしかにそうかもしれません。私もかつて中国や台湾のポップスはもちろん、懐メロから革命歌曲までどっぷりハマって歌い、中国語カラオケにもよく行きました。某中国語学校で「歌って楽しむ中国語」みたいな講座も担当していたこともあるくらいです。

もっとも中国語の場合は「声調」という一種のメロディがあり、なおかつ歌のメロディの上がり下がりと歌詞の中国語の声調が一致しているとは限らないため、特に中国語の初学者にとっては「発音練習にもいい」とは言えないかもしれません。それでも語学の一環として歌うのは楽しいですよね。

いま学んでいるフィンランド語は……う〜ん、フィンランド語の歌で有名どころというのはあまり思いつきませんが、シベリウス交響詩フィンランディア』に出てくる『Finlandia-hymni(フィンランディア讃歌)』など、きれいだなあと思います。『フィンランディア』はあの勇ましいファンファーレ的な主題の部分が人気ですが、賛美歌みたいな雰囲気をたたえたこのコーラスの部分(演奏によっては交響詩にコーラスが入ります)も美しい。……というわけで、いま練習しています。

こちらにフィンランド語の歌詞と日本語訳が紹介されています。


【和訳付き】フィンランディア賛歌(フィンランド歌謡) - "Finlandia hymni" - カタカナ付き

こちらはヘルシンキ駅の構内で行われたフラッシュモブの映像。なかなかすてきです。


Flashmob Finlandia

歌詞はこちら。

1.
Oi Suomi, katso, Sinun päiväs koittaa
Yön uhka karkoitettu on jo pois
Ja aamun kiuru kirkkaudessa soittaa
Kuin itse taivahan kansi sois
Yön vallat aamun valkeus jo voittaa
Sun päiväs koittaa, oi synnyinmaa

2.
Oi nouse, Suomi, nosta korkealle
Pääs seppälöimä suurten muistojen
Oi nouse, Suomi, näytit maailmalle
Sä että karkoitit orjuuden
Ja ettet taipunut sä sorron alle
On aamus alkanut, synnyinmaa

Finlandia (sävelruno) – Wikipedia

1番の歌詞では“koittaa”、“soittaa”、“voittaa”という“ittaa”の部分が、2番では“korkealle”、“maalimalle”、“alle”という“alle”の部分が韻を踏んでいますが、これらはいずれもフィンランド語に多い子音の重なりで、発音する時にはいわゆる「促音」になります。歌ってみると、このいったん詰まって伸びる感じが、4分音符(1拍)のあとに符点2分音符+4分音符(つまり4拍)のメロディによく合っているなあと思いました。
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qianchong.hatenablog.com

で、『Finlandia-hymni』を覚えたら、お次はこちら、Kari Tapio(カリ・タピオ)氏の『Olen suomalainen(俺はフィンランド人)』にしようかなと思っています。「ここでの暮らしは大変で、運など巡ってきやしない。それを知ってるのは俺らだけ」……こういう哀愁漂うオジサン受けしそうな歌謡曲、大好きです。


Kari, Jorma ja Paula - Olen suomalainen

「てづかみキッシュ」のその後

先日、外苑前のデリカテッセンでキッシュを買ったら、フランス人とおぼしき店員さんの青年が「てづかみ」で箱に入れてくれて、なぜか和んじゃったという話を書きました。

qianchong.hatenablog.com

この話を同僚の女性にしたら、たまたま外苑前に用事があって行ったとのことで「そのお店を見つけたから、私も入ってみた」。でも同じようにキッシュをテイクアウトで買ったら「ちゃんと薄い手袋をして箱に入れてくれたけど?」だそうです。「ハタチくらいのかわいいフランス人青年だったよ」だって。そうそう、私が買った時もその青年だったと思いますけど、わはは、ずいぶん対応が違うんじゃない?

ブログでは「手づかみで逆に和んだ」などと、おおらかな性格をアピールした私ですが、彼女の話を聞いて「なんだよ〜、納得いかないなあ」と思ってしまい、すぐに馬脚をあらわしてしまったのでした。あ、でもキッシュはおいしいのでおすすめです。


http://citron.co.jp/

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https://www.irasutoya.com/2018/06/blog-post_569.html

疲れているのに餃子を包みたくなる

「晩ごはん症候群(シンドローム)」という言葉があるそうですね。毎晩の食事作りがつらい、疲れた……というお悩みの総称で、同名のマンガが元になっているのだとか。こちらにマンガの紹介がありますが、読んでいてなんとも複雑な心境になりました。症候群に苛まされているのが全員「ママ」だったり「主婦」だったりで、なおかつ夫、つまり男性が全くの無理解かつ非協力的だという点にです。

select.mamastar.jp

まあこれ、お子さんがいるかどうかも大きな要素ですし、世の中には理解があって協力的な夫もいると思いますが、こうした主題のマンガが広範な共感を得るというのは、やはり日本社会の特殊性を物語っていると思います。そして学生時代から何十年もこの状況を見つづけてきた自分の感想としては「変わらないなあ、この国の男たちは……」という感じです。

私自身は毎日の炊事が大好きです。とはいえ、子供のために食事を用意する必要はなく、夫婦二人分だけなのでなにかエラソーなことを言えるような資格はありません。ただ、炊事ってけっこう向き不向きがあるような気がします。食材を繰り回したり、同時並行でいくつか作ったり、作りながら洗い物を消化していったり……というのは、そう単純なことではないと思うからです。

性別やジェンダーを問わず、パートナーを選ぶ際には外見や性格や思想信条などなどの要素のほかに、ぜひ「家事能力の有無」や「家事への向き不向き」も加えるべきじゃないでしょうか。だって、家事に理解を示さず、帰ってきたら洋服脱ぎ散らかしとか、風邪で寝込んでいるのに「俺のご飯は?」などという人なんてイヤ過ぎるじゃないですか……って、お若い方に言ったら「は?」と怪訝な顔をされるかな。

それはさておき、私は炊事全般が大好きなので、妻と家事を分業しています。買い出しや炊事や後片付けは私の担当、掃除と洗濯は妻の担当です。現在妻はくも膜下出血後のリハビリと就活の最中で、外に出て働いている時間は私が圧倒的に多いので家事の分担は妻のほうが多いです。私は私で、炊事全般を担当すると自分の勉強や趣味や筋トレの時間が圧迫されるので、時々気持ちが煮詰まりそうになりますけど、マンガ『きのう何食べた?』のシロさんばりに炊事が生きがいなので、さいわい「シンドローム」には陥らずに済んでいます。

自分にとっては、炊事がストレス解消法なんですよね。だから「晩ごはんのこと考えるの、疲れた」ってことがないです。疲れないためにごはん作ってんだもの。ときには「ああ、今日は仕事でかなり疲れたから、晩ごはん作るの面倒だな」と思うこともあります。でも外食や惣菜を買って帰るのが苦手で(理由はいろいろ。落ち着かないし、味が濃すぎるし、高いし……)結局毎晩作っています。夕飯を外食で済ませることは、旅行などをのぞけばほとんどありません。

もちろん、手は抜きます。この時期だったら手抜き料理の横綱はやっぱり「鍋」。だけど、私は不思議なことに、疲れているときほど餃子を包みたくなったり、グラタンを焼きたくなったりするんですよね。アレはどういう心理状態なんでしょう。身体がカロリーを欲しているのかしら。餃子は、以前はもう絶対に市販の皮など使わず、粉からこねてのばしてましたけど、最近はそこまでのガッツというか欲望がなくなりました。歳を取って食にも淡白になってきちゃったのかしら。

それにまあ市販の餃子の皮も最近はいろいろとあって、餅粉入りとか米粉の皮とか、けっこうおいしいのです。というわけで、疲れているのに餃子を包みたくなった晩は、そんな皮を利用して手を抜き、さらに包み方も「スヰートポーヅ」式にしてさらに手を抜いています。

スヰートポーヅというのは、東京は神田神保町の古書街、すずらん通りにある焼き餃子と包子のお店。混雑時には相席になるほどの人気店です*1。ここの焼き餃子は包むときに皮にひだを寄せない、いわゆる「棒餃子」状態なんです。

この包み方だと、焼いている最中に肉汁や餡の調味料が流れ出してそれがおいしい焦げ目を作ってくれます。だから餡にしっかり味をつけて、そのぶん食べるときは何もつけないのがおすすめ。皮に餡を置いて両側から合わせて閉じるだけだから、とても早く包めるんですね。ひだを寄せる包み方の1/3から1/4くらいの時間で済むと思います。忙しいときにぴったりです。

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などと書いていたら、また食べたくなりました。今夜も作ろうかな。

*1:個人的には、正直に申し上げて、えー、そこまでおいしいとは思えないんですけど(ごめんなさい)。

「セイメイ」か「セ―メー」か

先日「はっ酵乳」という表記について書いたところ、サバねこ主義 (id:kgrapevine)さんからコメントを頂戴しました。「表記に関しては、メーカーごとに統一のルールがあるので、色々なクライアントの仕事をするコピーライターにとってはなかなかややこしいです」とのこと。なるほど、企業によって表記のこだわりはけっこうありますよね。

有名なところでは「キヤノン」や「シヤチハタ」の「ヤ」が拗音ではないとか、「ブリヂストン」が「ジ」ではなく「ヂ」を使い、「アヲハタ」が「オ」ではなく「ヲ」を使うとか。気になってネットを検索してみたら、こちらのような興味深い記事を見つけました。へええ、「キユーピー」の「ユ」も拗音ではないんですね。初めて知りました。

kw-note.com

かつて実務翻訳を仕事にしていたころは、コピーライターさんのように表記にきちんとこだわっていたかしら……と思い返してみましたが、どうもそういう場面には出くわさなかったように思います。でもたとえば中国語の原文に“佳能公司”とあったら、日本語の訳文では「キヤノン」と「ヤ」を拗音にしないというような配慮が必要なのかもしれません。もっとも昨今のインプットメソッドなら拗音を使って書いても「間違ってますよ」と指摘してくれるかな?

通訳訓練の一環としてアナウンス学校に通っていたときは、長音や連母音にとても敏感になっていました。日本語では同じ母音が連続するときに、音を引っ張って発音することが多く(長音)、また異なる母音が続くときも前の母音を引っ張って発音することがあります(連母音)。NHKのテキストで例文に出てきたのは、たとえば以下のようなものでした。

おかあさん(オカーサン)
経営委員会(ケーエーイインカイ)
移動性高気圧が(イドーセーコーキアツガ)
再生計画(サイセーケーカク)

いずれも「オカアサン」「ケイエイイインカイ」「イドウセイコウキアツ」「サイセイケイカク」と読むと、なんだかぎこちなく、かつ押し付けがましい感じに聞こえるんですよね。ただし、連続する母音の間に意味の切れ目がある場合とか、音を繰り返す擬態語などの場合は、母音を引っ張らないというのも教わりました。

里親(×サトーヤ)
安請け合い(×ヤスーケアイ)
あかあかと(×アカーカト)
おろおろと(×オローロト)

ところで、この件に関して昔から気になっていたのが、生命保険会社のCMにおける発音です。ずっと以前に、たまたまテレビで見かけた「明治安田生命」のCM、最後にこの社名をコールするナレーションが「メイジヤスダセイメイ」と聞こえて、心にひっかかったのです。自然に発音するなら「メージヤスダセーメー」のようになるんじゃないかと。

たとえばこれは六年くらい前の同社のCMですが、小泉今日子氏は最後の社名コールで「メイジヤスダセイメイ」と言っています。


いいなCM 明治安田生命 小泉今日子 片桐はいり うさりん&かめろん

最初に出てくるナレーターさんも、小泉氏よりはいくぶんソフトですが「メイジヤスダセイメイ」。ところが直近の同社CMでは、ちょっと気だるい感じのナレーションで「メージヤスダセーメー」と言っています。


歳の差兄弟「兄、父になる」篇 [30秒バージョン]

こうしてみると明治安田生命は自社名の発音について、俳優さんやナレーターさんの個性というかやり方にお任せしていて、キヤノンが「ヤ」の表記を拗音にしないというようなこだわりは特にお持ちではないのかもしれません。私個人は、社名があまりおしつけがましく聞こえるのはイメージ的にマイナスだから「メージヤスダセーメー」がいいかなあ、と思いますが。

こうなると他の生命保険会社はどうしてらっしゃるのか気になります。というわけで、YouTubeでいくつか検索してみました。「アクサ生命」はこのCMに出演している杏氏が「アクサセ―メー」と言っています。


アクサ生命 「娘の入学」杏

ところが同じアクサ生命で杏氏の出演している古いCMでは、ナレーターさんが「アクサセイメイ」と言っているのです。こちらもあまりこだわりはないのかもしれません。


杏 CM アクサ生命 「まるごとサポート」

住友生命も新旧に関わらず「スミトモセイメイ」だったり「スミトモセーメー」だったり。あまり傾向みたいなものは見えないですね。でも最後にひとつだけ気になったのは「東京海上日動あんしん生命」(長い!)です。なにせこちらは「あんしんセエメエ」という羊の執事がキャラクターなんですから。「セエメエ」ってくらいですから、絶対に「セイメイ」推しだと思って確認してみたら、案の定「♪あ〜んし〜んセイメイ」と歌っていました。


東京海上日動あんしん生命 CM がん保険 「がん診断保険R いつもの車窓から」篇 15秒

でも東京海上日動あんしん生命の最新のCMではナレーターさんが「セ―メー」と発音しているんですよね。


医療保険「ひとりひとりの生きるのそばに」篇【公式/東京海上日動あんしん生命公式CM】

まあ全体として、よりソフトに聞こえる「セ―メー」が選ばれつつあるということなのかもしれません。あまり説得力ないですけど。

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https://www.tmn-anshin.co.jp/company/cm/seemee/

自分をいったん括弧に入れる必要

都内の日本語教室で社会人向けのクラスを担当している同僚からこんな話を聞きました。仕事で来日した外国人やその家族のために区役所が開設している、まだほとんど日本語を話せない方向けの初級クラスでの話です。「相手の家族についてたずねる」というロールプレイをしたところ「初対面の人に家族構成を聞くなんて失礼ではないか。特に日本人には、そんな習慣はないではないか」と言ってロールプレイを拒否する方がいたというのです。

私はこれ、とても興味深い話だなと思いました。というのも、かつて中国語学校で教えていた際にも似たようなことをおっしゃる方が時々いらしたからです。拒否するまではいかなくても「何人家族ですか?」と聞いたら「一人暮らしですから」とか「プライバシーに関することはちょっと……」などと答えて会話が続かないという方がいるのです。ペアになった生徒さんも困惑気味で。

もちろん、どう答えようともその方の自由です。話したくないことは話さなくても構いません。ただ、こと語学の練習に関する限り、そこはもう少し頭を柔らかくして、実際には一人暮らしであっても十人とか二十人とかの大家族を頭の中でこしらえて、覚えたばかりの文法と、数詞や量詞や家族の呼称に関する名詞などの語彙を使いまくればいいのです。なんなら犬も飼ってます、猫もたくさんいます、そのうち一匹は三毛で可愛くて……とかね。

思うに「一人暮らしですから」とか「失礼ではないか」という方は、とても誠実なのだと思います。自分の気持ちに反することができない。それはそれで美徳ではありますが、語学は、特に外語は畢竟「お芝居」なんだという感覚なりマインドセットなりが必要なんじゃないかとも思います。ディベートなどでは、自分の思想信条とは異なる主張であってもゲームとして論理を組み立てる、みたいな「バーチャル性」がありますよね。あれと似ています。

逆に言えば、そういうお芝居やバーチャル性を楽しめる性格の方でないと、外語の学習は味気ないものになるかもしれません。もっと身も蓋もない言い方をしてしまえば、語学(外語の習得)には向き不向きがあるのです。もちろん向いていなくても学んだってオーケーですし、なにも会話だけが語学ではありません。例えば書籍を読むためだけに語学を学ぶ方もいると思います。ですが、少なくとも「聴いて話す」という外語の習得を目指す方には、多少なりとも「芝居っ気」が必要です。

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https://www.irasutoya.com/2016/04/blog-post_5.html

もうひとつ、聴いて話す外語の習得を目指す方の中にときおり「実際に現地で、ネイティブスピーカー同士で話されているような会話を学びたい」という方がいらっしゃいます。実用本位と言えば聞こえはいいですが、ひょっとするとこれは実用からいちばん遠い考え方かもしれませんよ。

例えば日本語を学びたいと思っている外国の方が、初手から「あざーす!」とか「チョーウケるんだけど」などを学ぶと想像してみてください。「ありがとうございました」ではなく「ありあったしたー(コンビニの店員風?)」のほうがネイティブっぽいじゃないかと。

まあそこまで極端ではなくても、いわゆる「うなぎ文」や「こんにゃく文」――「ぼくはウナギだ」「こんにゃくは太らない」などの――を外国人が率先して学ぼうとしていたら「まあ待て、落ち着け。その前にだな……」と言うでしょう。こうした文は、実はネイティブスピーカーだからこそできるとても高度な発話だからです。

その言語の非母語話者が学ぶ場合には、きちんとした発音の、きちんとした文法に則った文章を聴き取り、話し、書き、読むことから段階的に習熟していかなければいけません。ここでも自分をいったん括弧に入れて、折り目正しい自分を演じるような気持ちが必要です。この点で、母語の習得と外語の習得には大きな違いがあります。

語学の初学段階で、自分をいったん括弧に入れて素直に演じてみることができない。そういう方が一定数いることが興味深いと思いました。これだけ英語を始めとする語学熱が高いというのに、そういう「キホンのキ」を教わることが少ないというのは考えてみれば不思議なことです。

テニスの入門者が「まずは『エアK』をやりたい」とか野球の入門者が「チェンジアップで投げたい」とか言えば「まあ待て、落ち着け」と言うんじゃないでしょうか。なのにこと語学となると、初手から「ペラペラ」とか「ネイティブっぽい」を目指し「“This is a pen.”なんて言うシチュエーションがあんのかよ!」とdisるのです。外語を学ぶとはどういうことかについての「キホンのキ」を理解していないからだと思います。

はっ酵乳

朝ごはんに食べたヨーグルトの紙パックを洗っていたら、側面に書かれた文字が気になりました。「はっ酵乳」とあります。

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「発酵」をなぜ「交ぜ書き」にする必要があるのかなと思ったのですが、これはもともと「醗酵」が正しくて、「醗」の字が常用漢字に入っていないからということのようです。
bifidus-fund.jp

個人的には交ぜ書きが好きではないので、醗酵と書けばいいのに、いやいっそのこと「醱酵」のほうが「かもされている(醸されている)」感じが字面からも伝わってきていいなあ、と思います。パソコンで文字を書くことがこれだけ普及して、難しい漢字を書けないという不便さはほぼ解消されたんだから、と。でもたぶん世の中の動きはそうはなっていかないんでしょうね。

ただ、上記のリンクによれば、「発酵」は簡略化された正式ではない表記だとのこと。つまり「発」の字は常用漢字に入っているので「発酵」と書けばいいところをあえて「はっ酵」と書くということは、その裏に「醗酵」が本来の表記なんだから「発酵」は支持しませんよ、という表記者(?)の意図が見えます。

本来の表記を尊重するがゆえに、表記としては下策の交ぜ書きを採用するという、何だか倒錯した世界になっているのが面白いと思いました。

語学の「順序」と「戦略」について

先日、語学を継続させるコツは「その場その場で完璧を目指さず、未消化でもとりあえず先に進む」ことではないか……というようなことをブログに書きました。ブログを更新するとTwitterにも投稿するようにしているので(もはやその機能以外Twitterはほぼ使わなくなりました)、時々リプライがつきます。今回は「語学にはそもそも後とか先とかすらないので。現在形より過去形が後とか先とか別にない」とつぶやいてらっしゃる方がいました。

なるほど、語学の学習順序は人間が恣意的に決めたものだけれど、その言語は総体として自然にそこにあるだけだから、順序にこだわることにあまり意味はないということでしょうか。面白い視点だと思いますが、私は、こと外語の習得に関する限り、やはり学習順序にはそれなりに意味があると思っています。

例えば中国語だと、結果補語を学んでから可能補語に進むほうが理解しやすいでしょうし、フィンランド語では、過去分詞を先に学んでおかないと過去形(の否定)が作れません。英語ではたしか過去形を先にやって、次に過去分詞の形容詞的な用法や完了形などに進みますよね。その言語によって、学習者が理解しやすいような順序があるわけです。

それらはさまざまな先達の教育者が「こうやって学んでいったほうが分かりやすい」と試行錯誤してきた末に作り出した順序です。また「日本語母語話者がその言語を学ぶ際には、こういう順番のほうが分かりやすい」というような配慮もあると思います。学校教育の教科書やカリキュラムなどに対する恨みつらみ(?)から、いきおい「語学はシャワーを浴びるように」とか「大量に聞き流せばいいんだ」とか雑駁かつ一刀両断的な気持ちのいいことを宣言しちゃう方が時々いますが、それはちょっと考えが甘いかなあと思います。

加えて、これも既存の学校教育へのアンチテーゼなのか、「最低限の単語や文法は必要だが、まず聴くそして話すを先に持ってこなければならない」とか「まず流暢さ、次に正確な文法、という順序で獲得するほうが、結局手っ取り早く喋れるようになる」というようなご意見もTwitterでは多く見られます。これは英語の場合で、いずれも一理あると思います。

ただこれらも「それじゃあ」ってんで雑駁に「文法など不要だ! ネイティブは文法など気にして話してない!」などと短絡的に受け止める方が出ないだろうかと心配になります(実際、そこについているリプライの中には、そういう方が見られます)。何事も極端はいけません。もう少し腰を据えて、発音も語彙も文法もコミュニケーションもバランスよく学んで行かなければ。

また言語によって、非母語話者が学ぶ際にどの部分の「比重」が高いのか、という点も見逃せません。例えば中国語だと、まずはなんといっても発音の比重が高い言語です。いくら文法が完璧でも発音が間違っていたらまず使えません。逆にフィンランド語は、発音ももちろん大切ですけど、それほどクリティカルではなく、むしろ語形変化など文法の比重が恐ろしく高い言語に思えます。

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https://www.irasutoya.com/2015/08/blog-post_580.html

ようは言語によってどういう「戦略」で攻めていけばいいのかがけっこう違うんですね。また学習者の母語が何であるかによってもかなり違う。そして教科書やカリキュラムは、どの母語話者がどの言語を学ぶかという前提によって、専門家がああでもないこうでもないと試行錯誤した末に編まれており、あまりバカにしてはいけないのです。

私たち日本語母語話者が外語を学ぶ際には、まず日本語母語話者でその言語の「達人」になった方を見つけ、その方がどういう学び方をしてきたかに耳を傾けるとよいと思います。そしてできればそういう方を何人も見つけて比較検討してみる。そうやってある程度の「戦略」を描き、なおかつ雑駁で一刀両断的な極論は丁寧に避けつつ、一歩一歩前に進んでいくのです。

……もっとも、英語や中国語のような巨大言語の場合、「先達」も多くて百家争鳴状態ですから、どの道を選べばよいのか初学者が戸惑ってしまうという難点があるのですが。

クラークラーの眼鏡

私は視力が両目とも1.5で、遠くのものもよく見えます。これでも加齢によって少し視力が落ちており、10年くらい前までは両目とも2.0でした。なのに老眼鏡は手放せません。遠くの風景はくっきりはっきり見えるのに、近くの文字はてんでダメなのです。目の構造はどういうことになっているのか、本当に面白いです。

というわけで、普段かけている眼鏡は、上半分がただ透明なだけ(いわゆる「ダテ眼鏡」)で、下半分に老眼鏡が入った「遠近両用」です。もう五年以上前に作った眼鏡は度数1.0の老眼鏡が入っているのですが、最近これではパソコン作業がつらくなってきました。フレームもくたびれてきたので新しく眼鏡をあつらえることに。フレームは「KRAA KRAA(クラークラー)」というフィンランドの小さな眼鏡メーカーのものです。

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このフレームは合板、つまり木でできていて、強度を高めるために「つる」を折り曲げるための「ヒンジ」がありません。つるを耳にかけるというより、眼鏡全体で側頭部を挟むようにして固定する作りになっています。とてもシンプルな作りで、しかも、いかにも木で作りました! 個性的なデザインです! といった「クラフト感」が少なく、抑制の効いているところがいいなと思ったのです。

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このメーカーの本社はフィンランドタンペレという都市にあって、先回渡芬(という日本語はあるかしら)した際に行ってみようと思っていたのですが、あいにくタンペレに行ったその日は休業日で諦めました。その後、日本でも扱っているお店があることを知って、作ってもらったのです。注文から2ヶ月かかってようやく届くという「ゆったり」ぶり。注文が殺到しているからというわけではなさそうで、単に少人数で手作りしているからみたいです。

www.kraakraa.com

フレームをあつらえるのを機に改めて検眼してもらったら、老眼がずいぶん進んで度数は2.25になっていました。遠近両用の眼鏡をかけてしばらくは、視線の向きによって解像度が違うために少々戸惑います。例えば階段を降りるときなど、足元がぼやけて不安になるのです。今回も急に度数が上がったのでちょっと慣れない感じですが、使っているうちになじんでくると思います。

語学はあとから「じわっ」と染みてくる

ほそぼそと学習を続けているフィンランド語、『suomea suomeksi(フィンランド語をフィンランド語で)』という教科書の第1冊目をようやく学び終えて第2冊目に入ったので、これを機に「単語の棚卸し」をしてみました。先生からも「フィンランド語はとにかく語形変化が多く、単語の元の形を知っていなければ変化のさせようがありません。だからとにかく単語を覚えてください」と言われていたことでもありますし。

これまでも学んだ単語を片っ端から Quizlet の単語帳に放り込んで覚えてきたのですが、もう一度 Excel で新しい単語帳を作りました。もう一度書きながら意味を確認したら、そのぶん記憶も定着するんじゃないかと思って。それで最後の章から逆に戻る形で第一章まで単語を拾っては Excel に入力していきました。これを最後にまた Quizlet で「単語帳化」して覚えるのです。

“minä(私)”とか“suomiフィンランド)”など、もう完全に覚えきっちゃってる単語は除いて、本文を読みながら単語を拾っていくと、全部で1000個あまりの単語がありました。この教科書はおもしろいストーリー仕立てになっている、なかなかうまくできている一冊で、けっこう複雑なことも言っていたような気がします。でも、こうやって拾ってみると使われている単語の総数はそれほど多くないんですね。これだけでもきっちり覚えて、なおかつ格変化や活用がきちんとできれば(これが難しいんですけど)なんとかなりそうな気がします。

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https://www.irasutoya.com/2014/12/blog-post_963.html

それから、教科書の最後の章から逆に最初の章まで読んでみて気づいたのですが、かつて初めて読んだときはとにかく複雑で、文法がどうなっているのかよく分からなかった文章が、やけに簡単に(というかシンプルに)感じられました。当たり前のような気もしますが、語学にはこうした「後から振り返ったとき腑に落ちる」という側面があるんですよね。語学に限らず、何でもそうだと思いますが。

だから、語学を継続させるコツは「その場その場で完璧を目指さず、未消化でもとりあえず先に進む」ことではないかと個人的には思っています。その時にはどうしてそうなっているのかよくわからない事柄でも、後からもう一度振り返ってみると、ああそうだったのかと「じわっ」と染み入るように分かる、そういうことがあるのです。

また、前述したようにフィンランド語にはとても複雑な語形変化があります。それは人称や時制などによって語尾が変わる際の「子音階梯交替」であったり「母音交替」であったりするのですが、単語の棚卸しをしながら、どうしてそういうことが起こるのかについての「感覚的なもの」が分かりかけてきたような気がしました。考えてみれば、フィンランド語の母語話者にとってこうした子音や母音の変化はごくごく自然に行えることであって、それは一種の「言い易さ」という感覚に従った結果なんですよね。あるいは「言葉の経済性」と言ってもいいかもしれません。

例えば日本語でも数字に細長いものを数える数量詞の「本(ほん)」をつける時、「一本(いっぽん/ippon)」「二本(にほん/nihon)」「三本(さんぼん/sanbon)」……などと、非日本語母語話者にとってみれば悪夢みたいな変化をします。これも私たち日本語母語話者は考えることなく発音できてしまいますが、ようは「いっほん」とか「さんほん」とかだと言いにくくてストレスを感じる(やってみると分かります)ので、自然に言い易い形に変化させているわけです。

フィンランド語の語形変化も、人間の言葉である以上基本的にはそういう理屈が働いているわけで、「悪魔の言葉」と呼ばれるほどの変化の激しさも、その根底には少しでも言い易くしたい、ストレスを減らしたいという言葉の経済性がある……そんな感覚を自分のものにしていけばいいのだというかすかな見通しのようなものがつかめたような気がしました。

武漢の現状を伝える映像を見て

留学生の通訳クラスで、武漢の現在(正確には一月下旬時点ですが)を伝える映像を教材に使ってみました。


90後小哥冒死拍下中國武漢第一批封城影像 Post-90 Guy Risks His Life to Record Wuhan City Under Lockdown Firsthand

近代的な大都会である武漢の繁華街にまったく人影が見られないなど驚きの映像ですが、とても客観的に武漢の現在、その一部を切り取っていると思いました*1。こんな大都市を“封城(都市の封鎖)”してしまえる中国の政治体制に逆に恐ろしさも感じますが、少なくとも武漢のみなさんは黙々と事に対処しようとしている……そんな雰囲気が伝わってきました。こういう内容こそ、通訳や翻訳で日本の方々にも伝えたい。そう思って教材に選んでみたのです。

翻って日本では、センセーショナルな報道(特にテレビ)ばかりが加熱しているように思えます。おどろおどろしい音楽を使ったり、過度に緊迫した口調でクルーズ船や隔離施設などの前からレポートしたり……報道の役割を履き違えているのではないでしょうか。報道は「バラエティ番組」化することなく、もっと抑制的に淡々と事実だけを伝えてほしいと思います。

思い返せばSARSのときにも、あたかも中国全土が汚染されているようなイメージで語り、現地の日本人留学生と日本にいるその家族とのやり取りを扇情的に伝える報道(たしかNHKのテレビニュースでした)などに憤ったものでした。今回は未知のウイルスということで、まだワクチンや特効薬などがないため、人々の不安も募っているわけですが、現時点では日本国内で感染が爆発的に広がっている状況にはありません。通常のインフルエンザでは、毎年それをはるかに上回る数の死者が出ているのです。

●参考:厚生労働省新型インフルエンザに関するQ&A」
https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou04/02.html#100

視聴率争いに汲々としているテレビ業界は聞く耳を持たないかもしれませんが、せめて受け取る私たちの方は冷静でありたいものだと、この武漢の映像を見て思いました。

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*1:中国語のタイトルは“冒死(死を賭して・命がけで)”などと扇情的ですけど。

能楽を外語で発信することについて

一昨日は休日だったので、東京は千駄ヶ谷国立能楽堂お能を観に行きました。能楽堂へ向かう途中、交差点で何やら困ったご様子で佇む海外からの観光客とおぼしきご婦人が。「あ、これはたぶん……」と思って声をかけたら、予想通り能楽堂へ行く道が分からないとのことでした。ブラジルから初めて日本に来られたそうです。お国では劇場関係の仕事をしているので、日本の能楽堂や能の公演にも興味を持っておられるよし。

チケットは購入済みとのことでしたので、能楽堂の入口までお連れして別れたのですが、ちょっと気になってチケットの「もぎり」の場所で待っていたら、これも案の定受付のところで困っておられるご様子。聞けば、なんと別の日のチケットを取っていたとのことでした。けっこう「うっかりさん」ですね。それで受付の方に相談したら、当日券があるとのことで譲っていただきました。

席は私のすぐそばだったので、休憩時間中にいろいろお話したのですが、能の内容を英語で説明するのに骨が折れました。だって私の英語は中学校1〜2年生くらいの習熟度ですから。それでも私たちが座っていたのが脇正面の橋掛かりのそばで、その日の演目はちょうど脇正面から橋掛かりのあたりで激しいバトルが繰り広げられる内容だったので、そのブラジルのご婦人はいたく感激してらしたようでした。

能に関して、ポルトガル語は無理でもせめて英語のパンフレットがないかしらと館内を探してみましたが、見つけられませんでした。以前の国立能楽堂には英語のパンフや解説がよく置かれていたものですが、昨今は見当たらないんですよね。文化予算削減の折から、そういうところにかけるお金が減っているのかもしれません。まあスマホで検索すれば、それなりの情報は得られるんでしょうけど。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_83.html

その日の公演パンフに、「スポンサーやサポーターを募集いたします」というチラシが折り込まれていました。その中の文章に、こんなくだりがありました。

近年、能をたしなむ方々の高齢化や、趣味の多様化などのため、謡や能を学ぶ方々や観客が大幅に減少してきています。しかも国指定の重要無形文化財でありながら、国からの補助や助成はほとんどなく、各流派とも自助努力で次世代への継承に力を尽くしているのが現状です。

歌舞伎などはその興行方式が比較的充実していて、ファン層も幅広いと思いますが、それ以外の伝統芸能はいずれも厳しい状況にあるようです。もちろんそれぞれの担い手のみなさんが、様々な趣向をこらして観客層の掘り起こしをされています。ただ能楽は、鑑賞するだけではなく自らもお稽古ごととして演じる素人層の存在がけっこう大切で、単に興行的に成功すればそれで良しとはいえない部分があります。

実際、明治期に能楽師武家の扶持を失い、能楽が存亡の危機に立たされた際、それを救ったのは謡や仕舞などを稽古していた分厚いファン層の存在だったといわれています。現在ではそういう「分厚いファン層」はなくなりつつありますよね。昔は結婚式や上棟式などで謡を披露するおじさんなんかがいたものですが、最近の結婚式では「高砂や〜」などと謡っている方をとんとお見かけしなくなりました。

じゃあどうするのか。先日某所でうかがったのは「芸術に理解のある富裕層にどん! とバックアップしてもらう道を模索するほうが実効性があるのではないか」というご意見でした。確かに、これぞと惚れ込んだアーティストの作品をお金に糸目をつけず購入する富裕層はいますよね。もちろんそれは投資や投機という目的もあるのでしょうけど、そして能楽が投資や投機の対象になるのか、そもそもなっていいのかという問題もあるでしょうけど、能楽の魅力を分かってくれる富裕層にどん! とお金を出してもらうほうが「手っ取り早い」というお気持ちはよくわかります。まあもともと能楽は、そういうパトロンがいて成り立つ(ある意味で贅沢な)芸能でもあったわけですし。

例えば経済成長著しい中国にはとてつもない富裕層が日本とは桁違いにいそうです。そして能楽はもともと中国の古典と縁の深い芸能で、中国の知識階級ならとても興味をそそられそうなコンテンツが満載なのです。でもその事実ーー日本の伝統芸能である能楽が古代中国の文化と深くつながっているというーーをご存知の中国人はほとんどいません。そして能楽と中国の古典との関係を知って大いに驚く方も多いのです。そこに働きかけていくという「戦略」はあながち的を外してはいないんじゃないかなと思いました。

そのためにも、きちんとした外語での発信ができるようにしておかなければならないですね。

隣のサイコパス

学校の教師などという因果な商売をしておりますと、時々生徒の負の側面とお付き合いしなければならない局面にも出くわします。それは例えば、試験の際にカンニングを見つかった生徒や、レポートで剽窃(いまふうに言えば「コピペ」ですか)が発覚した生徒への対応です。

とはいえ、そういう不正行為については学校の方針に従って淡々と対応するだけです。あらかじめカンニングやコピペなどをしたら失格とか単位が出ませんなどの決まりを伝えてあるので。もちろん「こういうことをして信用をなくすと、社会での立場が危うくなりますよ」といった「教育的指導」も行いますけど、正直私は、義務教育でもない自分の持ち場ではあまり意味がないかなとも思っています。だって、みんな大人なんだし。

ところがごくまれに、「みんな大人なんだし」と達観しているだけでは済まされないような事例にも遭遇します。それは生徒自身に反省が全く見られない場合です。カンニングでは複数の生徒が全く同じ回答をしていたり、またコピペではネットに全く同じ文章が存在することが確認されたりして、理詰めでは言い逃れることが完全に不可能な状況であっても、一部の生徒は平然と「やっていません」と言ってのけるのです。

言いのけるスタイルは人さまざまです。顔色一つ変えず、声がうわずることも淀むこともなく「やっていません。本当です」と言う人もいれば、「私がそんなに信じられないのか」と泣き叫ぶ人もいます。客観的に見ればどう考えても矛盾だらけで、かつその矛盾をはっきり指摘されても、あくまでシラを切り通す、切り通せる種類の人がいる。世の中、そんな人はままいるよ、と言ってしまえばそれまでですが、私はこれ、なかなかに深い問題だと思っています。

ちょっと話は変わりますけど、先日来「桜を見る会」をめぐる国会での質疑応答、とりわけ安倍首相による仰天の答弁に怒りと失笑が止まらない日々を過ごしてまいりました。これほど愚かしい人物をトップに据えたままのこの国に暗澹たる思いです。でも、こんな状況を作り出したのはもちろん首相ひとりの力ではありません。彼を取り巻く政権与党の人間、官僚、支持者、その他大勢の人々の共同作業によってこの状態が維持されているわけです。

そんなことを考えていたら、ネットでたまたま内田樹氏のブログ記事を読みました。内田氏は「ヤクザと検察官」の比喩で「自分の知性が健全に機能していないということを『切り札』にしている人間を『理詰め』で落とすことはできない」とおっしゃっています。おお、そうかなるほど、と膝を打ちました(喜んでる場合じゃありませんが)。カンニングやコピペが発覚しても、そしてその論理矛盾を指摘されても「やっていない」と言ってのける人も同じようなものかもしれないと。

blog.tatsuru.com

確かに、こういう人を「『理詰め』で落とすことはできない」です。人に自分の知性の欠如を知られてもまったく痛痒を感じないというのは、ちょっとした恐怖を覚えます。

かつて私が勤めていた職場では「表敬訪問したいから」と我々にインビテーションを出させて来日のためのビザを取得したとある国の団体が、結局観光旅行をしてそのまま帰っちゃった(もちろん表敬訪問はすっぽかし)ことがありました。担当者を探し出して問い質すも「私はこの件で一晩中寝られなかった!」と意味不明な理由を述べ立てて泣き叫び、自分の非ではないと言い張る姿勢にある意味圧倒されました(私も若かったですしね)。

また留学に際して提出された書類、その出生から最終学歴に到るまでのありとあらゆる書類が全て偽造で、なおかつ来日してその点を問いただしても「私は知らない」と言い張った学生もいました。もちろん現代ではさすがにそこまでの事例はないと思いますが、これらはいずれも「自分の知性が健全に機能していないということを『切り札』にしている」タイプの人たちであったのだなと今にして思います。

内田氏は、今後も安倍首相はこうして「自分の知性が健全に機能していないということを『切り札』にし」続けるだろうとして、ブログの記事をこう締めくくっています。

 この成功体験が広く日本中にゆきわたった場合に、いずれ「論理的な人間」は「論理的でない人間」よりも自由度が少なく、免責事項も少ないから、生き方として「損だ」と思う人たちが出て来るだろう。
 いや、もうそういう人間が過半数に達しているから、「こういうこと」になっているのかも知れない。

さすがに「過半数」ということはないだろうと私は思いますが、そういう「論理的でない人間」に出くわした際に、我々がその「意味不明さ」に驚き、怯み、スルーしてしまうことも、また問題の解決を先送りにしてしまう一因なのかもしれません。じゃあ問題解決のために何ができるのか……そう思って最近色々と本を読んでいるのですが、先日たまたま書店で見つけて購入したこの本の結論は「逃げる」でした。

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まんがでわかる 隣のサイコパス

この本は「サイコパス」についての入門書です。映画や小説などに出てくるモンスターみたいなサイコパスとは違って、社会の中で普通に暮らしながら、ときには普通の人以上に活躍しながら、その普通の人々の暮らしや仕事や人生を脅かすサイコパスについて解説されています。その中で、アメリカ精神医学会の「DMS-5 精神疾患の分類と診断の手引」にあるサイコパス(反社会性パーソナリティ障害)の診断基準が紹介されていました。

①法律にかなって規範に従うことができない。逮捕に値する行動。
②自己の利益のために人をだます。
③衝動的で計画性がない。
④けんかや暴力を伴う易刺激性(ささいなことをきっかけに不機嫌な態度で周囲に反応しやすい状態のこと)。
⑤自分や他人の安全を考えることができない。
⑥責任感がない。
⑦良心の呵責がない。

この本では、この項目のうち三つ以上に当てはまる人をサイコパスの疑いあり(実際には中長期的な観察が必要)と設定しています。確かにこういう人はいる……上述した、私が出くわしてきた人々もそうですし、どこかの国のトップなど、みんな当てはまるんじゃないかとさえ思います。ただ、程度の差はあれ、こういう側面は誰しもが抱えている可能性がありますよね。そういう意味では、軽々に「あの人はサイコパス」などと決めつけちゃうのも危ういのではないかと思いました。

それに「逃げる」のは自分のみを守るためにはもちろん大事ですけど、教師という立場でそういう人に出くわした場合、逃げるだけでは問題解決になりません。結局、理詰めで落とすことができない「論理的でない人間」に対しても、注意深く観察しつつ対応していかなければならないのでしょう。やはり因果な商売ですよ、教師というのは。どこかの国のトップについては……まあこれも逃げるわけには行かないので、はやく選挙で落とさなきゃいけませんね。

フィンランド語 55 …条件法

動詞にまつわる新しい文法事項として「条件法(仮定法)」を学びました。条件法には①現在形と、②完了時制があるそうです。授業で学んだ例文はこのようなものでした。

① Jos tietäisin, sanoisin.
 もし知っているなら、言っているだろう。
② Jos olisin tiennyt, olisin sanonut.
 もし知っていたなら、言っていただろう。

日本語だと「もし知っているなら、言っている」と後ろは通常の形で言うことのほうが多いような気がしますが、フィンランド語ではきっちり「〜なら〜だろう」と言い切るんですね。

動詞を条件法にするには、まず語幹を求めます。その語幹に条件法の目印である「isi」をつけます。このとき語幹の最後の音と母音交替が起きます。この母音交替ルールは過去形や格変化のときよりずっとシンプルで以下の三つです。

e, i + isi → e, i が消える。
aa, uo + isi → 前の a, u が消える。
oi, ui + isi → 後ろの i が消える。
※例外:käydä は語幹が kavi になる。(kavi + isi → kavisi)

このとき「kpt」の変化は起こりません。ただし「逆転」は起こります。

●lukea(読む)
語幹 luke + isi → lukisi(k → × の変化なし)

lukisin lukisimme
lukisit lukisitte
lukisi lukisivat

三人称単数は語尾を伸ばさず「isi」のままというのがこれまでと違うところです。

●ajatella(考える)
語幹 ajatele + isi → ajattelisi(t → tt の逆転あり)

ajattelisin ajattelisimme
ajattelisit ajattelisitte
ajattelisi ajattelisivat

条件法は「もし〜ならば」という仮定なので、ときに丁寧な表現にもなるそうです。

Saanko kupin kahvia?
コーヒーを一杯ください。
Saisinko kupin kahvia?
もしよろしければコーヒーを一杯もらえますか。

普通は上で十分だそうです。特に目の前にコーヒーがあることが自明なシチュエーション、例えばカフェとかコーヒースタンドとかなら。でもコーヒーがあるかどうか分からない場合には、「もしコーヒーがあれば、もらうことはできますか」的にへりくだった表現になると。そういえば以前定型句を覚えていたときに“Voisitko auttaa minua vähän?(もしよろしければ、私を少し助けてくれますか=手伝ってくれませんか)”というのがありましたけど、これも“voida(可能だ、できる)”の条件法で、より丁寧な表現だったわけですね。

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Jos minulla olisi rahaa, matkustaisin Suomeen.