インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

サボイキャベツのポットロースト

先日近所のスーパーで、サボイキャベツが売られているのを見つけました。縮緬甘藍(ちりめんかんらん)の和名どおり、葉っぱがちりちりとしているキャベツです。しかもでっかいひと玉が298円。嬉々として買い求めました。

bacchetteepomodoro.com

サボイキャベツは繊維が硬いので、煮込み料理に向いているそうです。確かに、これでロールキャベツを作るとおいしいのですが、今日はちょっと時間がないなあ……と思っていたら、キャベツが入っていた売り場のカゴにこんなPOPがついていました。

おお、これはシンプルでおいしそう。ということで、すぐ精肉売り場にまわり、肩ロース肉のかたまりを買いました。味つけは塩と胡椒のみで、他に必要なのは白ワインとニンニクだけ。レシピでは「30分ほど弱火で蒸す」となっていましたが、私は2時間ほどごくごく弱火で(最初から弱火のみで調理)煮込んでみました。コンロにかけっぱなしだから、他の家事もできますし簡単です。

とても滋味深くてびっくり。焼き目をつけた豚ロース肉はホロホロに、サボイキャベツはクタクタになって、非常においしゅうございました。豚ロース肉をサボイキャベツの葉のなかで蒸すような形になるのですが、サボイキャベツ独特の立体的な葉のおかげか、蒸気がまんべんなく回って理想的な蒸し具合になるのかな。

キャベツはまだまだ残っているので、今週中にもう一度作ろうと思っています。

原因はジムの床かもしれない

ひょっとすると、スポーツジムの床に原因があるのかもしれない。そう思いました。先日左足の指に炎症ができて化膿し、安眠できないほどの痛みに悩まされたのち、セカンドオピニオンを求めた病院で薬を処方され、回復に向かったーーその左足が、またも化膿してしまったからです。

こんども、ちょっとした擦過傷が一日、二日のうちにみるみる悪化して、その周辺も腫れ上がってものすごく痛くなりました。歩行にも困難をきたすほどです。同じ病院に駆け込んで、先回と同じ抗生物質と軟膏を処方されました。しばらくこれで様子を見ることにします。


https://www.irasutoya.com/2021/09/blog-post_248.html

それにしてもなぜ、ちょっとした傷がここまでに「成長」するのか。先回のお医者さんの見立てでは、血液検査などの結果からいってどうやら私の体内に原因があるというよりは、外部からの要因らしい。それで、毎日のように利用しているジムの床に原因があるのではないかと考えたわけです。

ジムのロッカー室では裸足で歩きまわりますし、私はトレーニング後にシャワーやスパも利用しています。そういった場所の床、敷いてあるマット、利用している体重計……そういったものから何らかの雑菌をもらってしまっているのではないかと。

私はこのジムを利用してもう数年になります。これまでは一度もこういうことはありませんでした。それに比較的規模の大きなジムで、清掃やマットの交換なども頻繁に行われていて、衛生面は割合考えられているようにも見えます。なので断定はできません。

ただ、ここ一ヶ月ほどはコロナに感染したこともあり、なんとなく体力が落ちているように感じています。そういう体力や免疫力が落ちているときには、ふだんなら跳ね返すような雑菌に、逆に押し切られてしまうのかもしれません。

ネットで関連情報を検索してみたら、こんなサイトが見つかりました。

www.womenshealthmag.com

えええ、怖い〜。これからはジムのロッカールームやシャワーなど、裸足で歩き回る施設を利用したら、すぐにアルコールのウェットティッシュなどで消毒するようにしようかな。またまた持ち物が増えて(私はジムで個人用のロッカーを借りていないので、いつも持ち物が多いのです)しまうけれど、仕方がありません。

フード左翼とフード右翼

もうずいぶん前のことになりますが、かつて勤めていた会社の同僚に「私はフィッシュ・ベジタリアンだ」と公言している人がいました。フィッシュ・ベジタリアン? 要するに「牛や豚などの肉類は食べないものの、魚介類は食べる菜食主義者のこと」です。昨今では「ペスカタリアン」とも称されるそうですが、当時の私はその意味するところがよくわかりませんでした。

myethicalchoice.com

それでうっかり「魚の肉は食べるのに、ベジタリアンって?」みたいなことを聞いたら、ずいぶんと機嫌を損なってしまったようでした。それ以来、こうした食にまつわるライフスタイルは、その方の生き方に深く根ざしていることが多いのだと心得て、むやみに立ち入らないように気をつけています。もとより、誰がどんな食生活を送ろうと、個々人の自由であり勝手ですよね。

でも世の中には、いや食生活は個々人の自由ではなく、そういう「意識の低い」ことではいけない、と政治的な意識から食にまつわるライフスタイルを喧伝される方もいます。つまり環境問題やエネルギー問題、あるいは人口動態に関連した社会福祉費用の観点などから食を考える方々です。

そうした方々を「左翼」と位置づけ、逆にそうした政治思想とは真逆のグローバリズムに乗ったコンビニ食・ファストフード・ジャンクフードなどを信奉する方々を「右翼」とし、相互におけるいわば食の分断をテーマにした本を読みました。速水健朗氏の『フード左翼とフード右翼』です。


フード左翼とフード右翼

この本の分類に従えば、私はかつて政治的な意識から食にまつわる自分のライフスタイルを追求しようとしていたバリバリのフード左翼でした。

私はなぜか中学生の頃から食に対して関心があり、食品添加物に関する本(「これを食べてはいけない」的な)を生半可に斜め読みしては親に進言して煙たがられていたような子どもでした。高校生の頃からは親元を離れて一人暮らしを始めたので、ますますそうした知識と実践が積み重なり、大学生の頃には無農薬野菜を扱う八百屋さんでアルバイトをして、圧力釜で玄米を炊くような学生になっていました。もっともその一方で「そういうの」に飽きたときはジャンクフードにも手を出していましたから、まだまだいたって志の低いものではありましたが。

大学を卒業した後は就職もせず(できず)、熊本県の田舎に行って有機農法で米や野菜を作ったり、養鶏をしたりという生活に取り組んでいました。この頃がいちばんフード左翼側に振り切れていたかもしれません*1。でも結局夢やぶれて都会に戻ってきたのでした。

それからも、どちらかといえば食については「意識高め」な暮らしを送ってきましたから、その意味ではフード左翼的な食生活に傾いていたとは思います。でも年を経るにしたがって、ヴィーガン、ベジタリアリズム、有機農産物ビジネスなどの負の側面、もっと言ってしまえばある種の欺瞞にいささか疑問を感じ、ときに辟易して、それらからは徐々に距離を置くようになりました。

この本の終章ではフード左翼からフード右翼への転向はありえないと書かれています。私はいちどフード左翼に振り切った後でかなり右側に戻ってきたので、そのありえないパターンのひとりかもしれませんが、でも右翼というほどでもないですね。年齢的にも肉体的にも、コンビニ食やファストフード、ジャンクフードや外食を中心とした食生活は、仮に望んだとしてももう送れません。

だからいまの私はさしずめ「フード中道」というところでしょうか。そしてこれは私の単なる想像ですけれど、世の中の圧倒的多数はこの「中道」なんじゃないかと思っています。中道の人々は、特に声高に主張することが少ないので目立たないけれど、両極端な主張を尻目に、淡々と日々の暮らしを紡いでいるのではないかと。

その意味では、この本で分析されている「食の政治思想における分断」というテーマは、やや針小棒大のそしりを免れないのではないかーーそんな読後感を抱きました。

*1:そうしたライフスタイルの源流が、1950年代から60年代に端を発する「カウンター・カルチャー」の系譜に連なるものであることも、このころ学びました。

これが後遺症なのかしら

新型コロナに感染し、ごく軽症のまま推移して無事に回復し、仕事にも復帰して二週間ほどが経ちました。その間特に熱が出るとか咳が出るとかといった症状はまったくないのですが、なんとなく体調がすぐれません。

どこがどう悪いというわけではないのに、どうも本調子に戻れていないような感じ。同時期に感染してしまった妻も同じようなことを言っています。これもまたコロナの後遺症というものなのでしょうか。

www.nikkei.com

先日の日経のこの記事によると、新型コロナの感染後における後遺症の代表的なものとして「倦怠感」や「呼吸困難」や「集中力低下」があるようです。私は呼吸困難こそないですが、倦怠感や集中力低下は言われてみればあるかも……。「新型コロナウイルス感染後2カ月は無理をしないように」とのことなので、ご提言に従って仕事を少々ペースダウンしようと思いました。


https://www.irasutoya.com/2017/04/blog-post_28.html

教育において身体と身体で向き合うこと

トマ・ピケティ氏いうところの「バラモン左翼と商人右翼」に興味を持って、職場の図書館で検索して引っかかってきた何冊かの本を読んでいます。クーリエ・ジャポン編の『不安に克つ思考』もその一冊でした。結果から言えばピケティ氏へのインタビューはほんの少ししかなく、ちょっと期待はずれでした。


不安に克つ思考

そのかわり、たまたま読んだルトガー・ブレグマン氏の以下の発言には共感しました。

今回の危機(引用者注:コロナ禍のこと)ではデジタル化の限界もはっきりしました。たとえば教育の分野ですが、かなり前からこんなことが言われてきたのです。「教育に関するもののすべてをデジタル化すべきだ。そうすればみんなが世界最高の教師の講義をユーチューブで見られるようになって、どんな教師もスーパースター教師にはかなわないから、世界中の教師が失職するぞ」
でも、パンデミックの数ヶ月で、身体と身体で向き合うことが大事だと身に染みてわかったはずです。人との出会いなしに、真っ当な教育はありえません。私たち人間は、まだ身体をもった生き物だったのです。脳をクラウドにアップロードする時代にはなっていないのです。今回の危機で、そのことを私たちは学べたと思っています。(20ページ)

私は、自分が職場でやっていることが「真っ当」かどうかについては自信が持てませんが、それでも教育業に携わっているもののはしくれとしては、この「限界」についてこの数年で心底実感しました。zoomなどによるオンラインミーティングを利用した授業は、少なくともそれが徹頭徹尾教師の講義を聞くだけというスタイルでない限り、成立しないのだと。

特に私が関わっている語学の授業の場合、そこには双方向のやり取りが必要不可欠です。そしてそのやり取りは、オンライン空間で単に映像と音声を共有すれば可能になるわけではなく、なぜか同じリアルな空間で「身体と身体で向き合う」場を共有しなければ発動しないたぐいのものであるようなのです。

そんなことはない、コロナ禍のずっと以前から、例えばオンライン英会話などの授業形態はかなりポピュラーなものだったじゃないかという反論もあると思います。またオンライン授業の登場で、それまでは地理的に参加するのが難しかった場所の人たちにも機会が提供されたというプラスの側面もあるでしょう。

それでも私は、こと語学の授業に関しては同じ場を共有することが、なにか学びに決定的な要素を加えているという気がしてなりません。例えば私の周囲では、コロナ禍で数年間オンライン授業を余儀なくされてきた外国人留学生の日本語力が、以前に比べて明らかに劣っているのではないかという感想をもらす人が少なからずいます。

もちろんそれらは「なんとなく」の心証の域を出るものではありません。でも教師たちが肌感覚で感じている学生さんたちの学力というものも、そうバカにはできないと思います。今後、コロナ禍における数年の実践を踏まえて、こうした心証を裏付けるような実証研究が出てくるかもしれませんが、もちろんいまの段階で断定的なことは言えません。それでも私個人としては、もうあのオンライン授業の日々に戻るのは勘弁、というのが偽らざる心境です。

Macの「写真」でテキスト認識表示を使用する

Macbookで写真を整理していて、先日撮った「SOYJOY」の写真をなにげなくダブルクリックしたら、文字の部分が選択されました。macOS Montereyから、画像内の文字をテキストデータにできる新機能が追加されていたとのことです。知りませんでした〜。


support.apple.com

macOSの設定から、一般、言語と地域に進むと「テキスト認識表示」のボタンがあります。これがオンになっていると使える機能だそうです。私は自分でオンにした記憶はないのですが、先日OSをアップデートしたので、macOS Venturaからはデフォルトでオンになっているのかもしれません。

この機能が面白いのは、活字だけでなく手書き文字でも、また斜めになっていても、けっこう認識するところです。認識した後はその意味を確認したり、その言葉でネットを検索したりすることができます。外語の場合は翻訳機能も使えますが、フィンランド語はいまのところ対応していないみたい。

また手書きが荒いと、他の言語に認識されちゃったりもします。これはフィンランドの市場で撮影した“kantarelli(カンタレッリ:杏茸)”なんですけど、トルコ語と認識しちゃったようです。でも横の三角ボタンを押すと発音してくれたりして、けっこう便利です。

考えてみれば、カメラを文字に向けると自動で翻訳してくれる機能などけっこう前からありますから、こうした機能も当たり前のように使えるのかもしれません。便利ですが、便利すぎて、これはますます外語を学ぼうという人が減っちゃうかもしれません。きのう「スマホデトックス」の話を書いたのですが、スマホへの依存はますます強まるばかりです。これはよほど意識的に使わなければ……と気持ちを新たにしました。

スマホ・デトックスの時代

ブリュノ・パティノ氏の『スマホデトックスの時代』を読みました。副題に「『金魚』をすくうデジタル文明論」とあって、これは原題の『金魚文明ーーアテンション市場に関する小論』からつけられているようです。


スマホ・デトックスの時代

ここでいう金魚とは金魚鉢の中にいる金魚のこと。金魚鉢というごくごく狭い空間に閉じ込められている金魚はしかし、その世界を牢獄のような狭い空間だとは認識していないのだといいます。それは金魚が継続して集中できる時間がわずか八秒未満だからなのだそう。「八秒後には別のことに関心を抱き、金魚の精神世界はリセットされる」と。

つまりこの本では、スマホ中毒に陥っている私たち人間をこの金魚になぞらえ、私たちは次々に関心を喚起されつついつまでもスマホの中の世界に浸りつづけ、それを極小空間だとも牢獄だともとらえられなくなっているのではないか……という警鐘を鳴らしているというわけです。

ここのところずっとSNSアテンション・エコノミー(注意経済)からの脱却を考えていた私にとって、この指摘はとても頷けるものでした。特にここ一年ほどは、かなり意識的にSNSスマートフォンの使い方を変えようと努力してきたこともあって、その意味ではかなり「デトックス」できてきたのではないかと思っています。

努力といっても、やったことといえばTwitterなどのSNSから「降りて」しまうことと、スマホやパソコンのプッシュ通知機能をできるだけ切るということくらい。それと、これは側面支援的な意味しかありませんが、お酒をやめてしまったことも私にとっては有益でした。

なにせ酔っ払ったあげくに低下してしまった認知機能といちばん親和力があるのはSNSやニュースアプリやテレビのバラエティ番組などの「こま切れ」で押し寄せる刺激ですから。まさに金魚よろしく、八秒も経てばすぐ他の刺激が入ってきて、みずから意識的に何かを考える必要はなく、楽ちんなのです。こうしたこま切れの刺激に慣れきってしまうと、ある程度継続的な集中が必要な読書など、できなくなってしまうと感じています。

先日も、休み時間になるとすぐスマホと首っ引きになってしまう学生さんのことを書きましたが、この本ではこうしたこま切れの刺激を制限ないしは遮断する必要についても提言が行われています。

今後、多くの場所で「ここはオフライン区域です。ご了承ください」という貼り紙が登場するに違いない。会食や面会の前にスマートフォンをオフにするのは、基本的な礼儀作法になる。結局のところ、スマートフォンの画面は持ち主だけの世界であり、周囲の人々には関係がない。
学校でのスマートフォンの使用制限は、現実味を帯びてきた。デジタル技術、プラットフォーム、つながる社会を生み出したスタンフォード大学は、授業中のスマートフォンだけでなくノートパソコンの使用も禁止する方向だという。(159ページ)

qianchong.hatenablog.com

スマートフォンSNSなどが登場してから十数年。もはやインフラと呼んでも差し支えないほど大規模に普及しているこれらの存在に対して、私たちはようやくその負の側面を洗い出し、前景化させ、具体的な対策を講じる段階に入りつつあるのだと思います。私たちはそろそろ私たち自身を救う方向に歩みださなければなりません。そう、蛇足ですけど上掲の本の副題にあった「金魚をすくう」は、最初私がとっさにイメージした縁日のアレ(掬う)ではなく「救う」なのでありました。

習慣のアンカーを引き上げてみる

行動経済学の入門書として有名なダン・アリエリー氏の『予想どおりに不合理』に、アンカー(錨)によるアンカリング(係留)という話が出てきます。伝統的な経済学では、製品の価格は需要と供給で決まり、かつその力はお互いに独立していると考えますが、実際にはお互いが依存しているのではないかということを示したものです。


予想どおりに不合理

供給側は、広告やブランド戦略などさまざまな手法を講じて消費者に新たな市場価格を受け入れてもらえるよう努力しています。そして需要側がそれをいったん受け入れれば(アンカーが降ろされれば)、引き続きその価格を受け入れ続け(アンカリングされ)、新たな需要を繰り返し生み続けていくのです。

この本で紹介されている例を引くと、それまでダンキンドーナツの安いコーヒーで満足していた*1のが、ある日たまたまスターバックスでそれよりも数倍高いコーヒーを飲み、たまたまその味と効果を堪能した*2ことがアンカーとなり、次回からその行動をもとに同じくスターバックスでコーヒーを飲むようになるというような行動です。

何度か通っているうちに、「そのたびに自分が好きでそうしているのだという思いが強まっていく」。そして、これは自分自身の決断なのだという思いがそれを強化します。かくして「いつの間にかスターバックスでコーヒーを買うのが習慣になっている」……こういうアンカリングは、たしかに私たちの日常にあふれているような。

ずっとずっと以前、私はスターバックスで「ソイラテのトール」をよく買っていました。最初に「ソイラテのトール」を注文したときのことは覚えていませんが、いつの間にかそれを注文することが定番になっていました。見事にアンカリングされていたわけです。

ソイラテのトールは現在473円。もし平日に毎朝買い求めたとしたら、週に2365円、月に9460円、年では113520円。実際にはそんなに毎日飲まないとしても、1年に10万円近くソイラテに投じていると考えれば、このアンカリングされた習慣が果たして妥当なものかどうかはじゅうぶん反省に値すると思います。

こうやって可視化してみることは、自分の習慣を変えるための有効な手立てのひとつです。私の知人はほぼ毎日利用していたスタバのレシートをすべて保存しておいて、あとからそれを見直すことでこの可視化を行い、自分がスタバに降ろしていたアンカーを引き上げました。かくいう私も、いまではスターバックスでコーヒーを買うことはほとんどありません。

……と、ここでふと、これまで数年通い続けている語学教室のことを考えました。語学はとにかく細々とでも「やめないこと」が大切と、この教室に通い続けてきた(現在はオンライン)のですが、最近ちょっと授業がマンネリ化しているように感じています。ここいらでいったんアンカーを引き上げて、他の学校や教室を見学してみようと思いました。

qianchong.hatenablog.com

アンカリングされた習慣なり行動なりをを変えるのってけっこうしんどいことです(いわゆる腰が重いというやつです)が、こうした見直しってとっても大切ですよね。

*1:わたしたちにとっては、コンビニの100円コーヒーみたいなものでしょうか。

*2:もちろんスターバックスのブランド作り、店作り、商品のラインナップづくりなどは、そうしたアンカーをつなぎ替えるための仕掛けがたくさん施されれています。

ソイジョイ サツマイモ

先日、山手線に載っていたら、ドアのガラスのところにこんな小さな広告がありました。ソイジョイの新製品「サツマイモ」の広告です。


https://twitter.com/soyjoy_jp

で、まんまと乗せられて、下車後にコンビニで買い求めた次第。おお、確かにこれは私も好き。ソイジョイは最近「クリスピー」とか「プラントベース」とかいろいろと野心的な新製品を出していますけど、私はもともとのソイジョイの持ち味である「もっちり系」が好きです。この「サツマイモ」も、もっちりしていておいしかったです。あんまり甘くないのもいいですね。

とんでけブッチー

朝、家を出て、最寄りの駅に向かっているとき、頭の中で音楽が繰り返し鳴っていることがあります。いわゆる「イヤーワーム」というやつです。おそらくはその直前に読んだ新聞やチェックしたメールの文言に触発されて、記憶の中にある曲(あるいは歌)が再生されるのでしょう。先日は紅葉の話題から楓を連想して、スピッツの『楓』が繰り返されましたし、次の日にはNHK大河ドラマの話題から『鎌倉殿の13人』のメインテーマが鳴り響いていました。

イヤーワームというのは基本的に頭の中で鳴るものですが、ときに声となって発せられることもあります。機嫌がいいときなど鼻歌を歌ったり小声で歌の一節を口ずさんだりすることがありますよね。ところが私の妻は「ときに」ではなく「つねに」声となって出てきます。もともと考えていることを脈絡なしに次から次に声に出して語りかけてくるような人で(いわゆる「脳内ダダ漏れ」というやつです)、当然ながら文脈が読めない私は「いきなりどうした?」と驚くことが多いのですが、曲や歌もその例に漏れません。

今朝はいきなり「♪とんでけとんでけブッチー」と歌っていました。聞いたことがあるけれど、それは何でしたっけ。というわけで検索してみたら、1970年代にNHKの『おかあさんといっしょ』で流れていた人形劇の主題歌でした。YouTubeに音源もありました(当時の映像は残っていないのだそうです)。


www.youtube.com

なぜいきなり「とんでけブッチー」だったのかは分かりません。ただ、ふとしたはずみにそれまで何十年間も閉じられたままだった記憶の引き出しが開くことってありますよね。先日は「♪ドレミファソーラファ・ミ・レ・ド~」と歌っていました。ヤマハ音楽教室のCMソングですね。私が知っている限り、妻はピアノなど音楽のお稽古ごとはやったことがないはずなのですが……記憶って不思議です。


www.youtube.com


https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/index.cgi?das_id=D0009040423_00000

SNSの時代も変質していくのかな

留学生の通訳クラスでは、休み時間になるとみなさん一斉にスマホを操作しています。ほぼ全員が画面に釘付けになっているので、またゲームでもやっているのかしらと思ったら「SNSを見ているんです」とのことでした。「書き込むことは少ないけれど、しょっちゅう読みに行っている」のだとか。

わかります。私もかつてはTwitterFacebookInstagramなどのSNSにハマっていて、それこそ暇さえあれば一日に何度も見に行っていましたから。さっき見に行ったばかりなんだから、それほどの違いはないはずなのに、やっぱり見に行ってしまう。いえ、違いはあるんですね。Twitterなどタイムラインやトレンドがどんどん更新されていきますし、たまさか自分が投稿したときには「いいね」がついているかもしれない、あるいはリツイートされているかもしれない……。

SNSの中毒性はまさにこの点にあります。ほんの少し時間がたっただけでも、そこにはなにか新しい情報が登場しているに違いないと思わせ、そう思ってしまったら居ても立っても居られなくなり、つい見に行ってしまう。見に行って、さっきと同じ状態だったとしても、残念に思う必要はありません。だってそこには他にもたくさんこちらのの注意を喚起してくれる情報が流れているのですから。結局そうやって「注意経済」に絡め取られて、一日のうちのかなりの時間をSNSに費やすようになるのです。

私はこうしたSNSの中毒から抜け出せるようになるまでにかなりの時間と努力を必要としました。私の場合は単に意志の力だけで抜け出すことができなかったので、それこそスマホやパソコンからアプリを削除することから始まって、最終的にはアカウントを削除するとこまで行って初めて「解毒」することができました。

毒が抜けたいまでは、どうしてあんなものに何時間も費やしていたのだろうと思えるくらいにはSNSを客観視できるようになりました。かつてはSNSを、自分が世界と接する界面(インターフェース)を極限にまで広げてくれる夢のようなツールだと認識していました。普段の暮らしの範囲だけではありえないほどの人との出会いやチャンスがそこにあるような気がして。でもいまでは自分の主体性をどこまでも奪っていく存在だと感じています。


https://www.irasutoya.com/2018/02/sns_12.html

SNSのすべてを否定するものではありません。例えばTwitterにしてもこちらのブログで言及されていたようにSNSとしてではなくニュースアプリとして、「今何が起こっているのかを知るためのサービス」としての利用価値はまだあると思っています。東日本大震災のときにそれを感じましたし、現在でも例えば電車の遅延情報やネット上の事故などの情報ではTwitterの速さにまさるメディアはありません。

blog.nagayama.dev

留学生のみなさんは「書き込むことは少ないけれど、しょっちゅう読みに行っている」と言っていました。ということは、すでにもうSNSで自分から発信することには飽きてきているということなのかしら。だったら私とあまり変わりません。私は「しょっちゅう読みに行」くことさえやめてしまいましたけど、留学生のみなさんも早晩そうなっていくのかもしれないですね。

Facebookはすでに「おじさんやおばさんのメディア」認定されて久しいですし、Instagramも最近は「インスタ映え」という言葉さえやや古びてきているような気がします。Twitterイーロン・マスク氏による買収後はなにかとゴタゴタが続いているようですし、あれほどの熱狂を謳歌していたSNSも変質の時期を迎えているのかもしれません。5年後、10年後には「どうしてあんなものに」と多くの人が述懐するようになるでしょうか。

「朝三暮四」の猿は自分だった

私は先月末に新型コロナのワクチン四回目を接種したのですが、それから一週間も経たないうちに感染して陽性となってしまいました。まだ抗体がしっかりとできていなかったのかもしれません。とはいえ、さいわい微熱と咳が少し出る程度の軽症で済みましたから、多少はワクチン接種の効果もあったのかもしれないなと思っています。

ちまたでは、また感染者数が増加に転じて「第八波」の到来がささやかれています。私個人としては、もうここまできたら流行性感冒と同じような扱いで共存していくしかないのではないか、過度に感染を恐れてほとんどの人が四六時中どこでもマスクを着用しているという異様な状況からは脱却すべきではないか、と感じています。

ただ新型コロナは依然ごく少数ながら重症化に至る方もいますし、長く続く後遺症に悩む方もいるので、みんなそんなにスッパリと割り切って考えることはできないんでしょうね。それは私も理解できます。理解できないのは、そうであるにも関わらず、ワクチンを接種する方が少ないという点です。

「デジタル庁」のウェブサイトによると、現時点で四回目のワクチンを接種した方は全人口の35.56%にとどまっているそうです。一時期のように接種したくともできない状況ではないのに、この数字。そういえば私が四回目を接種したときも、接種会場は接種する人よりも会場のスタッフの方がはるかに多い状態で、以前とはまったく違ってガラガラの状態でした。

新型コロナワクチンの接種状況 | デジタル庁

ワクチンに関しては人それぞれに考え方があると思います。ですからもちろん打つ・打たないは個人の自由ですし、さまざまな身体的・心情的理由で接種を見合わせている方もいると思います。もとより「ワクチンを打つのは自分のためのみならず、みんなのためだ」などのセリフでワクチン警察よろしく他人に迫るなど厳に慎むべきだと考えています。

ただこの数年間、ワクチンをめぐる(自分をも含めた)人々の反応なり騒ぎ方なりに接して漠然と感じているのは、事ここに至っても私たちはこの感染症に対していまだに右往左往していて、未来に向けての展望、あるいは希望の光のようなものを抱けていないという点です。主語が大きいことを承知で申せば、なぜ日本の私たちは2020年の春頃から始まったこの息苦しい社会を総括し、次のステージに向けて気持ちを切り替えることがいまだできていないのでしょうか。

その責任を、たとえば政治家や官僚、あるいは保健当局の担当者に向ける人もいます。SNSなどをちょっと覗けば、そういう言説、というか罵詈雑言のたぐいは溢れかえっています。でも私は、それよりも何よりも、私たちひとりひとりがこの感染症に対してほとんど主体的に考えることがなく、ただ世間の空気のなすがままに漂わされているような、そんな感覚が蔓延しているように感じられるーーその点にとてつもない「気持ち悪さ」を感じるのです。

この気持ち悪さはおそらく、いまだにこの感染症の全貌がつかめないことに対するいらだちのようなものなのでしょう。ここ数日それを悶々としながら考えつつ、仕事で使う教材作成を兼ねて趣味のディクテーション(書き取り)をしていたら、台湾の作家で詩人・画家でもある蔣勳氏が、莊子の齊物論に出てくる有名な「朝三暮四」を巡ってこんなことをおっしゃっていました。そのとき自分が考えていたこととのあまりのシンクロニシティに、ちょっと驚きました。以下、その部分の要約です。

私はコロナ禍で、自分こそがあの「朝三暮四」の猿であったと気づきました。最初のころ私は、アストロゼネカ製のワクチンで人が亡くなったと聞き、絶対にアストロゼネカは打つものか、モデルナじゃなきゃいやだと思いました。でも実のところ、私は両者の違いをきちんと知っていたわけではありません。よくわかっていないのに、そんな判断をしていたのです。その時に莊子のすごさがわかりました。彼はこのお話で人間に対する憐れみを説いているのです。それは、人の知には限りがあるという一種の悲哀です。「ポスト・トゥルース*1」の時代と言われます。インターネットが発達し、情報がこれほど大量にあふれる時代であるのに、私たちはほんの少しの情報を頼りに判断を下してしまう。それは「朝三暮四」の猿と同じです。このお話は、私たちにとても大きな警告を発しています。


www.youtube.com

この講演では「朝三暮四」以外にも、合わせて十二の故事を引きながら、とても興味深い話をされています。中国語がお分かりになる方は、ぜひご覧いただきたいと思います。


https://www.irasutoya.com/2014/06/blog-post_3557.html

*1:世論形成において、客観的な事実より、虚偽であっても個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つ状況。(コトバンク

水虫を徹底的に治す

尾籠な話で恐縮ですが、先だって足の指が化膿してQOLが著しく下がってしまったことを教訓として、この際足に巣食っている水虫を根治しようと決意しました。結局のところ今回は、市販の水虫薬にかぶれたところから雑菌が入って化膿し、歩くのも困難なほどにまで悪化したということが、皮膚科に通院してみて分かったからです。

水虫程度で皮膚科を受診するなんて大げさな、と思う方は多いと思います。私もそうでした。でも受診して分かったのですが、水虫(白癬菌による感染)は、市販薬でお茶を濁せるほどかんたんな疾病ではないのでした。専門の医師による指導のもと、長期にわたる治療を行ってはじめて根治できるのだと。

私が受診した皮膚科では、外用薬の塗布を数ケ月続ける治療を提案されました。それにしたがって現在までにひと月ほどが経ちましたが、経過はなかなか順調です。足回りはこれまでの人生ではなかったほど快適な状態になってきました。このまま医師の指導に従って治療を続けたいと思っています。

医師から処方された外用薬は「ルリコンクリーム」といって、これと同成分の市販薬はないそうです。水虫薬はどれもかなりかぶれやすいそうですが、市販薬は病院で処方される薬よりかぶれる頻度が高いということも知りました。

https://www.dermatol.or.jp/qa/qa10/q22.html

また医師から指導された塗布方法も、水虫の症状が出ている部分だけでなく、足裏から足の指、さらにはアキレス腱のあたりまで広範囲に塗布するというもので、これも素人考えとはずいぶん違っていました。一見症状が出ていなくても、白癬菌は表皮下に潜んでいるのだそうです。これは指導を受けなければわからないですよねえ。

とにかく「生兵法は怪我のもと」というのをあらためて認識したしだいです。私は昔から病院という場所がとても苦手で、症状があってもなかなか受診する勇気が出ない人間ですが、今回のことで少し病院というものに対するマインドセットが変わりました。やはり専門家にきちんと意見を徴するのがいちばんということですね。

味つけはシンプルな方がおいしい

おいしすぎて、おいしくない。そういうことってあるように思います。例えば市販のお惣菜など、忙しくてご飯を作る余裕もないときに買って帰ることがありますが、たいていは後悔します。味が複雑すぎるのです。

外食にしても、私はあまり利用せず、なるべく自宅に帰って作るようにしているのですが、たまにお店に入ると、これまたやはり後悔することが多いです。

いったいどこのグルメ野郎ですかとお叱りを受けそうですが、まず私には、特に東京のそれは味が濃すぎ(塩からすぎ)ます。そしてたいがい味が複雑すぎるのです。いろいろな味がしすぎて、おいしく感じられないということがあるのだなあと。

だから、たまさか利用したお店で、あっけないくらいシンプルな味つけの料理が出てくると、とてもうれしくなります(薄味だとさらに)。

先日は、仕事の出先で入ったカフェで、ランチについてきた白いんげん豆と赤玉ねぎとツナのサラダが「それ」でした。ドレッシングはたぶん、酢と油と塩だけ。それに黒胡椒もはいっているかいないかといった程度。それで十分おいしいと思いました。このサラダはそれからうちでも何度も作って定番のお惣菜になりました。

チャーハンなんかも、味つけは醤油のみというのが一番おいしいように思います。うちで作るときも、炒め上がりに鍋肌から回しかける醤油だけで味つけしています。

qianchong.hatenablog.com

百番会

きょうは東京・目黒の喜多六平太記念能楽堂におきまして、趣味の「お能」の発表会でございます。趣味の習い事の発表会、それもお能のそれと申せば、何といいましょうか、どこかこうセレブリティな雰囲気を想像される向きもあるやもしれませぬ。

いや確かに、みなさんお着物をお召しになっていて、確かにそういう雰囲気もなきにしもあらず……さりながら、そこはそれ、うちのお師匠の流儀(能楽喜多流)ならではの質実剛健さをいかんなく発揮しておりまして、今回の発表会は「百番会」という趣向になっております。

百番会というのは、その名の通り仕舞と独吟を百番、一日中「ぶっ通し」で早朝から夕刻まで連綿と披露していくというもの。一番あたりまあ五、六分というところでしょうが、それが百番ともなれば単純計算でも六百分。つまりは約十時間連続で次々に上演されていくわけでありまして……もはや発表会というより部活の強化合宿と申し上げたほうがよろしいかもしれませぬ。

でも私、こういうお師匠の趣向は、大好きです。百番もありますから、ひとりあたり二番は仕舞を舞うか独吟を謡い、ほかの方の仕舞の地謡にも入ることになります。玄人の先生や大先輩方と一緒に謡うのならまだしも、時には自分が地頭を勤めなければならないこともあり、総じてとても勉強になるという次第でして。

しかもうちのお師匠の不文律として、発表会の際は無本(むほん)つまり謡本を見ずに謡うことが求められます。すべての詞章(謡の文言)を暗記していなければならないわけで、それもできれば仕舞の行き道(どのように舞うかというその経路のようなもの)を理解した上で、おシテ(仕舞を舞う方)の舞にきちんと寄り添うように謡わねばなりませぬ。

言ってみれば素人の我々にとってはかなりの「無理筋」なのです。その無理筋なところを涼しい顔で私に「じゃ、今度の百番会は八つほど地謡に入ってくれますか?」とおっしゃるお師匠に、これは大変なことになったと思いつつも、ついつい仕事は二の次で謡や仕舞の稽古をしてしまう。これが何よりも楽しいのでござります。

今日はぜんぶ過たずに謡い、舞うことができるかしらと緊張のあまり、きわめて怪しい文体になってしまいました。


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