インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

東急ストア三軒茶屋店

私は東急世田谷線の沿線に住んでいて、いつも利用しているスーパーマーケットは松原と上町の「オオゼキ」、それに三軒茶屋の「東急ストア」です。その三軒茶屋の東急ストアがしばらく休業していたと思ったら、昨年末にリニューアルオープンしました。これまではどちらかというと庶民的な雰囲気だった店内が、すこし高級スーパー寄りに変身していたので驚きました。

同社のプレスリリースによると、「三軒茶屋は単身や2人世帯が多いエリア」だとして、その客層に向けた商品のラインナップを意識したようです。確かに、オープンキッチン方式の鮮魚売場や惣菜売場ができ、オーガニック食材や高級食材の冷凍食品スペースがぐんと増え、ワインやクラフトビール、それに合わせたチーズやハムなどおつまみ系の品揃えが充実。ペット用の冷凍食品まで専用の冷凍庫ができていたのは驚きました。

なんというか、かつての西友とかマルエツとかサミット的な雰囲気だったところから、ビオセボンとピカール成城石井に寄せた雰囲気になっていたのです。う〜ん、余計なお世話かもしれませんが、三軒茶屋ってそこまでセレブリティな街ではないんじゃないかと、私などは思うのですが。同僚には「お世田谷にお住まいで」などと冷やかされますが、ほかのエリアはいざ知らず、世田谷線沿線はけっこうひなびた*1庶民的な街だと、じっさいに住んでる自分は思います。350mlの1缶が600円も700円もするクラフトビールがこの街でそんなに売れるかなあ……。

個人的には見ていて楽しい品揃え(あまり手は出せないので申し訳ないけれど)なので、このリニューアルが成功してほしいと思います。それに以前はなかったセルフレジが大量に導入されていて、これも「コミュ障」気味の自分にはとてもありがたいですし。

ちなみに同時期にオオゼキ三軒茶屋店がオープンしたので、こちらもかなり期待して出かけてきたのですが、スペースが狭いせいかオオゼキにしてはちょっと平凡な品揃えになっていて残念でした。オオゼキは店舗によって鮮魚とか野菜とか精肉とか、何かしら個性があって私はいちばん好きなスーパーなんですけど。

*1:都内でも屈指の空き家率の高さだそうです。

東京サラダボウル

コミュニケーションにおいてはいわば「黒子」であるはずの通訳者、それも中国語の通訳者が主人公という珍しいドラマが始まるということで、とっても期待して見たNHKドラマ10の『東京サラダボウル』。原作は黒丸氏のマンガとのことで、こちらも電子書籍版を購入し、並行して読み始めました。

www.nhk.jp


東京サラダボウル ー国際捜査事件簿ー

ドラマは全9回のうちまだ2回目までしか放映されていませんが、いまのところおおむねマンガのプロットに沿った作りになっているみたいです。となれば、やはりこれは、近年「『人種のるつぼ』ではなく『人種のサラダボウル』」論で語られるようになったアメリカ社会を念頭に置きつつ、さまざまな人種や言語や文化、そしてセクシュアリティが混在している現代の東京を描き出していくというストーリーになるのでしょう。

仕事柄とても興味をそそる内容ですし、第2回目で主人公の有木野了(松田龍平氏が演じています)が中国人の沈一諾という人物に通訳の種類(逐次通訳や同時通訳など)についてレクチャーするところなんかは、「まるでうちの学校でやってる授業みたい!」と同僚と一緒に盛り上がりました。中国語のスラング“打臉”をキーワードにした誤訳騒動も、すごく興味深い(というか身につまされます)。

ただ、松田龍平氏はとても頑張ってらっしゃる*1ので、こんなことを言うのは無粋なのですが、やはりセリフの中国語じたいはとても拙く、聞きづらくて、私自身はどうしてもドラマに入り込めませんでした。このドラマを見るのは主として中国語を解さない日本語母語話者の方々なのですから、そのへんのリアリティなど最初から追求していないことは分かっているとはいえ。

あと、無粋ついでに申し上げれば、ほかの出演者の演技もかなり表層的というか「つくりもの感」が否めません。どうして日本のドラマはこうなっちゃうのかな。中国語圏にもいわゆるアイドルドラマみたいなのはあって、お世辞にも質が高いとはいいがたい作品もあります。でもその一方で、俳優の演技に知性と技術の深みに加えて人間の深さをも十二分に感じる、こちらが襟を正されるようなドラマも多い。

かつて私は、自分が日本語母語話者だから日本人俳優の演技やセリフに対して不当に点が辛くなるのだと思っていました。逆に中国語圏や英語圏のドラマに優れたものを感じるのは、畢竟それらの言語が母語ではないからなのだと。でもここ数年、職場で接する多くの外国人留学生が異口同音に「どうして日本のドラマは演技のヘタなアイドルが主役をやるんですか」と言うのを聞いて、やはり現代日本の(かつてはいざしらず)ドラマの質は諸外国に比べて相対的に低くなっていることを認めざるを得なくなりました。

実際、私はもう長い間、朝ドラも大河もその他のドラマも、日本のものはほとんど見なくなりました。といってもテレビじたいをほとんど見なくなっているので、私が言ってもあまり説得力はありませんが。


井上純一『がんばってるのになぜ僕らは豊かになれないのか』p.5

かつて劇作家・演出家の平田オリザ氏が、諸外国では演劇専門の高等教育機関があるのに日本にはそれがないと指摘されていました。その後平田氏らが旗振り役となって兵庫県豊岡市の芸術文化観光専門職大学が開校したりしていますが、これとてまだ緒についたばかり。中国の「中央戯劇学院」、「上海戯劇学院」、「中国戯曲学院」や台湾の「国立台北芸術大学演劇学院」みたいな国立の学府はいまだありません。東京藝術大学にも演劇学科はないものね。

日本のドラマや映画をすべて見ているわけでもないくせに、ちょっと大風呂敷を広げすぎました。でも今回久しぶりに日本のドラマを見て、これは作り手の問題とともに受け手の問題でもあるのではないかと思ったので、こんな一文を書いてみた次第です。受け手がもっと厳しい意見(悪口ではなく批判)を持たなければ、日本のドラマや映画の凋落はもっとひどくなるのではないかと思うから。

*1:「中国語を話す役は初めてで、先生にマンツーマンで丁寧に教えてもらいました」とインタビューで語っておられます。

翻訳をジェンダーする

職場の専門学校では、外国人留学生が通訳訓練の一環として日本語の演劇に取り組んでいます。脚本は私が書いているのですが、一昨年に上演した、擬人化されたさまざまな料理たちが「世界三大料理」の座を争うというコメディ『世界三大料理〜帝国の逆襲〜』には、こんなセリフがあります。

アメリカ料理:Make America great again and again and again! 茶番は終わりよ!
フランス料理:ちょっとあんた、まだ性懲りもなく表舞台に登場するつもり?
アメリカ料理:なんだかんだ言っても、やっぱりアタシが出張らないと、世界の秩序は保てないの。実力と人気を兼ね備えた存在って、ある意味、罪よね。
中華料理:ふざけないで! 独りよがりな価値観を押しつけられちゃ迷惑なのよ。世界はもうとっくに多極化してるんだから。
ロシア料理:いかにも。たかだか二百数十年しか歴史のないアメリカ料理が料理界の秩序うんぬんだなんて、片腹痛いでアナスタシア。
中華料理:いいこと言うじゃない。
ロシア料理:これはどうも、痛み入りマトリョーシカ
中華料理:どう? ここはひとつ、アタシと組まない?
フランス料理:あんた、だんだん節操がなくなってきたわね。

脚本を書く際、私は自分が担当している外国人留学生のうち、特定の誰かを想定してセリフを作っていません。同じ配役の学生がお互いに学び合うという学習効果も期待してダブルキャストやトリプルキャストにするので、なるべく誰が演じてもよいようにしているつもりです。でも上掲のセリフの日本語からは、ひとつだけ比較的はっきりと読み取れる属性があります。それは性差です。

「終わりよ」、「アタシ」、「罪よね」、「迷惑なのよ」、「なくなってきたわね」……これらの語尾(文末詞)から受ける印象は、人によって多少の意見の相違はあるでしょうけど、おおむね「女性らしい」感じではないでしょうか。いわゆる「役割語」というやつです。「そうじゃ、拙者が存じておる」と言えば時代劇に出てきそうな武士で、「そうや、わてが知っとるでえ」と言えば関西のお笑い芸人さん……みたいな*1

こうした役割語のうち、特に「女性らしい」文末詞について分析した、古川弘子氏の『翻訳をジェンダーする』を読みました。この本では、小説作品における女性の登場人物の話し方について、上述したような「女性らしい」文末詞がどれくらい使われているのかを、翻訳作品・日本人作家による日本語作品・児童文学作品などで比較し、さらに翻訳者の性別や年令によって差があるのかについても調べています。


翻訳をジェンダーする

またそうした作品における「女性らしい」文末詞が、実際の女性の会話ではそれほど使われていないことも示されています。つまり、ここには女性に対するステロタイプな見方が存在するとして、古川氏はそれを「保守的」と呼んでいます。氏の分析によれば「女性らしい」文末詞の使用頻度、つまり「保守的」な度合いは、実際の女性<日本人作家による日本語作品の中の女性<翻訳作品の中の女性と強まり、また同じ翻訳作品でも大人向けの文学作品<児童文学作品と強まり、さらに女性翻訳者<男性翻訳者と強まるのだそう。

つまり「保守的」であればあるほど、ステロタイプの度合いが強い、つまりは「よ」、「よね」、「わね」、「なのよ」などを多用するというわけです。実際の女性はそこまで多用していないにも関わらず。なるほど、私が上掲のお芝居のセリフで多用している「女性らしい」文末詞の数々も、そうしたステロタイプな見方の産物とも言えそうです。

ただ、うちの学校の外国人留学生に限って言えば、私がほぼ無意識のうちに女言葉や男言葉を用いてセリフを書いた台本を読んで、当の留学生諸君は各自のジェンダーにかかわらず、言葉の性差にあまりこだわることなく役柄を選び、そのまま女言葉や男言葉を用いて演じています。なんというか、かなりユニセックスな感じが自然に醸し出されてくるのです。

もしこれを日本語母語話者の学生さんたちが演じるとしたら、役柄の選択から演技まで、かなりジェンダーのバイアスがかかるのではないかと想像します。男性が女言葉を喋るのは恥ずかしいとか、女性が男性言葉を喋るのは不自然だとか……してみると、留学生のみなさんにユニセックスな雰囲気が備わるのは、日本語を母語としていないために、かえって日本語の女言葉や男言葉に先入観や抵抗がないからではないかと思いました。

外語でも、例えば英語の“He/She”とか中国語の“他/她(発音は同じ)”とか、この本でも取り上げられている言葉の性差はあり、またそれらを超克するための三人称単数としての“They”やスウェーデン語の性を限定しない代名詞として定着しつつあるという“hen*2”などもこの本で紹介されています。それでも日本語における男言葉/女言葉のボリュームに比べれば、少なくとも英語や中国語ではそうした性差はかなり少ないです。

こうした文末詞などに無意識のうちに織り込まれている「女らしさ」や「男らしさ」をどう乗り越えていけばよいのかという本書の提起には考えさせられるものがたくさんありました。とはいえ、では実際に上掲のような台本のセリフをいわゆる役割語を極力排して書こうとすると、これがなかなか難しいのです。なんというか、とてもフラットではあるけれど、お芝居のセリフとしては活き活きとした感じが欠けてしまうというか。

この点で私は、この本で主張されている「女らしさ」や「男らしさ」へのステロタイプな(保守的な)スタンスへの批判に共感しながらも、文学作品や、私が書いたような台本の言葉遣いと、現実の言葉遣いに差異があることを、フィクションとしてある程度受け入れる余地は本当にないのだろうかと考えました。それらを完全に取り払ってフラットにするのが本当にいいのかどうかについては、私自身まだ答えが出せないでいます。

外国人留学生が操るユニセックスな感じの日本語の台詞を聞いていて、もしかしたらこういうふうに女言葉/男言葉を凌駕して自由に話すことができるようになることこそ、ひとつの止揚になるのかもしれない……そんなことを夢想しました。

*1:金水敏『バーチャル日本語 役割語の謎』岩波書店

*2:この本によれば、もとより性差のない三人称代名詞として存在していたフィンランド語の“hän”を参考にしたのだそうです。

かしわうどん

よんどころない事情があって、年末と年始にそれぞれ一度ずつ、東京と実家がある北九州市を往復しました。ハイシーズンで航空券の価格がとんでもないことになっているので、いつも利用する羽田・北九州間のスターフライヤーを断念して新幹線を利用しましたが、思いのほか快適でした。いまの「のぞみ」は品川・小倉間で4時間半ほどなんです。空港へのアクセスや待ち時間などを考えたら所要時間は変わりませんし、それなら都心に直結している新幹線を利用したほうがはるかに便利だと思いました。

北九州市内の移動にローカル線も使いました。それで思い出したのが、駅のホームにある「立ち食いうどん」屋さんです。もう思い出せないくらい昔に一度食べたことがあるだけの「かしわうどん」を食べてみようと思って。関西では鶏肉のことを「かしわ」と呼びますが、この「かしわうどん」は鶏肉を甘く煮付けたのが薄味だしのうどんの上にのっているのです。

「ぶらっとぴっと」という人を食った名前のこのお店、うえやまとち氏の『クッキングパパ』にも登場したことで有名です。金丸産業の新入社員・江口くんが社長や荒岩主任などを連れてわざわざ博多から食べに来たのがこのホームにある立ち食いの「かしわうどん」。社長が言うように「細かくスライスされた甘辛いかしわとあっさりしたスープがよくあって実にうまい」のです。寒空のもとで食べていると、関西弁の「しゅんでる」という言葉が脳内に浮かびます。


『クッキングパパ』第59巻

江口くんは必ず小倉駅の7・8番ホームにある「ぶらっとぴっと」で食べるそうですが、実は1・2番ホームにも同じお店があって、こちらのほうがよりローカルな路線なので空いています。新幹線で東京に戻る際、駅の売店にこの甘辛く煮込んだ「かしわ」だけパックされたのが売られていたので、お土産に買い求めました。

そういえば小倉駅の名物駅弁といえば、この「かしわ」と錦糸卵と海苔がのった「かしわめし」で、こちらも帰りの新幹線の車内で食べたいなと思っていたら、現在は入荷が止まっているとのことでした。残念ですが、またの機会に。

寄付としての宝くじ

昨年の末に「ジャンボ宝くじ」を買いました。「3連バラ*1」と「福連100*2」と「福バラ100*3」をそれぞれ1セットずつ、合計230枚=69000円です。しかもジャンボ宝くじを購入したのは今回が初めてではありません。年に5回あるジャンボ宝くじ、すなわちバレンタイン、ドリーム、サマー、ハロウィン、年末のいずれも同じ買い方をしているので、1年間に69000円✕5回=345000円を宝くじに投じていることになります。

宝くじは「愚者の税金」とか「情弱ビジネス」とか「隕石に当たって死ぬ確率のほうが高い*4」などと言われています。どんなギャンブルよりも還元率が悪く、あんなものを買うなんてお金をドブに捨てるようなものだ、正気の沙汰とは思えない……と散々な言われよう。かくいう自分も、かつてはそう思っていましたし、年末の寒空のもと宝くじ売り場に長蛇の列をなす人々を信じられない気持ちで眺めていました*5。でも「新しい贈与論」を主宰されている桂大介氏のこの記事を読んで、少し考え方が変わりました。

theory.gift

「当たれば儲けもの、外れたら寄付。宝くじは人心にフィットした贈与の仕組みなのかもしれない」。この記事によれば、宝くじは還元率(当選金として支払われる)が47%、手数料(運営や広報のために使われる)が14%、控除率(公共事業などに使われる)が39%ほどだそうです。そして、仕組み自体が似ているという「ふるさと納税」は還元率30%、手数料10%、控除率60%であるよし。

私は「ふるさと納税」について、税金の一部を牛肉やカニなどの贅沢品として消費しちゃうというのはよいことなのだろうか……と疑問に思ってきました。それでこれまで一度も利用したことはなかったのですが、はたしてこちらの記事では「ふるさと納税」制度について、それは「未来を食べて”今”の享楽にふける」行為であり、「本来、子や孫、あるいは老後の自分が受けるはずだった未来への投資利益を肉や魚に変えて今食べてしまっている」と批判されています。ようは、単なる税金のムダづかいではないかと。

www.businessinsider.jp

それなら宝くじを買うほうが、まだマシではないかと思うのです。口幅ったい言い方になりますが、私は若いころから、収入のせめて1割くらいは社会に還流させたい、つまりは寄付をしたいと思ってきました。「金は天下の回りもの」を信奉しているというわけです。それで以前は応援したいと思えるNPO法人クラウドファンディングなどを選んでは寄付をしていました。でもそれなら宝くじを通して社会に還流させるのもいいのではないかと思ったのです。

宝くじを通して寄付をしても、地方自治体がそれをきちんと活かした使い方をしてくれるかどうかはちょっと信頼を置けないところがあります。ムダな公共事業ってのもままありますから。でも、自分でNPOなどの団体を選んで寄付をするのが最良かといえば、それはそれで短所があるように感じます。結局は広報能力のある「有名どころ」を選ぶ結果になりがちですし、そういう広報能力があるところからやけに豪華な報告書が送られてきたりすると「こんなところにお金をかけずに、もっと本来の活動に振り向けてほしいな」と思うこともあったりして。


https://www.takarakuji-official.jp/kuji/kisekae-qoochan/

ご案内の通り、宝くじは連番の場合、10枚に1枚はかならず7等(300円)が当たることになっています。また「福連100」や「福バラ100」は下2桁が00から99まで入っているので、6等(3000円)も必ず1枚は当たります。というわけで、「3連バラ」と「福連100」と「福バラ100」で、最低でも合計12900円はかならず当たることになり、さらに「宝くじアプリ」からのネット購入だとポイントがつく(690ポイント)ので、実質的な購入金額は69000円−12900円−690円=55410円となります。

もちろん、ときにはほかの等級に当たることもあります。今回の年末ジャンボ宝くじでは「3連バラ」で6等(3000円)が1枚、「福バラ100」で5等(10000円)が1枚当たるなどして、合計25900円の当たりとなりました。アプリのポイントも差し引いて実質的な購入金額は42410円。ジャンボ宝くじは年間5回発売されているので、こんな感じで1年間におおよそ25万円ほどを寄付していることになるわけです。

所得税に住民税、消費税……ただでさえ重税にあえいでいるのに、そのうえ年間で25万円も国に寄付するなんてやっぱりバカじゃん、愚者じゃん、情弱じゃんと思われるでしょうか。でも私としては、上述したように、これは収入の一部を社会に還流させている(Pay it forward)と思えばよいのです。しかもこれですら当初のいささか高邁な理想である収入の1割にはいたっていませんから、クラファンなどへの寄付も折に触れて行っています。

そして、まずありえないものの、万万が一、高額当選などするかもしれないという「ワクワク感」も楽しめます。宝くじアプリには自動再生で1枚1枚当たりを確認する機能などもあったりして、抽選日にはけっこう盛り上がります。「新しい贈与論」の記事にはこんな意見が紹介されていましたが、私もほぼ同意見です。

宝くじの高揚感を味わいつつ、そのお金が一部寄付に回るというのは一石二鳥でよいモデル

宝くじを通じた都道府県や都市への「寄付」は、薄く広くではあるけれども「天下の回り物」としてのお金の還流としてはそんなに悪くないのではないかと思うのです。もっとも、「当店から当たりくじが出ました!」と大書されている宝くじ売り場にこぞって並ぶというのは、いまでも解せませんが。

*1:バラ10枚のそれぞれの組・番号が3枚連続になる購入方法。

*2:組は10種類で、各組の番号の下2ケタを「00~99」でそろえた購入方法。

*3:組は100種類で、各組の番号の下2ケタを「00~99」でそろえた購入方法。

*4:よく考えるとこれはちょっと眉唾ですが。だって宝くじに当たる、それも高額当選する人は毎年何十人もいますが、隕石に当たって人が死んだという話はこの1年間はおろか、過去何十年にわたっても聞いたことがないですもん。

*5:このブログにも「愚者の税金」というタイトルで書いたことがあります。

絵本『戦争は、』とSNS

ポルトガルの詩人でジャーナリストのジョゼ・ジョルジェ・レトリア氏と、その息子でイラストレーター・編集者のアンドレ・レトリア氏の共作絵本『戦争は、』を読みました。昨年末の新聞記事でこの絵本を知ったのですが、ネット書店では「入荷待ち」の状態。それで紙の書籍と同じ値段の2200円は正直ちょっとお高いなあ……などと思いながらKindle版を購入しました。


戦争は、

紙の手触りが味わえないのはちょっと残念でしたが、電子書籍でこの絵本を読んでよかったとも思いました。というのも、アンドレ・レトリア氏のほとんどモノクロームに近いシンプルな、しかし細部まで神経の行き届いた絵を大きなディスプレイで見ると、かなり迫力があるのです。紙の絵本にある「のど」(本を開いたとき中央にくる、綴じ目の部分)がないので、それだけ一枚の絵としての訴求力が増します*1

新聞記事でアンドレ・レトリア氏は、戦争の本質は病であり、病を引き起こすようなウイルスに感染しないよう常に自分の頭で考え、目を覚ましていなければいけないと述べています。

SNS(交流サイト)の短い言葉やテレビの映像で私たちは物事を分かった気になり、なるべく考えないように日々トレーニングされています。深い思考を持った生物ではなくなりつつある。でも、考えることをやめると、どんどん私たちの内面はもろくなり、外部からコントロールされやすくなる」


東京新聞2024年12月25日朝刊

いや本当に。ここ数年私は、SNS的なものから可能な限り遠ざかるよう意識してきました。それは自分の思考と時間が限りなく奪われていくことに恐怖を覚えるようになったからでした。これも最近読んだキャサリン・プライス氏の『スマホ断ち』には、巻頭にこんな印象的な献辞があります。「人生は自分が注意を向けたものでできている」。まさにSNSがそのビジネスの本質としている「注意経済(アテンション・エコノミー)」を強く示唆した警句ではありませんか。

私たちがスクロールしながらSNSに向ける注目は、どの瞬間のものであれそのすべてが、よそのだれかの利益を生むために使われている。(中略)人は注意を向けたものしか経験できず、注意を向けたものしか記憶にとどめられない。それぞれの瞬間に何に注意を向けるかを選ぶことは、ある意味ではどんな人生を生きたいかを決めることと同じだ。(65ページ)


スマホ断ち

「なるべく考えないように日々トレーニングされてい」る私たちが、SNS的なものから距離を置く、あるいは主体性を持って自覚的に使いこなすのは容易ではありません。私はほとんどのSNSから降りてしまいましたが、それでも気がつくとスマートフォンを手にして検索をかけ、ネットのコンテンツに引き寄せられています。絵本『戦争は、』の発行元である岩波書店の公式サイトにある「編集部より」にはこんな解説がありました。

まるで知らぬうちに進行してしまった病のように、密かに忍び寄り、瞬く間にはびこってしまうもの、それが戦争。

www.iwanami.co.jp

「なるべく考えないように日々トレーニングされてい」く過程も、これによく似ていると思います。ネットも、スマートフォンも、もはや我々の暮らしには欠かせないものになっていて、それらをすべて断ち切ることはできませんし、またすべきでもないでしょう。ただその取り扱い方にはおそらく、自分が想像しているよりももう少し強い緊張感、あるいは警戒感のようなものが必要なのだろうなと感じています。絵本『戦争は、』にみなぎる雰囲気は、まさにそんな緊張感や警戒感を自分に促しているようにも思えました。

追記

SNS的なものから距離を置こうと言っておきながら矛盾しているようですが、『戦争は、』の出版元である岩波書店のこのYouTube動画はとても見応えがあります。ただし「ネタバレ」になるので、絵本を先に読んでから視聴したほうがよいと思います。


www.youtube.com

*1:電子書籍版を購入して、そのままブラウザのKindle for Webで読むと「のど」の部分で切断された状態で表示されます。KindleアプリやKindle電子書籍リーダーで読めば「のど」は表示されないようです。

内田百閒に共感する

読書をしていて楽しいことのひとつは、作者の言葉に共感するあまり「ああ、ここに私と同じ感覚の人がいる」、あるいは「ああ、これは私に向けて書かれているに違いない」と思える瞬間があることです。よくよく考えてみればこれは不遜きわまりない態度ですし、もとよりそうやって多くの人の心に響くからこそ広く読まれている作品であるわけで、私ひとりが特別な読者であるわけはないのですが。

内田百閒は、私にとってそんな特別感を味わうことができる作家のひとりです。といっても私は『百鬼園随筆』と『蓬莱島余談』、それに『ノラや』の三冊くらいしか読んだことがありませんし、そのよさが分かるようになったのは歳を取ってからでした。読んでいて、ついつい付箋を貼ってしまうのは、たとえば『百鬼園随筆』の「大人片傳」に出てくる、天丼を食べた際のこんな描写です。

暫らく振りに天丼を食う。初の二口三口は前後左右の物音も聞こえなくなる程うまい。しかし凡そ半分位も食い終わると、又いろいろ外の事を考え出す。御飯が丼の底まで汁でぬれている。天丼と云うものは、犬か猫の食うものを間違えて、人間の前に持ち出したのだろう。ああ情けないものを食った。明日からは、もう何も食うまい。腹がへったら、水でも飲んでいようと考える。


百鬼園随筆

そうそう! 私にとっては天丼って、まさにそうした食べ物です。歳を取って、もう若い頃のように「わしわし」と丼物を食べられなくなってからは特に。若い頃のように食べられなくなったといえば、『ノラや』の「千丁の柳」に出てくる、こんな記述にも思わず膝を打ちます。

私は腹がへつてゐる。ふだんならまだへる時間ではないが、今日はもう何を食べようかと云ふことを考へてゐる。私は腹がへつてゐる情態が好きなので、腹がへつてゐる間は愉快である。何か食べると万事がつまらなくなつてしまふ。


ノラや

そうそう! お腹が空いているときのあの頭が冴えたような気持ちのよさに、「何を食べよう」というどこか高揚したような気持ちが加わる。確かにあの時間がいちばん幸せなんじゃないかしら。これも歳を取ってから実感できるようになりました。

さらにまた『ノラや』の「泣き虫」に出てくる、ノラとクル、二匹の飼い猫を失ったあとの嘆息。

私はたつた一匹づつの猫でこんなひどい目に遭ふ。さうしてその後を引いていつ迄も忘れられない。猫は人を悲しませる為に人生に割り込んでゐるのかと思ふ。

そうそう! 私もかつて猫や犬を飼っていたことがありますが、「後を引いていつ迄も忘れられない」がゆえにそれからはどうしても新しい猫や犬を飼うことができずにここまで来てしまいました。

内田百閒の随筆をもとに作られた、黒澤明監督の遺作ともなった映画『まあだだよ』にも、この『ノラや』のエピソードが盛り込まれていましたね。また、おなじく映画に出てきた内田百閒の誕生会「摩阿陀会」については、Wikipediaの「内田百閒」項にこんな記述がありました。

持ち前のいたずらっ気やユーモアもあって、特に法政大学教授当時の教え子(百閒自身はこの呼称を嫌い「学生」と呼んだ)達から慕われた。還暦を迎えた翌年から、教え子らや主治医・元同僚らを中心メンバーとして、毎年百閒の誕生日である5月29日に「摩阿陀会(まあだかい)」という誕生パーティーが開かれていた。
内田百閒 - Wikipedia

この「教え子」という呼称が嫌いだったいうのがまた、私にとっては共感するところしきりなのです。それにしても昔の人の還暦というのはかくも風格があったものなのですね。私など、同じ還暦を迎えてもまだあの映画に出てきた教え子たち、もとい、学生たちと同じか、さらに軽い風采しか持ち合わせていませんから。

世界は経営でできている

読み手を選ぶ一冊だと思います。私は無事に読了できましたが、独特の文体(筆者の岩尾俊兵氏ご自身は「昭和軽薄体」の向こうを張って「令和冷笑体」と命名されています)ゆえに読み進めるのがツラいと感じる方もいるでしょう。

この本は「経営」をキーワードにして、筆者の説く「無限価値思考」を社会の様々な視点から検討するものです。筆者によれば本来の「経営」とは、「価値創造という究極の目的に向かい、中間目標と手段の本質・意義・有効性を問い直し、究極の目的の実現を妨げる対立を解消して、豊かな共同体をつくりあげること」だそうです。

価値は無限に創造することができるからこそ「他者と自分を同時に幸せにすること」ができるのであり、その価値を有限だと誤解して他人と奪い合っていることが自他ともに幸せになれない根本の原因ーーそれがすなわち「経営の不在」なのだーーというのが筆者の主張です。そしてその考え方に沿って、貧乏、家庭、恋愛、勉強、虚栄、心労、就活、仕事、憤怒、健康、孤独、老後、芸術、科学、歴史という15の視点から、加えて最後の「おわりに」で人生という視点からエッセイが展開されます。


世界は経営でできている

通常の「経営」という概念を念頭に置いて読むと「経営を全然説明していないじゃないか」と思うかもしれませんが、それはお門違いというもの。上掲の岩尾氏による「経営」の本質を踏まえて読めば個人的にはとても共感できる内容でした。ただこう言っては大変失礼ながら、「はじめに」と「おわりに」だけ読んでもそのお考えのエッセンスは理解できるかもしれませんが。

あと、さらに失礼の上積みをするようで申し訳ないのですが、こちらの記事だけ読んでもいいかも(ただしスクロールを止めると左右からマックロクロスケみたいなキャラが出てくるWebデザインは、読み手の気を散らせることこの上ないという点で疑問です)。

unique.kaonavi.jp

とはいえ「令和冷笑体」のエッセイがハマる方にはとても楽しい読書体験になりますし、小見出しのタイトルが古今東西の文学作品や映画タイトルなどのもじりなので、もとの作品名をどれだけ言い当てられるかで教養の多寡を競い合うという趣味の悪いゲームに興じることもできます。また岩尾氏ご自身が文学を志されたこともあるとのことで、これ以外にも有名な文学作品の一節のもじりやパロディがそこここに。ちょっとスノッブですけど、それを当てっこするのも楽しいかもしれません(……と、岩尾俊平氏的な諧謔をものしてみました)。

ひとつだけ腑に落ちなかったのは、本書に二度ほど出てくる「戯曲化」という言葉です。「戯曲化(dramatization)」は文学作品などをセリフやト書きで構成された戯曲(脚本・台本)にすることで、本書のように経営の不在によって引き起こされる悲喜劇を紹介するくだりで使用するなら、それはおそらく「戯画化(caricaturing)」ですよね。編集者も気づかなかったのかしら。「令和冷笑体」のこの本に私も影響されたのか、ついこんな冷笑的なコメントまで書いてしまいました。

ヴォイニッチ写本

ヴォイニッチ写本といえば、1912年にイタリアで発見された不思議な古文書として有名です。この写本が有名なのは、その奇妙な彩色画とともに謎の文字が全編を埋め尽くしているからで、この文字は未だ解読されていません。100年以上にわたって世界中の研究者が取り組んできたものの、それが未知の言語なのか、暗号なのか、それともまったくのデタラメなのかさえ、確たるところは分かっていないのです。

beinecke.library.yale.edu

私は、この写本に関する書籍の定番ともいえるゲリー・ケネディ氏とロブ・チャーチル氏の共著『ヴォイニッチ写本の謎』を15年ほど前に読んで関心を持ちました。それから何度かネットでは「解読された」とか「謎が解けた」といった情報が流れ、そのたびに私は「おお!」と興奮したものですが、結果としてはいずれも不確かな情報でした。

そこへ偶然書店でこの新書に出会ったものですから、またまた思わず「おお!」と声を上げてしまいました。安形麻理氏と安形輝氏の共著『ヴォイニッチ写本 世界一有名な未解読文献にデータサイエンスが挑む』です。この本は上述の『ヴォイニッチ写本の謎』までの研究成果を踏まえ、その後の研究の進展を特にデータサイエンスの立場から紹介するものです。


ヴォイニッチ写本 世界一有名な未解読文献にデータサイエンスが挑む

ヴォイニッチ写本の新説に関しては上述したようにかなり玉石混交の「石」ばかりといった印象で、なかにはほとんどオカルトやスピリチュアルまがいのものも多いです*1。でもこの本は、そもそも写本とはなにか、羊皮紙とはなにか、書誌学とは、データサイエンスとは……とごくごく基本的なところから解説があり、さらに写本研究におけるアプローチ方法のあれこれなどもていねいに説明されています。徹底的に科学的・論理的な姿勢が貫かれているとても勉強になる一冊でした。

ヴォイニッチ写本は、使われている羊皮紙の放射性炭素年代測定や、インク・顔料などの成分分析から、15世紀ごろに作られたことはほぼ確実とされています。さらに(ここからは「ネタバレ」になりますが)……





この本の著者による「テキスト解読可能性」の判定(テキスト自体を解読することよりも、解読可能な構造を持ったテキストなのかどうかを判定する)によって、「既存の言語体系によらない人工言語または未知の言語で書かれた可能性が高い」と結論づけられています。つまりまったくのデタラメな文章ではなかったのです。なんとも「胸アツ」であります。

この実際の判定や分析の方法について解説している部分はやや複雑で難しいですが、私のようなデータサイエンスの素人でもなんとかついていけますし、読んでいて本当にわくわくします。そしてデータサイエンスの現代的な意義と位置づけ、専門の研究者だけではなく在野の市民も参加する形で研究が進められる「シチズンサイエンス」のありようについても知見を得ることができます。

さらにはヴォイニッチ写本にインスピレーションを得た文学やアート作品、音楽などまで紹介されているのも楽しい。脚注で紹介されていた、こちらのTEDトーク:ウィリアム・ノエル氏の『失われたアルキメデスの写本の解読』(日本語の字幕がついています)にも興奮しました。


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ともかく、薄い新書ですが、とても濃い内容です。ヴォイニッチ写本、私が生きているうちに解読されるかなあ。これはリーマン予想と同じくらい、門外漢でもじゅうぶんにワクワクできるテーマなのです。

*1:Amazonなどで「ヴォイニッチ」をキーワードに検索してみると『ヴォイニッチ手稿の秘密』という本がたくさん表示されます。カスタマーレビューは星4.4と高評価なのですが、かなり「ヤバそう」な感じ。それで私はこれまで手を出さないできましたが、果たして今回の『ヴォイニッチ写本』でも一切触れられていないどころか、注釈や参考文献などにも登場しません。まっとうな研究者からすれば、やはり「トンデモ本」だったのですね。

プロット・アゲンスト・アメリカ

書評家の豊崎由美氏が新聞のコラムでつよくつよくお勧めされていたのに促されて読みました。フィリップ・ロスの『プロット・アゲンスト・アメリカ』。1940年、戦時を理由にそれまでの慣例を排して三選目の大統領選に立候補したフランクリン・D・ルーズベルトを、大西洋単独無着陸飛行で国民的な英雄になっていたチャールズ・リンドバーグが破って当選したら……という「歴史改変SF」です。

リンドバーグナチス・ドイツに親和的なうえ、反ユダヤ思想の信奉者だったそうで*1、この小説ではそんな彼が大統領に就任したことで起こるユダヤ人に対する差別や迫害、暴力などファシズムが進行していくさまが7歳のフィリップ少年の目を通して描かれていきます。


プロット・アゲンスト・アメリカ

ありえない人物がアメリカ大統領になる話といえば、つい現代の我々が目の当たりにしている光景と引き比べて考えたくなります。が、翻訳者である柴田元幸氏による文庫版あとがきによれば、当のフィリップ・ロス氏ご自身は「リンドバーグイデオロギー的にはともかく英雄飛行士ではあったのに対し、トランプはただのいかさま師だ」と、その類似性よりも相違性を強調していたそうです(2016年のトランプ氏初当選時)。

確かにトランプ大統領を生み、さらには再選させた背景を鑑みるに、それは確かに第二次世界大戦時の世界情勢とはまったく異なっています。またアメリカ、ひいては世界中のあちこちで見られるようになった社会の大きな分断と、世界の多極化やアメリカ自身のプレゼンスの低下なども絡んでいるわけで、安易な引き比べはしないでおきましょう。

それよりも私は、私たちのそれなりに平穏で幸福な暮らしが(現実には公私ともにいろいろと心悩まされるあれこれはあるにせよ)最初は些細なところから徐々に変質しはじめ、それがあるところまではそこはかとない不安や怖れで「くすぶっている」程度だったのが、気がついたら一気にエスカレートして激変してしまう……という恐ろしさを描いたものとしてこの作品を読みました。

実際この作品では、フィリップ少年の暮らすニューアークニュージャージー州)のユダヤ人地区が街のお店や通りのひとつひとつにいたるまでていねいに描かれ、少年を取り巻く人物も家族を含め、そのほとんどが実在の人物に仮託して描かれていきます。そんなきわめてリアリティのある物語世界が、中盤から後半にかけて一気にテンポを増し、あり得ないけれどあり得たかもしれない状況に突入していくのです。そこに私は恐怖を覚えました。

プロット・アゲンスト・アメリカ(The Plot Against America)とは「アメリカに対する陰謀」と作中でも語られています。アメリカに対して誰がどんな陰謀をはたらいているというのかーーリンドバーグとトランプの引き比べは安易だとしても、この陰謀という視点から読めば、現代の私たちもじゅうぶん反芻し、内省するに足る気づきを得られるはずです。

余談ですが、柴田元幸氏のたいへんに巧みな翻訳によって、SFを読むのが苦手な私もこの600ページになんなんとするこの小説を一気に読み通すことができました。SFとはいえ実在の歴史と人物に材を取った「近過去」小説ですからSFの範疇には入らないかもしれませんが。またこれも最近、かつて一度チャレンジして挫折していた伊藤計劃氏の『虐殺器官』を通勤途中にKindleでちびちび読みながら読破できました。

虐殺器官』は近未来SFですが、こちらもかなり現実の世界情勢に近しいところで物語が進行しています。してみるとやはり私は、想像力の桁が外れまくった物語への想像力がまだまだ欠けているということなのかもしれません。

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*1:この小説にはその妻のアン・モロー・リンドバーグも登場します。巻末の資料によれば彼女も当時はけっこうなファシズム容認派の立場だったみたい。『海からの贈物』を読んで受けた感銘がいささか色褪せてしまうなあ……。

Duolingoの趣味が悪いww

語学学習アプリのDuolingoを使っていると、ときおりアプリの仕様が急に変わって驚くことがあります。最近気づいたのは、一回ごとのレッスンが終わったあとに表示されるアニメーションの中に、いささか「キモかわいい」ものがまじるようになったことです。これまでのようにDuolingoに登場するキャラクター、例えばJuniorとかZariとかが飛び跳ねているものもあるのですが、それらにまじってこのようなフクロウDuoの「変わり果てた姿」が何回かに一回表示されるのです。

ケンタウロスのようなユニコーンのような姿で頭上に虹が出ているとか、Duoの頭が核爆発みたいになって脳が飛び出してくるとか、外皮がシワシワになって蝶のようなDuoに脱皮するとか……こう言ってはなんですが、ちょっと趣味が悪いww これ、Duolingo開発スタッフさんたちのセンスなんでしょうか。

ほかにも、最近はレッスン中に画面上部のプログレスバーが「帯電」したようなアニメーションになり、正解すると数回に一回雷が落ちるような使用になりました。ごていねいにスマートフォンのバイブレーション機能と連動して、ビリビリッと本当に感電したみたいな感覚になります。

私は静電気がたまりやすい体質なのか、特に乾燥した冬のこの時期はドアノブに触れるたびにビリっとくるのがイヤで、いつもドアノブを一回パンと叩いてからドアを開けるのが習慣になっています。そんな私にレッスン中何度も「ビリッ」を味わわせてくれるDuolingo。やっぱり趣味が悪いです〜。

RPGみたいなおもしろいレッスンも登場(上掲の図の一番左)して毎回のリニューアルが楽しみなDuolingoですが、この雷が落ちるような仕様だけはちょっとカンベンしてほしい……と思いました。

三重請求

夏にイングランド南西部をレンタカーで旅した際、デヴォン州タヴィストックで交通違反をやらかしてしまいました。路上のパーキングスペースに車を停めて観光していたら、駐車時間が制限を超えてしまったのです。

このパーキングスペースは「月曜日から土曜日までの午前10時から午後6時まで45分間に限り駐車可能(その後90分間は再駐車不可)」ということだったんですけど、その45分を超えたのでフロントガラスに黄色い違反切符が貼られていました。思わず「ブッチ」しようかしらなどとよからぬ考えが頭をよぎりましたが(こらこら)、ひとさまの国で不正を働くのはもちろん論外なので(自分の国でも論外だけど)、その場でスマートフォンから罰金を振り込みました。

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ところが数カ月後にレンタカー会社からこんな手紙が届きました。いろいろ書かれていますが、要するに「アンタはまだ罰金を支払ってないから当社が代わりに払うけど、その分(+手数料)をアンタのクレジットカードから差っ引かせてもらいますね」ということです。しかも「文句があるなら州政府に直接言って。我々は手助けできないから」と書いてあります。

不思議なのはこの手紙が相前後して3通も届いたことです。しかもまったく同じ文面で。困惑していたら、翌月に私のクレジットカードの口座から3回、30ポンド(約6000円)が、つまり合計90ポンドが引き落とされていました。ちゃんと支払ったのにレンタカー会社に請求するデヴォン州政府もしっかりしてほしいですけど、三重請求するレンタカー会社もひどくない?

それで、「ダメもと」でカスタマーサービスにメールをしてみることにしました。罰金を払うのは同意だけど、三重請求は納得できませんと、なるべくていねいな物言いの英語でちまちまと作文して。そのあと自動返信の「受け取りました。処理をお待ち下さい」的な返信が来ましたが、それからはずっとなしのつぶてで、もう金輪際バジェットレンタカーは利用しないからね! と憤っていたのですが……。

けさ、メールを送ってから40日ぶりにカスタマーサービスから連絡が来ました。“Please be informed that our traffic team will refund you two charges.” つまり2回分の請求額を払い戻しますって。泣き寝入りしないでよかった。やはり「おかしいものはおかしい」と主張するのは大切ですね。それでもちゃんとスマホで支払ったのにレンタカー会社へ請求を回すデヴォン州政府には納得がいかないですけど……お役所仕事はどちらの国も同じなのかしら。

少女時代とキム・ミンギ

先日、韓国の国会で尹錫悦大統領に対する弾劾訴追案が可決された際、国会の外に集まっていた人々が少女時代の『Into The New World(また巡り逢えた世界/また出会った世界)』を歌っていました。


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この件に関しては、韓国『中央日報』のウェブサイト(日本語版)にこんな記事が載っていました。

14日午後、国会本会議場で禹元植(ウ・ウォンシク)国会議長が開票結果を発表した瞬間、これを電光掲示板で見守っていた国会周辺では少女時代のデビュー曲『また出会った世界』(2007年)が鳴り響いた。「愛しているあなたを、この感じこのまま。描いてきた迷いの終わり」。

japanese.joins.com

日本の一部メディアでは、韓国の人々が政治に対する意見を実際にこうした行動であらわし声を上げることについて、日本との比較をしながら称賛する声が見られました。と同時に、たびたびこうして市民が直接的な行動に訴えなければならないということは、逆に議会制民主主義が未成熟であることを示しているという識者の声もありました(私は「おまいう」の誹りは免れないと思いましたが)。

それはさておき、私は若いころ「人前ですぐ赤くなる*1」タイプだったので(今は「中道」に戻ってきましたけど)、けっこうこういうデモとか集会とか直接行動みたいなのに参加していました。そしてその当時、私よりもう少し上の世代の方々から「かつてはデモや集会でよく歌をうたっていた」という話を聞かされていました。「♪がーんばーろう」とか「♪おきーなわを返せー」とかですね。

それで一時期こうした歌、つまりプロテストソングや労働歌のようなもの、果ては革命歌とか中国における抗日歌に至るまでに興味を持って、いろいろな曲を集めては覚えていたのですが、そのなかで出会ったのが韓国のキム・ミンギ氏の『아침이슬(アチミスル/朝露)』でした。


▲キム・ミンギ(写真=ハクジョン/Kstyleの記事から)

韓国語はまったく話せない私ですが、この曲だけはあまりに「ハマって」しまったので今でも韓国語で歌うことができます。またこの歌には「冷たい土に/夜を明かして」で始まる日本語訳の歌詞もあって、これもまた今でも暗唱できます。歌詞といいメロディーラインといい、なにかこう心に触れてくるものがある曲なのです。


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というわけで、『中央日報』の記事を読んだ私はすぐにこの『朝露』を思い出したのですが、果たして記事の最後の方にはこう書かれてありました。

14日の採決当日に国会の集会現場に行ったというあるネットユーザーはフェイスブックに「『また出会った世界』はもうこの時代の(民衆歌謡である)『朝露』になったようだ」と評した。

そうか、韓国の人々にとっても、プロテストソングと言えば今もまず『朝露』なんですね。とても懐かしい気持ちになって(今の日本の政治を見ていたら懐かしがってばかりもいられないのですが)キム・ミンギ氏のことも検索してみたら、なんと今年の7月に亡くなられたとのこと。知りませんでした……。

『朝露』のほかに『가뭄(カムㇺ/ひでり)』も大好きな曲で、サビの部分の「エヘイヤ/オルラリア/オルラリナンダ/エヘイヤ」というフレーズは今でも折に触れて思い出します。キム・ミンギさん、すばらしい曲をありがとうございました。


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*1:須賀原洋行『気分は形而上』第1巻(35ページ)

誤訳としての大英帝国

吉田健一氏の『英国に就いて』を読んでいたら、こんな記述がありました。

英国の歴史の上で十九世紀、ことにその後半に当るヴィクトリア時代は対外的にも、また国内でも最も大きな発展があった時代であって、日本では何かの誤訳で大英帝国と呼ばれている、英帝国が出現したのもこの時期である。(64ページ)


英国に就いて

なるほど、いままで漠然と「大英」は“Great Britain”を訳したものだと思っていました。カズオ・イシグロの小説『日の名残り』で、主人公のスティーブンスが「この国土はグレートブリテン、『偉大なるブリテン』と呼ばれております。少し厚かましい呼び名ではないかという疑義があるやにも聞いておりますが」と語っているように、ちょっとエラそうだなあという感覚とともに。

でもよく考えてみたら“British Empire”なんですから、吉田氏のおっしゃるとおり「英帝国」でいいはずですよね。“British Airways”は「英国航空」でしたっけ。でも日本では“British Museum”を「大英博物館」、“British Library”を「大英図書館」などと称しています。『英国に就いて』には、こうも書かれています。

これはおそらく、フランスのブルタアニュが小ブリテンと呼ばれていたのと区別する為に、英本国を大ブリテンと称したのから生じたものである。(83ページ)

この件に関してはWikipediaにも「小ブリテンブルターニュ/大ブリテングレートブリテン島」という区別についての記述とともにこんなことが書かれていました。

British Empire」の日本語訳として「大英帝国」が使われ始めた詳しい経緯は、今でもハッキリとしていない。しかし、大まかな流れとしては、「Great Britain」と「British Empire」の2つの英語の単語は、文明開化期から日英同盟締結期にかけて徐々に結びついており、日本人は当時の西洋、特に「イギリスを世界最先端の文明とみなされる」という傾向があるためであった。
また、「大英帝国」と「大日本帝国」をわざわざ対称の意図で使われ、「大英帝国」という翻訳は日英同盟の成立のあとに日本語の文脈で定着していたと考えられる。
イギリス帝国 - Wikipedia

なるほど、確かに「大日本帝国」もエラそうというか多分に夜郎自大的な呼称ではありましたが、そういうメンタリティが日本人をして“British Empire”→「大英帝国」と訳さしめたのかしら。そういえば中国語でも“大英帝國”とか“大英博物館”などと言うんですけど、これは明治期の清国留学生によって日本語から持ち込まれたのかな。でも“大清國”とか“大清帝國”などと称していたから、あちらはあちらでもとから威張っていたのかもしれません。

British Empire大英帝国」という翻訳をめぐっては、長沼美香子氏のこちらの論文『大英帝国という近代 大日本帝国の事後的な語り』(pdfファイル)もとても興味深く読みました。ご教示に感謝申し上げます。

無意味なものと不気味なもの

小学生のころ、大阪府枚方市にある団地に住んでいました。ひらかたパークがまだ「ひらパー」という略称で呼ばれていなかったくらい昔のことです。ある日のこと、二階にあった部屋の窓から外を眺めていたら、とつぜんお向かいの棟の上に灰色のような焦げ茶色のようなごつごつとした球体がゆっくりと浮かび上がり、それがこちらの棟の上空に向かってゆっくりと移動しはじめました。

やがて自分の棟の真上までやってきて見えなくなったので、急いで反対側の窓に走って空を見上げたのですが、その球体はそれっきり姿を現しませんでした。あわててそのことを母親に告げたら「なにかの見間違いじゃないの」とにべもない反応だったのですが、あまりに私が興奮して話すので、少しは信用してくれたようでした。そこまで言うんだから、たしかにお前は何かを見たんだろうねえ……。

でもあれはいったい何だったのだろう。半世紀を経てもこうして覚えているというのに、あの球体がいったい何だったのかについて、自分の中では納得できる理由を思いつかないのです。UFOとか風船とか、あるいは鳥とか飛行機とかヘリコプターとか、何かに寄せて判断できるような色と形状ではなかったことも不思議でした。それが、ただひたすらもやもやとした謎として心に残り続けているのです。

そんな他愛もない「もやもや」とは比べ物にならないくらいに心がざわつき、そこはかとない怖さと気持ち悪さと禍々しさが同居したような文学作品ばかりを取り上げて解説する異色の文芸評論集、春日晴彦氏の『無意味なものと不気味なもの』を読みました。自分がこれまでに見た映画の中で「後味の悪さ」の最高峰はスティーヴン・キング原作、フランク・ダラボン脚本・監督の『ミスト(The Mist)』なのですが、あの映画に匹敵する後味の悪さです。


無意味なものと不気味なもの

それでもこの本をついつい読み進めてしまったのは(それも趣味が悪いことに、毎晩睡眠薬代わりに寝床で読んでいました)、そこに示されている人間の不可解さが、どこかその人間が生きる世の中の本質を暗示しているような気がしたからです。この本の解説を担当されている、書評家で回帰幻想ライターの朝宮運河氏は「無意味で不気味なものたちは、ありふれた日常に亀裂を走らせ、私たちを取り巻く世界が秘めているいびつさをも露わにしてしまう」と書かれています。

まさにそういう露わにされた「いびつさ」を感じて考えることが、その気持ち悪さとはうらはらに何某かのカタルシスや快感までをも覚えさせてくれるのかもしれません。だからこうしてついつい(?)読了してしまったというわけです。私は映画『ミスト』にもまったく同じようなものを感じました。あの映画もまた、人間とこの世界の不可解さ、あるいは世界に対する人知の「及ばなさ」みたいなものを強烈に感じさせてくれる物語だったからです。

個人的に「ありふれた日常に亀裂が走る」のを感じる瞬間といえば、シンクロニシティです。「共時性」とか「意味のある偶然の一致」などと称され、こちらのウェブサイトでは「複数の出来事が非因果的に意味的関連を呈して同時に起きる(共起する)ことを指す」と解説されています。

私は昔からこのシンクロニシティにたびたび遭遇してきて、そのたびに「ただの偶然」とは片づけられないある種の気持ち悪さを感じてきました。実はきのうブログに「ゲシュタルト崩壊」のことを書き、ブログをアップロードしてからこの『無意味なものと不気味なもの』の最終章を読み始めたのですが、そうしたら中島敦の『文字禍』が引用されていました。『文字禍』はまさにゲシュタルト崩壊中島敦の執筆時にはまだこの名称は存在しなかったそうですが)を扱った物語です。

www.aozora.gr.jp

毎晩数章ずつ読み進めてきて、たまたま今日この最終章を読んだというのに、このシンクロ。おそらくは「無意味なもの」なんだろうけれど、それだけでは説明がつかないどこか「不気味なもの」を感じるのです。