インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

香港の人と北京語で話す

よく利用している近所のコワーキングスペースに、時々香港の方が見えます。現在一時的に日本在住とのこと。スペースのオーナーさんがその方とスペースの使い方について細かい話をする時に、おたがいに英語だと隔靴掻痒な感じなので、私が間に入って中国語(北京語)でお手伝いしたことがあり、それで顔見知りになったのです。香港の方はふつう広東語が母語ですが、北京語も話せるという方がけっこういます。

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https://www.irasutoya.com/2014/11/blog-post_81.html

その方は日本語がまだ上手ではないと言っていました。一方こちらは広東語が話せないので、北京語でお話ししたわけです。オーナーの説明が終わったあとも、しばらく他愛ないおしゃべりをしてその日は終わりました。その後も何度かお目にかかることがあって、そんな折には「最近どうですか」みたいな感じで北京語の会話をしていたのですが、そのたびに私は、うまく言えないのですが、なんとなく「よそよそしいもの」を感じていました。

そう、どうもその香港の方からは、こちらを警戒しているような感じが伝わってくるのです。もちろんこれは私がそう感じたというだけで、まったくの思い過ごしかもしれません。それに、あちらも流暢とはいえ北京語は母語である広東語ほど自由にのびのび自分の気持ちを表せないので、いきおいやや生硬な感じになっているだけなのかもしれません。でも、どこか一歩身を引いて相対されている感じがするのです。

もうずいぶん昔のことですが、香港へ観光で行って、北京語で買い物をしていたら露骨に無視された思い出がよみがえってきました。やっぱり香港の方にとって、北京語話者というのはそういう、やや身構えさせるところがあるような存在なんでしょうか。加えて私は風体もちょっと「いかつい」ので、その点でも不信感を持たれるのかもしれません。が、それ以上に北京語を操るこいつ(私)が、その背景にどんなものがある人物なのか見極めきれないというのが、その「身構え」のベースにあるのかもしれないと思ったのでした。

ご案内の通り、現在香港の政治状況は非常に緊迫しており、部外者の立場で物申すのは大変僭越ながら、中華人民共和国政府のありように懐疑的な香港の人々にとっては特に残念な状況に陥っています。香港がそういう状態に傾斜してきたここ数年間、実は私の仕事の周辺でも、香港の人々と接する機会がここ数年、以前とはかなり違う頻度で増えてきました。

なんとも回りくどい表現ですね。でも私は私と接しているその一人一人に無用の害が及ぶことを極端に心配する者ですから、具体的なことは何も書きませんし、書けません。ただ、香港がいま「ああいうふう」になっていることで、当面は香港現地ではなく、別のところに自分の居場所を見つけ、当座の暮らしを立てて行こうとされている人が多くなっているのかなあと、私のような人間でも如実に感じることができるようになってきたのです。

コワーキングスペースで偶然知り合ったあの香港の方も、ひょっとするとそういう背景から一時的に日本に滞在されているのかもしれません。どんなお仕事をされているのか、どういう状況で日本に来られたのかは知りませんし、聞いてもいませんが(聞けばますます身構えられるでしょうし)。

つい最近も行政長官を決める選挙委員の選出で民主派の委員がほぼゼロになったという報道に接したところです。
www.nikkei.com
香港の今後は、いまの状況に疑問と憤りを感じている立場の人々にとっては、ますます不本意な方向に推移していくだろうことが想像できます。そんな中で、私は少しでもそういう人々に寄り添いたいとは思っているのですが、軽率かつ不用意に関われば、かえって迷惑をかけるかもしれない……私のような者でも「業界」の末端につながっている以上、そこは慎重でなければならないと思っています。

「その方」とはまたコワーキングスペースでお目にかかることもあるでしょう。機会があれば、もっと私自身の考えをその方に伝えてもいいのかもしれません。でもそんな「積極性」がさらに相手を身構えさせてしまうかもしれません。要らぬ気遣いかもしれませんが、まだどう接していいものか、いまひとつよくわからないのです。

「いちのや」の海苔弁

コロナ禍に直面してからというもの、勤務先でのお昼ごはんの選択肢が狭まりました。まずコロナ禍が飲食業を直撃した頃に休業や廃業するお店がちらほらと出始め、その後感染対策を講じて営業再開するところが増えるも、やはり食べるときにはどうしたってマスクを外すので、ちょっと足が遠のいてしまい……。

お弁当を作って持って行っていた時期もありますが、これもちょっと朝が忙しすぎて、現在は味噌汁だけ自分と妻の分を作りスープジャーに入れて持参しています。これにおにぎりかサンドイッチなどをコンビニで買ってお昼ごはんにするのです。……が、申し訳ないけれどもコンビニの食べ物は味が濃い上に添加物もものすごくて、正直心安らぎません。

最近は冷凍食品も優れているよとの情報を同僚から得て、時々は買ってみるのですが、これもとにかく味が濃すぎるというか塩辛すぎるというか。でもまあ、もうこれ以上はどうしようもないので、毎日それらをガマンして食べるか、前日の夕飯の残りを持って行くかでしのいできました。

ところが最近、勤務先の近くに「高級海苔弁」の専門店(チェーン店の一店舗らしいです)ができました。いわゆる「ほか弁」の中でもいちばん庶民的な海苔弁が「高級」になっちゃうというのも妙ですが、店頭で配られているチラシによれば、ひとつ1000円もする、素材にこだわったお弁当であるよし。

noriben-tokyo.com

このお店の場所は、以前はうどんのチェーン店が入っていて、私も何度か利用したことがあるものの、とにかくおいしくないので(ごめんなさい)いつも閑古鳥が鳴いていました。そこがいつの間にか閉店して、なにやら改装工事をやっているなと思っていたら、この高級海苔弁専門店の開店と相成ったわけです。開店時は同僚と「そんな高い海苔弁一種類だけのお店なんて、すぐまたつぶれちゃうかもね」と噂し合いました。一度は物珍しさで買うかもしれないけれど、リピーターになることはあまりないんじゃないかと想像したのです。

ところがこのお店、ネットでの情報によるとけっこう話題になっているチェーン店らしく、割合お客さんが来ている様子です。ときおり(これは販売上のイメージ作戦かもしれませんが)「完売御礼」の札なども店頭に掲げられていたりして。それで私もついその宣伝に乗せられて、ひとつ求めてみました。

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確かに1000円は高いですけれど、けっこうおいしかったです。ちょっと揚げ物が多くてお若い方向きかなとは思いますが、味はそれほど濃くもなく、コンビニであれこれ買って600円なり700円なりになるより、よほどいいかもと思いました。

白身魚のフライが入っていて、それに合わせるタルタルソースが別売り(50円)で、しかもあれだけ素材にこだわってるというのを売りにしている割には、タルタルソースはキユーピーのお弁当用パックなんですよね。いや、まあキユーピーのタルタルソースはおいしいですからいいんですけど、なんだかここだけ「なぜこだわらないのかな?」という感じ。

一方で、弁当箱が紙だというのはとてもいいなと思いました。コンビニでお弁当を買っていちばん凹むのは、味もさることながらあのゴミの大量発生なんです。

しかもこのお店、単に定番の海苔弁だけでなく、季節によって限定弁当を売り出すようになりました。夏の暑い期間は「冷やしだし茶漬け」というおよそお弁当とは思えないものを売っていて、私はついつい買ってしまいました。そして最近このお店は「すだち海苔弁」というものを売り出しました。これもその中身の予想がつかないのでついつい買ってしまう私。

すだち海苔弁は1500円もします。そして蓋を開けるとものすごいビジュアルです。一面すだちと海苔に覆われていて、崎陽軒シウマイ弁当のような「食べ進み戦略」が立てられないので、すだちと海苔を持ち上げてみると下におかずがいっぱい詰まっていました。やっぱり揚げ物が多いですが、すだちの酸味とほろ苦さで比較的あっさりと食べられました。

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聞けばこのお店、今度は海苔弁の「秋」バージョンを出すそうです。う〜ん、この店は次々に新作を繰り出して来られますね。「すぐまたつぶれちゃうかも」なんて言ってごめんなさい。けっこう長続きするのかもしれません。それにしても私、なんだかこのお店の販売戦略に、完全に乗せられてしまっています。

フィンランド語 129 …日文芬訳の練習・その49

授業では細かいところでいろいろと添削が入りましたが、今回の作文はこれまでとは違った感覚がありました。いつもは辞書を引きつつかなり四苦八苦して書くのですが、今回に限っては最初から最後まで比較的簡単に書けました。最初に原形で単語を並べてから文脈に合わせて語尾などを変化させるのは変わりませんが、こんなに「すっ」と書けたのは初めてでした。

ひとつには自分の体験を書いた文章で「背伸び」をする必要がなかったこと、もうひとつは偶然知っている単語だけで文章を紡げたことが、その理由だと思います。やはり語彙量、ボキャブラリーの豊富さというのは大切なんですね。これからも地道に覚えていきたいと思います。

以前中国の天津という街に住んでいて、その街には『今晩報』という夕刊紙がありました。ローカルネタが満載で楽しく興味深いのでよく読んでいました。現在受け持っている語学のクラスに天津出身の留学生がいるので、ある授業でこの新聞の記事を配って「懐かしいでしょう?」と言ったら、『今晩報』の存在自体を知らず、読んだこともないと言われました。いまの学生さんはスマートフォンでニュースを見ていて、紙の新聞など読まないのですね。


Kun minä asuin aikaisemmin Tianjinissa, Kiinassa, siellä oli iltalehti, joka on nimeltään "Jinwanbao(Tämän illan uutiset)". Olin aina ostanut sitä, koska siinä voisi lukea paljon hauskoja ja mielenkiintoisia paikallisia uutisia. Olen nyt vastuussa kielikursseista, sillä on ulkomaalainen opiskelija Tianjinista. Eräässä luennossa annoin hänelle artikkelin tästä sanomalehdestä ja kysyin häneltä: Etkö kaipaa sitä? Mutta hän vastasi odottamatta, ettei hän tiennyt sitä itse eikä ollut koskaan lukenut sitä. Nykyään opiskelijat lienevät lukeneet sanomalehtiä mieluummin älypuhelimillaan kuin paperilla.


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トレーニンググローブ

中指と薬指のつけ根に大きな「胼胝(たこ)」があります。昔は指の側面にいわゆる「ペン胼胝」があったのですが、パソコンを常用するようになってからこちら、すっかり姿を消しました。そのかわりここ数年、指のつけ根に出現しているのです。理由はもちろん筋トレです。

ベンチプレスなどでバーベルを上げようとすると、ちょうどこの部分に当たるのです。身体がこの部分にストレスを感じて、自己防衛的に皮膚を厚くしようとしているんでしょうね。これまでは別に違和感もなく不便も感じなかったので、胼胝もそのままにしてきました。

しかしウェイトが徐々に上がるにつれて、この部分がちょっと痛く感じられるようになってきました。しかもトレーナーさんからバーベルを握らないように指示されてからは特に。よくよく手の使い方を観察してみると、みなさんバーベルは指のつけ根あたりではなく、親指の下の膨らんだ手のひらのあたりで支えています。なるほど、ここなら皮膚も厚いのでそれほど痛くもなく、従って力もかけやすいということですか。身体全体のフォームも大切ですが、こういう細かいところの調整もすごく大切なのです。

それでバーベルを支える位置を調整しながらトレーニングしていたのですが、それでもある程度のウェイトを超えると、痛さが耐えがたくなってきました。その時に気づいたのは、朝活のジムなどで見かける、手にグローブをはめた方々の存在でした。

グローブというか、指先がカットされたハンドウォーマーみたいなものですが、なるほど、アレがあれば手のひらも痛くなさそう。トレーナーさんに「アレは何という物ですか」と聞いたら「さあ……?」というので、ネットで調べてくれました。「トレーニンググローブ」だそう。というわけでさっそく購入しました。

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GW SPORTSトレーニンググローブ

使ってみたら、いままで上がったり上がらなかったりを行き来していたベンチプレス75kgが一度ですっと上がりました。やはり手のひらの痛さがまったくないぶん、力を出すことに集中しやすくなるようです。それに、何となくこれをつけているとカッコいい。レーサーがスタート前にきゅきゅっと手袋を装着している時のような。くだらない虚栄心ですが。

ところで「胼胝」をネットで検索したら、Wikipediaに「べんち」という読みが載っていました。おお、中国語の“胼胝(piánzhī:ピィエンヂー)”ではないですか*1。たぶん中国語から入ってきた読み方なんでしょうね。

*1:一般的な会話では“繭子(jiǎnzi)”とか“老繭(lǎojiǎn)”などと言いますが。

人体大全

宇宙に関する本を読むのが好きです。といっても一般向けの入門書しか読んだことはありませんが、人類が宇宙の実態を解き明かそうとして営々と積み重ねてきた努力の歴史をたどり、それでもその結果として宇宙に関するかなりの部分が「まだよく分かっていない」という事実に、変な言い方ですが「救われる」思いがするのです。

想像を超えるほど巨大で広大な宇宙のことを考えると、自分がいまここで生きていることなどほんのちっぽけなことのように思えてきます。それが私にはある種の福音のように思われるのです。日々の暮らしは小忙しく、胸ふたぐ思いをすることも多いですが、そんなこんなで淀んだりわだかまったりしている自分が馬鹿みたいに思えてくる。

宇宙の極大と自分の極小との間の振幅があまりにも大きすぎるがゆえに、宇宙に関する本を読んでいると、なんだか壮大な「肩透かし」をくらったように感じます。自分の中で高まっている無益で無用な圧力をプシュッと抜いてくれるような作用があるのです。

今回読んだ『人体大全』はその自分のさらに内側の極小世界を「大全」の名にふさわしく詳述してくれる一冊ですが、宇宙に関する本を読んだときと同じような感覚を味わいました。宇宙とは逆のベクトルで、ちっぽけな自分と、その自分の中にある極小の世界との間の振幅がこれまた大きくて、宇宙のことを知る時同様に興奮するのです。そして「実はまだよく分かっていない」という点があまりにも多いという点でも宇宙と人体はとてもよく似ています。

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人体大全―なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか―

この本の原著が書かれたのは、今次のコロナ禍の直前だそうですが、それでも感染症を扱った項にはまるで現在を予見するかのような記述があります(追記された短い「あとがき」ではコロナ禍についても触れられています)。

コロナ禍によって、普段は自分の身体や健康について、あるいは死について漠然としか意識していなかった私たちは、否応なしにより真剣に向き合わざるを得なくなりました。なのに人体に関するあれこれがここまで「実はまだよく分かっていない」というのでは、思わず絶望しかかるところです。が、私はここでも、宇宙に関する本を読んだときと同じような、一種の開放感にも似たよい意味での脱力感を覚えました。

結局のところ、どんなにあれこれ手を尽くしても、身体と生命に関するリスクについて私たちができることとしては、「健康的な食事を取り、少なくとも適度に運動し、健全な体重を保ち、まったくタバコを吸わず、酒を飲みすぎない(481ページ)」に如くはない……という「諦念」を呼び起こされられるからです。

それは別に何もかも諦めて享楽的に生きればいいという意味ではなく、これだけ、宇宙にも匹敵するくらい複雑で謎ばかりの人体だからこそ、淡々とその日その日をていねいに生きていこう、それくらいしか自分にできることはないという心境です。なんだか信仰めいていますけど、この本を読んであらためて感じたのはそういうことでした。

蛇足ですが、読書猿氏のあの『独学大全』がヒットして以降、書店には『○○大全』と銘打った書籍が沢山登場しています。この本の題名もその流れにあやかったものかなと思いましたが(原題は《The Body: a guide for occupants》)、これはまさしく大全の名にふさわしい浩瀚な一冊です。以前NHKで同様のシリーズ番組をやっていましたが、テレビ番組ではかなり情報が限られるところ、この本でははるかに豊富な知見が披露されていて、とことん楽しめます。

文化に興味があるわけじゃない

先日、フィンランド語のオンラインクラスに出ていたら、先生が「私は別にフィンランドの文化や観光に興味があってフィンランド語をやったわけではないので……」とおっしゃっていました。ではどんな動機で学ばれたのかについては聞けなかったのですが、たぶん言語としてのフィンランド語そのもの、あるいはほかの言語とフィンランド語の比較について興味がおありになったのではないかと想像し、そして共感しました。

なぜなら私自身も似たような動機で学び始めたからです。学んでいるからには現地に行って使ってみたいという欲求はあるので、その意味では文化や観光にまったく興味がないわけじゃありませんが、どちらかというと言語そのものへの興味が勝っていました。「悪魔の言語」とも称されることがあるほど複雑な文法を持つフィンランド語そのものへの興味です。

しかもフィンランド語は、その他の北欧諸語、つまりデンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語、アイスランド語が比較的近しい関係にあるのに対して、言語的に大きく隔たっていると言われています。お隣のロシア語ともまた大きく異なり、わずかに南に位置するエストニア語と近しいくらいで、言語的にはぽつんと孤立しています(とはいえ話者はおよそ600万人ほどいますが)。そこに私は興味を覚えました。

フィンランド語を学んでいる方の多くは、コロナ禍以前の教室の風景や、そこで交わされた会話などから想像するに、フィンランドの文化や観光にとても大きな興味があるように思われます。オーロラ、ムーミン、サンタクロース、サウナ、イッタラ、アラビア、マリメッコアルヴァ・アアルトサルミアッキ……私も興味はありますが、それよりも言語そのものが一番の関心事です。

それに、曲がりなりにも長年中国語を学んできて、もうそろそろ中国語以外の語学をかじってみたいなと思っていたこともあります。中国語というか、アジアから離れたどこか遠い場所の言語をやってみたかった。そしてできれば、中国語のような「孤立語*1」とはまったく違う言語を学んでみたいと思いました。要するに、脳の中にこれまでとはまったく違うシナプスの繋ぎ方を作ってみたかったのです。つまり「脳トレ」、もっと自分の実感を伴った言い方にするなら「ボケ防止」ということです。

語学をやる動機のうち、もうひとつ大きなものだと思われるのは、その言語を話している人々に対する興味があるでしょう。友人や知人にその言語を話す人がいて、その人たちと直接コミュニケーションしてみたい、その人たちが大好きで、行き会うだけでも親近感を覚える、といったぐあいに。

私も中国語を学んでいたときは、初手から中国語母語話者の先生がいましたし、周囲にも仕事関係で中国の方が大勢いました。ですから、そうした人たちの人となりに惹かれたり、時にはカルチャーショックを受けたりして、否が応でも興味を向けざるを得なかったのですが、現在学んでいるフィンランド語は、先生も日本語母語話者ですし、日常生活の周辺にフィンランド語の母語話者もいませんし、従って友人や知人と呼べる人もいません(時折Twitterでやりとりする人はいますが)。

というわけで、現時点では「あの人とフィンランド語で話したい!」という強いモチベーションすらなく、また文化や観光への興味でもなく(コロナ禍で観光もできませんし)ただただ言語の面白さや複雑さのみに惹かれて学習を続けているような状態です。周りからは「なぜまた選りに選って」と奇異な目で見られています。それはまあそうですよね*2

でも自分としては、いま学んでいるフィンランド語と英語、それに母語の日本語と、仕事で使っている中国語の四点を毎日ぐるぐる回ったり、ぴょんぴょん飛んで移ったりしているうちに、何か自分のなかで化学反応が起きないかなと期待しているのです。いまのところはまだ反応の気配があまり見られませんが、最近英語の文法が以前よりも自然な形で自分の身体の中に宿っている(ような)気がし始めています。

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https://www.irasutoya.com/2016/08/blog-post_337.html

例えばフィンランド語と英語の文法はかなり隔たっている一方で、完了時制などの考え方はとてもよく似ています。そういうかけ離れたものの間でときどき接点が見つかったり、また遠く離れたりという離合集散を頭の中で繰り返し、そこにほかの第二言語母語が干渉してくる……これはかなり面白い遊びなんじゃないかと思います。これも周囲に漏らすと奇異の視線を返されるのですが、スマホゲームなどよりよほど面白いと個人的には思っています。

*1:言語的に孤立しているという意味ではなく、「単語に語形変化がなく、文法的機能が語順によって表される言語(Oxford Languagesの定義)」という言語学上の分類です。

*2:思想家の内田樹氏が、ご自身がフランス語を学ばれたときのことを書かれた文章で「フランス語という『目標言語』は同じでも、それを習得することを通じてどのような『目標文化』にたどりつこうとしているのかは人によって違う」とおっしゃっていました。同感です。http://blog.tatsuru.com/2018/10/31_1510.html

フィンランド語 128 …可能法現在形と完了形

新しい文法事項として「可能法」というのが出てきました。「おそらく〜だ」とか「〜かもしれない」といった意味を表します。これは基本的に書き言葉でしか使われないとのこと(例えば物語を朗読しているときなどには使われることも)です。断定を避けるという意味では、これまでに“ehkä”をはじめ、“kai”“valmaan”“luultavasti”“mahdollisesti”“kenties”“kai”などが使えました。口語(もちろん文章でも)ではこれらが用いられるということですね。

Ehkä hän on suomalainen.
あの人はたぶんフィンランド人です。

これが可能法ではこうなります。

Hän lienee suomalainen.
あの人はたぶんフィンランド人です。

“lienee”という見慣れない単語が出てきましたが、これは“olla”の可能法三人称単数の形。つまり可能法とは、動詞自身が断定を避ける「おそらく〜だ」という意味を持つんですね。“olla”はこのように変化します。

lienen lienemme
lienet lienette
lienee lienevät

否定はもちろんこうなります。

en liene emme liene
et liene ette liene
ei liene eivät liene

こうした特殊な変化をするのは“olla”だけで、ほかの動詞は過去分詞の“nut/nyt”の代わりに“ne”をつけ、さらに人称語尾がつく形です。

動詞 過去分詞 可能法
nukkua nukkunut nukkune+n,t,e,mme,tte,vAt
syödä syönyt syöne+n,t,e,mme,tte,vAt
tykätä tykännyt tykänne+n,t,e,mme,tte,vAt
nousta noussut nousse+n,t,e,mme,tte,vAt
ajatella ajatellut ajatelle+n,t,e,mme,tte,vAt
mennä mennyt menne+n,t,e,mme,tte,vAt
purra purrut purre+n,t,e,mme,tte,vAt
haluta halunnut halunne+n,t,e,mme,tte,vAt
häiritä häirinnyt häirinne+n,t,e,mme,tte,vAt
kyetä kyennyt kyenne+n,t,e ,mme,tte,vAt

kpt の変化もないので比較的楽ですが、例えば“ajatella”などは可能法現在形一人称単数の“ajatellen(おそらく考える)”と第二不定詞具格の“ajatellen(考えながら〜する)”がまったく同じ形になるので、文脈から判断する必要があります。

可能法には完了時制もあって、それは上掲の“olla”の可能法に動詞の過去分詞を組み合わせます。

lienen sanonut lienemme sanoneet
lienet sanonut lienette sanoneet
lienee sanonut lienevät sanoneet

複数では過去分詞も複数形になるので注意が必要です。

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Oikealla olevan poika lienee eri mieltä kuin vasemmalla olevan poika.

ノンアルコールのスパークリングワイン

お酒をやめて一月あまりが過ぎ、体調はとても良好です。唯一腰痛だけはまだ全快とまでは行っていませんが、それでも以前のようにほぼ毎週一度くらいの頻度で襲ってくるひどい状態には陥らなくなりました。飲酒と腰痛の因果関係はよく分かりませんが、特に身体が欲していなくて、なおかつ腰の状態がこのままでいてくれるのであれば、あえてお酒を飲む動機が見当たりません。

お酒好きの同僚からは「また変な行動にハマって……」とでも言いたげな、同情とも困惑とも皮肉とも取れるような反応を返されていますが、いいのです。人は人だし、自分は自分。しかも昨今、コロナ禍でそもそもお酒を飲む機会が激減、というか皆無になっています。学生の頃から30年以上お酒に依存してきたのですから、もうそろそろ違う人生のステージに進んでもいいでしょう。

ただし、食事の時になにか飲みたいという欲求だけはまだあります。お茶でもいいけれど、それは食後に取っておいて、食前と食中は料理に合う何かを飲みたい。これは長年の飲酒歴からくる単なる悪い習慣なのかもしれません。でも何かの習慣を変えていくためには「イヤイヤやる」とか「苦しいのを我慢する」というのは失敗のもとなので、ノンアルコール飲料をもう随分前からあれこれ試してきました。

いまのところは、という限定付きですが、ノンアルコールのビールは、正直いずれも飲んでがっかりするものばかりです。少なくとも何か果汁などを足さないと、飲んで逆に落ち込むほど。食事もおいしくなくなります。国内メーカーだけでなく、海外のものもあらかたお店で探したり、ネットで取り寄せたりして飲みましたが、ひとつも当たりがありません。開発者のみなさん、ごめんなさい。

ノンアルコールのワインも、いまのところは甘すぎるただのジュースという印象のものがほとんどですが、スパークリングワイン(風)のものは、いくつか「これだったら」と思えるものがありました。ひとつは「OPIA(オピア)」のシャルドネ・スパークリング・オーガニック・ノンアルコール、もうひとつは「PIERRE CHAVIN(ピエール・シャルヴァン)」のピエール・ゼロ・ブラン・ド・ブランです。

www.pacificyoko.com
www.pierre-chavin.com

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どちらも、スパークリングワインとジュースの中間といった感じですが、少なくともあまり甘くないので(個人的にはもっと辛口だったらいいなとは思います)、食事にも合います。

近所のスーパーでも売られているので、けっこう需要もあるんでしょうね。最近はビールでも「微アル」みたいにごくわずかなアルコール量のものが各社から出始めていて、お酒を飲まない、あるいはあまり飲みたくないという需要は広まりつつあるようです。そして上述したようにここが面白いというか不思議なところですが、アルコールは苦手なのに「お酒ふう」のテイストは求めるんですよね。つまりお酒を飲むこと自体は嫌いじゃないけど、酔いたくはないと。ここが同僚などにも怪訝な視線を送られるゆえんだと思います。

ノンアルコール飲料に「お酒ふう」テイストを求めるのが飲酒依存の抜きがたい残滓なのか、そのうちに「お酒ふう」さえ求めなくなるのか、自分の嗜好の、今後の変化が楽しみです。

酒をやめて腰痛が改善した?

「ソーバーキュリアス(ソバーキュリアス/Sober curious = しらふでいることへの興味)」という言葉に出会い、ふと思い立って「断酒」を始めてから、ちょうど一ヶ月あまりが過ぎました。この間、一滴もアルコールを飲まない生活でしたが、不思議なことに、特に我慢も努力もすることなく続けることができました。まるで憑きものが落ちたかのようにお酒を飲みたいと思わなくなったのです。

qianchong.hatenablog.com

お酒をやめてみたら、体調にいろいろと変化が出ました。まず血圧が下がりました。毎年の健康診断ではいつも高い値が出ていて、職場からは専門の医師に相談するよう「勧告」されていました。医師に相談すればたぶん降圧剤の服用を勧められるだろうと思って、なんとか生活習慣を変えることで改善を図ろうと、日々の運動や減塩などここ数年取り組んできたのですが、はかばかしい成果はなかった……のに、断酒一ヶ月でぐぐっと下がったのです。たまたまかもしれませんし、今後も経過観察は必要ですが、ほぼ飲酒との関連を疑われても仕方がないかなと思っています。

次に腰痛が軽快しました。少なくともこれもここ数年悩まされてきた、かなりひどい状態には陥らなくなりました。実は断酒を始める前にある方に聞いたお話で(その方もときおり腰痛に悩まれています)、骨がずれているなど器質的に問題があるわけでもないのに長期間の慢性的な腰痛になるのは、もしかすると内臓に問題があるのかもしれないというものがあったのです。

これもまだ断定するには早いと思うものの、少なくともこれまで腰に負担をかけないために仕事の椅子をあれこれと変えては試し、パソコンやキーボードの位置などもあれこれと調整し、パーソナルトレーニングでも腰痛予防にかなりの重点を置いてメニューを作ってもらって取り組んできたのですが、そのいずれにも勝るほどのはっきりとした改善が、断酒によってもたらされてしまったのです。やはり過剰なアルコールの摂取が内蔵に負担をかけていたのかもしれません。内臓の負担と腰痛の因果関係はまったくもって不明なのですが。

「もたらされてしまった」などと、まだ若干お酒に未練がある私ですが、少なくとも何かの記念日とか、大きな仕事が終わったとか、そういうお祝い的なタイミング以外ではもう飲むことはないかな、飲まなくていいかなと思っています。

断酒を続ける中で、いくつかの「断酒本」も読みました。例えば町田康氏の『しらふで生きる』や、若林毅氏の『Shall we 断酒?』などです。それらにはいずれも断酒にまつわるかなりの苦悩と苦労が見て取れるのですが、今回の私にはまったくそういう「苦」がありませんでした。

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しらふで生きる 大酒飲みの決断

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Shall we 断酒?: ダンスを踊るように、楽しみながらお酒をやめませんか

やはりこれは、もう人生で飲むことのできるアルコール量を飲み尽くしてしまったということなのでしょう。ここで「打ち止め」です、お客さんと。まあ、かつては一晩にワインを二本も(ひとりで)開けるような飲酒生活だったのですから、納得もできようというものです。

フィンランド語 127 …日文芬訳の練習・その48

電動キックボード、ちょっとした移動には本当に便利なんですけど、渋谷周辺での社会実験は今のところあまり評判がよくないようです。ヨーロッパの都市では自動車が制限されている区域もあって、こういうシェアライドのサービスも馴染むのかもしれませんが、東京都心はやはり難しいのかもしれません。ましてや、あちこち乗り捨てできるようなサービスはもっと難しいでしょうね。

電動キックボードの社会実験が、現在東京の渋谷周辺で行われています。フィンランドで利用したことがあって便利だったので、私も申し込みました。でも手続きが煩雑なうえに、台数も限られており、自由に乗り捨てられるわけでもありません。結局いまだに利用できていません。東京は道も狭く入り組んでいますし、こういうサービスを許容できる都市としてのキャパシティも、人々のコンセンサスもまだできていないのではないかと思いました。


Sähköpotkulauden pilottikokeet on nyt tehty Shibuyan ympäristössä Tokiossa. Ennen minä olin käyttänyt Suomessa sitä ja luulin, että se oli hyvin hyödyllinen, joten olen hakenut tätä palvelua. Menettely on kuitenkin hyvin monimutkainen, ja potkulautojen määrät ovat rajalliset. Lisäksi ne eivät voi pysäköidä vapaasti kaikkialla. En ole vielä pystynyt käyttämään sitä. Monet Tokion tiet ovat niin kapeita ja monimutkaisia. En vieläkään usko, että tämä kaupunki voi pystyä tarjoamaan tällaista palvelua ja ihmiset voisivat sietää sitä.


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「ろう通訳」の生放送

この夏は東京オリパラが「強行」されましたが、私はまったく興味がなく、多額の税金をはじめとした社会のリソースを、コロナ禍への対応後回しでつぎ込むオリパラ自体に反対でしたので、それこそ一瞬たりとも見るものか! ……と、ちょっと変な意気込みでひと月あまりを過ごしました。

私見ですが、このオリパラが残した社会の分断は、今後に大きな禍根を残すと思います。特にスポーツ界やトップアスリートと言われる人たちへの不信と嫌悪感はちょっとやそっとでは拭えないでしょう。アスリートに罪はないという人は多いですが、私は一般のアスリートはともかく、今次のオリパラに出場したトップクラスのアスリートとその関係者は社会的責任を感じるべきではないかと考えます。そしてそれらを無批判に垂れ流した大手マスコミ各社とスポンサー各社も。

その一方で、こんな「成果」もあったということを、一週間ほど前の東京新聞朝刊で知りました。オリパラで、NHKEテレが、これまでの手話通訳とはまったく異なる「ろう通訳」という方式でオリパラの式典を中継したのだそうです。

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記事にもありますが「日本語の語順に沿って単語を置き換える『日本語対応手話』と、ろう者が日常的に使い、日本語とは構造や文法がまったく異なる『日本手話』がある」ということを知らないと、なぜこの方式が「画期的」なのか、そもそもどういう方式であるのかさえ、記事を読んだだけでは理解しにくいかもしれません。

要するに「ろう通訳者」と「フィーダー」が同じ映像を共有しつつ、耳の聞こえる「フィーダー」が音声を同時通訳し、それを受け取った「ろう通訳者」が映像からの情報も加味しながら「ろう通訳」を行う……ということで、一種の「リレー通訳」なのですね。でもこれはろう通訳者とフィーダー双方にとても高い技術が必要な気がします。

こういう試みが行われたことだけが今回のオリパラの「レガシー」かなと個人的には思います(皮肉です、もちろん)。それにしてもいまの世の中の雰囲気、自民党総裁選ばかりが盛り上がっていて、つい先日までオリパラが行われていたことさえ忘れてしまいそうです。余韻すらまったくないといいますか。やっぱりこんなものに巨額の税金や社会のリソースをつぎ込むのは浪費がすぎると思います。北京冬季五輪? もちろん私は興味ありません。

職人といえば日本?

既存の教科書を美しくデザインし直すことで、学習の効率や学生のモチベーションを上げようというプロジェクトに取り組んでいる台湾の方が、講演で“當我們想到教育會想到芬蘭,當我們想到職人會想到日本(教育といえばフィンランドを思い浮かべますし、職人といえば日本を思い浮かべます)”と言っていました。


www.youtube.com

へええ、そうなんですか、台湾の方にとって日本は「職人の国」なんですか。ちょっと興味深いので、留学生クラスで華人留学生(中国・台湾・香港)のみなさんに聞いてみました。そうしたら、ほとんどの方が「そう」だとのお答え。ちょっと意外でした。まあこういうステロタイプな見方は話半分で聞くべきものではありますけれど。

もちろん日本には伝統工芸などの分野で優れた職人さんがたくさんいます。それは誇るべきことなのですが、「職人」が日本の代表的なイメージだという意識は、当の日本人自身にはそこまで強くないように思います。じゃあ何が代表的なイメージかと言われると、「失われた30年」を経た現在、すぐに「これ」と言えるものが自分のなかになくて困ってしまいますが。

30年以上前、あるいはもっと前までさかのぼれば、家電とか精密機器とか自動車とか、そのあたりだったのでしょうか。ちなみにいま通っているフィンランド語の教室で使っている教科書は、1970年代後半に初版が出た、外国人がフィンランド語を学習する際の「定番」とも言える本なのですが、そこにはこんな会話が載っています。

Kenen tuo kamera on ?
Minun.
Ahaa. Se on oikein hyvä kamera. Ja tietenkin kallis.
Niin on. Se on japanilainen.
Niinkö? Eikö se ole saksalainen?
Ei, vaan japanilainen.
Ai jaa.


あのカメラは誰のですか?
私のです。
ああ、それはとても良いカメラです。そして、もちろん高いです。
そうです。それは、日本製なんです。
そうなんですか? ドイツ製ではなくて?
いいえ、日本製です。
そうですか。

隔世の感というか、いろいろ感慨深いものがあります。

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https://www.irasutoya.com/2020/04/blog-post_42.html

「職人といえば日本」というのは、私たちにはちょっと意外ですが、そういえば昨今中国で、「ニセ日本人職人」の鍋や鉄瓶なんかが高値で売られているというお話がネットを賑わせていました。

diamond.jp

もっとも、留学生のみなさんによると「職人」はこういう工芸品だけのイメージではないんだそうです。「ラーメン職人」とか「フィギュア職人」とか、とにかくいろいろな分野で「こだわり」を持っていたり、細かすぎるほど細かくニッチな分野を掘り下げてみたり……みたいなイメージの総体が「職人」ーーそのまま“職人(zhírén)”と中国語になっています。辞書的には“工匠(gōngjiàng)”ですがーーなんですかね。

ほかにもいろいろな国籍の同僚に聞いてみたところ、「アニメと言えば日本」「礼儀と言えば日本」「秩序といえば日本」など多くの意見が出ました。「礼儀」などはそうかなあ? と思いますけど、これは「日本人といえばやたらペコペコお辞儀している」というイメージからみたいです。う〜ん、いずれにしてもステロタイプの弊を免れないですかね。

あとから振り返ることでしか理解できない

ジムのパーソナルトレーニングで、ベンチプレスのバーを強く握らないようアドバイスされました。強く握ると、手首周りにばかり力が入って身体全体で押せなくなるのだそうです。バーは手のひらで支えるだけ、くらいの意識でやってくださいと。

ラットプルダウンでもバーに指を引っ掛けておいて引くだけ、最後にぐっと握って胸を突き出す感じにするとより力が入るし、訓練としても効果的だと言われました。動いているときは軽くにぎり、最後だけ力を込めるというのは、いま練習している薙刀の扱い方にも共通していて興味深いと思いました。

ですが、より興味深いと思ったのは、これまでトレーナーさんにそういう指摘をされたことはなく、いまこの段階になって初めてそういう指摘をされるようになったという点です。

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https://www.irasutoya.com/2014/07/blog-post_3319.html

ベンチプレスはここのところ75kgが上がったり上がらなかったりで停滞しています。最初の頃はとにかく腕や胸の力で押すことしかできませんでしたが、続けているうちにお腹を使えるようになり、背中を使えるようになり、お尻を、脚を……と全身を使って押せるようになってきました。

要するに全身を効果的に連動させないと、ある程度以上のウェイトは上がらない……とまあ文字にすればとてもシンプルなのですが、なかなかに奥が深いものなのです。そしていま、バーを強く握らないという要素が加わった。でも最初からそれらすべてのポイント(腕や胸だけでなく、お腹を、背中を、お尻を、脚を、手のひらを……などなど)を告げられたとしてもたぶん理解も実行もできなかったはずです。

課題を見つけ(というかトレーナーさんに指摘され)、それを克服すると次なる課題が立ち上がるのを繰り返すということ、そしてそれは最初から網羅的に理解できるものではなく、訓練を積み重ねたあとから振り返ることでしか理解できない性質のものだということ。これは筋トレに限らず、語学でも楽器演奏でもあらゆる身体技術の習得に共通する道筋なのでしょう。

その意味では、手っ取り早く最重要のポイントだけ教わるという「戦略」が、実はあまり奏功しないとも言えるかもしれません。どんな身体技術も、最初は無益とも思えそうな基礎的な動きばかり繰り返して練習させられるもので、それを旧態依然とした権威主義、あるいは非科学的な盲信だと切って捨てる向きはけっこういます。でもそこにはある程度繰り返して身体を慣らさないと分かってこない何かがあるようなのです。

そしてまた「達人」の方々がおっしゃる「極意」のようなものも、こうした過程を経て極意に達した方にとっては真理であっても、初学者には理解できないばかりでなく害でさえあるかもしれません。結局は、ひとりひとりが自ら何度も試みるなかで、ひとりひとり異なる過程を経て上達していくしかないんでしょう。筋トレや語学を人と比べることに何の意味もない理由はここにもあります。

優れたトレーナーというのは、そうしたひとりひとり異なる過程があるということを理解していて、学ぶ人を観察しながらその時々で一番必要だと思われるアドバイスを的確に言語化して伝えることができる人なのでしょう。……自分も教える仕事をしていますが、そこまでできているかと問われると、かなり心許ないです。

ネイティブのようにはなれないけれど

私は中国語が流暢ではありません。発音が死活的に重要な言語であるのに、その発音もあまり美しいとはいえません。話すことはできますし、仕事でも使っていますが、「ネイティブ」と呼ばれる母語話者からすれば、すぐに「ああ、どこか外国の人ですね」と分かってしまうようなレベルです*1

それでも以前は「ネイティブと見紛うような中国語」を目指していました。中国語は使われている地域も広く、したがって英語同様にとてもグローバルな言語で、そのために発音や語彙にも地域によって特色があります。ですから、どれを基準に見立てて「ネイティブ」とか「標準」と呼ぶのかはとても難しいのですが、とにかく子供の頃から中国語を話している人のような中国語を話せたらいいなと思って、必死に練習していました。

仕事をしていると「標準」と呼ばれている中国語から少々離れている地域の中国人からは「私たちよりよっぽど上手いですよ」と言われることがあります。そのときはとてもうれしく、ありがたく思うのですが、後から考えればそれは中国語を話してくれる外国人に対するリップサービスに過ぎないと思います。「中国語がお上手ですね」と言われているうちはまだまだ……と、よく言いますよね。

ともあれ、ずいぶん長い間中国語と格闘して、けっきょく私は「ネイティブのようにはなれない」という諦めに達しました。いえ、もちろん非母語話者すべてがネイティブのようになれないというわけではありません。私の存じ上げている少なからぬ中国語非母語話者の方々には、お世辞抜きに「ネイティブと見紛う」ような中国語を話される方がいます。

だからこれはもう、自分の努力不足+才能のなさを嘆くしかありません。でもその一方で、けっこう負けず嫌いな私は、形でダメなら内容で勝負だとばかりに、中国語で話す中身の方だけでもできるだけ豊かにしようと考えました。それは仕事をするなかで母語の種類に関わらず、非常に流暢に聞こえるけれども中身は薄い方(失礼)とか、いわゆる「言語明瞭意味不明」な話し方をする方(またまた失礼)に少なからず出くわしてきたからです。いくら外語が「ペラペラ」であっても、中身も「ペラペラ」であっては意味がない、そう思うようになったのです。

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https://www.irasutoya.com/2015/11/blog-post_578.html

ところで昨日ネットで見つけた、宣伝会議オンラインの「アドタイ」にこんな記事が載っていました。大谷翔平氏がインタビューや記者会見などの際に英語ではなく日本語で話し、常に通訳者を介してコミュニケーションを行っていることに関する記事です。

www.advertimes.com

この記事には「外国語アクセントの英語は、ある意味その人のアイデンティティだ」という、英語を中国語に置き換えて読めばとても励まされる思いがする一節もあるのですが、より共感したのは「スピーチを聞く側の負荷を減らす」という部分です。

通常の日本でのプレスカンファレンスでさえ、スピーチを含め残念なプレゼンスの方々が決して少なくない。日本語でさえそうなのに、英語で行うとなったら、ちょっと英語が喋れるくらいの人の場合、少なく見積もっても通常の3〜5倍くらいの労力と時間を費やす覚悟は必要だ。それが捻出できないのであれば、舞台は海外であったとしても早期に英語を諦め、優秀な同時通訳者を探し、喋るのは日本語だけれど非言語部分で表現力豊かなスピーチやプレゼンを目指すことが、相手に伝わるグローバル・コミュニケーションとなる。相手がメッセージを受け取る際の負荷を極小にする、それが重要なのだ。

同感です。でも実際には、たとえ拙い外語であれ「誠意があれば伝わる」と考える方はけっこう多いようです。それはそれで「その意気やよし」ではあるのですが、やはりビジネスや政治などのフォーマルな場所ではやはり蛮勇(よくない意味での)と言わざるを得ません。英語はもちろん、中国語でも例えば大手通信社や新聞社などの記者さんがそういう蛮勇をふるって微苦笑を買う(逆に素晴らしい言葉の遣い手もいますが)シーンを、これまでに何度も見てきました。

qianchong.hatenablog.com

曲がりなりにも通訳者として稼働してきたものの、中国語が流暢だとはとても胸を張れない自分が、その自分を棚に上げてひとさまをあげつらうのはやめておきましょう。いまの私ができるのは、引き続き言語を使ってコミュニケーションを行う、その中身を充実させるべく学んでいくこと、そして、拙いながらも少なくとも「その人のアイデンティティ」が感じられると思ってもらえるくらいには中国語のブラッシュアップも怠らないことではないか、そう思っています。

*1:ここで言う「中国語」とは、いわゆる“普通話”、北京語あるいは台湾華語などと呼ばれる言語のことです。

カリフラワーのおいしさに開眼する

勤務先の学校で学んでいるとある台湾人留学生、昨年の春休みに帰省したものの、その後コロナ禍が急拡大して日本に再入国できなくなり、そのまま一年間休学という形で台湾にとどまっていました。その留学生が今年の春にようやく復学できたのですが、一年前に比べてずいぶんとスリムになっていました。

その理由を聞いてみたら、案の定ダイエットをしていたとのこと。お米の代わりにカリフラワーなど食べていたそうです。そういえば、「カリフラワーライス」というものがあるんですよね(例えば、これ)。

低糖質ということで私も興味はあるのですが、正直に申し上げてあまりおいしそうじゃないなと思っていました。そもそも以前は、カリフラワーってそんなに好んで食べる野菜じゃないなと、スーパーでもあまり手に取らなかったのです。ブロッコリーにくらべるとそんなにお手頃価格でもないですよね、カリフラワーって。

それがある本を読んでかなり印象が変わりました。それが土屋敦氏の『このレシピがすごい!』です。この本はさまざまな料理研究家と、その著書(料理本)を紹介し、その料理本のなかでもイチオシと言えるような「珠玉のレシピ」をやや偏執狂的な文体(褒め言葉)でご自身の体験と絡めて語るものなのですが、その一節、米沢亜衣(細川亜衣)氏の「豚のカリフラワー煮」に衝撃を受けました。

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このレシピがすごい! (扶桑社新書)

この料理は豚肩ロースのかたまり肉を表面だけ焼き、カリフラワーとニンニクを加えてカリフラワーが煮崩れるまで煮込み、あたかも離乳食を作る感じでつぶした「とろとろカリフラワーソース」とともに豚肉を食べるというものです。もう何度も作っていますが、この料理におけるカリフラワーのおいしさには驚嘆せざるを得ません。もちろん風味は豚の脂やニンニクにも負うところ大とはいえ、カリフラワーの味の奥深さはこの料理で初めて知りました。土屋氏は「こころと身体の滋養となるような優しくてたくましい料理である」と書かれています。

この料理が載っている『イタリア料理の本』を皮切りに、細川亜衣氏の料理本をいくつか買っては読み、そのうちの料理もずいぶんと試してきました。私は氏のレシピの極端なまでの「ミニマルさ」にとても惹かれていたのですが、その氏のレシピの本質を「引き算の料理」と喝破されている本を、最近書店で偶然見つけて読みました。それが三浦哲哉氏の『食べたくなる本』です。

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食べたくなる本

こちらは食に関する哲学的な思考を収めた一冊です。とはいえ語り口はとても軽快で(こんな言い方は少々失礼かもしれませんが)若々しい感覚にあふれています。料理に関するエッセイ、それも哲学的なそれともなれば、いささかパターナリズムの香りが予想されて私などつい身構えてしまいますが、この本に関してはそういう心配はまったく必要ありません。まさに書名の通り、一読「食べたくなる」なのです。

この本にも一部に料理本研究や作家(料理研究家)論が収められていて、そのうちのお一人がやはり細川亜衣氏でした。しかもこれまた氏のレシピ「カリフラワーのピュレ」が取り上げられているのです。これはまだ作ってみてはいないのですが、もう絶対においしいに決まってる、と思わせるものがあります。細川氏と氏の料理、そして氏の料理本を論じる三浦氏の文章もさることながら、そこに引用された細川氏の文章にも「やられる」のでした。

カリフラワーをくたくたにゆでて、その中に米を一握り入れて煮る。味つけは塩と、器に盛ってからかけるオリーブオイルだけ。煮くずれたカリフラワーと、ほんのり芯の残った米の食感の心地よさは、野菜にはしっかりと火を入れてとろけるような甘みを出し、パスタや米は芯を残して軽快な舌触りを楽しむ、イタリア料理の心意気を私に教えてくれた。

おおお……おいしそう。てなわけで、この料理が載った細川氏のデビュー作『私のイタリア料理』もAmazonマーケットプレイスでけっこうな値段になっていたのを買ってしまいましたよ。

三浦哲哉氏のこの『食べたくなる本』には、ほかにも五感を刺激されるような文章がたくさん収められています。料理に関する文章はかなり読んできましたけど、これは座右の愛読書になりそうな予感がします。ふらっと立ち寄った書店で偶然こういう本を見つけることができるから、「リアルな」書店はやはり残っていてほしいなあと改めて思うのでした。細川氏の旧作はAmazonで買ってしまいましたけど。