インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

席を譲られました

昨日、仕事の帰りに電車に乗っていたら、高校生くらいとおぼしきお兄さんに席を譲られました。次の駅で降りる予定だったので「ありがとうございます。大丈夫です」と言ったのですが、とても新鮮な体験でした。だって、生まれて初めて電車で席を譲られたんですから。いやあ、ついに来ましたか。

昨日は職場から書籍をたくさん持って帰るために両手に大荷物を持っていましたし、加えて折からの雨で持参していた傘を杖のようについていました。さらに私は髪を染めていないので紛う方なきグレイヘアー(白髪)ですし、マスクで顔の造作もよくわかりません。それで彼にはとってもくたびれたお年寄りに見えたんでしょうね。いや、実際にくたびれていたんですけど。

次の駅で降りるとしても、ありがたく座らせてもらえばよかったかなと後からちょっと反省しました。高校生の彼だってその方がうれしかったでしょうに。次に席を譲られることがあったら、ぜひそうしたいものです。

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https://www.irasutoya.com/2013/11/blog-post_4923.html

Amazonの注文履歴を振り返る

ジョシュア・ベッカー氏の『より少ない生き方』を読んでいたら、Amazonの注文履歴を確かめるという話が載っていました。

アマゾンの注文履歴を見て愕然としたことが、オンガロ夫妻にとって自分を知る大きなきっかけになった。共働きで子供のいない夫婦が、やりたいことがあってもお金が足りないためにあきらめていたのは、つまらないものに散在していたからだ。
2人とも、数日おきにネットで何かしら買っていた。(102ページ)

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より少ない生き方 ものを手放して豊かになる

まるで自分自身ことを書かれているかのように感じました。それで私もAmazonの注文履歴を確かめてみることにしました。領収書が必要なときや予約注文品の配達予定日を確認するとき以外はほとんど見ることもないページです。なんと、Amazonには私のこれまでの購入履歴がすべて残されていました。2002年からです!

じっくりと眺めていると「ああ、確かにこんな本やこんなものを買ったなあ」とかなり懐かしく感じることしきり。でもそれを上回って感じたのは、「ずいぶん無駄な出費をしてきたなあ」ということです。私は基本的に本にはあまりお金を出し惜しみしないようにしていますが、それでも「どうしてこの本を買ったのだろう」と思うような本が少なくありません。

それらはすべて古本屋さんに売ってしまっていますが、購入履歴を眺めながらなぜその本を買ったのかを思い出してみると……ネットで、とりわけSNSで宣伝ないしはお勧めされていて、つい「ポチっ」と買ってしまったものがほとんどでした。

本ならまだしも、それ以外の様々な品物にも、いまとなっては完全に浪費だったと思えるようなものがあれこれとありました。これもまたネットで、SNSでたまたま接した情報の熱に浮かされるようにして購入したものたちでした。ジョシュア・ベッカー氏はこう言っています。「一つひとつの金額はたいしたことがなく、それに買い物をすると、ドーパミンが分泌されてその瞬間は気分がよくなる」。

確かにその通りです。こうした事実を突きつけられるにつけ、やはりネットやSNSの「注意経済」には文字通り注意しなければと思うのですが、ジョシュア・ベッカー氏は容赦なくこうたたみかけます。

しかし、外側の影響のせいだけにしているようでは、自己分析はまだまだ不十分だ。
残念ながら、外側の責任よりも、むしろ自分の責任の彭が大きいのだ。
私たちが買うのは、誰かにムリヤリ買わされたからではない。買いすぎるのも、ものをため込み過ぎるのも、すべて自分で決めたことだ。(中略)まずは自分の内面を見つめるところから始めよう。

ぐぬぬ……。

かつて家計の無駄な出費を可視化するために、すべてのレシートや領収書を取っておいて、月末に項目別に整理して合計金額を出し、それが自分の収入のうちどれくらいを占めているかを確かめるというのをやったことがあります。それで私はずいぶん出費を抑えることができた(例えばスターバックスなどのコーヒーショップをほとんど利用しなくなりました)のですが、これはけっこう面倒な作業なので続きませんでした。

でもAmazonなどネットショッピングの購入履歴を閲覧するのはとても簡単で、なおかつAmazonの場合は画像も載っているので、よりどんなものを買ったのかがイメージしやすく、自分のお金の使い方を振り返るのに最適だと思いました。

フィンランド語 143 …口語ことはじめ

二冊目の教科書の最後に、フィンランド語の口語に関する初歩的な解説が載っていました。これまで延々文法を学んできて、最後に「でも実際に話されるときにはまた別の形があるんですよね」と奈落の底に突き落とすような感じ、嫌いじゃないです。人間の話す言葉ですから、こうでなくてはいけません(でも内心ショックが大きい)。

かつて中国に留学したときも、最初は「教科書で学んだのとかなり違う! 聴き取れない!」と焦ったものでした。ただ中国語のそれは単にネイティブスピーカーが速くしゃべっていて、教科書や教科書についている音声のようにハッキリクッキリ発音してくれないからという側面が大きかったように思いますが、フィンランド語の場合は口語バージョンになるとかなり形が変わるものもあるようです。

まず、人称代名詞に関していくつかの例が載っていました。属格・分格・所格(接格)の口語バージョンです。括弧内はこれまでに学んだスタンダードな言い方。

属格 分格 所格
一人称単数 mun(minun) mua(minua) minulla(mulla)
二人称単数 sun(sinun) sua(sinua) sinulla(sulla)
三人称単数 hänen(sen) häntä(sitä) hänellä(sillä)
一人称複数 meidän meitä meillä
二人称複数 teidän teitä teillä
三人称複数 niiden(heidän) niitä(heitä) niillä(heillä)

一人称と二人称の単数は口語になると“in”が落ちるんですね。逆に一人称と二人称の複数は変わらず。いちばん混乱しそうなのが三人称の単数と複数です。彼/彼女、彼ら/彼女らの形なのに、“se(それ)”や“ne(それら)”の格変化と同じになっちゃうんですね。まあこれらは自分では言わなくても,相手が言ったときにその文脈で判断できるようにならなければなりません。

先生によるとこの表では変化していない一人称と二人称の複数も,人によっては“meidän”が“meiän”、“teidän”が“teiän”のようになるそうです。総じて口語では“d”の音が落ちやすいということでしょうか。数字の“kahdeksän(8)”も“kaheksän”、“yhdeksan(9)”も“yheksan”と言われたり、“lähdetään(出発しましょう)”も“lähetään”、“odota(待て)”も“oota”などと言われると。確かに“d”を外した方がスムーズに発音できそうです。言葉の経済性というやつですね。

また人称代名詞と動詞の組み合わせでも、口語では劇的に変化が起こります。

人称代名詞 olla(いる・ある) mennä (行く) tulla(来る)
mä(minä) oon(olen) meen(menen) tuun(tulen)
sä(sinä) oot(olet) meet(menet) tuut(tulet)
se(hän) on menee tulee
me ollaan(olemme) mennään(menemme) tullaan(tulemme)
te ootte(olette) meette(menette) tuutte(tulette)
ne(he) on(ovat) menee(menevät) tulee(tulevät)

三人称単数は変化がありませんが、三人称複数の変化が半端ありません。変化というか、三人称単数と同じ形になっています。これらは例えば現在完了形でも口語の形があって“olen sanonut”が“oon sanonu”になったりするとのこと。これまで必死に覚えてきた過去分詞まであっさり変わってしまうのですから、さすがは「悪魔の言語」です。

というわけで、今まで学んできた標準的な(?)文章も口語ではこうなることが多いそうです。

Minä rakastan sinua. → Mä rakastan sua.
私はあなたを愛しています。
Minulla on kissa. → Mulla on kissa.
私は猫を飼っています。

これらは口語なので、こうしてブログの文章に書いていること自体が矛盾していますが、例えばスマートフォンのチャットなどで会話するときなどには書かれることもあるそうです。またもっとも標準的なフィンランド語を話すと言われているユヴァスキュラ圏の人々は、比較的こうした省略なり変化なりを行わず、「教科書通り」のフィンランド語で話しているのだとか。

ともあれ二冊の教科書を学び追えて基本的な文法事項は出そろった今後は、いろいろな音声や映像を視聴して、それらを聴き取り、口語表現にも慣れて行く必要がありそうです。引き続き精進いたします。

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お酒をめぐる問題に対するスタンス

お酒を飲まなくなってついに100日を超えました。日数を覚えているのは習慣化するために毎日記録をつけているからですが、最近ではその記録を忘れてしまっても飲みたいという気持ちが起こらなくなるまでになりました。もう完全に習慣化できたと思うので記録はやめてもいいんですけど、まあいちおうの「保険」ということでつけ続けています。

というか、私の場合は「ソバーキュリアス(シラフでいることへの興味)」なので、別に今夜飲んでもかまわないのです。そして明日からまた飲まなくなってもいい。いつでも飲めるけれども、あえて飲まない、とりあえずいまは飲まないでいる方が心地よいというスタンスなので、「断酒」とか「禁酒」といったような字面から連想されるような悲壮感や「頑張ってる感」はまったくありません。

こういう「ソバーキュリアス」のスタンスはとてもシンプルかつ前向きで自分好みなのですが、周囲の方々の反応を見ていると、ことお酒に関しては実にいろいろな立場の人がいて、「飲んでも飲まなくてもいい」などと腑抜けたことを言っていると怒られそうな雰囲気があるというのも何となくわかってきました。それだけ飲酒問題は複雑なのですね。

例えばお酒に関してはアルコール依存症に苦しむ方々や、そこからの脱却を目指す方々、またそれを支援されている方々などがいます。これはこと命に関わるだけにそう軽々に語れません。私などその知識も薄いのでなおさらです。また体質的にアルコールを受け付けない方々をめぐる問題もあります。いわゆる「アルハラ」もここに関係していて、これも人権に関わる非常に重い問題を抱えています。

私が明るく「ソバーキュリアス♡」などとSNSでつぶやいたりブログで書いたりしていて、実際にどなたかにたしなめられたわけではありません。でもいくつかの反応を見るにつけ、あるいはネット上での議論に接するにつけ、ひょっとするとお酒に関する問題は自分の想像以上に深く広く、そういうところにもそれなりに配慮した上で発言すべきなのではないかと思ったのです。発言といっても私など何の社会的影響力もありませんが、それでもSNSやブログだってひとつの社会。そこで何かを発言ないしは発信するときにはそれなりの責任が伴います。

お酒をめぐる問題の深刻さ、大切さはじゅうぶんに尊重しながらも、自分は自分なりのソバーキュリアスを目指したい。そう考えました。この件、またいろいろと考えた上でブログに書いてみたいと思っています。

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https://www.irasutoya.com/2015/06/blog-post_52.html

日本で初めて(たぶん)のソバーキュリアス専門書店

今年の4月から「棚主(たなぬし)」として利用させていただいている、東急世田谷線松陰神社前駅近くの「100人の本屋さん」。売り上げより維持費のほうが上回っていてほとんど道楽のようになっていますが、ほかの「本屋さん(本棚)」もどんどん増えて充実してきて、なかなか楽しい場所になっています。

これまで旅や語学に関する本ばかり扱ってきたのですが、最近思い立って「ソバーキュリアス(Sober Curious)」や下戸に関する本を紹介したらどうかなとリニューアルしてみました。たぶん、日本で初めてのソバーキュリアス専門書店(書店と称するのはおこがましいですが)です。

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自分の持っている本のほかに、ネットで下戸に関する古本を渉猟して集めたのですが、ここに並べたもの以外にもかなりたくさんあります。でも先日も書きましたが、「下戸」というと、なんとなくいじけたような形見の狭いようなイメージ(もちろんそれは理不尽なイメージですが)の一方で、「ソバーキュリアス」というどちらかというと前向きでポジティブな感じがします。そしてそういう本はまだまだ少ないみたい。でもこれからきっとたくさん出てくると思います。

お酒を飲める人も飲めない人も、そして飲めるけど飲まない人も、みんなが楽しめる社会になっていけばいいなというささやかな願いを込めて。さて、買ってくださる方はいるでしょうか。

フィンランド語 142 …日文芬訳の練習・その58

中国人留学生を観察していると、日本語の長音や促音が苦手なことに気づきます。中国語にはそのような音がないので、例えば「コピー」を「コピ」、「切手」を「きて」と話したり書いたりします。私は以前フィンランド人と話したときに、何人かから「発音がいいですね」と言われました。もちろんお世辞が99%でしょうけど、私が日本語の長音や促音に慣れているからかもしれないと思いました。


Tarkastellessani kiinalaisia opiskelijoita huomasin, että heillä on vaikeuksia japaninkielen kaksoiskonsonanttien tai pitkien vokaalien kanssa. Kiinankielessä ei ole tällaiset ääntämiset, joten sanonevat tai kirjoittanevat esimerkiksi “ko-pi” ja “ki-te” vahingossa “kopii (kopio)” ja “kitte (postimerkki)” sijaan. Jutellessani suomalaisien kanssa aikoinaan, pari ihmisia sanoivat minulle, että minun ääntämisiä ovat suhteellisia hyviä. Tietysti se olisi 99 prosenttisesti imartelua, mutta luulen sen johtuvan siitä, että olen tottunut puhumaan japaninkielellä kaksoiskonsonantteja tai pitkiä vokaaleita.


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消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神

資本主義と、これまでの資本主義が大いに寄りかかってきた大量生産大量消費の行き詰まりを見据えて、「脱資本主義の精神」をミニマリズムに求めてみるという野心的な一冊です。マックス・ヴェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を本歌取りしたような書名からは一見難解な印象を受けますが、現代に生きる私たちがその忙しい日常に忙殺されながらもぼんやりと感じている「いまのこの消費社会ははたしてこのままでいいんだろうか」という不安に、一定の解と展望を与えようとする存在としてのミニマリズム(なかんずく消費ミニマリズム)を論じています。個人的にはとても心に刺さる一冊でした。

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消費ミニマリズムの倫理と脱資本主義の精神 (筑摩選書)

というのも、私自身がきわめてミニマリズムに親和性の高い生活様式や思考方法をこれまでずっと志向してきたのだなあと、この本を読んで自己認識を新たにしたからです。この本では消費に関わるミニマリズムについて、先駆者から現代の実践者まで実にたくさんの「ミニマリスト」がまるで列伝のように登場し、その言動や著書が紹介され、分析されるのですが、私はここに出てきた方々の著書の大半を読んだことがあるか、あるいは現在も座右の書にしていることを発見したのでした。

そして定期的にまるで発作のようにミニマリズムに共鳴して、いわゆる「断捨離」や身辺の整理ないしはリセットを繰り返してきました。キャッシュレスやペーパーレスにひかれるのも同じような心性だと思います。ときにそれが行き過ぎて周囲の人々との摩擦の原因になったことさえありますが、それでも懲りずにそこに(ミニマリズムに)なにがしかの価値を見いだし志向してきたのです。この本にはそれがなぜなのかについての一定の理論的な裏付けが述べられていて、その点でも非常に腑に落ちる一冊でした。ミニマリズムの実践者による「ライフハック」のような本はあまた世に問われていて、私はそういう本を読むのも大好きですが(なにせ「大半」の類書を読み漁ってきましたから)、その背景にある思想や歴史を大きな視点で分析するこうした書籍もまた読んでいて本当に楽しいです。

しかもこれは消費ミニマリズムという点では本質的ではありませんが、おなじ「ミニマリズムくくり」で現代美術や現代音楽におけるミニマリズムについても触れられています。私はこれについても学生の頃からとても心をひかれていて、例えばドナルド・ジャッドの彫刻や、フランク・ステラマーク・ロスコの絵画や、スティーブ・ライヒの音楽などが大好きでした(今でも好きです)。

本を読みながら「この本はまるで自分に向かって語りかけているかのようだ」と思えることは、小説などではたまにありますが、こうした学術書でそれを感じたのは初めての体験でした。この本を読みながら、またまた人生で何度目かの大きな断捨離の波が押し寄せてきてしまいました。折しも年末の大掃除シーズン間近です。家族や同僚などとの軋轢を引き起こさないように注意しながら、それでもたぶんまた大胆に「やっちゃう」と思います。

フィンランド語 141 …第五不定詞

新しい文法事項として「第五不定詞」というのが出てきました。これは動詞の語幹に“mAisillA”がついたものに、さらに所有接尾辞(ni, si, An, mme, nne, An)がついたもので、「〜しそうになる」「〜しかける」「まさに〜しようとしている」といったような意味を表すものだそうです。例えば“nukkua(眠る)”なら……

nukkua → nukkuvat → nukkumaisilla + ni → nukkumaisillani
Olin nukkumaisillani. 私はまさに眠ろうとしているところだった。

……となるわけです。これでフィンランド語の不定詞すべてが出そろったことになります。先生からは、これまでに習った不定詞の「棚卸し」をしておいてくださいと言われました。“syödä(食べる)”を使ってやってみます。

第一不定 短形 syödä 食べる 動詞の原形
長形 syödäkseni 私が食べるために  
第二不定 内格 syödessa 食べているときに 能動態・受動態あり
具格 syöden 〜しながら食べる 能動態・受動態あり
第三不定詞 内格 syömässä 進行形/食べに〜する  
出格 syömästä 食べてから〜する/食べるのを〜する  
入格 syömään 食べるために/食べることを/食べることに対して  
接格 syömällä 食べることで  
欠格 syömättä 食べることなく  
第四不定詞 動名詞 syöminen 食べること 30格に変化
第五不定 syömäisilläni 私がまさに食べようとしている  

……と、こんな感じでいいのかしら。

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放っておくとすぐに体重が減る

ほぼ毎日ジムに通っているので体調はとても良いのですが、先日体重を測ったら少し減っていました。けっこう身体を動かしているので、ちょっと食べないでいるとすぐに体重が落ちてしまうのです。そういえば先週はかなり忙しくて、毎日夜遅く帰っていたのでろくに夕食も作らず、ありあわせのもので済ませてしまっていたのでした。食生活の乱れはすぐに体重に現れます。

とはいえ、歳をとってもうそんなにたくさん食べられなくなりました。昔はご飯だってパンだってパスタだって本当にたくさん食べられたのに、いまでは妻も私も本当に少ない量でお腹いっぱいになってしまいます。しかも私はせっかく筋トレもしているんだからと少し糖質を制限してきたので、なおさら炭水化物の摂取量が減っています。米櫃のお米の減りの遅いことといったら。

しかし、ジムのトレーナーさんに相談したら「やはりしっかり糖質を取らないとだめですよ」と注意されました。運動をせずに「メタボ」の傾向があるならまだしも、私の場合はかなり「がっつり」と筋トレをしているので、そのためにはエネルギーのみなもとになる糖質もそれなりの量が必要なのだと。

糖質が足りないと、身体は自分の蛋白質をエネルギーに変えようと筋肉を消費するのだそうです。これではいくら「蛋活(蛋白質を積極的に取る食生活)」していても、筋肥大にはつながらないと。だからエネルギーの部分はきちんと糖質をとることで補ってあげて、その上でトレーニングして蛋白質もしっかり取れば、そのぶん太る、というか身体を大きくすることができますよと。なるほど。

正直なトレーナーさんは「とはいえ、年齢も年齢ですから、若い人のように劇的に身体が大きくなるというのは難しいですけど」と言っていました。それでも冗談交じりに「まあ牛丼屋さんだったら基本2丼、つけ麺屋さんだったら大盛りや特盛りデフォルトでお願いします」だって。……それは私にはもうちょっと難しそうですが、少なくとももう少しきちんとご飯やパンやパスタなどの炭水化物も摂ろうと思いました。

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https://www.irasutoya.com/2014/12/blog-post_176.html

フィンランド語 140 …受動態可能法

新しい文法事項として「受動態可能法」というのが出てきました。「おそらく〜されるだろう」という意味を動詞ひとつで表してしまえるものです。これまでに様々な動詞の形が出てきましたが、その多くが受動態の過去形から作るのでした。つまり、まず動詞の一人称単数形を作り、その印“n”を“tAAn”に変え、さらに“ttiin”にする。その語尾“iin”を様々に変えて様々な意味を表します。フィンランド語は語尾の多様な変化で細かいことを言おうとする言語なんですね。

動詞の原形 nukkua(眠る)
①一人称単数形 nukun
②受動態現在形 nukutaan
③受動態過去形 nukuttiin →ここまで作ってから語尾を変化
④受動態過去分詞 nukuttu
⑤受動態現在分詞 nukuttava
⑥受動態条件法現在形 nukuttaisiin
⑦受動態第二不定詞内格 nukuttaessa
⑧受動態可能法現在形 nukuttaneen

受動態可能法「おそらく〜されるだろう」というのはどういうときに使うんだろう、と思いますが、参考書として使っている『フィンランド語文法ハンドブック』にはこんな例文が載っていました。

Ymmärrettäneen, mitä pääministeri tarkoittaa.
首相が何を意図しているのか、理解されるだろう。

ちなみに否定は“ei”と“en”を取った動詞で表されます。これも『フィンランド語文法ハンドブック』から。

Presidentin vastustusta ei odotettane.
大統領の反対はおそらく予期されていない。

受動態可能法には完了形もあって、これは可能法現在形で出てきた“lienee”と受動態過去分詞を使います。

受動態可能法現在形 nukuttaneen
受動態可能法完了時制 lienee nukuttu
受動態可能法完了時制の否定 ei liene nukuttu

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下戸の夜

お酒を飲まなくなったので、最近は「下戸」に関する本を探しては片っ端から読んでいます。探して読んでみて初めて分かりましたが、世の中の下戸と呼ばれる方々は、「上戸」つまりお酒をたしなむ人々に対していろいろと複雑な感情をお持ちのようです。

お酒が飲めることが前提の会社でのつきあい、酔っ払いの扱いについての徒労感、飲み会におけるいわゆるソフトドリンクの選択肢の少なさ、飲食店(特に夜)における下戸の肩身の狭さ、体質的にアルコールが分解できないものの本当は飲酒に憧れている人たち……そうやっていろいろな下戸の方々のお気持ちを聞いていると、確かにこの日本社会は下戸に対してけっこう冷ややかなんだなあということが理解されてきます。

私はつい最近まで大酒飲みで、いまでも特に「お酒が飲めない」という意味での下戸ではないので、そういう下戸の方々の気持ちや感情にまったく無頓着でした。きっと私もこれまで、多くのみなさまに疎まれたり眉をひそめられたりするような行動をあまたやらかしてきたんじゃないかなあと思います。

そんなこんなの下戸の「生態」を様々な書き手によって描き出す一冊、『下戸の夜』を読みました。エッセイ以外にも、写真あり、映画評あり、ブックガイドあり、お店紹介ありで、雑誌やムックのような作りです。

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下戸の夜

いろいろな方が下戸の気持ちを代弁されています。そして、総じてここに漂うのは上述したような複雑な感情、ないしは悲哀というか、ややいじけたような態度です。下戸が世間から受ける理不尽な「肩身の狭さ」を笑い飛ばそうとしているんだけれども、どこかにちょっと哀愁が漂ってしまう、そんな感じ。そういえばマンガ『孤独のグルメ』の主人公・井之頭五郎も下戸で、ちょっとそんな哀愁なりニヒリズムなりが漂うキャラクターでした。

この本に寄稿されている書き手のお一人、ライター・作家の大竹聡氏は、下戸を三種類に分けています。ひとつは「本当の下戸」。体質的にアルコールを摂取できないタイプの方です。聞くところによると日本人はこのタイプが四割から五割ほどもいるそう。体質的に飲めないのに「アルハラ」で飲まされるというのは、すでに暴力ですね。

もうひとつは「少しは飲めるのに、飲めないと公言している人」。飲めるけど弱いのですぐに酔ってしまってそのあとが大変だから最初から飲めないと言うとか、大酒飲みに延々つきあわされるのはまっぴらだから下戸を装い、本当に飲みたいときは自分のペースで好きなように飲むとか、そういう「戦略的」に下戸をやっている(?)人だそうです。

そして最後に「サナギ」。これは昆虫がサナギから成虫へと変態するときにまったく違う姿になることになぞらえて「以前は下戸であった人が、あるときを境に大酒飲みに変身」というパターンだそうで。私はこういうタイプの人に出会ったことはありませんが、ともあれ下戸には「本物下戸・自称下戸・サナギ」の三種類があるというのです。

私はお酒を飲まなくなりましたが、この三種類のいずれにも当てはまりません。やっぱりここは下戸に四種類目を加えるべきでしょう。それはもちろん「ソバーキュリアス」です。ソバーキュリアスにも色々なタイプがあるようですが、私の場合は「お酒は飲めるけれども、あえて飲まない。飲まないでいる状態に興味がある」のです。

お酒をやめてしまったと知人や友人に言うと、以前の私の「ザルっぷり」を知っている人ほど「またどうして」と驚かれます。でも私自身はきわめて自然に、無理することなくこの状態になってしまいました。自分でも本当に不思議です。そしてその状態でいることに悲哀や緊張や、ましてや忍耐などがまったく存在していないというのも不思議なのです。

この『下戸の夜』は二年ほど前に出版された本ですが、本全体を見回してもここにはまだ「ソバーキュリアス」という言葉が出てきていません。それだけ私たちにとっては新しい言葉なんですね。でも先日も書きましたけど、この言葉が登場したことで、私のように大きな行動の変容が起こる方はこれからもたくさん出てくると思います。もしこの本の続編が作られるなら、ぜひ「ソバキュリアン」からの発言も載せてほしいなあと思います。

「すごみ」を感じる教科書

ほそぼそと続けているフィンランド語の学習は、とうとうほとんどの文法事項が出そろい、二冊目の教科書も終盤に近づきました。最終章の直前では、教科書の「本文」が教科書編纂者からのメッセージのような形になっていて、よくここまで頑張って学んできましたね、これでもうみなさんはフィンランド語の「免許皆伝」です……みたいなことは一切書いておらず、まだまだこれからもっと厳しい道程が続きますよ的な、ある意味「愛のある」メッセージが並んでいます。

先生によると、こういうふうに容赦ないというか、あけすけで包み隠さない物言いがとてもフィンランド人らしいんだそうです。でもまあそれは「おあいそ」や「お追従」みたいなことを言わないという気質でもあるようなのですが。個人的にはそういうの、好みです。……で、教科書の本文にはこんなことが書いてありました。

Täydellisen tai melko hyvän kielitaidon saavuttaminen vie uskomattoman paljon aikaa. Tämä tosiasia on hyväksyttävä ja jatkettava opiskelemista. Ei kannata luopua.
完璧な、あるいは非常に優れた語学能力へ到達するためには、信じられないくらいたくさんの時間がかかります。この事実を受け入れ、学び続けなければなりません。あきらめてはいけません。

この文章もそうですけど、その前後の文章も、これまでにこの二冊の教科書で学んできた文法事項が「これでもか」とてんこ盛りになって書かれています。これは明らかに編纂者が意図してそう書いているんでしょうね。中国語の教科書でも同じようなことを感じたことがありますが、こういうところが非常に心憎いというか、教科書編纂者の意気込みを感じるというか、そしてネイティブならではの「すごみ」を感じるところでもあります。

母語話者による教科書にも、それはそれでその言語を外語として学んできた経験が生かされているので素晴らしいものは多いですが、こういうネイティブの「すごみ」を感じさせる教科書に出会うと、私などは感動に近いものを感じてしまいます。この教科書は二冊目で終わりなので、次はどんな教材に移っていくのか分かりませんが、「優れた語学能力へ到達するため」にこれからもあきらめずに学んで行こうと思います。

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フィンランド語 139 …日文芬訳の練習・その57

急に寒くなってきたので、薄手のダウンジャケットを買いました。試着して購入を決めたら、店員さんに「このままのお渡しになりますが、よろしいですか」と聞かれました。「かまいません」と答えたら、店員さんはダウンジャケットをくるくると丸めてフードに押し込み、渡してくれました。私はそれをラグビーボールのように抱えて家に帰りました。環境保護のためにレジ袋の有料化が行われていますが、このお店のようにそもそも袋を使わないほうがより素敵だと思います。


Minä ostin kevyen untuvatakin, koska ilma on yhtäkkiä muuttunut kylmäksi. Sovittamisen jälkeen, kun päätin ostaa sen, myyjä kysyi minulta: “Jos Te ette välitä, antaisin sen suoraan.” Vastasin, että ei se mitään. Myyjä rullasi takin alaosan ja työnsi sen huppuun, antoi sen minulle. Pidin sitä käsivarressani kuin rugbypalloa ja palasin kotiin. On tehnyt jo nyt muoviset ostoskassit, joista tuli maksullisia ympäristönsuojelua varten. Mutta mielestäni on parempi olla käyttämättä laukkua alusta alkaenkin, kuten tämä kauppa.


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「説得的デザイン」によって「通知」されること

スマートフォンやパソコンには「通知」という機能があります。ポップアップウインドウで通知されることもありますが、私が最近気になっているのは画面上にあるアプリのアイコンに示される数字や小さな丸です。これが眼に入るや、見に行って処理しなければならない誘惑に駆られる。数字をゼロにしたい、丸をなくしたいという欲求が生まれる。こうやって「アテンション・エコノミー(注意経済・関心経済)」の虜になっていくのではないかと。

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ジェニー・オデル氏の『何もしない』ではこうした仕掛けを、デヴァンギ・ヴィヴルカー氏の論文を引用する形で「説得的デザイン(心理学の知見をもとに人の行動に変化を起こすよう意図されたデザインのこと)」と呼んでいます。

例えば「ツールバーの上の通知バッジの数字」は「やることリストのように思わせて表示させる数字を0にしたいという気持ちにさせる」、「ツールバー上の通知を知らせる赤い色」は「他人や企業のページへのクリックを誘導するために緊急性を演出する」といったぐあいです(186ページ)。

もちろんショートメッセージや電話の着信など、必要な通知もあります。でもそうした必須のもの以外、とくにSNS関係の通知をよくよく吟味してみると、そのほとんどが自分の注意や関心、そしてそれに伴う時間をどんどん奪っていく存在だということがわかります。

かつてSNSの中毒状態だった頃は、Twitterにツイートしたり、Facebookやブログに投稿したあとは、「いいね」がついていないか、リツイートされていないか気になって、ついつい見に行ってしまっていました。見に行かないまでもアイコンに数字や丸が出ていないかどうか常に気になって、何度もスマートフォンを見てしまう。

そうしてチェックした際に、タイムラインに偶然(実は偶然ではなく、かなり私自身向けにカスタマイズされているのだが)流れてきた情報に引っ張られ、ほかの記事やニュースを読み、商品に魅せられ、つい「ポチッ」と購入してしまう。こうやってアテンション・エコノミーの虜になっていたのです。

とくにSNSやニュースサイトを複数利用していると、その虜になりやすいと思いました。ローテーションを組むように、順繰りにそうしたサイトを見て回って、更新がないかを確かめずにはいられなくなるのです。なまじ複数あるだけに、何度も何度もサイト間をグルグル回ることができてしまうというわけです。

私の場合、この「更新がないかどうかつい確かめに行ってしまう」誘惑を断ち切るのは本当に容易ではありませんでした。最近になってようやくTwitterFacebookも醒めた目で見られるようになりました(ほかのSNSはすでにすべてやめてしまいました)。このブログも投稿したあと、コメントやアクセス数など一切気にしないようにしています。

「通知」の数字や丸は、それがなまじほんの小さな画面上の変化であるだけに、かえってそこに注意が引きつけられる……この「説得的デザイン」の巧妙さには、今後ますます格段の警戒が必要になるのではないでしょうか。

追記

こんなふうに「アテンション・エコノミー」の罠について書いておきながら、実は私もこの投稿でその一端を担っています。おわかりになりましたでしょうか。ひとつは、こうしてブログ記事を書くことで、記事を読んでくださる読者の方の画面に「通知」が行くであろう(その機能を利用されていれば)こと。そしてもうひとつは上掲の『何もしない』という書籍の題名に「Amazonアソシエイト」のリンクが張られていることです*1

ネットを利用している以上、結局私たちはこうして、お互いにアテンションを送り合う関係の中に生きざるを得ません。その利弊をじゅうぶんに見極めてネットとつきあう……これは現代に生きる私たちに必須のリテラシーのようなものではないかと考えています。

*1:この記事を投稿したことをTwitterのタイムラインに書き込めば、それも。だから私は最近、ブログ記事のリンクをツイートすることはやめました。

フィンランド語 138 …欠格

基本的に書き言葉にしか現れない(文章を音読している時などを除いて)「具格」「共格」と学んできて、新たに「欠格」を学びました。これで15種類(単複合わせて30種類)の格がすべて出てきたことになります。

欠格はその名の通り「~なしで」を表す格ですが、これまでに学んだ“ilman + 分格”でも同じ意味を表せるため、ほとんど使われることはないそうです。格語尾は“tta / ttä”で、これを語幹につけて作ります。

raha(お金):rahatta(お金なしに)= ilman rahaa
lupa(許可):luvatta(許可なしに)= ilman lupaa
osoite(住所):osoitteetta(住所なしに)= ilman osoitetta

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Tulin keskustaan ilman sateenvarjotta.