インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

再び言語リテラシー教育(のようなもの)の必要性について

通訳の仕事をしていると、時々とても奇妙な「言語観」を披露してくださるクライアント(お客様)に遭遇することがあります。そうした方々は、通訳業務の前に決まってこんなことをおっしゃいます。「言った通りに訳してくれればいいから」。つまり通訳(や翻訳)は、単に「一対一」の言葉の変換だと思われているわけですね。

確かに固有名詞や数字みたいなものは一対一の変換でできます。「北京」なら“Běijīng”ですし、「一月一日」なら“Yīyuè yīhào”でしょう。もちろん文脈によって「首都」や「元旦」と言い換えたりすることもあるでしょうけど。でも多くの発言は一対一の変換では訳せません。なのにそうしたクライアントは「北京と言われたら、ベイジンだっけ? そう訳すでしょ? だから私が例えば『バタ弁微開でミニフロ運転*1』って言ったら、その中国語を言ってくれるだけでいいんだよ。簡単でしょ?」とジャーゴン(業界用語)全開の発言を「言ったとおりに訳せばいい」とおっしゃるのです。

ま、ちょっとこの例は誇張していますけど、こんなふうに通訳や翻訳を捉えている方は存外多いのです。だからそういう方はまた、発言の途中で突然切って「はい、とりあえずここまで訳して」なんてこともおっしゃいます。長い発言になると訳しにくかろうと、こちらを慮って(?)くださっているのでしょうけど、言語によって統語法も違うんですから、文章を最後まで言ってくれないと訳しにくいこともあります。これも通訳は単に言葉の置き換えだと思い込んでらっしゃるからなのでしょう。そういえばどこかの政治家が日本語での発言の最後に「ワン、プリーズ」と付け加えたので、通訳者が「何ですか、それは」と確認したら、「そんなこともわからんのか。『ひとつ、よろしく』だよ」と言った……というジョークもありましたね。

今朝の東京新聞に興味深い記事が載っていました。街の看板や案内文、ウェブサイトなどに、機械翻訳の結果をそのまま使ったような奇妙な誤訳の外語(英語)が多いとして、有志が「日本の英語を考える会」を立ち上げたというニュースです。

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こうした問題はどこの国や地域でも見られることですが、私たちのこの日本に限っても、記憶に新しいあの「サカイマッスル」や、このブログでも何度も指摘してきた自治体のGoogle翻訳丸投げ問題など、枚挙にいとまがありません。

qianchong.hatenablog.com
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日本は、ほぼモノリンガルで社会を回すことができ、曲がりなりにも高等教育まで自らの母語で行うことができています。侵略や植民地支配などの結果、土着の言語以外に英語などをかなりの割合で使わなければいけなくなっている国が多い中、これは僥倖といってもいいでしょう。そうした国々では、英語などを使わねばならない現状を受け入れながらも、いかに自らの言語を守っていくかに腐心しています。でも日本にはそうした懸念がほぼありません。

いや、個人的には私、日本語の行く末をとても憂いています。それでも日本語はまだまだ世界の中では「巨大言語」です(話者が一億人以上いる言語は世界でも十個ほどしかないのです)。もちろんその巨大な言語がぎゅっとこの日本列島に圧縮されて使われているというのが特殊なのですが、それでもこの中にいれば豊かな言語生活を送ることができます。

一方で日本は「翻訳大国」だとも言われています。日本はほぼモノリンガルの社会であるがゆえに(といっても明治維新以前は、実用的なコミュニケーションに支障があるほど地方ごとの「お国言葉」は隔たっていたのだそうですが)、昔から海外の知見をせっせと翻訳して自家薬籠中の物にしてきました。なのに、なぜ一般民衆のレベルでは現代に至ってもかくも翻訳や通訳に対するナイーブというかプリミティブな考え方が改まらないのか、大きな謎です。

私見ですが、これは要するに、そも言語とは何か、母語の獲得と外語の習得はどう違うのか、言語の壁を越えるとはどういうことか、翻訳や通訳とは一体どういう営みなのか、異なる言語や文化を持つ人々とのコミュニケーションにはどんな面白さや難しさや、そして一面の恐ろしさがあるかなど、「言語リテラシー」とでもいうべき教養、あるいはそのための教育が日本に決定的に欠けているからではないかと思っています。

幼少時から外語(なかんずく、英語)教育にはこれだけ熱心だというのに、一体これはどうしたことでしょうか。私たちは外語に対するいじましいまでの憧れとコンプレックスを抱いている一方で、いささかナイーブ(うぶ)な心性を持っているんですね。日本語と外語を往還することに対して、単に言葉を置き換えればよいとか、言葉は拙くても誠意があれば通じるなどと、かなり単純で甘い考え方をしているのではないかと。もっと厳しい言い方をすれば言語を舐めているのではないかと。そんな私たちであるがゆえに、こうした珍訳・誤訳が後を絶たないのかなと思います。

外語を学ぶ前に、あるいは外語を学ぶのと並行して、こうした言語リテラシー的な知識を涵養していくことは、外語学習そのものにも有効に働くと思います。また、将来直接外語を生業としない人々にとっても、人間関係を主体的にハンドリングするためのヒントになるなど、人生の中で大きな糧になるのではないかと私は思っているのですが。

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*1:毎回使っている例ですが、これは天然ガスのプラントで働いていたときに使っていた言葉です。「バタフライ弁をほんの少しだけ開けて、最低流量(ミニマムフロー)でLNG液化天然ガス)を流すような操作をしなさい」という意味です。