インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

効率のよい語学学習?

通勤途中の書店で偶然見つけた、奈倉有里氏の『ことばの白地図を歩く』を読んでいたら、「妖怪あきらめ」という「語学学習にひそむ強敵」が出てきました。

でたぞ、語学学習にひそむ強敵、妖怪あきらめ。こいつのやっかいなところは、意外にも「なんのために」という目的意識や、「なるべく効率よく」という効率主義と相性が良く、教科書と仲良しなところだ。


ことばの白地図を歩く

なるほど、語学をやるならまずは目的をはっきりと定めて、その目的にいたる効率のよい教科書を使うというのは当たり前のような気もします。でも奈倉氏は、そういう目的意識や効率主義ーー私たちが語学をやるならそれは自明でしょと思っているものーーが逆に語学をあきらめてしまう危険性を誘発しているのではないかとおっしゃっているわけです。

実際にこの本では「あえて効率の悪い学習法をやってみる」ことをおすすめしたりしています。もっと自分の興味のおもむくままに学んでもいいのではないかと。これは私、とてもわかる気がします。なにかの言語を学ぼうと思った最初の最初って、目の前に広がる未知の世界にとてもワクワクしますよね。文字の形ひとつ、言葉の発音ひとつがどれも新鮮で。自分なりに奈倉氏のおすすめを解釈すれば、あのワクワク感をいつまでも持ち続ちながら学び続けることができたらいいのに……ということなんじゃないかと思います。

たとえば奈倉氏は、「まだぜんぜん読めないはずの難しい本を入手して、ノートに書き写す」とか、「聞き取れなさそうな音声を探して、無理に真似して発音してみる」などといった「学習法」を紹介しています。

教科書や文法書の学習法が近道なら、こうした効率の悪そうな学習法というのは、つまりはちょっとした道草や遠回りである。道草ばかり食っていてはなかなか目的地にたどりつけないけれど、道草には道草の味がある。そして妖怪あきらめは、道草を楽しむ人が大きらいだ。効率がいいと思ってやっているのに結果が出なければがっかりしてしまうし、そうなるとあきらめにつながりやすい。でも効率が悪いとわかっていてやるならすぐに結果がでなくても当然なのでがっかりする必要がない。

道草には道草の味がある。いいですねえ。当今はとかく「コスパ」とか「タイパ」という言葉がもてはやされていて、語学はとりわけそうした言葉がとびかう世界です(とくに英語は)。私も語学教育業界の末席に連なっていて、かつ自らも語学の学習者であり、気がつけばどうやって効率よく学べばいいのかをあれこれ試しています。

先日もとある作家さんが「スジの悪い努力」をやめようという文章を書かれていて、そこでは「自分の適性やキャリアの方向と努力の内容が一致している」か、その「努力が効率的に自分の技量や知識の向上につながっている」かを問えとおっしゃっていました。私は読みながら、そうだよなあ、それに比べていまの自分の努力は……となにかに追い立てられるような焦燥感を覚えていたのでした。

でもあとから少し冷静になって、自分が語学に求めていたのは本当にそんな効率だったのかと思い直しました。語学ってそもそも、ある意味で辛気臭くかつ泥臭い作業と、心折れる体験の連続であり、それが苦にならずに楽しめることこそが語学を長続きさせる大切なポイントであると分かっていたはずなのですから。

それからなぜか語学は「あとから『じわっ』としみてくる」ようなところがあって、あとから振り返ってみると非効率だったかもしれないと思えるようなやりかたで学んだことが意外に身についている、というようなことがあるんですよね。効率的かどうかの判断につねに汲々としているよりは、自分が楽しめているかどうかを判断するほうがいいんじゃないかと思いました。