インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

中国語で語ると深い

留学生の通訳クラスでは現在、訓練の一環として学生が一人ずつ交代で講演し、それをみんなで訳すという「企画」を行っています。私が担当しているのは中国語→日本語の通訳科目なので、学生が中国語で話し、ほかの学生がそれを日本語にします。テーマは「私のおすすめ本」。文芸書でも実用書でも、あるいはマンガでも構わないので、自分がこれまでに読んで感銘を受け、ぜひ人にもおすすめしたいという一冊を挙げて、その魅力を語ってもらうのです。

通訳作業は予習がとても大切ですので、各自が講演する前に予習時間も取ります。話す予定の本のタイトルや登場人物を教えてもらったり、それに関するグロッサリー(用語集)を作ったり、中にはスライド資料を作ってきて講演する人もいるので、その資料をあらかじめ読み込んだり。そのうえで、その講演をみんなで通訳するのですが、やってみるとこれが存外おもしろいのです。

なにより、留学生のみなさんの話自体がとてもおもしろい。このクラスの留学生は全員中国語圏の出身で、日本語はかなり達者なものの、まだまだ「発展途上」です。ですから普段の授業でも、日本語への訳出は苦労しています。ところが講演は母語である(広東語圏の学生にとっては第二言語ですが)中国語で行うので、みなさんのびのびと話してくれます。

しかもそれぞれに、なかなか深いことを語ってくださる。本の感想にとどまらず、自分の生き方や世の中のありようにも通じる、深い哲理を語るのです。そりゃそうですよね、みなさん立派な大人なんですから、いろいろな考えを持っていて当然です。ああ、この人はふだんこんなことを考えている人だったんだ……と、とても新鮮な気持ちで聞いているものの、同時に私は自分の中に、やや危ういものを感じながら聞いてもいます。それは、ついつい普段の日本語だけで、みなさんの人となりを「値踏み」してはいないだろうかという危惧です。

日本語の拙さとその人の知性はリンクしない

留学生を相手に授業をしている我々が常に心に留めていることは、「日本語の拙さとその人の知性はリンクしない」という点です。

当たり前すぎるくらい当たり前のことなのです。かりにその人が拙い日本語で話していたとしても、それは単に外語である日本語にまだ十分習熟していないからにすぎません。ところが、往々にしてこれが大きな誤解や予断や偏見のもとになっています。このあたりをきちんと踏まえていないと、拙い日本語を話す外国人が「頭の悪い人」みたいに見えてきてしまう。

日本語の拙い外国人にやたら横柄で高圧的な態度に出る日本人(日本語母語話者)が多いのは、このあたりの理屈がきちんと理解できていないからです。ご自身が外語を話すときのことを少しは想像してみればいいと思いますけど、世界でもかなり珍しいほどの「モノリンガル」な本邦の我々は、なかなかその点に想像がおよびません。

留学生のみなさんの、それぞれに個性あふれる講演を聞き、訳しながら、あらためてこの「危うさ」を肝に銘じなければと思っています。

qianchong.hatenablog.com

教師も試される

もうひとつ、この講演通訳の授業は私自身にとってもけっこう緊張を強いられるものです。それは、みなさんがどんなことを話すか、その詳細はその時になってみないとわからないからです。通常の授業では、教師は実はかなり楽をすることができます。なぜなら、教材のスクリプトをあらかじめ用意して、内容を確認しておくことができるから。

事前に話し手の音声が聞けて、話の中身が確認できるという通訳業務は、原則的にありえません(もしあったら、通訳者のプレッシャーは激減するでしょうね)。背景知識や語彙などの予習は十分に行うものの、基本的に「ぶっつけ本番」なのが通訳現場の宿命なのです。それが授業では、教師は事前に十分な準備ができる一方で、学生は「ぶっつけ本番」という圧倒的な差があります。

それがこの授業では、教師である私もほぼ、実際の通訳業務と同様に「ぶっつけ本番」であることに加えて、私は学生の訳出を聞き、その内容についてその都度コメントをしたり、場合によっては訳例を示したりしなければなりません。つまり「いま中国語でこんなことを言ったけど、訳出から抜けましたね」とか「その中国語はそういう理解でいいですか」などと、日本語母語話者のくせに(?)中国語母語話者の中国語理解を批評しなければならないというこの「無理筋感」。これはかなりのプレッシャーです。

でもそれがとてもいい刺激になっています。授業なのに自分の勉強になってしまうなんて「ずるい」と言われるかもしれませんけど、ときどきこういう授業をすることで、自分の中国語力を鈍らせないでおけるのではないか。そう思っているのです。