インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「立たせない」と「立たさない」

ベビーカーの取扱説明書に「幼児、子供を座面上に立たせないでください」という一文がありました。

一方こちらは食卓で使う子ども用チェアの取扱説明書。「お子様を天板以外の場所に立たさないでください」と書いてあります。

「立たせないで」と「立たさないで」。どちらが正しいのかしら、あるいはどちらも正しいのかしら……と考え始めたら分からなくなってしまいました。こういうのは文字のゲシュタルト崩壊にも似て、考えれば考えるほど混乱してきます。それで日本語の専門家に教えを請いました。まず見つけたのは「カクヨム」というサイトにあった「さ入れ言葉」に関する説明の一節です。

口調として「歩かせて」を「歩かして」、「見せて」を「見して」、「立たせないで」を「立たさないで」のように変形して言うこともありますが、基本的にこれらは文法違反です。

kakuyomu.jp
このサイトによれば、五段活用は「-aせる」と活用して「使役動詞」にできるとあります。つまり「立つ」は「立たせる」で、その否定は「立たせない」。「立たさる」という使役動詞はないので、その否定の「立たさない」も(口語で言う人はいるけれども)基本的にはナシと。なるほど〜。

さ入れ言葉」というのは、「助動詞『〜させる』『〜される』『〜させられる』において必要がないのに『さ』を入れてしまうこと」だそうです。たとえば「手伝わさせてください」とか「読まさせられました」みたいな表現ですね。この「さ入れ言葉」については、「文賢マガジン」というサイトにこんな説明がありました。

さ入れ言葉」を防ぐ簡単な方法は、以下の手順で動詞を分解して「せる/させる」を使い分けることです。動詞の「書く」を例に用いて解説します。
●手順1.まず、動詞を否定の形(~ない)にする
 書く → 書かない
●手順2.次に、「~ない」の一文字前の「母音」を確認する
 書か(ka)ない
 この場合、母音は「a(あ)」です(母音とは、a・i・u・e・oの5つを指します)。
●手順3.母音が「a」か「それ以外」かによって、「せる」か「させる」かが決まる
 A.母音が「a」の場合は「せる」を使う
 B.母音が「a」以外の「i・u・e・o」の場合は「させる」を使う
●手順4.以上を踏まえると、「書く」はAグループとなり、「せる」を使うのが正しい
 【OK】書かせる【NG】書かさせる
簡単な覚え方として、一文字前の母音が「a(あ)」のときは「せる」。「ない」に変換することとあわせて、「ないとaseru(焦る)」と覚えておくとよいでしょう。

magazine.bun-ken.net
つまり「立つ」だったら「立たない」となり、「〜ない」の一文字前の母音は「a(あ)」なので「立たせる」。その否定は上述したように「立たせない」ですし、「立たさせる」や「立たさせない」は「さ入れ言葉」になるんですね。おおむねスッキリといたしました。ありがとうございます。

……と、この解説の最後にあった「焦る(あせる)」でまたゲシュタルト崩壊が始まってしまいました。「焦らす(じらす)」だったらどうなるのかしらと。「立たさない」はダメだけど「焦らさない(じらさない)」は言えそうです。越路吹雪の「じらさないで」という歌もありますし(古い)、「焦らせない(じらせない)」は逆に言えなさそう(これも「さ入れ言葉」ですか)。


https://www.universal-music.co.jp/koshiji-fubuki/products/toct-11131/

これについては上掲の「カクヨム」にこんな説明がありました。

「五段活用」では「さ行五段活用」だけが「さ」が必要(というより活用で発生しますの)で、他はすべて「さ」をとりません。

なるほど、「焦らす(じらす)」は「さ行五段活用」で「さ(そ)・し・す・す・せ・せ」、つまり「じらさない/じらそう/じらします/じらした/じらす/じらすこと/じらせば/じらせ」なので、こちらは「焦らさない(じらさない)」なんですね。

……でも、もし同じ文字面で読み方の違う「焦らす(あせらす)」だったら? いやいや、これは「焦らす(あせらす)」じゃなくて「焦らせる(あせらせる)」が正しいかな?「焦る(あせる)」は「ら行五段活用」で「ら(ろ)・り(っ)・る・る・れ・れ」、「あせらない/あせろう/あせります/あせった/あせる/あせること/あせれば/あせれ」。

で、「文賢マガジン」さんの解説に従って「焦る」だから「焦らない」となり、「〜ない」の一文字前の母音は「a(あ)」なので「焦らせる」。その否定は「焦らせない(あせらせない)」。だから「焦らさない(あせらさない)」は「さ入れ言葉」になるんでしょうけど……こちらはけっこう人口に膾炙しちゃってるかも。「ああ、ビックリした。焦らさないでよ!」とか。ああ、またなんだか落ち着かない気分になってきました。

追記

以前、「すっくと」か「すくっと」かでも悩んだことがありました。私なら「岬の先端に灯台がすっくと立っていました」などと言うのですが、「すくっと」と銘打ったこんな本もあるんですよね。


ライトハウス すくっと明治の灯台64基

同僚の日本語の先生方に聞いてみたら、むしろ「すくっと」派が多かったんですけど、毎日新聞社が作られているこちらの「毎日ことば」にはこんな解説がありました。

ただやはり「すっくと」が本来だろうという思いは消えません。よく似た言葉で「すっくり」という副詞があり、日本国語大辞典2版では「まっすぐに突っ立つさまを表わす語。すっくと。すっくら」と説明しています。「すくっり」とか「すくっら」というのはさすがに聞きませんから、正統性という観点からは「すっく」の形に軍配が上がるでしょう。

https://salon.mainichi-kotoba.jp/archives/32153

ただしこちらの解説によれば、灯台のように動かないもののそびえ立つようすではなく、動作として勢いよく伸び上がるように立ち上がるようすを形容するときには「すくっと」も違和感が薄そうですし、地域によっても違うのだそうです。