インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

“尹錫悦”氏の名前の読み方について

新学期を迎えて、担当している留学生の通訳クラスの教材を準備しています。留学生のみなさんはこれまで日本語の上達に専念してきた方がほとんどなので、日本語から中国語へ、あるいは中国語から日本語へ「訳す」ということに慣れていないという場合も多い……というわけで、最初は単語単位で言葉を変換するところから徐々に慣れていくというカリキュラムになっています。

単語単位で変換といってもなかなか侮れず、特に人名や地名などの固有名詞の場合は訳し間違えるとかなりのマイナスポイントになるため、気が抜けません。特に中国語が母語の留学生の場合、ご自身の母語では中国語の漢字とその読みで構成されている人名や地名が、日本語になるとまったく違う漢字の読み方になったり、一番の「鬼門」とも言えるカタカナ語になったりするので、意外に手こずります。

例えば最近ニュースで取り沙汰されている話題といえばウクライナ関係ですが、“烏克蘭”をなんとなく「ウークーラン」と中国語読みふうに訳しても、たぶん日本語母語話者の多くに伝わりません(文脈で分かってもらえる場合もあるでしょうけど)。“基輔”も「ジーフ」じゃなくて「キエフ」、あっ、最近「キーフキーウ」と読もうということになりましたね。“澤連斯基”あるいは“澤倫斯基”も「ゼレンスキー」、“普丁”あるいは“普京”も「プーチン」と、日本語における外来語特有の母音ベタ押しな発音で訳してあげないと、日本語母語話者には通じにくいです。

この固有名詞で、いまいちばん混乱している(と個人的に感じている)のは韓国の次期大統領である“尹錫悦”氏です。中国語に訳すならば、この漢字を中国語で読めばいいので訳語は一択です。でも日本語に訳す場合は、このお名前を韓国語の発音(正確ではないですけど)で言わなければなりません。その発音が日本の媒体によって揺れているのです。

現在のところNHKは「ユン・ソギョル」と言ったり書いたりしています。職場で購読している日本経済新聞は「ユン・ソクヨル」。外務省のウェブサイトをあたってみると「ユン・ソンニョル」です。同僚の韓国人に聞いてみたら、「まあ、どれも正しいんだけど」とのお返事。ごく大雑把にまとめると、名前の文字をリエゾン(連音化)させるか(ソギョル)、ひとつずつ読むか(ソクヨル)、韓国語の正式な発音規則に則るか(ソンニョル)……というような違いがあるそうです。

私は韓国語ができないのでよく分からないのですが、ネットで検索したら、まさにこの件について書かれている記事を見つけました。

news.yahoo.co.jp

まあ、これは“尹錫悦”氏が正式に大統領に就任してしばらく経つうちに、日本側でも徐々に表記が三つのうちのどれかに収斂していくのかもしれません。

こういう国際間での名前の呼び方は、通常は「互恵主義・相互主義」というか、それぞれの国同士の外交上のプロトコルに従っていることほとんどです。例えば日本側が中国の“習近平”氏を「しゅう・きんぺい」と日本の漢字の読みで呼び、中国側は「岸田文雄」氏を“Àntián Wénxióng(アンティエン・ウェンション)”と呼ぶ、つまりお互い自分の国の漢字読みで読むんですね。

これが日本と韓国では、お互い相手側の国の読み方で読むということになっています。日本側が“윤석열”氏を「ユン・ソクヨル/ソギョル/ソンニョル」と呼べば、韓国側は「岸田文雄」氏を“기시다후미오(キシダフミオ)”と呼ぶと。ところが韓国と中国ではそうなっていません。韓国側は“習近平”氏を“시진핑(シジンピン)”と呼ぶいっぽうで、中国側は“윤석열”氏を“Yǐn Xīyuè(イン・シーユエ)”と呼ぶんですね。韓国側も中国側もともに中国語読みで、「互恵主義・相互主義」になっていません。
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同僚の韓国人によると、韓国では外国人の名前について「国立国語院」というところが外来語の表記法を定めており、基本的に現地の発音を尊重するという方針に従って発音したり書いたりしているそうです。中国人の名前については、以前は中国語の漢字を韓国語における漢字読みにしていることが多く、例えば“毛澤東”は、以前は“모택동(モテクドゥン)”だったそうですが、現代では中国語の発音をもとにした“마오쩌둥(マオチョドゥン)”なんだとか。

素人考えですけど、これは韓国が漢字を徐々に廃してハングルを尊重するようになったという背景があるのかしら。同僚によると、同じ人物でもこのように読みが異なっている場合があるので、世代間で「それ、誰?」みたいにやや混乱することがあるのだそうです。