インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

ネイティブのようにはなれないけれど

私は中国語が流暢ではありません。発音が死活的に重要な言語であるのに、その発音もあまり美しいとはいえません。話すことはできますし、仕事でも使っていますが、「ネイティブ」と呼ばれる母語話者からすれば、すぐに「ああ、どこか外国の人ですね」と分かってしまうようなレベルです*1

それでも以前は「ネイティブと見紛うような中国語」を目指していました。中国語は使われている地域も広く、したがって英語同様にとてもグローバルな言語で、そのために発音や語彙にも地域によって特色があります。ですから、どれを基準に見立てて「ネイティブ」とか「標準」と呼ぶのかはとても難しいのですが、とにかく「子供の頃から中国語を話している人」のような中国語を話せたらいいなと思って、必死に練習していました。

仕事をしていると「標準」と呼ばれている中国語から少々離れている地域の中国人からは「私たちよりよっぽど上手いですよ」と言われることがあります。そのときはとてもうれしく、ありがたく思うのですが、後から考えればそれは中国語を話してくれる外国人に対するリップサービスに過ぎないと思います。「中国語がお上手ですね」と言われているうちはまだまだ……と、よく言いますよね。

ともあれ、ずいぶん長い間中国語と格闘して、けっきょく私は「ネイティブのようにはなれない」という諦めに達しました。いえ、もちろん非母語話者すべてがネイティブのようになれないというわけではありません。私の存じ上げている少なからぬ中国語非母語話者の方々には、お世辞抜きに「ネイティブと見紛う」ような中国語を話される方がいます。

だからこれはもう、自分の努力不足+才能のなさを嘆くしかありません。でもその一方で、けっこう負けず嫌いな私は、形でダメなら内容で勝負だとばかりに、中国語で話す中身の方だけでもできるだけ豊かにしようと考えました。それは仕事をするなかで母語の種類に関わらず、非常に流暢に聞こえるけれども中身は薄い方(失礼)とか、いわゆる「言語明瞭意味不明」な話し方をする方(またまた失礼)に少なからず出くわしてきたからです。いくら外語が「ペラペラ」であっても、中身も「ペラペラ」であっては意味がない、そう思うようになったのです。


https://www.irasutoya.com/2015/11/blog-post_578.html

ところで昨日ネットで見つけた、宣伝会議オンラインの「アドタイ」にこんな記事が載っていました。大谷翔平氏がインタビューや記者会見などの際に英語ではなく日本語で話し、常に通訳者を介してコミュニケーションを行っていることに関する記事です。

www.advertimes.com

この記事には「外国語アクセントの英語は、ある意味その人のアイデンティティだ」という、英語を中国語に置き換えて読めばとても励まされる思いがする一節もあるのですが、より共感したのは「スピーチを聞く側の負荷を減らす」という部分です。

通常の日本でのプレスカンファレンスでさえ、スピーチを含め残念なプレゼンスの方々が決して少なくない。日本語でさえそうなのに、英語で行うとなったら、ちょっと英語が喋れるくらいの人の場合、少なく見積もっても通常の3〜5倍くらいの労力と時間を費やす覚悟は必要だ。それが捻出できないのであれば、舞台は海外であったとしても早期に英語を諦め、優秀な同時通訳者を探し、喋るのは日本語だけれど非言語部分で表現力豊かなスピーチやプレゼンを目指すことが、相手に伝わるグローバル・コミュニケーションとなる。相手がメッセージを受け取る際の負荷を極小にする、それが重要なのだ。

同感です。でも実際には、たとえ拙い外語であれ「誠意があれば伝わる」と考える方はけっこう多いようです。それはそれで「その意気やよし」ではあるのですが、やはりビジネスや政治などのフォーマルな場所ではやはり蛮勇(よくない意味での)と言わざるを得ません。英語はもちろん、中国語でも例えば大手通信社や新聞社などの記者さんがそういう蛮勇をふるって微苦笑を買う(逆に素晴らしい言葉の遣い手もいますが)シーンを、これまでに何度も見てきました。

qianchong.hatenablog.com

曲がりなりにも通訳者として稼働してきたものの、中国語が流暢だとはとても胸を張れない自分が、その自分を棚に上げてひとさまをあげつらうのはやめておきましょう。いまの私ができるのは、引き続き言語を使ってコミュニケーションを行う、その中身を充実させるべく学んでいくこと、そして、拙いながらも少なくとも「その人のアイデンティティ」が感じられると思ってもらえるくらいには中国語のブラッシュアップも怠らないことではないか、そう思っています。

*1:ここで言う「中国語」とは、いわゆる“普通話”、北京語あるいは台湾華語などと呼ばれる言語のことです。