「中国人は肉と魚を区別しないんだって?」と、職場の英語教師に聞かれました。なんでも中国人留学生との英語の授業で食生活や食習慣に関するフリーディスカッションをしていたときにそういう話になったのだそうです。一瞬、そんなことはないはずだけどな……と思ったのですが、すぐ気づきました。そうか、その中国人留学生は“葷”と“素”のことを話したのですね。
“葷(hūn)” と“素(sù)” はいわば対の概念で、“葷”は肉や魚などのいわゆる「なまぐさもの」、素はそうした動物性蛋白質を用いていない野菜やいわゆる「精進料理」を指します。おそらく仏教から来た概念なのでしょう。また“葷”には「臭気のある」という意味があって、その意味では野菜にも“五葷”と呼ばれるものがあり、これはニラ、ニンニク、ラッキョウ、アサツキ(タマネギ)、ネギなどの香味野菜の総称です。
シンクロニシティとでも言えるでしょうか、ちょうどドミニク・レステル氏の『肉食の哲学』を読んだところでした。ベジタリアン、あるいはそのより先鋭的なライフスタイルであるヴィーガンについて、倫理的・哲学的な観点から批判を加えた一冊です。私はこの本を、世田谷区は西太子堂の住宅街の奥にある、猫に関する本だけを扱う書店「Cat’s Meow Books (キャッツミャウブックス)」で偶然手にとって購入したのですが、それはヴィーガン批判と猫がどうつながっているのかにも興味がわいたからでもありました。
ヴィーガン、あるいは肉食については、ネットやメディア上でときに感情的な言葉の応酬ばかりが興味本位で取り上げられることが多く*1、私個人(私はヴィーガンでもベジタリアンでもありませんが)としてはやや遠巻きに眺めていることがほとんどでした。ただ改めてこの本でヴィーガンや肉食を動物行動学や人類史などの視点から見つめ直してみると、なるほど確かにその主張には(この本の帯にも記されているように)パラドクスが潜んでいるなと思いました。
レステル氏の論点は多岐にわたりますが、例えば氏が「政治的ベジタリアン」と呼ぶ人々の主張、つまり工業的畜産によって過剰に肉を消費することの問題点や肉食が環境に及ぼす負荷については共感を寄せているところに私は興味を持ちました。そして氏が真に批判を加えようとしているのは原理主義的なヴィーガン、氏の言葉で言えば「倫理的ベジタリアン」であることにも。
この本の巻末に寄せられた、著者自身による対話形式でとてもわかりやすい「日本語版へのあとがき」ではこう述べられています。
ぼくにとって重要なのは肉を食わないことではなく、倫理的に肉を食わないことなんだ。
この点についてはこの本の翻訳者である大辻都氏も「訳者あとがき」で「問題は肉を食わないことではなく、過剰に食わないことだとし、奪った命を追悼しつつ機会を限った肉食者となることを提案してこの試論の結びとしている」と著者の主張を総括しています。私事ながら私は若い頃養鶏をしていて、この手で何百羽もの鶏を「処理」してきたので、この総括にはとても共感します。
それともうひとつ、本来は肉を含めた雑食である私たち人間や、その人間が飼うペットとしての犬や猫にまで肉食を禁じる一部のヴィーガンの主張について、それは「虐待」ではないのかという主張も一考に値する視点だと思いました。なるほど、そういう視点もあるからこそ「Cat’s Meow Books」さんにもこの本が置かれていたのかな。