今年も秋を迎えて、職場の学校ではこれから入学試験が断続的に行われていきます。私も入試業務を一部担当しているので、これからちょっと忙しくなります。ただこの入試というのが毎年本当に悩ましい。筆記試験や面接だけでその学生の資質を判断するのがとても難しいと感じているからです。
マイケル・サンデル氏の『実力も運のうち 能力主義は正義か?』には、入学試験で優秀な学生を選ぶのは不可能に近いので、いっそのこと「くじ引き」で選んではどうかという話が出てきます。
四万人超の出願者のうち、ハーバード大学やスタンフォード大学では伸びない生徒、勉強についていく資質がなく、仲間の学生の教育に貢献できない生徒を除外する。そうすると、入試委員会の手元に的確な受験者として残るのは三万人、あるいは二万五〇〇〇人か二万人というところだろう。そのうちの誰かが抜きんでて優秀かを予測するという極度に困難かつ不確実な課題に取り組むのはやめて、入学者をくじ引きで決めるのだ。言い換えれば、適格な出願者の書類を階段の上からばらまき、そのなかから二〇〇〇人を選んで、それで決まりということにする(266ページ)。
氏がそう述べる根拠やそういった選抜方法の有効性についての議論は同書を読んでいただくとして、私が惹かれたのは「くじ引き」に進む前にまず「伸びない生徒、勉強についていく資質がなく、仲間の学生の教育に貢献できない生徒を除外する」という部分です。さらっと読んだだけでは、まあ入試というのはそういうものだよな、つまり俗に言う「足切り」をするということでしょ、と思うかもしれません。でも私は「仲間の学生の教育に貢献できない生徒を除外する」という部分がとりわけ大切だと感じました。
というのも私は教員という仕事をしているなかでつねづね、「何かを学ぶ際には、仲間の学生との間で起こるインタラクションがその学びにとても大きな影響を与える」ものだと確信しているからです。学びは教員から学生へと一方的に向かうベクトルだけで存在していることは少なく、学生から教員が学ぶというベクトルもあり(これはよく言われることですね)、さらに学生同士の双方向のベクトルというものもあって、いずれもとても大切なものだと思うのです。
だからコロナ禍で一挙に普及し、一時は教育の革命だなどと持ち上げられたオンライン授業は結局うまくいかなかったのだと私は総括しています。ひとりの教員とおおぜいの学生が分割された画面で向き合い、ほとんどの場合で学生がミュート状態になっているオンライン授業においては、学生同士の横のつながりを作ることがとても難しいからです。
qianchong.hatenablog.com
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ただ世は「コスパ」や「タイパ」などという言葉がもてはやされる時代。学生の中には、なぜ仲間の学生の教育に自分が貢献などしなければいけないのかと考える人もいるかもしれません。それはひとえに教員の役目じゃないかと。でも切磋琢磨ということばもあるように、実は学びの中では学生同士がよい刺激を与え合うことがとても重要だと、私は教員の立場にいて実感しています。またその重要さを理解している学生ほど伸びていくものだとも。
だから入学試験の際に、そういうよい刺激をほかの学生に与えられない学生、あるいは逆にわるい刺激を与えそうな、言いかえればほかの学生の学びを妨げるような学生を注意深く「除外」することが(「除外」というのはちょっときつい言葉ですが)大切なのです。でもこれが難しく、筆記試験や短時間の面接ではなかなかその学生の資質というものは判断できません。また学ぶ中で学生自身も変化していくものですから、その未来の予測をするのはもっと難しい、いやおそらく不可能でしょう。
一般的には受験に至るまでのその学生の、高校や中学校での成績や素行(出席状況など)などを参考にすることになりますが、これをどうやって可能なかぎり有効化するのかに毎年とても頭を悩ませています。それでも毎年ほんのわずかながら、「仲間の学生の教育に貢献できない生徒」は入ってきます。おのれの人を見る目のなさを反省することになります。
でも受け入れた以上はこちらにも責任があります。そういった学生にどういうアプローチをして学んでもらうかを考えると同時に、ほかの学生の学びにわるい影響を与えないようにするにはどうしたらよいのかを考えなければなりません。そこがいちばん悩ましく、苦労するところなのです。