インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

もうあきらめるしかないのかも

留学の目的ってなんでしょう? それはもちろん人それぞれでしょうけど、目的のうちでも大きなひとつは語学の習得だと思います。

自国で母語話者に囲まれている環境から、外語の海に飛び込んで自分をその外語漬けにする。否が応でもその外語をインプットし、自らもアウトプットしなければならない状況に追い込むーーそうやって自分の外語能力を飛躍的に高めたい……と。

もちろん留学をしなくても、工夫次第で同じような環境に自分を追い込むことはできるかもしれません。でもやっぱり現地に身を置くことのアドバンテージは魅力的です。

それに語学は単に単語や文法など語学の知識だけで成り立っているものではありません。その言語が話されている場所の風俗習慣、空気感、街の様子、人々の立ち居振る舞いすべてが語学に分厚い背景知識を与えてくれる。こうした現地に身を置かなければ体感できない要素って、実は語学にはけっこう大切なんです。

実際私も、中国や台湾にある程度住んだことによって身体で分かっている感覚が自分の中国語を後押ししてくれていることをよく感じます。私が留学しようとしていたときにも、中国語の先生や先輩方はよく「できれば一年以上留学した方がいいよ。春夏秋冬、一年をめぐるさまざまな現地の季節や行事のありようを肌で感じることはとても大切だから」というようなことを言っていました。

ところが。

いまや現地に身を置くだけではそうした肌感覚が育ちにくいどころか、語学そのものまで伸び悩むこともありうるのが現代という時代でして。なにせ情報通信技術が発達していてリアルタイムで自国とつながっていられますし、都市であればコンビニやスーパーや公共交通機関が発達していて、ほとんど話さなくても暮らしのさまざまな必要を満たすことができてしまうのです。

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https://www.irasutoya.com/2018/01/blog-post_838.html

私が中国に留学した頃は、すでにインターネットはあって(ダイヤルアップの時代でしたが)かなり便利になっていました。それでも長い留学生活から日本に戻ってみると、その間に日本で起こっていたさまざまな出来事がインプットされていないがゆえに「浦島太郎」的な感覚に陥ったものです。でもそういう感覚は現代ではかなり希薄になっているんでしょうね。

だからこそ留学生、特に自分の外語能力(とくにオーラル・コミュニケーション)を伸ばしたいと願っている留学生は、以前にも増して用意周到に外語のインプットとアウトプットを行わなければ、せっかく留学しているのに効果が「だだ下がり」になってしまうのではないかと思います。

なのに。

私が奉職している学校の華人留学生のみなさんは、とにかく中国語をしゃべりまくるのです。中国語が母語以外の留学生や先生がいるところでは日本語を話しますが、華人留学生同士になるととたんに(水を得た魚のように?)中国語でしゃべり倒している。

当たり前じゃないかって? いや、私はせっかく留学しているんだから、中国語母語話者同士でも日本語で話せばいいと思うのです。日本語が拙いうちはお互いもどかしいでしょうけど、あえて母語である中国語で話さないというのが「クールでカッコいい」んじゃないかと。それくらいやらないと、日本語を流暢に話せるようにはならないのではないかと。

中国語と日本語は漢字を共用しています。だから華人留学生が日本語を学ぶ(あるいはその逆)は、例えば欧米や非中国語圏のアジア各国の留学生が日本語の学ぶのに比べてアドバンテージがあると思われがちです。が、実は逆で、漢字が共通しているからこそ母語での漢字の発音が干渉して、語学の特に「聞く」と「話す」にハンディが生まれる。漢字を見た瞬間に母語でのその漢字の音が脳内に響くからです。

実際、うちの学校は「英日クラス」と「中日クラス」があって、前者は非中国語母語話者のさまざまな留学生(欧米やアジア圏など)がおり、後者には中国語母語話者(一部広東語圏)が在籍しています。入学してきたときは前者のほうが日本語は拙かったのに、二年間の留学生活を終える頃にはまるで「ウサギとカメ」の寓話よろしく、華人留学生は完全に追い抜かれています。あるいは伸び悩んでいます。

それは明らかに、二年間どれだけ日本語でのインプットとアウトプットをやってきたか、その量の多寡に起因しているように思えます。「英日クラス」は唯一の共通語が日本語であり、とにかく日本語を話さざるを得ないのに対して、「中日クラス」はすぐに中国語をしゃべり倒せる環境に舞い戻ってしまえるわけですから。

さらに華人留学生は、日本語の漢字を見れば一瞬でその意味や含意まで分かってしまいます(これは欧米の留学生にはできない芸当です)。それでますます日本語の「聞く」と「話す」がおろそかになる。音に頼らなくても視覚でコミュニケーションのかなりの部分が補完できてしまうからです。

これは私個人のたかだか二十数年ほどの観察による主観に過ぎませんが、日本語の発音がきわめて自然な華人留学生、あるいは中国語の発音がきわめて自然な日本人(日本語母語話者)留学生は他の言語の留学生に比べて明らかに少ないように思います。その背景には、こうした漢字を共有しているからこその音に対するハードルの高さ(あるいは油断)があるのではないかと感じています。

だからこそ華人留学生には人一倍日本語の音のインプットとアウトプットをやってほしい(そして私たちも中国語の音のそれを)のですが、上述のようにそれを積極的に、人一倍やろうとする華人留学生はきわめて少ないのです。

少ないどころか、私はこの十数年、出会う華人留学生にことごとく「中国語母語話者同士でも日本語で話しましょう。語学には多少の芝居っ気も必要ですから、演じるように日本語で話しましょう」と言い続けてきて、実践してくれた人は皆無でした。

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https://www.irasutoya.com/2015/10/blog-post_270.html

私自身中国に留学したときは、日本人(日本語母語話者)同士でもあえて中国語で話すというのを実践していました。それが中国語を話せるようになる一番の近道であり、かつ「カッコいい」ことだと思っていた、中国に来てまで日本語を話すなんてもったいないと思っていたからですが、同僚に言わせるとそれは「きわめつきの変人」だそうです。

変人。

そんな変人の振る舞いを留学生諸君に押しつけるなんて、私はいったい何をやってきたのでしょうか。もうこれ以上「中国語母語話者同士でも日本語で話しましょう」と勧めるのはやめようかなと思っています。何か他のアプローチで、華人留学生の日本語能力(特に「話す」)を高めてあげられる方法を模索するしかないですね。

毎年学年末のこの時期になると、同じようなことを言って嘆いているような気がします。自分の非力さと責任を痛感しています。

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