インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

プロット・アゲンスト・アメリカ

書評家の豊崎由美氏が新聞のコラムでつよくつよくお勧めされていたのに促されて読みました。フィリップ・ロスの『プロット・アゲンスト・アメリカ』。1940年、戦時を理由にそれまでの慣例を排して三選目の大統領選に立候補したフランクリン・D・ルーズベルトを、大西洋単独無着陸飛行で国民的な英雄になっていたチャールズ・リンドバーグが破って当選したら……という「歴史改変SF」です。

リンドバーグナチス・ドイツに親和的なうえ、反ユダヤ思想の信奉者だったそうで*1、この小説ではそんな彼が大統領に就任したことで起こるユダヤ人に対する差別や迫害、暴力などファシズムが進行していくさまが7歳のフィリップ少年の目を通して描かれていきます。


プロット・アゲンスト・アメリカ

ありえない人物がアメリカ大統領になる話といえば、つい現代の我々が目の当たりにしている光景と引き比べて考えたくなります。が、翻訳者である柴田元幸氏による文庫版あとがきによれば、当のフィリップ・ロス氏ご自身は「リンドバーグイデオロギー的にはともかく英雄飛行士ではあったのに対し、トランプはただのいかさま師だ」と、その類似性よりも相違性を強調していたそうです(2016年のトランプ氏初当選時)。

確かにトランプ大統領を生み、さらには再選させた背景を鑑みるに、それは確かに第二次世界大戦時の世界情勢とはまったく異なっています。またアメリカ、ひいては世界中のあちこちで見られるようになった社会の大きな分断と、世界の多極化やアメリカ自身のプレゼンスの低下なども絡んでいるわけで、安易な引き比べはしないでおきましょう。

それよりも私は、私たちのそれなりに平穏で幸福な暮らしが(現実には公私ともにいろいろと心悩まされるあれこれはあるにせよ)最初は些細なところから徐々に変質しはじめ、それがあるところまではそこはかとない不安や怖れで「くすぶっている」程度だったのが、気がついたら一気にエスカレートして激変してしまう……という恐ろしさを描いたものとしてこの作品を読みました。

実際この作品では、フィリップ少年の暮らすニューアークニュージャージー州)のユダヤ人地区が街のお店や通りのひとつひとつにいたるまでていねいに描かれ、少年を取り巻く人物も家族を含め、そのほとんどが実在の人物に仮託して描かれていきます。そんなきわめてリアリティのある物語世界が、中盤から後半にかけて一気にテンポを増し、あり得ないけれどあり得たかもしれない状況に突入していくのです。そこに私は恐怖を覚えました。

プロット・アゲンスト・アメリカ(The Plot Against America)とは「アメリカに対する陰謀」と作中でも語られています。アメリカに対して誰がどんな陰謀をはたらいているというのかーーリンドバーグとトランプの引き比べは安易だとしても、この陰謀という視点から読めば、現代の私たちもじゅうぶん反芻し、内省するに足る気づきを得られるはずです。

余談ですが、柴田元幸氏のたいへんに巧みな翻訳によって、SFを読むのが苦手な私もこの600ページになんなんとするこの小説を一気に読み通すことができました。SFとはいえ実在の歴史と人物に材を取った「近過去」小説ですからSFの範疇には入らないかもしれませんが。またこれも最近、かつて一度チャレンジして挫折していた伊藤計劃氏の『虐殺器官』を通勤途中にKindleでちびちび読みながら読破できました。

虐殺器官』は近未来SFですが、こちらもかなり現実の世界情勢に近しいところで物語が進行しています。してみるとやはり私は、想像力の桁が外れまくった物語への想像力がまだまだ欠けているということなのかもしれません。

qianchong.hatenablog.com

*1:この小説にはその妻のアン・モロー・リンドバーグも登場します。巻末の資料によれば彼女も当時はけっこうなファシズム容認派の立場だったみたい。『海からの贈物』を読んで受けた感銘がいささか色褪せてしまうなあ……。