インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

「人生を見つけるためには、人生を浪費しなければならない」の出典をめぐって

先日このブログで、山口周氏の『ビジネスの未来』に引用されていたアン・モロー・リンドバーグの言葉をご紹介しました。山口氏はこのように書かれています。

大西洋単独無着陸飛行にはじめて成功したチャールズ・リンドバーグの妻であり、また自身も女性飛行家として活動して素晴らしい紀行随筆を残したアン・モロー・リンドバーグは次のような言葉を残しています。
人生を見つけるためには、人生を浪費しなければならない。
彼女の随筆にはそこここに柔らかな光を放つ宝石のような一文が埋め込まれていますが、これは中でも珠玉といえる至言でしょう。私たちは「浪費」や「無駄」という言葉に、非常にネガティブなイメージをもっています。でもその「浪費」こそが、自分らしい人生を見つけるために必要だとリンドバーグは言っているわけです。なぜなら「人生」は理性的に、先見的、効率的に見つけることができないからです。(218ページ)

この言葉でネットを検索してみると、山口氏だけではなく他にも多くの方がこの言葉を引用されているのがわかります。またいわゆる「名言集」みたいなサイトにもたくさんこの言葉が見つかります。そして今回、さらに私が自分のブログでその末席に連なったというわけです。


qianchong.hatenablog.com
ただ私は、ブログを書いたあとでその「出典」に興味を持ちました。アン・モロー・リンドバーグの言葉ということであれば、おそらく一番有名な『海からの贈物(GIFT FROM THE SEA)』からではないかと思います。この本は私も若い頃に読んだことがありますが、そんな言葉があったかどうかについては記憶があいまいでした。それで、もういちど新潮文庫版を購入して読んでみたのです。


海からの贈物

「人生を見つけるためには、人生を浪費しなければならない」という文章そのものは見つかりませんでしたが、おそらく「日の出貝」という章のこの部分がそれに当たるのではないかと思われます。

私はエックハルトがかつて言ったように、本当の自分というものは、「自分自身の領分で自分を知ること」によってしか得られないのだと思う。それは内部から湧き上がる創造的な活動の中に、そしてまた、逆説的に、自分というものを失うことで得られるものなのである。キリストの言葉通り、生命を得るのには、先ずこれを失わなければならない。(66ページ:吉田健一訳)

この部分、原著の英文ではこうなっています。

I believe that true identity is found, as Eckhart once said, by "going into one's own ground and knowing oneself." It is found in creative activity springing from within. It is found, paradoxically, when one loses oneself. One must lose one’s life to find it.

こうやって引き比べてみると分かりますが、吉田健一訳には原著にはない「キリストの言葉通り」が補われています。これを補ったのは、キリスト教徒であればこれが聖書からの引用であることはすぐに分かるけれども、そうではない人にはピンとこないだろうからという翻訳者の判断なのでしょうか。そこで聖書にそういう一節があるのかどうか検索してみたら、こちらのページにこんな記述がありました。

The act speaks of "servitude". It contains a paradox similar to the words of the Gospel according to which one must lose one's life to find it (cf. Mt 10:39).

なるほど、マタイ10章39節の言葉だったのですね。ご承知のとおり聖書の翻訳にはたくさんのバージョンがありますが、たとえば英語の “New International Version” ではこのように訳されています。

Whoever finds their life will lose it, and whoever loses their life for my sake will find it.

日本語の「新共同訳」ではこう訳されています。

自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

上掲の引用に青色で示した「わたしのために」という部分に興味を持ちました。こちらの教会のウェブサイトではこのように説明されています。

自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。(マタイ10章39節)
 「自分の命を得ようとする者」とあります。この「得る」という言葉は、直訳的に訳すなら、「見出す」という言葉です。そうしますと、「自分の命を見出す者」ということになります。「見出す」とは、「見つける」とか、「発見する」という意味です。しかし、自分で命を見出すことはできません。神さまなしで命を見出すことはできません。「わたしのために命を失う者」、つまり、イエスさまのために自分の命をささげていく時、命を見つけることができる、命を発見することができる、と主は言われるのです。
 イエスさまのために自分の命をささげる。それは、この命は私のものではない。この命は神さまから与えられたもの。だから、神さまのみ心は何か、神さまの喜ばれることは何か。そのことを求めて、神さまのためにこの命を用いていこうという生き方です。そして、その時、私たちは、命を見出すことができるのです。神さまから与えられた命の意味を知り、命を喜ぶ者とされるのです。

私が「人生を見つけるためには、人生を浪費しなければならない」という言葉に共感したのは、ブログにも書いたとおり「コスパ」とか「タイパ」などという言葉で言い表されるようなきわめて目的意識的な行動だけで人生は成り立つものだろうかという疑問があったからです。つまり、さまざまな試行錯誤やチャレンジなど、多くの時間や労力の浪費の先にこそ「自分の」人生を見つけることができるという意味でこの言葉にひかれたわけです。

でも「人生を見つけるためには、人生を浪費しなければならない」の出典が『海からの贈物』のこの部分であると仮定すると、これはアン・モロー・リンドバーグの言葉というよりはキリストの(聖書の)言葉ですよね。そうなると、山口周氏を始め多くの方々(私も含めて)が引用しているような意味とは少々異なるのではないかという気もします。聖書のこの一節に従えば、“lose one's life” もしくは “loses their life”、あるいは「人生を浪費する」のは「イエスさまのため」であって「自分のため」ではないのですから(それが回り回って自分のためにもなる、とも言えるでしょうけど)。

ただ、これが聖書の言葉だと仮定すると、「人生を浪費する」のは自分のためではないにせよ、そこにはキリスト教的な「召命」や「Calling」が暗示されているのかもしれないとも思いました。山口氏も別の著書『仕事選びのアートとサイエンス』でこの点に触れておられます。

天職とは本来、自己を内省的に振り返ることで見出すものではなく、人生のあるときに思いもかけぬ形で他者から与えられるものではないか、ということです。(19ページ)

英語で天職のことを“calling”というのだそうですが、それはまさに神から(あるいはより東洋的に言うなら「天」から)“call”されるようなものであり、そこには目的意識的な行動だけでは説明しきれないような何かが介在しているのではないか、それが「人生を見つけるためには、人生を浪費しなければならない」というフレーズとして表現されていると解釈することもできるのではないかと思いました。


qianchong.hatenablog.com
……にしても、本当に “One must lose one’s life to find it” が「人生を見つけるためには、人生を浪費しなければならない」に当たるのか、もしそうであればこのような日本語訳の出典がどこにあるのかについては謎のままです*1。『ビジネスの未来』巻末の参考文献にも載っていませんでしたし……。《GIFT FROM THE SEA》にはもうひとつ落合恵子訳もあって読んでみましたが、こちらは「生命を得るには、まず一度それを失わなければならない」となっていました。


海からの贈りもの

*1:アン・モロー(モロウ)・リンドバーグの著書で日本語訳されているものは、他にも『輝く時、失意の時』、『ユニコーンを私に』、『翼よ、北に』、『聞け!風が』などがあるようですから、そちらにこのフレーズが載っている可能性もあります。