勤め先の学校には比較的大きな図書館があって、書籍を貸し出す際には、一番最後のページに貼ってある紙に返却期限の日付がスタンプされます。まだ一度も貸し出されたことがない本にはこの紙が貼られていないので、司書さんが紙を貼ったうえで日付を捺します。ときには何十年も前に購入され、現在は閉架になっている本を取り寄せてみたら、私が最初の貸出者だったということもあります。
その図書館が発行しているニュースレターに、「座右の書」を推薦する文章を寄稿してほしいと言われました。学生さんがその本を読むことで、何がしかの気づきを得てくださったらという趣旨だそうです。私は若いころ、ロシア語通訳者・米原万里氏の『不実な美女か貞淑な醜女か』を読んで通訳者を志したので、この本をオススメする文章を書きました。
文章を書いてから、ふと思いついてAIに校正してもらいました。日本語として不自然な部分や文意がロジカルでない部分を指摘してもらい、それを参考に書き直すためです。私の文章の大意としては、米原万里さんの本をオススメしたうえで、今後生成AIがどんなに進歩したとしても、人間が外語(外国語)を学ぶ意義はなくならないのではないか、というものでした。
そうしたら、Claudeさんからは「全体として、筆者の外国語学習に対する情熱と意義は伝わってきますが、いくつかの論理的飛躍や表現の不正確さが見られます」と言われました。またChatGPTさんからは「文全体として、主張には熱意があり、読み手に共感を与える力はあります。ただし、いくつかの部分で事例や理論の補足が弱く、説得力をもう少し強化する余地があります」とのこと。
そのうえで「『意義はなくならない』と述べていますが、文章全体として、なぜ『意義がなくならない』と言い切れるのかがやや曖昧です。『生成AIの限界』や『人間にしかできない具体的な要素』をもう少し論理的に補強する必要があります」とか、「『世界の切り分け方は言語によって異なる』という主張は言語相対論(サピア・ウォーフの仮説)を基にした考え方として正しい方向ですが、これに異論がある点も触れると説得力が増します(例:人間は言語に依存しない共通の認知基盤を持つという説もある)」とか、「最終段落の『人類は退化していく』という主張は、言語学習の意義を強調するための誇張と見なせます」など、細かい指摘が入りました。キビシイです……。
先日、高橋秀実氏の『ことばの番人』を読みました。よき文章と出版物にはよき校正者と編集者が必要であり、文章は出版物はひとり筆者のみでは成立しないということがよく分かりました。素人の私にはそんな校正者や編集者はいませんから、それをAIにやってもらったわけです。
なかには明らかに的外れだと思う指摘もありますが、客観的な視点で厳しく突っ込んでくれるのはありがたかったです。ただ、こうやってAIを使って「壁打ち」のように何度もやり取りをしながら自分で自分の文章を校正するのはいいなと思う一方で、あまりやりすぎると自分が自分でなくなってしまうような不安も感じました。
なんというのか、AIに引っ張られすぎると「漂白」されてしまう気がするのです。文章に多少の瑕疵はあっても、その瑕疵がまさにいまの自分のありようなのですから。自分の「不完全さ」を引き受ける勇気みたいなものも大切なんじゃないかと思いました。
AIの指摘をもとに自分で何度も書き直して、原稿を図書館に送りました。実はこの米原万里さんの本、以前に図書館から「学生さんに読んでもらいたい本」を推薦してほしいという要請があってオススメし、購入していただいていました。それで今回の原稿を書いたあとに図書館で『不実な美女か貞淑な醜女か』を探してみました。書棚にそれはあり、裏表紙をめくってみたら、まだスタンプ用の紙は貼られていませんでした。そっと裏表紙を閉じて、書架に戻しました。