インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

翻訳の授業 東京大学最終講義

「翻訳の正しさは原文とは無関係で、百パーセント現実との照合で決まる」と筆者の山本史郎氏は主張します。つまり原文と訳文の間の語彙や文法などよりも、その二つの文が現出させる世界がぴったりと一致していることが何より大切なことなのだと。

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翻訳の授業 東京大学最終講義 (朝日新書)

ここではもはや「直訳か意訳か」という問いは意味を持たず、原文と訳文の間に横たわる様々な言語的要素(文法・語彙・音韻・文体・意図……)を検討しながら、その間にどれだけの「相似性」を持たせることができるかに翻訳の成否はかかっているというのです。

そしてまた、AIの登場で実務翻訳は限りなく「通訳」の領域に近づいて集約されて行き、しかもその集約されたまるごと全部を近い将来AIによる「訳」が担い、一方で人間がこれからも担い続けるのは文学の翻訳のみであろうという予想も提示されています。

 (文学テクストは)統計的確率を基本原理とし、例の数の多さが適切性の判断の拠り所となる機械翻訳とは、全く逆向きのベクトルを持ったものです。
 これに対して、情報を正確に伝えることが目的の実用テクストについては、近い将来、AIの発達とともに、すべてコンピュータで翻訳の行われる時代が来るでしょう。そして、このような「実用テクストの翻訳」とは、言い換えれば、文書をも含めた意味での「通訳」の領分にほかなりません。つまり口頭・文書をとわず「通訳研究」はAI研究のなかに吸収されてしまうだろう、ということです。(91ページ)

ごくごくシンプルに言い換えるならば、通訳者と実務翻訳者はAIに取って代わられ、文芸翻訳者だけが人間の職業として残るということですね。この見立てに対して、みなさんはどう思われるでしょうか。

私自身は、ことはそう単純ではないのではないかと思いました。口頭における人間の発語は文章ほど整っていないこと(口述された文章ひとつとっても、文章になったものと実際の音声にはかなりの隔たりがあります)、音声の持つニュアンス(高低・速度・間・声色・語気・語勢・滑舌など多くの要素)が発話に大きな意味を与えていることなどからです。またすべての発話が「実用テクスト」と「文学テクスト」に峻別できるのだろうか、きわめて実務的な発話であっても文学的な要素が織り込まれることはあり、むしろ両者はグラデーションを成して存在しているのではないかとも思いました。

それでも、この本で示されている「翻訳観・通訳観」に新鮮な驚きがあったことも確かです。そしてまた、プロの翻訳者がどれほどの精魂を傾けて原文に向き合い、それを上回るほどの精魂を傾けて訳文を(なかんずく日本語を)書いているのかについても圧倒されました。

「AIの普及で通訳者や翻訳者の仕事はなくなってしまうのでしょうか?」と生徒さんによく聞かれるのですが、そんな生徒さんにはまずこの本を薦めてみることにいたしましょう。読んだ上で、それでも通訳者や翻訳者を目指したいと思えるかどうか。もっとも例文がすべて英語なので(山本氏が英文学者なので当たり前ですが)、中国語クラスの生徒さんにはあまりピンとこないかもしれませんけれども。