小学生のころ、大阪府は枚方市にある団地に住んでいました。ひらかたパークがまだ「ひらパー」という略称で呼ばれていなかったくらい昔のことです。ある日のこと、二階にあった部屋の窓から外を眺めていたら、とつぜんお向かいの棟の上に灰色のような焦げ茶色のようなごつごつとした球体がゆっくりと浮かび上がり、それがこちらの棟の上空に向かってゆっくりと移動しはじめました。
やがて自分の棟の真上までやってきて見えなくなったので、急いで反対側の窓に走って空を見上げたのですが、その球体はそれっきり姿を現しませんでした。あわててそのことを母親に告げたら「なにかの見間違いじゃないの」とにべもない反応だったのですが、あまりに私が興奮して話すので、少しは信用してくれたようでした。そこまで言うんだから、たしかにお前は何かを見たんだろうねえ……。
でもあれはいったい何だったのだろう。半世紀を経てもこうして覚えているというのに、あの球体がいったい何だったのかについて、自分の中では納得できる理由を思いつかないのです。UFOとか風船とか、あるいは鳥とか飛行機とかヘリコプターとか、何かに寄せて判断できるような色と形状ではなかったことも不思議でした。それが、ただひたすらもやもやとした謎として心に残り続けているのです。
そんな他愛もない「もやもや」とは比べ物にならないくらいに心がざわつき、そこはかとない怖さと気持ち悪さと禍々しさが同居したような文学作品ばかりを取り上げて解説する異色の文芸評論集、春日晴彦氏の『無意味なものと不気味なもの』を読みました。自分がこれまでに見た映画の中で「後味の悪さ」の最高峰はスティーヴン・キング原作、フランク・ダラボン脚本・監督の『ミスト(The Mist)』なのですが、あの映画に匹敵する後味の悪さです。
それでもこの本をついつい読み進めてしまったのは(それも趣味が悪いことに、毎晩睡眠薬代わりに寝床で読んでいました)、そこに示されている人間の不可解さが、どこかその人間が生きる世の中の本質を暗示しているような気がしたからです。この本の解説を担当されている、書評家で回帰幻想ライターの朝宮運河氏は「無意味で不気味なものたちは、ありふれた日常に亀裂を走らせ、私たちを取り巻く世界が秘めているいびつさをも露わにしてしまう」と書かれています。
まさにそういう露わにされた「いびつさ」を感じて考えることが、その気持ち悪さとはうらはらに何某かのカタルシスや快感までをも覚えさせてくれるのかもしれません。だからこうしてついつい(?)読了してしまったというわけです。私は映画『ミスト』にもまったく同じようなものを感じました。あの映画もまた、人間とこの世界の不可解さ、あるいは世界に対する人知の「及ばなさ」みたいなものを強烈に感じさせてくれる物語だったからです。
個人的に「ありふれた日常に亀裂が走る」のを感じる瞬間といえば、シンクロニシティです。「共時性」とか「意味のある偶然の一致」などと称され、こちらのウェブサイトでは「複数の出来事が非因果的に意味的関連を呈して同時に起きる(共起する)ことを指す」と解説されています。
私は昔からこのシンクロニシティにたびたび遭遇してきて、そのたびに「ただの偶然」とは片づけられないある種の気持ち悪さを感じてきました。実はきのうブログに「ゲシュタルト崩壊」のことを書き、ブログをアップロードしてからこの『無意味なものと不気味なもの』の最終章を読み始めたのですが、そうしたら中島敦の『文字禍』が引用されていました。『文字禍』はまさにゲシュタルト崩壊(中島敦の執筆時にはまだこの名称は存在しなかったそうですが)を扱った物語です。
毎晩数章ずつ読み進めてきて、たまたま今日この最終章を読んだというのに、このシンクロ。おそらくは「無意味なもの」なんだろうけれど、それだけでは説明がつかないどこか「不気味なもの」を感じるのです。