インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

歩きながら考える

もうひとつ、レベッカ・ソルニット氏の『ウォークス 歩くことの精神史』から。序章に出てきた「クリック一つで知のすべてをお約束します」という惹句がおどるCD-ROM版百科事典の広告についての話にもいろいろと考えさせられました。「クリック一つで」とその簡便さをうたう背景には「雨の日にも図書館まで歩くような苦労を子供にさせずにすむ」という主旨があったそうですが、ソルニット氏は「本当に教育になっていたのは雨のなかを歩くことだったのではないだろうかーー少なくとも,感覚や想像力を育むという意味では」と言うのです。

書物やコンピュータのなかでの放浪はどちらかといえば制限された、感性の狭い領域で生じるものだ。人生をかたちづくるのは、公式の出来事の隙間で起こる予期できない事件の数々だし、人生に価値を与えるのは計算を越えたものごとではないのか。(21ページ)

私たちは日々書物やコンピュータ(ネット)のなかを逍遙し、様々な情報を渉猟しているわけですが、たしかにそれだけでは人生が、あるいはその人の思考や教養が、さらにはそこからの実践が「かたちづく」られるわけではないように思います。中国語に“書呆子”という言葉があって、よく「本の虫」などと訳されますが、この中国語は単に読書好きというより、実践や実行が伴わない知識人を罵るような側面が強いように感じます。

この本にはジャン=ジャック・ルソーのこんな言葉も引用されていました。「歩くことには思考を刺激し、活気づけるものがあるようだ。一所にとどまっているとほとんど考えることができない。精神を動き出させるためには体も動かさねばならない」。自分自身をソルニット氏やルソー氏になぞらえるのはおこがましすぎますが、たしかに歩いたり身体を動かしたりしているときに思考が活発化するというのは私もよく感じます。

例えばこのブログの文章なども、椅子に座ってパソコンの画面に向かっていてもなぜだかちっとも紡ぎ出されてこず、むしろ歩いているときなどに「わーっ」と湧き上がってくることが多いです。私はスマートフォンで文章を書くのが遅いので、そんなときに湧き上がってくるいろいろな考えやフレーズなどを書き留めるのが追いつかなくてあわてます。

仕事のちょっとしたアイデアなども歩いている時ほどいろいろと湧いてきて、これもどこかにメモをしておかなければといつも焦っています。じゃあスマートフォンのボイスメモかなんかで、声に出して記録しておけばいいじゃないかと思われるかもしれませんが、少なくとも私の場合、なぜか声に出して話すとアイデアがとたんに精彩を欠くのです。もっとも、もともと精彩などなかったからもしれませんけど。

ちょうどひと月ほど前にTwitterをやめて(というか「降りて」)、たぶんいまごろアカウントは完全に消え去っているはずです(Twitterはアカウントを削除してから30日間は「復活」の手続きができるようになっています)。Twitterを降りた理由の一つは、SNSなどネットのなかでばかり世の中を知り,感じるのはとても危ういと思ったからでした。SNSは自分自身を等身大以上に拡大(あるいは膨張)させてくれる側面があって、ときにはそれが有益なこともありますが、逆に弊害も大きいのではないかと思うのです。

「言葉でいえば浅薄な教えも、足で見出すと深く響くものだ」と、ソルニット氏も言っています(117ページ)。効率は悪いかもしれないし、かえって独りよがりになる可能性もあるけれど、それでも自分の足で稼ぎながら世の中に向き合おう、もっと自分の足でいろいろなところに自分を運んで行って、そこで感じたことを大切にしようと思ったのでした。

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