インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

『ウォークス』を読んで筋トレの「おかしみ」を考える

レベッカ・ソルニット氏の『ウォークス』を読みました。「歩くことの精神史」という副題が付けられた大部の書です。歩行と思索、自然の中における歩行、都市における歩行などが、文学や宗教、社会運動や政治運動、はては革命、さらには女性と性と都市の公共空間における関係まで、様々な角度から論じられている一冊です。

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ウォークス 歩くことの精神史

どの章も味わい深かったのですが、特に都市における運動としての「徒歩」やそれに連なる身体の鍛錬について述べた「シーシュポスの有酸素運動」という一章をとても興味深く読みました。このユーモラスかつアイロニカルな章のタイトルが指し示しているのは、ジムによくある「トレッドミル」、つまりランニングマシンのことです。まずトレッドミルの発祥についての話からしていろいろなことを考えさせられます。

当初のそれは大きな車輪に踏板をつけたもので、囚人が定められた時間踏み回し続けるものだった。目的は囚人の精神の矯正だったが、すでに運動のための機械でもあり、囚人の動きを穀物の製粉などの動力として使用することもあった。しかし、その主眼は生産に貢献することではなく運動にあった。(437ページ)

最初は懲罰のための機械だったのですね。たしかに、歩けども歩けども、あるいは走れども走れども本来その行為が目的としている前身なり移動なりはちっとも行われず、延々無益とも思えるような行為を続ける機械・トレッドミルは、あの巨岩を山頂へ運ぶ苦行を神に科せられ、山頂に至るや巨岩は転がり落ち、また最初からやり直す……というギリシャ神話の「シーシュポス(シジフォス)」を思い出させます。

ジムというのは、とても奇妙な空間です。ほぼ毎日通うようになったいまでも、時々それを感じます。私もかつては、まるでハムスターの「回し車」みたいなトレッドミルや中世の刑具と雰囲気がそっくりなウェイトマシンの数々に嬉々として挑むなんて気味悪いと思っていたクチですから。よしながふみ氏のマンガ『きのう何食べた?』第2巻に出てくる志乃さん同様に「イミがわからない」と。

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ジムは筋肉や健全さ(フィットネス)を生産するための工場であり、多くは工場のような外観を呈している。殺風景で工業的な空間に金属のマシンが光り、孤独な人影が個々の反復的なタスクに没頭する(工場的な美学もまた、筋肉と同じく郷愁の対象なのかもしれない)。(440ページ)

ジムに通う人間は、おおむねその「(孤独で)反復的なタスクに没頭する」のが好きで、ヘタをすると楽しいとさえ思っている種類の人々です。何を隠そう私もそのひとりで、肩こりや腰痛で不快な身体が、その身体を目一杯動かすことで解消されていくプロセスが楽しい。ですから、たとえ限界ギリギリのウェイトを挙げているときでも、それが苦行だという感覚はありません。それはシーシュポスと決定的に異なっている部分でしょう。しかし、レベッカ・ソルニット氏は、さらにその奇妙さの源へと思索を下ろしていきます。

肉体労働が消えた世界において、ジムがもっとも手軽かつ効果的な代替のひとつであることは間違いない。しかしその半公共的な身体演技にはやはりどこか当惑を誘うものがある。ウェイトマシンで運動しながら、「ボートを漕いでいる動き」とか、「ポンプで水を汲んでいる」とか、「荷を持ち上げている」などと、つとめてイメージしていたことがある。組み上げるべき水も持ち上げるべきバケツもないのだから、農場の日常作業が空疎な身振りとして反復されているわけだ。わたしには田畑や農場の生活への郷愁はない。けれども、そうした身振りを別の目的のために再現して繰り返す、ということのおかしみを頭から振り払うことはできなかった。(442ページ)

私にはかろうじて、かつてかじった農作業への郷愁が残っているので、氏ほどに肉体労働とジムの運動がそこまで違う次元であるものとは感じられません。それでも端的に言ってその肉体の酷使が、当座のところは何も生産しないという点の奇妙さはわかります。もちろんジムでの運動や筋トレは、それをする人それぞれにそれなりの目的があり、それがその人のとっての「生産物」でしょう。私の場合は年をとって弱っていくなか、体調を維持してQOLを保つことです。それでもジムで運動するものに対して向けられる「おかしみ」の視線は(そう、志乃さんのような)やはり免れ得ないように感じています。

レベッカ・ソルニット氏もまた「そうした奇妙さをいわんがためにジムの利用者を貶めようというのではない(わたしもそのひとりとなることがある)」と書かれています。いまや本来の肉体労働でさえ大幅に機械化が進んでおり、ジム通いから連想される都市住民のほうが、農山漁村の住民よりもはるかに長い距離を毎日歩いたり走ったりしているかもしれません(田舎に住んでいたときは、本当に歩くことが少なかったです。ちょっとした距離でも車を使っていました)。

ただ、「わたしたちの筋肉が自分たちの生きる世界との関係を失ったとき、つまり水を扱う機械と、筋肉を扱う機械が無関係に動きはじめたとき、なにか失われたものはあるだろうか」という問いは思索の「しがいがある」とこの章を読んで思いました。本来は刑具であったような機械を使って、それを喜びやプラスの価値として享受するようになった私たちを駆動しているものはいったい何なのか……。

そんなことを思いながら今朝もジムでウェイトを挙げ、レベッカ・ソルニット氏が「ジムの装置のうちでも倒錯を極める」と呼ぶトレッドミルで走ってきました。