インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

サレ・エ・ペペ

外国人留学生が日本語で演劇を行うという授業を担当していて、文化祭で披露する講演のために『世界三大料理』という脚本を作ったことがあります。擬人化されたフランス料理、中華料理、トルコ料理という「旧来の」世界三大料理に対して、その一角を崩して「三大入り」を画策するさまざまな料理が挑戦してくる……というコメディです。

このコメディは、もともとネットで公開されていた同名の短い脚本があって、私がその作者の方にメールを差し上げ、留学生の日本語訓練のための脚本の使用と改変をご快諾いただいたのでした。そののち登場人物(登場料理?)を増やしたうえで脚本全体を換骨奪胎して膨らませ、さらにはその後日譚として『世界三大料理〜帝国の逆襲』という脚本もオリジナルで作りました。

うちの学校は二年制なので、一年次にはこの『世界三大料理』をいわば「伝統芸能」のように毎年上演し(前年に演じた先輩が後輩を指導するという教育的効果ももくろんでいます)、二年次には別に作った複数の脚本を上演するという形に定着しています。今年も秋の文化祭で二本の作品を上演しましたが、外国人留学生がこなれた日本語で演じるお芝居が新鮮なのか、いずれも好評でした。

ところで、世界三大料理に挑戦してくる料理の筆頭は「和食」です。この脚本を作った数年ほど前には和食がユネスコ無形文化遺産に登録されたというニュースで世間が沸いていて、その歴史や文化やヘルシーな調理法、さらには「旨味」を用いた味つけなどを「武器」に「三大入り」を目指すサムライのようなキャラクターとして造形したのでした(袴を履いた和服姿で、帯におもちゃの日本刀をたばさんで登場します)。

前置きが長くなりました。こんな手前味噌を縷々書き連ねてしまったのは、先日その和食、いや国際的な認知を目指した表記としての“Washoku”に対して、舌鋒鋭く批判する文章を読んだからでした。四方田犬彦氏の『サレ・エ・ペペ』に収められている「『日本料理』への懐疑」と「『日本料理』の虚偽と神話」です。


サレ・エ・ペペ

日本料理の根底にあるのは視覚的美しさであり、細々とした調理の気遣いである。昆布と鰹淵のダシを中心にして、全体的に脂肪を排除した味覚の体系である。食器と料理の組み合わせの妙であり、調理者の演劇的な身振りである。日本料理こそは料理文化の粋の極致であり、世界三大料理のひとつと呼ばれるのにふさわしいものである。

おおお、これはほとんどそのまま、私たちの脚本で「和食」というキャラが「三大入り」を画策するセリフの数々にオーバーラップするのですが、四方田氏はこの一文を記したあとにすかさず「私は以上のようなことは一行も書こうとは思わない」とおっしゃっています。そうした「神話」を国際的に流布させることは「虚偽」であり「愚かし」いことでもであると。

日本料理というものは、外国人のために考案された抽象的な料理であり、観光主義と外食ブームがお囃子方になっているにすぎない。現実に日本人が食べて来たのは地方の料理、あえて歴史的な表現をするならば、藩の料理である。もし日本の料理に緊急に解決すべき危機があるとすれば、それはグローバリズムと観光主義の名のもとに、泡粒のようにはかない地方料理が次々と崩壊し、あるいは統合的な味覚の中に呑みこまれてしまう現状である。「日本の食の国際化」という標語は、「美しい日本」という標語以上に空疎であり、虚偽であり、日本文化が本来的に携えてきた豊かな多元性を毀損し、貧しい孤立化へと導いていくものである。(40ページ)

四方田氏によれば、そもそも日本政府の要請を受けてユネスコが“Washoku”を無形文化遺産に認定したのは、京都の料亭の料理人を中心とした「日本料理アカデミー」なる団体による運動が発端だったそうです。しかしそれでは日本料理が会席料理に限定されてしまうという懸念が示され、それで「極東の島国において千年以上の歴史を有し、四季折々の旬の食材、その素材の味を生かしたヘルシーな調理法が近年評価されている」(これ、脚本『世界三大料理』に出てくるセリフです)といったようなナショナリズムめいた申請理由をこしらえ、首尾よく認定の運びとなったよう。

このくだりを読んで、いたく共感しました。実のところ私が脚本『世界三大料理』に盛り込みたかったのは、それぞれの料理がナショナリズムをかざして「三大入り」を目指すことの滑稽さをドタバタコメディとして演じることで、お互いが相手に対して抱いているステロタイプな決めつけを解きほぐすことでした。登場するキャラのなかにはトム・ヤム・クンばかりを激推しする「タイ料理」や、「イギリス料理」を「アンタ、あんまり美味しくないから」と切って捨てる「中華料理」、“Make America Great Again”が口癖のあの人物を彷彿とさせる「アメリカ料理」も登場します。

四方田氏はこの論考で、日本政府が日本料理あるいは“Washoku”を無形文化遺産に仕立て上げることは、日本における食料廃棄率の高さ、家庭料理の解体、低すぎる食料自給率、商業的な供給と消費の中で失われていく季節感等々に対する数多くの隠蔽のうえでなされていると批判しています。さらに「歴史的にも、また地理的にも、日本料理とは外国の料理体系と食材の不断の影響のもとに変容を続けている文化にほかならない」という事実を無視したものでもあると。

私はこれまで留学生の日本語劇を担当するなかで、さまざまな国と地域から集まっているきわめて多様性豊かな留学生のみなさんであるからこそ、このお芝居を演じることに何らかの意義もあるのではないかと思ってきました。ですから、四方田氏の批判を読んでその意をさらに強くしたのでした。われこそは世界の中でもトップクラスの……と吹聴する行動の裏では、往々にして豊かな多様性や微細なニュアンスなど大切なあれこれが一薙のもとに捨象されてしまうものですから。

この本にはほかにも世界各地のさまざまな料理あるいは食文化に対する論考が収められていて、それらはさまざまな角度から私たちの「いま・ここ」の食についての思考を促してくれるようになっています。これもまた偶然立ち寄った書店で「本に呼ばれた」一冊でした。やはりリアルな書店に詣でることは大切ですし、だからこそリアルな書店が街からなくなってしまったら困るのです。

追記

この本の表紙には香辛料の「八角」があしらわれています。収められている文章の中には、台湾料理における八角の存在について書かれたものもあり、これも個人的にはとても心に響く一文でした。

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