インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

オートメーション・バカ

昨年、久しぶりにマニュアルの自動車を運転する機会がありました。もう何十年もオートマ車にしか乗っていなかったので、教習所で単発の訓練をお願いしたのですが、マニュアル車の運転技術を存外「身体が覚えていた」ことに驚きました。

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それと同時に、オートマ車に慣れていたことで忘れていた、ある種の身体感覚が蘇ってきたような気がしました。路面の状態やスピードによってシフトレバーを切り替えるときのクラッチのつながり具合、その際に感じるエンジンの推進力などさまざまな状態。ひとことで言えば「機械を操作している感」みたいなものがなんだか楽しくて、オートマ車マニュアル車ではずいぶん違うんだなと思ったのです。

先日の『ネット・バカ』に引き続き、ニコラス・G・カー氏の『オートメーション・バカ』を読みました。前著の副題は「インターネットがわたしたちの脳にしていること」でしたが、今回は「先端技術がわたしたちにしていること」。これは、先端技術を駆使した便利なオートメーションを使えるようになったことで、私たちが何を得て、また何を失った(あるいは失いつつある)のかを冷徹に分析した一冊です。


オートメーション・バカ ―先端技術がわたしたちにしていること―

ここでいうオートメーションとは、便利であるがゆえにすでに身体感覚とは切り離されて、半ばブラックボックスのような状態になったシステムのことを指しています。スマホやコンピュータはいうに及ばず、自動車から航空機にいたるまで、わたしたちはもはやこうした便利なシステムに頼らずには暮らしていけない世界に生きています。

オートメーションによって暮らしは格段に便利になりましたし、人間にかかる負担も減ったのですが、はたしてそれでよかったのだろうかというのが、この本を貫く問いかけです。便利なシステムに身を任せることで「暗黙知を学ぶ機会があらかじめ締め出されてしまう(138ページ)」のではないかと。暗黙知とは、個人の経験や勘に基づく、簡単には言語化できない知識のこと。自動車の運転は、まさにその暗黙知のひとつです。

この本はもう十年以上も前に刊行されたものですが、たとえば人工知能についても、その「目標はもはや、人間の思考の過程(丶丶)を複製することではなくーーそれはまだわれわれの理解の及ばないところにあるからだーー思考の結果(丶丶)を複製することとなっている(155ページ)」と鋭い指摘がなされています。まさに現在の生成AIをめぐって、その内部でどんな仕組みでアウトプットを生み出すのかはよくわかっていないにも関わらず、その結果だけ手にして喜んでいる私たちのことを予言しているみたいです。

個々人が練習や訓練や鍛錬を通して経験やスキルを積み上げ、暗黙知を獲得していくというのがこれまでの技術や思考や知のありかただったのが、オートメーションに頼り切ることでその努力が必要ではなくなる、あるいは大幅に軽減される。その結果、個々人の思考や身体技術と、それによる結果や成果が個人の中で有機的に結びつかなくなる。それは「スキルの消滅」を招いているのではないかとこの本は訴えるのです。

航空機メーカーの二大巨頭、エアバスボーイングは、この点で大きく違う設計思想を持っているそうです。エアバスは操縦をできるだけオートメーションに任せようとし、操縦桿もいまや小さなサイドスティックになっています。対してボーイングは従来の大きな操縦桿を残し、実際にはかなりの部分をオートメーションに任せつつも、パイロットの身体スキルと航空機の挙動ができるだけ一致(していると実感できるように)することを重視し、不測の事態が起こった際にも感覚的に身についている暗黙知を発動させられるようにしているのだとか。

toyokeizai.net

航空機ほどに複雑でもない私個人でさえ、さまざまなオートメーションのご利益にあずかる一方で、いろいろな暗黙知を明け渡してきたような(あるいは消滅させてきたような)実感があります。パソコンで文字を打ち込む際の予測変換、紙から電子さらにはネット上へと変わってきた辞書、AIがほとんど瞬時に行ってくれる文字起こし……。

英語の文章を書くときなど、Grammarlyが、文法やスペルや語彙選択の適否はもちろん、句読点や表現スタイルなどの妥当性まで随時チェックし、修正を提案してくれます。便利すぎるほど便利ですが、これじゃ語学力は伸びようがないかもしれません。以前は指摘されるごとに気づいて学べるからいいかも、などと思っていたのですが、水は低きに流れるもの。間違っても必ず指摘してくれると思ってしまえば、もうそれ以上学習しようとはしなくなるのが私という人間のようです。

ネット検索も同じ。検索すればそこに答えがあると思ってしまえば、もう学習しようとか暗記しようとか知識を自らの内側に蓄えようとか、そんな「泥臭い」営みはやらなくなります。これは自分自身の反省としてもそうですが、自分の周囲の学生さんたちを見ていてもそう思います。でも、記憶を司る海馬への刺激が減り、最悪それがもとで萎縮し始めた場合、記憶全体の喪失や認知症リスクの増大にまでつながる可能性もあるんだそうです。怖すぎます。

ということで私は、この本を読んで、こうした便利なオートメーションからなるべく自分を引き剥がそうと模索し始めました。あのマニュアル車を何十年かぶりで運転した時の驚きや楽しさを取り戻したいと思って*1。でも生まれたときからインターネットはもちろん、スマートフォンさえ身辺に存在した世代の方々は(もうそういう人が私の勤める学校にも入ってきています)難しいだろうなあ……。

蛇足ながら、この間読んだ『ネット・バカ』同様、この本の日本語版タイトルも内容を的確に反映しているとは言えないように思います。実は「訳者あとがき」でもその点に触れ、この本で取り上げられているオートメーションは精神活動をも含んだ概念だと指摘されています。でも日本語で「オートメーション」といえば、さまざまな作業を行う自動化された生産ラインやロボットみたいな狭いイメージですよね。さまざまな示唆に富む、広く読まれるべき一冊だと思うがゆえに、ちょっと残念に思いました。

私はこの本を職場の図書館で借りましたが、確かめたところ、うちの図書館がこの本を購入したのは刊行年の2014年だそうです。それから一度も貸し出されることなく、2025年にいたって私が初めて借りています。やっぱりタイトルが災いしているような気がしてなりません。

*1:旅行先でも、終始GPSGoogleマップなどに頼り切って移動したり車を運転したりしています。スクリーンにくぎづけで周りの風景を見ていないし、次々に現れる指示をこなすだけの旅になってしまう。遠回りしても、無駄足を踏んでも、自分で地図を読み、判断して移動したほうが旅の印象はより深まるのかもしれません。次回の旅はぜひそんなふうにしてみたいです。