昨日の東京新聞朝刊に、思想家の内田樹氏が「民主主義の手柄」と題する論説を寄せておられました。お若い方からの「民主主義って何でしょう?」という問いかけに「こんな返事を差し上げた」という形で、民主主義(民主制)の強みについて語られています。
民主制には「まともな大人」を育てようとする側面があると内田氏は指摘します。「自分勝手な幼児ばかりでは民主制が持たない。せめて自分だけでもまともな大人になって制度を支えなければ」と、人々に成熟をうながす機能があるのだと。
そして記事の最後では「『まともな大人』の比率がどれくらいまでなら民主制は持つのか」と問いかけます。
「7%」という数字がとりあえず頭に浮かんだ。百人中の七人、五十人中の四人が「まともな大人」であればその集団が自滅的な選択をすることはたぶん防げるだろう。だが、その比率がそろそろ限界に近づきつつある。
私は氏のおっしゃる民主制の強みについてのお考えに心から賛同しますし、今回の参院選における投票率の低さなどからも、この国の民主制の未来については強い危惧を抱いているものです。ただ「まともな大人」という言葉遣いと、その(民主制を維持していけるボーダーラインとしての)「7%」という数字設定には、ほんの少し違和感を覚えました。
私など、こういった論説に接すると、すぐに「ああ、私はまだその『7%』のうちに入っている。それに比べて世の中には『まともな大人』が少なすぎる」といった気持ちが湧き上がります。あまつさえ「世の中『馬鹿な大人』ばっかり!」と吐き捨てて、ひとしきり溜飲を下げるようなことまでやりがちです。職場でも同僚たちとよくそんな会話をしているような気がします。
でもそうやって溜飲を下げているばかりで、「ではどうすればいいのか」を考え続けることを放棄してしまえば、これはこれで民主制の破綻に力を貸すことになるんですよね。私は以前に書いたカルト宗教に関する記事で、カルト宗教にハマっている人に特有な「謎の優越感」について書きました。「エホバの証人」との決別を描いた、たもさん氏のマンガ『カルト宗教信じてました。』からもう一度引用いたします。
洗脳されている当の本人は(かつての私も含め)自分が洗脳されているなんて夢にも思っていません。むしろ、唯一無二の真理を知ることができているという、謎の優越感を抱いています。そして真理を知らない人、知っていても神の教えを守らない人を、「いずれ亡びる気の毒な人、救いの必要な人」とみなしています。
私は「まともな大人」と「7%」に、これと同じような心性を感じ取りました。もちろん内田樹氏がこのような心性で書かれているとは思いません。あくまでもこうした言葉遣いを受け取る私の側の問題です。
もとより、世の中の人々が「まとも」と「まともでない」にくっきりと分けられるはずはありません。なのに自分が「まともな大人」なんだ、「7%」の内側なんだと思い込むことで溜飲を下げ、謎の優越感にひたり、他者をバカにするようなったら、たぶん永遠に社会は変わらないし、自らも独善の塔に籠もることになると思います。野党がなかなか党勢を拡大できない理由の一端がここにあるかもしれません。
上掲書の続編『カルト宗教やめました。』に出てきた、たもさん氏の夫「カンちゃん」のこんな述懐を思い出します。
自分たちはノアのように宣べ伝えさえしていれば救われると信じていて
世の中の人はむなしい生き方をしていると思ってた
週末に居酒屋で
バカ騒ぎしているだけに見えた人たちも
本当は俺たちが布教活動に時間を費やしている間
ちゃんと勉強してちゃんと働いてちゃんと将来に備えていた
私はこうした、自分の頭で考えることを放棄するような都合のいい言説に絶対的に帰依するのがいちばんまずいと思います。「まともな大人」と「7%」にはそういう甘いささやきが潜んでいるように感じたのです。
上掲の論説にはもうひとつ、このようなくだりがあります。
でも、そういうシステム(少数の統治者による非民主的な国:引用者注)は『賢い独裁者』がいなくなると、たちまち機能不全に陥ります。システムをきちんと機能させることが『自分の仕事』だと思う成熟した市民を育てることを怠ってきたからです。
私にとってはこれも「謎の優越感」を湧き起こさせる甘いささやきです。それはもちろん自分にとってもきわめて関係の深い、おとなりの中国を想起させるからです。でもかの国だって実相はそんなに単純じゃありません。
中国崩壊論がもう何十年もの間何度も唱えられつつ、実際にはまったくそんなふうに物事が推移してきませんでした。「あんな国は崩壊しちゃえばいい」とばかりに思考停止してきた人は多いのではないか……こうした言葉遣いが私自身に警鐘を鳴らすのはつまり、この世界をあまりにも単純に捉えすぎてはいけない、それは逆に知性に欠けた態度なのだという点です。