インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

無知であることの罪について

先日いろいろと考えさせられた「米国では(授業において)議論に参加しないのは『フリーライダー(ただ乗り)』だという意識がある」というお話。そして、それに比べて日本の学校では「クラス全体への貢献度」という考え方が非常に薄く、しかもそれは子供の頃から訓練していなければなかなか身につかない「作法」なのではないかというお話。

この話については、先日ブログにもこう書きました。「なぜ日本ではそうではないのかというと、日本の私たちが引っ込み思案だからとか、恥ずかしがり屋だからとか、同調圧力のなかで自分だけ目立つことを極端に恐れるからという理由もさることながら、幅広い社会や世界の課題について語るべき相応の知識を持っていないこともその理由のひとつなのではないか」と。

この点に関して、上掲の議論を鴻巣友季子氏とTwitter上でされていた柴田優呼氏は、こんなツイートもされていました。


ああ、これは私も学校現場でよく感じます。もちろん私が接している学生さんは全体から見ればほんのほんのひとにぎりですから、それをもって外国人留学生、とりわけアジア各国からの留学生と、日本の学生との間で社会の各方面で議論されている話題に相当の差があると断じることはできないかもしれません。

でも学校現場だけでなく、もっと広く日本社会全体に目を向けてみても、特にこの国の要路にある人々の発言や行動に、諸外国の人々が取り上げている「問題群」に対しての何周もの周回遅れが生じているのを認めることがやたらに多い……そのことに日々無念さと憤りを感じています。そしてまた、自分がまだまだ「疎い」問題群は何だろうという焦りや一種の緊張感のようなものも。

そうした「問題群」というか「課題群」うちのひとつ、性的マイノリティについての理解や認識についても諸外国、とりわけ米国と私たちとの間にはきわめて遠い距離がある(もちろんあちらがはるか先を行っていて、私たちはその後塵すら拝していない状態)ことを改めて感じた一冊を読みました。ジャーナリスト、コラムニストの北丸雄二氏が最近上梓された『愛と差別と友情とLGBTQ+』です。

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愛と差別と友情とLGBTQ+: 言葉で闘うアメリカの記録と内在する私たちの正体

帯の惹句には「世界を知り、無知を知り、人間を知る」とあるのですが、私は特に「無知」について、そして無知であることの罪について考えさせられました。

今次のオリパラをめぐる騒動でもそこここに顔を出していましたが、本邦ではジェンダーセクシャリティについて、無知による差別的な言辞があとを絶ちません。しかもそうした言辞を弄した後、それを指摘・指弾されると「誤解を与えたのであれば/不快に思った方がいるのであれば、謝りたい」という「謝罪、のようなもの」が繰り返しなされる。だがそれは謝罪ではなく、無知を恥じる姿勢でもなく、ただひたすら無知を無知のままにしておきたいという知的怠慢、あるいは逃亡でしかないことがほとんどです。それはもはや罪と言って差し支えないのではないか。この本は、そうした私たちの無知に対して大きく反省を促し、欠けている「知」を補ってくれます。

この本は大きくふたつのパートに分かれています。1980年代に始まるエイズ禍、ご自身が新聞社の特派員として赴任した1990年代初頭から今日に至るまでのゲイムーブメントをつぶさに追った前半。そして、ご自身の生き方の在りようも披露したうえで、性愛を超えたところで、あるいは性愛をも包含した個々の人間存在をまるごと引き受けようとするスタンスを示すことで、より深いエンパシーを共有できる未来を展望する後半。

私もこの年代を学生、そして社会人として見つめながら過ごしてきましたから、その時代時代で自分の周囲はどうだったか思い出し、引き比べながらこの本を読みました。そしてこの時代を通じて拡大してきた米国におけるさまざまな人権運動と、それにともなう人々の認識の変化に驚き、それに比べてこの日本の「変わらなさ」あるいは変化の遅さ、そして海外のこうした潮流の「伝わらなさ」は何なのだろうと何度も考えました。

多民族社会であり、さまざまな価値観のすりあわせを常に待ったなしで行わなければ世の中が回っていかないという米国の状況も反映しているのでしょうけど、とにかく社会運動や抗議運動がすぐに立ち上がり、それに対する賛同も反発も一斉に湧き上がり、そうした運動に対する支援や寄付も人口比で見ても日本とは比べものにならないくらい多い……。

賛否に関わらず、とにかく言葉を尽くして議論が繰り広げられるというこうした基本的なスタンスはどこからくるのでしょうか。私はこの本を読みながら、市民社会に生きる人間としての教養を尊重する風土と、それをまともに学ぼうとしない風土の違いではないかと感じていました。無知を無知のままにして恥じないこの私たちの風土とは何なのか。

そのひとつの手がかりとして、北丸氏は「クローゼットな言語」(としての日本語)という概念を提示します。「クローゼット」とは日本で言えば「押入れ」。「自分の性の在り方を『押入れ=プライヴェートな場所』に隠しておかなければならない状態(41ページ)」という意味で、本書でたびたび用いられるキーワードなのですが、北丸氏はそれを敷衍して「全部言い尽くすことは避けようとする日本語の特性(98ページ)」にその無知の一端を見いだしています。

彼らは世界で何が起きているのかをほとんど知らない。日本で流通している日本語だけの情報で満ち足りて、そこから出ることも、その外に世界が存在することも考えていない。日本の世間は日本語によって護られているつもりで、その実、その日本語によって世界から見事に疎外されているのだ(110ページ)

これはミュージカル『アルターボーイズ』の2009年初演時(北丸氏が脚本の翻訳を担当されています)に、登場人物の一人で自分がゲイであることをほのめかすような語りがある「マーク」を演じた日本人俳優が、舞台のアフタートークで「オレ、こういうオカマっぽい役、ほんとはイヤなんだよね」と口にしたことを受けて書かれた一節に出てくる考察です。

確か昨年も、鴻上尚史氏演出の舞台『ハルシオン・デイズ2020』で、出演者のひとりが「またきてしまったのか……オカマ役が」に始まるホモフォビアむき出しのコメントを出して、ネットで「炎上」した一件がありました。10年以上の時を経てもまだこうした言説が繰り返されるほど、日本では人々の意識の変化が遅いことを予想させる一件でした(それでも「炎上」するだけ進歩しているとも言えます)が、北丸氏は前掲の「マーク」役の俳優に率直な批判を送り、その言葉を受けてくだんの俳優の演技は「別人のように」変わったそうです。北丸氏はこう書きます。

そのとき思ったのは、彼らにはそうした思考回路が与えられていなかっただけなのだ、ということでした。日本語の思考回路に、ほんのちょっと別のところへ通じる回路を添えてやれば、彼らだっていろんなところに行けるのです。なのにそんな新たな何かへと通じるチャンスを、「外界」の影響を受けない日本語(だけの)環境は与えることがない、いつまでも他の可能性に気づかないで過ごしてしまう。いや、過ごせてしまう。そしてそのことを、不埒だとは考えない……。(111ページ)

私は外語を学ぶことは、それを使って仕事の幅が広がるとか就職に有利だとかそういうことよりも何よりも、このように「別のところに通じる回路」の本数を自らのなかに増やすという点にこそ最大の意義があるように思います。そしていまの私たちにはなお、そうした努力が欠けているのではないかとも。海外の事例や潮流を、翻訳で間接的に、あるいは自らの語学で直接的に学ぶことの大切さ。この本の前半で紹介されている「言葉で闘うアメリカの記録」から学べることは多いです。

後半の「内在する私たちの正体」を扱った諸章は、それが個々人の非常にプライベートな領域にまで注意深く降りていく論考であるだけに、人によって受け止め方が分かれるかもしれません。それでも私は、いわゆる性的マイノリティにおけるセクシャリティが、ただ性的な側面でばかり語られることの理不尽さについて大いに共感しました。そしてそれが、例えばあの「生産性」発言にも見られるように、ひとりの人間が生きることそのものに関わる問題としていまだに捉えられていない日本の(ここでも何周にもおよぶ)周回遅れについてももどかしさを感じました。プロローグにもこう書かれています。

カミングアウトの困難とは、たとえさりげなくであっても『ゲイです』と表明することが、『お前のセックスの話なんかいちいち聞きたくないんだよ』という反射的な反応を惹き起こしてしまうことが原因です。こちらは自分の生きる在り方を話しているつもりなのに、相手は単にセックスの話だと受け取るという、まるでバベルの塔みたいな思いの不通。(35ページ)

ここでもまた「無知」が顔を出します。私たちの社会はまだ、個々人が「生きる在り方としてのセクシャリティ」についてきちんと学べていないのではないか。同性婚ひとつとっても、日本は「世界から見事に疎外されてい」ます。私たちはこうした「問題群に疎い状態が、何十年も続いているということ」について、深く恥じなければなりません。