インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

旅の効用 人はなぜ移動するのか

昨年ベストセラーになった、ハンス・ロスリング氏の『FACTFULNESS(ファクトフルネス)』に、「世界はどんどん悪くなっている」と考えてしまう「ネガティブ本能」について書かれた一章がありました。ネガティブなニュースは耳目を集めやすいためどんどん伝わってくるのに対して、ポジティブなニュースはことさらに取り上げられることが少ないため、全体として「昔はよかった」と思い込む一方で未来に対して悲観的な見方をしがちだというのです。

そうした思い込みやバイアスを排して世界を正しく見つめようというのが同書の趣旨なのですが、ロスリング氏と同じスウェーデン人のペール・アンデション氏が書いた『旅の効用』(これまた欧州ではベストセラーになっているそうです)にもこれと通底するような指摘がありました。

憎悪に発展する可能性のある不安の九割は、見知らぬ事柄に対する無知、つまりは、故郷以外の世界を知らない経験不足が原因だと私は確信している。(310ページ)

本当にそうですね。ネットにはレイシストのみなさんがあまた跳梁跋扈していますが、その発言や書き込みを読むと、現地の状況や現地の人々と直に接したことがないのが透けて見えます。いちど旅にでも出てみれば、そして現地の人々と行き会ってみれば、ずいぶん違う印象を持つはず。その上で批判すべきところがあれば批判し、恥じるべき無知は恥じて世界観をアップデートさせればよいのです。

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旅の効用:人はなぜ移動するのか

旅に出てみれば、しかもそれが、何もかもお膳立てされたパックツアーやお金に物を言わせた豪華客船のクルーズなどではなく、可能な限りの少人数(理想は一人)とノープランであればあるほど、それまでの自らの価値観や世界観が大いに揺さぶられるものです。読書にもその「効用」はありますが、やはり実際の旅において、精神だけでなく肉体でも感じられるあれやこれやは、確実に自分の視野を広げ、無知を解きほぐしてくれます。

ペール・アンデション氏はスウェーデンの旅行誌『ヴァガボンド』の共同創業者で、バックパッカー・ヒッチハイカーとして世界各地を旅行してきた人物だそうです。この本にはそんな氏の経験から紡ぎ出された、旅に関する様々なエッセイが収められています。特に「リピーターを笑うな」と題された一節には大いに共感しました。

人は遅かれ早かれ、絶えず新しい場所を訪れようとはしなくなる。ビールのジョッキや各種の鳥をコレクションするように、旅の体験をコレクションしようなどとはしなくなるのだ。そうしたコレクションなど無意味だと、不意に感じるようになるのである。

そうそう。私も以前は、世界中の「ここにも行きたい、あそこにも行きたい」と思い、とはいえそうそう海外に出かけられるわけでもないため一種の焦燥感のようなものにとりつかれていたのですが、最近はかなり旅に対する考え方が変わりました。むしろ同じ場所を何度もたずねて、まるで別の自宅に「ただいま」と戻ってきたかのような感覚を味わうのが楽しくなってきたのです。

しかも事前に入手していた有名な観光スポットの情報やビジュアルを再確認するだけのような旅ではなく、観光地でも何でもないごくごく普通の街の、市井の人々が暮らしているエリアに(できるだけ邪魔にならないように)分け入って、ノープランでただただ流れに身を任せるような旅が楽しいと思えるようになりました。

スケジュールに追われることもなく(とはいえ、始まりと終わりだけはどうしたって決めなきゃならないですが)、誰かにお土産を買わなきゃなどと思うこともなく、観光地ではないので他の観光客ともほとんどすれ違うこともなく、従って観光客目当ての客引きや物売りの人々に旅情をぶち壊されることもなく……現在の感染状況が落ち着いたら、またそんな旅に出かけたいです。

こんなある意味わがままな旅は、やはり同行者がいると実現しにくいです。というわけで、家族には申し訳ないけれど、次回もまた一人で旅に出かけることになると思います。