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ゲルハルト・リヒター展

東京国立近代美術館で開催中のゲルハルト・リヒター展を見てきました。ドイツ・現代アートの巨匠と称されるリヒター氏。その、日本では16年ぶりの大規模な回顧展とのことで、さまざまなメディアでも紹介されています。先日は私が購読している新聞にも特集記事が載っていました。

www.tokyo-np.co.jp

展覧会場に入ったところに十数ページほどのハンドアウトが置かれていました。それによれば「本展覧会には章構成などにもとづいた展示順序はありません。ここに掲載された会場マップやキーワードを手掛かりに、関心の赴くままに自由にご鑑賞ください」とのこと。つまり展覧会でよくある「順路」というものがないということですね。

それで私も感心の赴くままに自由に見ました。リヒター氏の60年以上にわたる芸術活動で生み出されてきたさまざまなシリーズ、それに傑作との呼び声高く、今回の展覧会の目玉とされている「ビルケナウ」もじっくり見ました。会場は時間指定の入場制限があり、しかもこうした現代アートの展覧会であるにも関わらず、かなり多くの観覧客がいて盛況でした。


https://www.momat.go.jp/am/exhibition/gerhardrichter/

しかし、たいへん残念なことに私は、この展覧会にまったく心動かされることがなく会場を後にしてしまいました。ゲルハルト・リヒター氏の作品は、私にはちょっとご縁がなかったようです。

例えば「ビルケナウ」をはじめとする氏の代表的シリーズである「アブストラクト・ペインティング」。さまざまな色彩の絵の具をキャンバスに塗った後、スキージと呼ばれる大きな板状のへら(シルクスクリーンなどで使われるあれですね)で引き延ばしたり削ったりして複雑な色とテクスチャーの層を作り出しています。

ハンドアウトによればそうしたアブストラクト・ペインティングは「文字通り、『抽象的に』『描く』ことについて、あるいは『抽象的な』『図像』とはいかなるものかと思考するための作品群と言えるかもしれません」とのことです。でも私にはそこまでの思考は降りてきませんでした。私にはそれらが単なる絵の具の堆積、あるいは浪費(ごめんなさい)にしか見えなかったのです。

展覧会の図録には、ホロコーストに材を採った「ビルケナウ」の制作過程が連続写真で載っていました。まず、ビルケナウ(アウシュビッツ強制収容所で密かに撮影された虐殺後の遺体が処理されている光景の写真(会場の「ビルケナウ」の横にも展示されていました)があり、リヒター氏はそれを精緻に巨大なキャンバス上に模写した後、上述したようなスキージによる絵の具を何層も重ねてこの作品へと仕上げています。

ハンドアウトには「私たちはこの作品の名前と、絵画の下層に描かれているイメージの複製写真を手がかりに、抽象的な絵の具の壁を越えて、これら見えないイメージ、抑圧された出来事を想像するよう迫られます」とあります。なるほど、コンセプトとしては分かりますけど、ということは逆にこうした作品名や元となった写真、あるいは図録やハンドアウトがなければ、そうしたコンセプトを理解することは難しい、というか不可能です。

おまえは素人だから、アートのことなど何も分かっちゃいないとお叱りを受けそうですけど、そうした知識を先行させた形でしか理解できないのであれば、こうした絵画作品に仕立てる意味はどこにあるのだろうと思ってしまったのです。もちろん図録を先に買って、予習してから見るコンセプチュアル・アートと理解すればよいのかもしれませんが。

もちろんマーク・ロスコやバーネット・ニューマンやドナルド・ジャッドなど、リヒター氏以上に抽象的な、あるいはシンプルすぎるくらいシンプルな作品を残し、かつそれが高く評価されている作家はたくさんいます(私も大好きです)。でもそうした作品群はそれまでの美術史の流れの中に位置づけて理解することが可能です。でも2014年という比較的最近に制作された「ビルケナウ」の、絵画表現としての外見的・物質的特徴は、美術史にどう位置づければよいのでしょうか。

その奥に塗り込められたビルケナウの真実を踏まえた表現だという点を前提とするにしても、それをこの大きさのキャンバスと絵の具という素材とスキージによる技術で作ったことに何の関連があるのでしょうか。まさか真実は往々にして何かによって塗り込められていて、理解することは難しいといったような陳腐なコンセプトではありますまい。

人の背丈を超えるほどのキャンバス四枚で空間を圧倒する絵画作品に仕立てるからには、その空間における物質としての作品に何らかの表現意図を持たせたかったはず。なのにその意図は説明をされなければ理解不能というのでは、作品の成り立ちそのものに破綻があるのではないか。

各メディアのレビューでは、重層的な色彩やスキージによる光沢や傷などの質感に感動したという声が多く載せられていましたが、そうした見方をされること自体、この作品が従来の絵画的な見方を求められているということでしょう。

そういう従来の絵画的な見方をする限りにおいては、私はこの作品に何らの新しさも見出すことはできません。逆にビルケナウの写真を塗り込めるというコンセプトを評価するのであれば、この大きさと素材と技術は不要なのではないか、つまり作品としてどっちつかずなのではないか、もっと失礼なことをいえばこれは一種の「こけおどし」なのではないか。そんなことを考えてしまったのです。

これはごくごく私的な感想に過ぎません。もちろん他人に押しつける気もまったくありません。ただ、ビルケナウという歴史の重みに仮託せず作品そのものを見てみたら、私はまったく心動かされることがなかった。ご縁がなかったと申し上げる所以です。

ゲルハルト・リヒター展を見たあと、東京国立近代美術館の常設展で松本竣介氏の『Y市の橋』を見て、入場料2200円の価値はじゅうぶんにあったなあ、と思って帰ってきました。

search.artmuseums.go.jp