インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

清少納言を求めて、フィンランドから京都へ

いわゆる「アラフォーシングル」のミア・カンキマキ(Mia Kankimäki)氏が清少納言に魅せられ、休職して京都へ研究に赴く……というより安宿に「転がり込む」ようにして京都にやってきます。エッセイであり、紀行文であり、ご自身がフィンランド人であるだけに自ずからそれは比較文化論にもなっていて、とても楽しんで読みました。京都に到着したばかりの時に、筆者はこう書きます。

ここでこれから私は人生の三ヶ月を過ごすのだ。会議を梯子するのでも、ストレスで苦しむのでも、絶ゆまぬ(ママ)成長と営業活動改善と組織改革の圧力を受けるのでも、モチベーション不足に陥るのでも、転職という名のもとに安月給に悩まされるのでも、六時十五分に鳴る目覚まし時計に従うのでも、変わり映えのしない毎日にフラストレーションを溜めるのでも、テレビ番組の次回を待つのでも、違和感を覚えてプレッシャーに押し潰されるのでもなくーーここで、自由に、自立して、一人で、目の前にあるあらゆる可能性を、毎朝、自分の思うままに、したいことやしそびれたことを選ぶために。(82ページ)

この記述に「ぐっ」と心を掴まれる方は多いのではないでしょうか。私ももちろんそのひとりです。ああ、私もこんなふうに、日常に倦んだ自分の心を解き放って、例えばフィンランドのユヴァスキュラあたりにでも行って、思う存分勉強できるような日々に身を置いてみたい。

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清少納言を求めて、フィンランドから京都へ

でも、この本は、そうした「自分探し」のようなよしなしごとをただ書き連ねているだけではありません。そのベースにはご自身がこんなにも惹かれてしまった清少納言の『枕草子』について独自の解釈や、その成立の背景を推理する一種の「謎解き」のような考察が敷かれています。これがまた面白く、また自分が日本語母語話者でありがなら『枕草子』をほとんど読んでこなかったことを恥じ(中学校か高校の「古文」で冒頭部分「春はあけぼの……」を暗記させられたくらいでしょう)、もう一度読んでみたいと強く思わせてくれるのです。

紫式部の『源氏物語』に比べて、英訳された資料が圧倒的に少ないという『枕草子』。そして筆者は、日本語がほとんど分からず読むこともできず、わずかに英訳された枕草子の資料を通して清少納言の人物像と、生きた時代に想像を馳せて行きます。清少納言の他に、もちろん紫式部にも、そして吉田兼好、さらにはヴァージニア・ウルフにまで考察は及びます。ちょっと無謀とも思えるような研究の旅。けれども、筆者が自分を清少納言に重ねながら、さまざまなことを感得し、悟っていく過程に私は、とても共感を覚えました。

フィンランド語で書かれた原著のタイトルは“Asioita jotka saavat sydämen lyömään nopeammin”で、直訳すれば「より速く心を打ちつけてくれるものたち」とでもなるのだと思います(たぶん)が、これは翻訳者の末延弘子氏が「『枕草子の』章段から引用された『胸がときめくもの』」なのだと解説されています。日本語版には『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』というそのまんまの邦題がつけられていて、これはまあ営業的には仕方がないと思います(実際、この題名だったからこそ私もこの本を手に取りました)が、読了したあとでは確かに「胸がときめくもの」だなあ、できればこの題名がよかったなあとも思いました。

清少納言と『枕草子』をめぐる記述のほかにも、いろいろと付箋を貼った箇所がありました。筆者がちょうど滞在していた当時に発生した、東日本大震災当時の日本についても書かれていて、外国人として京都にいた作者の混乱と不安が伝わってきます。当時私は東京にして、同じように不安な思いを抱えていたけれども、異国でそうした事故に遭遇することが私たちの想像を超えるほど大変なことなのだということが分かります。

また、国際的な観光都市・京都であってさえ、博物館などの展示や文章のほとんどが日本語しかないというのは意外でした。この本はコロナ直前のインバウンドが急増した時期よりももっと前に書かれているので、いまは当時よりもかなり充実している可能性はありますけれど。

遅ればせながらも日本語を学び始めた筆者の悪戦苦闘ぶりにも、同じ語学学習者としてにんまりしてしまうところが数多くあります。

数字にも滅入ってしまう。だって、人か、機械か、動物が小さいか大きいか、平べったいか、細長いか、丸いか、塊のようなものか、数える対象によって数え方が違うのだ。(39ページ)

そうそう。そういう、世界の切り取り方の違いが言語の違いでもあるんですよね。でも私たち日本語母語話者だって、フィンランド語の複雑極まりない格変化に、滅入る暇もないほど振り回されっぱなしなんです。もちろん、それが楽しくもあるのですが。

全体で500ページ近くもある大部の作品ながら、筆者の旅に寄り添いながらあっという間に読み終えてしまいました。凡庸な(と自分には思える)日常を抜け出して、何か新しい人生のステージを切り開きたいと思っている、特に中年と呼ばれる年代を迎えた人々への励ましとなる一冊だと思います。