インタプリタかなくぎ流

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コスパやタイパは禁句にしたい

いわゆる自己啓発本と呼ばれる書籍や、ビジネス系のWebメディアなどを読んでいて、仕事選びとかキャリア形成に関する話題になるとよく引用されている理論があります。心理学者のジョン・クランボルツ氏が1999年に発表した「計画的偶発性理論」です。

その理論をやや乱暴にぎゅーっと圧縮して表現すれば「キャリア形成の8割は偶然の出来事による」ということになります。これをどう受け取るかは人によって違うでしょう。だったら何か目標を立ててそれに向かって努力するなんて意味がないじゃん、と思う人もいるでしょうし、いやいや、だったらなおさらいろいろな努力をして偶然との出会いを増やす努力をすべきだと思う人もいるでしょう。

クランボルツ氏の主張はもちろん後者で、何か起きるのを待てと言っているわけではなく、意識的に行動することで偶然の出来事にめぐりあうチャンスが増えるとして、そのチャンスを引き寄せるために以下のような姿勢を心がけるべきだとしています。すなわち……

1.好奇心:新しいことに興味を持ち続ける
2.持続性:失敗してもあきらめずに努力する
3.楽観性:何事もポジティブに考える
4.柔軟性:こだわりすぎずに柔軟な姿勢をとる
5.冒険心:結果がわからなくても挑戦する
こちらのページから引用しました。

こう書かれてしまうと、ちょっと功利的にすぎる行動原則のように思えて、とたんに「それはまあそうでしょうけど……」とややシラけたような気持ちになります。自己啓発本にもよく「好きなことを仕事にしなさい」なんてなことが書かれていますが、それができれば苦労はしない、実際には世の中そう甘くないから好きでもないけどとりあえずは食べていくためにいまの仕事をしてるんだよ、という人が多いと思います。私もそうでしたし、いまもまあ、それに近いといえば近いです。

ただ自分のキャリアを振り返ってみるに、いまやっているような仕事についているのは、たしかにまったく自分の予期していなかった結果であり、その意味では偶然の出来事によってここまでたどり着いたというほかありません。その偶然の出来事を手繰り寄せるような具体的な努力をした自覚はあまりないものの、ただ上掲の5項目でいえば1と5、すなわち好奇心と冒険心は少なからずあったような気がします。

それをつづめて言えば「あまり後先考えずに取り組む」とでもいったところでしょうか。それはまあ私があまりアタマがよくないということかもしれず、そのぶん仕事でも私生活でもずいぶん遠回りやムダが多かったですが、いまになって思えば後先考えずにいろいろと手を出してきたことが案外悪くなかったのかもしれないとも思えるのです。

福沢諭吉の『福翁自伝』に「目的なしの勉強」と題した一節があって、そこにはこう記されています。

自分の身の行末のみ考えて、如何したらば立身が出来るだろうか、如何したらば金が手に這入るだろうか、立派な家に往むことが出来るだろうか、如何すれば旨い物を喰い好い着物を着られるだろうかと云うような事にばかり心を引かれて、齷齪(あくせく)勉強すると云うことでは決して真の勉強は出来ないだろうと思う。就学勉強中は自から静にして居らなければならぬと云う理屈が茲に出て来ようと思う。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/1864_61590.html#midashi820


福翁自伝

これは「コスパ」とか「タイパ」などという言葉とはかなり無縁の態度です。私は語学業界の末席に連なっていて、いちおうは語学を飯の種にしていますが、語学こそはコスパとかタイパなどという観念とは一番遠いところにあらねばならないとひそかに信じているものです。でもそれを就活や将来のキャリア形成で真剣に悩んでいる学生さんに伝えるのは難しい。そんなこと言ったってセンセ、語学力が就活に有利なのは自明でしょ、センセだってそれでいまの仕事をゲットしたんでしょ。

そう言われれば返す言葉が見つかりません。それに実際のところ私だって留学生諸君にさんざっぱら「モノリンガルが大多数で外語習得の困難をあまり理解できていない人が多い日本では、とにかく流暢で耳障りのよい日本語を話せるようになることが就活にも有利」などとけしかけてきたのですから。

ただ、語学に限らずあらゆる勉強は(勉強だけでなくなにかの技能でも、あるいは趣味でも)、後先考えずに没頭する・できることが結果的にある種の深みや自分でも想像もしなかったレベルに到達しうる要素のひとつではないかとも思うのです。

先日読んだ山口周氏の『ビジネスの未来』にもこのクランボルツ氏の理論が引用されていて、そこでは「とにかく、なんでもやってみる」というアドバイスとともに、アン・モロー・リンドバーグ(ニューヨーク・パリ間の大西洋単独無着陸飛行に初めて成功したチャールズ・リンドバーグの妻です)のこんな言葉も引かれていました。

人生を見つけるためには、人生を浪費しなければならない。

傍目には明確な目標を持っていないかのように見える遠回りや寄り道、あるいは無駄に思えるような行動に、意外な転機がつながっているのかもしれません。ここには福翁自伝の「就学勉強中は自から静にして居らなければならぬ」やクランボルツ氏の「キャリア形成の8割は偶然の出来事による」と通底するものがあると思います。

コスパ」や「タイパ」は人生の禁句にしたいです。

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