イングランド南西部への自動車旅行、その三日目にスティーブンスはデボン州タビストック近郊の個人宅に泊めてもらうことになります。ガソリン切れというアクシデントに見舞われて絶望しかかったところ、偶然近くの村に住むテイラーという親切な男に出会い、「うちにお泊まりくださってかまいませんよ」という好意に甘えることにしたのです。
この三日目の夜に回想の形で語られる過去の出来事は、どれもスティーブンスに取っては苦渋の記憶です。ダーリントン卿の反ユダヤ主義に対する態度、ひそかに思慕を寄せ今回の旅の動機にもなっているミス・ケントンとのやりとり。それらのディテールが紡がれながらその実、ひとつひとつのエピソードがこの小説を貫くテーマとも絶妙に絡まっていて、この章は小説『日の名残り』において一番重みを持っているのではないかと考えます。
物語の舞台は「タビストック近郊のモスクム」という村という設定です。この村は架空の場所のようですが、タビストックはイングランド南西部に実際にある街です。街の端を小さな川が流れていて、その川沿いに立派な石造りの建物が並んでいるのですが、全体的にこぢんまりとしていて、どこか「かわいさ」を感じる佇まいです。
背後に山が迫っていて、石のアーチが美しい高架橋が見えました。今はもう使われていない鉄道橋らしいです。街の真ん中にある市庁舎の裏が市場になっていて、服やらアクセサリーやらのほかに鉄道模型やミニカーや古い写真なんかを売っているお店がありました。たぶん蚤の市というか地元の人がやっているフリーマーケットみたいなものなんだと思います。
カズオ・イシグロの『日の名残り』の原書はkindle版を持っているのですが、せっかくだから紙の書籍も購入してみようと思いました。きょうび原書といったって、日本からでもすぐにネットで買えてしまうご時世ですが、旅行先の書店でわざわざ探して買うのが楽しいのです。ロンドンでも大きな書店はあらかた回りましたが、残念ながら棚には見つかりませんでした。
他の作品、例えば『わたしを離さないで』とか『忘れられた巨人』とかはあるのですが、なぜか『日の名残り』だけありません。それにどこの書店でも、表紙のデザインがみんな似通ったペーパーバック版しか売られていません。どうせならハードカバー版を買いたいなと思っていたのですが……。
タビストックの街でも小さな本屋さんを見つけて入ってみたものの、やはり『日の名残り』は売られていませんでした。物語のとりわけ大切な章にご当地が登場するというのにね。ところがこの書店で、女性の店員さんから「もしかして日本の方ですか?」と声をかけられました。むかし鹿児島県で四年間ほど英語の教師をされていたそう。
「もう日本語はほとんど錆びついてしまいました」とおっしゃっていましたが、日本人がタビストック観光に来るのは珍しいのでつい声をかけたんだそうです。私がカズオ・イシグロの『日の名残り』にタビストックが出てくるんですよと言ったら驚いていました。ブッカー賞受賞作といったって、やっぱりあまり知られてないんですね。
私が『日の名残り』のハードカバー版を探していると言ったら、版元にあれば取り寄せられますとのことで検索してくれて、明日の午前中には届くと思いますって*1。なんという僥倖。それで発注して次の日の朝に「入荷しました」とメールが届き、書店を再訪して手に入れたのがこれです。スティーブンス同様、私もタビストックで偶然親切な方に助けられました。
スティーブンスはタビストックで「ガス欠」という災難に見舞われましたが、私は私で路上駐車していたら反則切符を切られてしまいました。イギリスは路上駐車ができる道路がけっこうあって、そばに看板が設置されています。この看板は45分以内だったら路駐が可能(ただしそのあと90分は戻ってきちゃだめーーじゃないと連続してずっと停めちゃう輩が出現するから?)という意味のようですが、私は書店の店員さんと話し込んでいて、45分を超えてしまっていたのです。
どこで誰がチェックしているのか分かりませんが、フロントガラスにこの黄色い袋が貼られていて、ペナルティとして50ポンド支払いなさい、でも28日以内に払うなら25ポンドにディスカウントしてあげますと書かれていました。こちらも便利なもので「ネットでも支払えます」って。それで指定されたアドレスに行って、カードで25ポンド(5000円くらい)支払いました。
*1:しかし、地方都市の小さな本屋さんでも、次の日には「取り寄せ」ができるというのが地味にすごいです。日本ではどうしてあんなに時間がかかるんでしょうね。検索してみたら、こちらの記事にその理由が書かれていました。私も街から本屋さんが消えてしまうのは寂しすぎるのでなるべく利用するようにしていますが、このままではやっぱりAmazonによって淘汰されてしまうと思います。