インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

自律的な学習って?

多くの学校が年度末を迎えるこの時期、私の職場でも今年度の総括と来年度の準備が始まっています。こうした年度や学期の変わり目によく行われるのが学生さんへのアンケート調査です。学校の授業や事務や設備、その他もろもろについて、感想や不満や要望などを聞こうというもの。うちの学校でも毎年かなり詳細なアンケート調査が行われており、今年度の結果が先日メールで教職員全員に配布されました。

こうしたいわば「民主的手法」に基づくアンケート、私はぜひやるべき(それも無記名で)だと思っていますが、なかには内心いささか面白くないと思っている方もいるようです。耳が痛い意見も多々含まれていますし、それなりに学生さんと真摯に向き合ってきたのにその努力を否定されるような意見を読まされるのはつらい、ということなのかもしれません。“可憐天下父母心(親の心子知らず)”、ならぬ“可憐天下老師心”だなあと。

でもまあ、学生さんがアンケートの選択項目番号にマルをつけるだけでなく、自由記述欄にわざわざ書いてくださる意見は、批判も含めて正面から受け止めるべきだと思います。ただ同時に、学校生活が充実していたり授業に満足していたりで特に何も書かないという、いわゆる「サイレントマジョリティ」の存在も念頭に置いておく必要はあります。

教員の中には、一部の学生さんのけっこうとんがった意見に傷ついて自分の授業に自信を失いかけちゃう方もいますが、批判は批判として受け止めつつも、その批判が本当に根拠のあるものなのか、検討するに足るものなのかを一度立ち止まって考えてみてもいいですよね。ましてや、教職員の指導的立場にある人が「ノイジーマイノリティ(ラウドマイノリティ)」の意見だけを元に叱責をしたり現場を引っ掻き回したりというのも自重すべきです。

自律的な学習って?

こうしたアンケートで比較的多くの方が書いてくる(その意味でノイジーマイノリティとはいえない)意見のひとつに「○○の授業が少ない」とか「○○の訓練や練習をもっとやりたい」というカリキュラム構成に対する不満があります。私が奉職している複数の学校はいずれも外語や通訳・翻訳を学ぶ場所なので、「もっと○○語を話したい」とか「教養的な科目はいらないから、通訳翻訳だけを練習したい」といった意見に接します。あるいは「もっと面白い訓練がしたい」という意見も。

なるほど、だったらこちらは「もっとビシバシやって差し上げましょう!」と燃えるのですが、同時に若干不可解な思いも頭をかすめます。だって、言語の訓練というのは元々とても「泥臭い」ものであり、他力本願でどうにかなるものではなく、地道な自助努力が必要なものだからです。授業をもっと面白くしてほしいという希望も理解できる一方で、だったらどうしてもっと自ら学ぼうとしていかないのかなと。

教師は教案をあれこれ考えて、その言語の能力が伸びていくお手伝いをすることはできますが、それを自分の中に落とし込んで繰り返し学び、肉体化していく――そう、言語とは、特に聴いたり話したりする「それ」は、すぐれて肉体的なものです――プロセスはひとりひとりの努力にかかっています。受身の姿勢で「もっと訓練の時間があればできるようになるのに」とか「もっと面白く習得させてほしいのに」と言っているうちは、たぶん外語の能力は伸びていかない。

先日読んだ『ことばの教育を問いなおす』(鳥飼玖美子/苅谷夏子/苅谷剛彦共著)という本は、そんな私の不可解な思いに応えてくれる記述が満載で思わず快哉を叫びました。特にことば、それも母語ではない外語を学ぶ際の「自律性」についてこんこんと説いている部分は、そのまま学生のみなさんにも、そして自分自身にも届けたいと思う記述でした。

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ことばの教育を問いなおす (ちくま新書)

国語教育の現場で様々な実践指導を展開した大村はま氏。その氏の薫陶を受けた苅谷夏子氏は、「幾何学の父」と称されるユークリッドプトレマイオス一世に言ったという「学問に王道なし」を引いて、「科学技術がこれほど進歩しAIの時代が来ても、一人の人間が言葉を身につけ、知を鍛えるという挑戦に、王道はないのではないか」と言っています。

大村はこんな言い方をしています。「きっと、ことばの力をぐんとつけたい、急にうまくしたい、そんな方法があれば教えてもらいたいと思っているでしょうが、なかなか、そういう急にぱっと力をつける方法はないようですね。だんだんに、そのかわり確かに、力をつけることを考えましょう」(『大村はま やさしい国語教室』)


言語能力を育て鍛える簡単な方法はない。たとえ権勢を誇ったエジプトの王が求めても、また、教室に電子黒板やタブレット端末が備えられても、そんな便法はない。そう見極めた上で、こつこつと丁寧に勉強していく。言語に関わる神経をしっかり覚醒させた子どもと教師が、現実世界といきいきと重なることばを扱っていく。それが、迂遠なようでいて確かな言葉の教育ではないか――なんだか気が抜けるほど普通で当たり前ですが、でも本当のところではないでしょうか。

そう、「語学に王道なし」とも言われますよね。また鳥飼玖美子氏は「外国語学習は学校では完結せず卒業後も続くとなれば、もっとも重要なことは、学習者が学びを継続できる自律性を涵養することです」と言い、その自律性についてこう書いています。

「自律性」とは何でしょうか。一言でまとめるなら、「自らの学習に責任を持つことのできる能力」です。英語を学んでも、日本語とは言語文化的な距離が遠く、簡単に使えるようにはなりません。その時に、学校や教師や環境のせいにするのではなく、自分自身で自分にあった学習方法を見つける努力が肝要になります。英語の達人とされる人たちは、誰しも、ありとあらゆる学習方法を試した上で、自分に合った方法を見つけて努力を重ねています。シャワーのように聞くだけで英語が上達したという人を残念ながら私は知りません。

身も蓋もないような、あるいは「気が抜けるほど普通で当たり前」の見解ですけど、結局はこれに尽きるのです。世上「これをやればマスターできる!」とばかりに新しい、あるいは革新的と銘打った語学書が次々に登場しますけど(特に英語)、そうした「これぞ決定版の学習方法」が次々に登場するということそのものが、実は語学に王道なし、決定版の学習方法なしということを如実に表しているのではないでしょうか。

語学の達人が実践して効果のあった方法について、それを参考にすることはできても、完全にその上をなぞることはできないし、またすべきでもないと思います。結局は個々人が、その人なりの語学の発達段階を自分で辿っていくしかないのです。となれば、教師の役割はその個々人がどうやって自律的に、しかも長い時間をかけて継続的に語学を学んで行くことができるか、そのヒントやきっかけを与え続けることだけなのかもしれません。

先日ネットを検索していて、偶然面白い動画を見つけました。それは自律走行する「マイクロマウス」と呼ばれるミニカーが、迷路を抜ける時間を競う、台湾でのコンテストの動画でした。一度目は試行錯誤しながら長い時間をかけて迷路を抜けるマウスですが、二度目、三度目と回を重ねるごとに自分で学習しながら最短距離を見つけていきます。そして最後にはほんの数秒でゴールにまで達することができるようになるのです。


2016 Taiwan Halfsize micromouse First Prize Kojimouse 11, Hirokazu Kojima

私はその、小さな機械に過ぎないマイクロマウスが自律的に自らを向上させていく姿にちょっとした感動を覚えました。語学は何も速さを競うものではありませんが、そうやってトライ&エラーを重ねながら、自身の能力を少しずつ向上させて行く営みという意味では選ぶところがないからです。もっとも、これはどんな技能についても当てはまることかもしれませんが。

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