昨日Twitterで拝見したこちらのツイート、とても興味深いと思いました。
紹介されてた『ロシア語文法夜話』(染谷茂、2016)買って読んでみたんだけど、のっけからキレッキレで笑っていいのか泣いていいのかわからない 全なんらかの言語学習者に届け #ロシア語 pic.twitter.com/6Z7oqm0HLc
— ひぐれ (@PaPio1130) June 27, 2021
何が興味深いって、いわゆる語学の達人と言われるような方々が、おおむね同じようなことをおっしゃっているからです。「一日頑張った人よりも二十年頑張った人の方が少しは語学力が確かな筈」。ほんとうにそうだなあ。語学ってそれくらい泥臭く、辛気臭い営みなんですよね。黒田龍之助氏が『外国語の水曜日―学習法としての言語学入門』でおっしゃっていた「外国語学習にとって最も大切なこと、それはやめないこと」とも通底する話だと思いました。
とはいえ、好きでもないものを十年も二十年も学び続けられるほど、人は忍耐強くはありません。というわけで、結果的に十年、二十年と語学を学び続けることができてしまった人は、単純にその語学がその人に向いていた、合っていたということなんでしょう。
これは語学に限らず、どんな学問でも、そして芸術やスポーツのようなものでも同じだと思います。向き不向きがあり、続けることができる人もいれば、挫折する人もいる。続けることができたとしても、それで食べていけるほどになれるかどうかは分からない。なんだか身も蓋もない表現ですけど、でも結局はそういうことなんです。
だから私は、全国民が幼少時から語学、なかんずく英語に人生のかなりの時間を捧げるように仕向けようとされつつある日本の現状にはとても懐疑的です。こんなに泥臭くて、辛気くさいことに、全国民が血道を上げなくてもいいんじゃないかと。そもそも向き不向きや好き嫌いがあるんですから、そういう選択をすることそのものが少々愚かなのではないかとさえ思います。
でも、全国民が幼少時からピアノやバレエには血道を上げることはないけれど、英語については誰彼もなく賛成というのは、やっぱり英語が将来の金銭的な豊かさを担保する鍵だと考えられているからでしょうね。私もその点にある程度は首肯するものです。少なくとも、様々な世界に進んで行くための選択肢を大きく増やすことにはなるでしょう。それが結果的に金銭的な豊かさにつながるかもしれません。
ただ、それが本当にそうなのか、それはどれくらいの割合で現実になるのかについては、もう少し個々人がじっくりと考えてみる必要はあるのではないかと思います。私自身は、けっこう怪しいのではないかと思っています。英語ができたって、英語だけができたって、なんということもない。世界中には英語話者がそれこそ膨大に存在しますし、その他複数の言語も駆使できるマルチリンガルな方々だって相当数いるのです(このあたり、モノリンガル社会の日本の私たちはちょっと想像もできないほどの規模と豊穣さです)。
私たち日本語母語話者にとって、英語をはじめとする語学はとても泥臭く、辛気くさく、長年の努力、それも人生のかなりの時間をそこに捧げるといったレベルでの努力が必要です。本当に自分がそういう選択をするのか、したいのか。語学以外に人生を捧げたいものはないのか。あるいは自分の子供にはどうしてほしいのか……そういったことをもう少し考えた方がいいのではないか。上掲の文章を読んで、そんなことを考えました。あ、もちろん泥臭くて辛気くさいことが大好きで、何十年でも「ドロドロ」していたい、という方にとっては語学はうってつけですけどね。