インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

モールバンヒルズ

カズオ・イシグロに『夜想曲集』という短編集があって、副題が「音楽と夕暮れをめぐる五つの物語」となっています。その名のとおり、なにがしか「音楽」の要素が物語にからんでいてそれは分かりやすいのですが、「夕暮れ」のほうはもう少し読み込まないとその味わいが立ち上がってきません。


夜想曲集:音楽と夕暮れをめぐる五つの物語

それは終わりかかった愛であったり、かなえられなかった夢であったり……人によって夕暮れに託すイメージはさまざまだと思いますが、私はやはり自分の歳を考えると人生の黄昏時というイメージがもっとも心に響きます。そういえば『日の名残り』にしても、「夕方が一日でいちばんいい時間なんだ」というあの男の言葉にも人生の黄昏時が含意されていたのでした。私にとってカズオ・イシグロはもはや「夕暮れの作家」です。

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夜想曲集』の短編はどれも好きですが、なかでも私は「モールバンヒルズ Malvern Hills」ががいちばん心に残りました。モールバン(モルバーン、マルバーンとも)はイングランドのウスターシャー州にある街で、そばに小高い丘陵(ヒルズ)が連なっていて、ハイキングで人気のある場所です。

姉夫婦のカフェはモールバンヒルズにある。グレートモールバンの町の中や幹線道路沿いではなく、文字どおりモールバン丘陵群の一つに立っている。古いビクトリア朝風の一軒屋で、西向きだから、天気がよければカフェテラスに出て、ヘレフォードシャーを一望しながらお茶とケーキを楽しめる。冬の間は休業するが、夏はいつも繁盛している。客は地元の人がほとんどだ。百ヤード下のウェストオブイングランド駐車場に車をとめ、サンダル履きに花柄のドレスという恰好で、息を切らしながら小道を上ってくる。(100ページ:土屋政雄訳)

モールバンヒルズの西側には実際にこの駐車場があって、そこに車を止めて丘陵を縦断しました。そんなに標高は高くないのでスニーカーとバックパックという軽装でも大丈夫でしたが、南から順に並ぶ丘を全部まわりながらいちばん北にあるテーブルヒルとエンドヒルにたどりつく頃にはかなり疲労困憊していました。


テーブルヒルとエンドヒルがぼくのお気に入りだ。この二つはモールバンヒルズの北端にあたる丘で、ハイカーにはあまり人気がない。だから、ここに入ると、ときに何時間も人には出会わず、誰にも邪魔されずに考え事に没頭できた。(102ページ)

「何時間も人には出会わず」ということはありませんでしたが、たしかにほかの丘陵よりはハイカーも少なかったです。いちばん端にあるので、それまで楽しんできた西側と東側の風景に北側の風景が加わり、ぐるりと300度くらいは地平線まで森と牧草地と、その合間に点在するレンガ色の街並みーーというイングランドらしい風景が広がっています。

作品に出てくる「姉夫婦のカフェ」は実在しないのですが、丘陵を降りて道路沿いに駐車場まで戻る途中の村に小さなパプがありました。みなさんビールを飲んでいる脇で、私はコーヒーとプリンを食べました。プリンというか「プディング」で、ごく柔らかい温めたブラウニーみたいなのに冷たいバニラアイスが載っています。強烈に甘かったですが、疲れがとれました。

モールバンヒルズからの帰りに、主人公の「ぼく」と姉が育ったパーショー(Pershore、パーショアとも)の街に寄って、修道院の大聖堂を見学に行ったら、大聖堂の先の公園でブラスバンドが演奏会をやっていました。どこかで聴いたような曲……だけど思い出せませんでしたが、作曲家のエルガーはウスター*1の生まれでモールバンヒルズが大好きだったそうですから*2、もしかしたらエルガーの曲だったのかもしれません。

*1:あのウスターソースの「ウスター」です。

*2:小説の「モールバンヒルズ」にもその話が出てきます。