インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

河口と桟橋

イングランド南岸の街プリマスから、同じく南岸の街ウェイマスに移りました。プリマスってどこかで聞き覚えがある地名だと思っていたら、かつて新大陸を目指した人々がこの街から出港したんですよね、たしか。清教徒ピューリタン、ピムグリム・ファーザーズ、メイフラワー号。中高生の頃、ただただ “死記硬背(sǐ jì yìng bèi:丸暗記)” した単語が次々によみがえります。

今さらながらに気づきましたが、イングランド南岸のこうした街の名前は「なんとかマス」というのが多いです。私はプリマスからダートマスに向かい、フェリーで対岸に渡ってさらにティンマス、エクスマス、シドマスなどという地名を交通標識で見ながらウェイマスにたどり着きました。その先にはさらにボーンマスポーツマスもあります。ポーツマスって、ポーツマス条約のポーツマス? またまた “死記硬背” の名残りが……と思ったのですが、あのポーツマスアメリカの同名の街なのでした。

この「マス(mouth)」というのは綴りからもわかるように “mouth(口)” で、ここでは河口の意味なんだそうです。なるほど、プリマスはプリム(Plym)川の河口に、ダートマスはダート(Dart)川の河口にある街という意味なのですね。ダート川は先日ものすごい濃霧の中を車で走ったダートムーア(Dartmoor)を水源としているのでした(ムーアは荒野とか湿地とかいう意味)。

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カズオ・イシグロの『日の名残り』最終章は「ウェイマスにて」となっています。スティーブンスはこの街の海辺に突き出た遊歩桟橋のベンチに座って、前日に再会を果たしたミス・ケントンとのやりとりを反芻しています。そしてこの小説で私が何度も繰り返し読んでしまうほど好きな「おそらく六十代も後半と思われる太りぎみの男」とのやりとりが語られるのです。

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その意味でウェイマスという街は私にとってすごく思い入れのある場所です……が、その遊歩桟橋らしきもの、「桟橋の色つき電球が点燈し、私の後ろの群衆がその瞬間に大きな歓声をあげ」たというそんな場所は、実際のウェイマスには見当たらないようです。のちにアンソニー・ホプキンス主演で映画化された際には、イングランドブリストル海峡側にあるウェストン・スーパー・メアにある “Grand Pire” で撮影されたのだそう。

私が訪れたときはちょうど干潮の時刻だったのか、“Grand Pire” はその先端まで干潟が現れていて、海岸線はそこからさらにはるか沖のほうにありました。夕日が傾くなか小説や映画のスティーブンスと同じようにベンチに佇んで作品の雰囲気に浸りました……が、現在の桟橋はディズニーランドをさらに数倍けばけばしくしたような観光地になっていて、ゲームセンターとアトラクションとお土産物屋さんが渾然一体となったチープでキッチュな場所でした。

だいたいこの “Grand Pire”、映画に出てきた桟橋と少しデザインが違うような気がします。こんな造りだったかしらとネットで調べてみたら、以前の桟橋の建物は2008年に火災で全焼しているんですね。映画『日の名残り』の公開は1993年ですから、ロケは以前の桟橋で行われたのでしょう。

映画に出てきたこの桟橋のシーンはスティーブンスとミス・ケントンが登場するのですが、原作では上述のようにミス・ケントンとの再会を終えて帰路ウェイマスに立ち寄ったスティーブンスと「おそらく六十代も後半と思われる太りぎみの男」のやりとりになっています。ここでのやりとりは『日の名残り』というタイトルにも絡む重要なシーンなのですが、実は映画版ではこの一番心にしみるシーンをばっさりカットしているんです。ジェームズ・アイヴォリー監督がこの映画を撮ったのは65歳くらいの時。それくらいの歳になればきっと心にしみるはずなんだけど、まあいろいろと大人の事情もあるのでしょう。

ウェストン・スーパー・メアにはスティーブンスがミス・ケントンとの再会を果たした「ローズガーデン・ホテル」のロケが行われた場所もあって訪れてみましたが、この施設はすでに閉鎖されて使われていないようでした。それからミス・ケントンが最後に別れたバス停のロケ地も近くにあるという情報を英語のサイトでみつけて訪れてみましたが、こちらもバス停の形が微妙に違うような気が……。

総じてなんだかいろいろと「がっかり感」が漂う聖地巡礼になってしまいましたが、得てしてこういうのが現実なのです。でも「たぶんここではないんじゃないか疑惑」満載のバス停ロケ地のその先にクリーブドンという街があって、ここにはこれもカズオ・イシグロ原作の映画『わたしを離さないで』のロケで使われた別の桟橋 “Clevedon Pier” があります。この桟橋はほぼ映画のまんまでした。

ポスターでは主人公の二人がこの桟橋を駆けています。でも桟橋の床は細長い木の板を少し隙間を開けて並べたウッドデッキで、木の隙間からはるか下の海面がちらちらと見えるので、高い所が怖い私は歩くのもちょっとおぼつかなかったです。あんなとこ、よく走れますね。


https://youtu.be/sXiRZhDEo8A?feature=shared