インタプリタかなくぎ流

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魯迅の短篇に打ちのめされる

同僚の講師から一冊の本を手渡されました。魯迅の『吶喊』です。1988年発行の人民文学出版社版。いまとなってはかえって斬新にさえ思える、いたってシンプルな装丁の薄い一冊です。もともと私の妻が持っていたもので、ずいぶん前に同僚の講師にお譲りしていたのですが、ちょっと調べ物があるので貸してほしいと妻に頼まれて、私が代理で受け取ったというわけ。

この本を手に取ると、私自身もとても懐かしい気持ちに襲われます。会社勤めのかたわら中国語を学んでいたころ、まるで原語で読むのが義務でもあるかのような感じで、なかば競うようにして読んだものでした。いまからちょうど100年くらい前の文章で少しばかり古い語彙や言い回しは入っているものの、文体は現代中国語とほとんど変わらないので私たちでもなんとか読めるのです。

日本でも中学校あたりの国語教科書には必ず収められていた『故郷』や、あと魯迅の作品として一番の有名どころ『阿Q正伝』や『狂人日記』も、この短篇集『吶喊』の中の一篇です。『孔乙己』に出てくる浙江省紹興市の咸亨酒店には後年実際に訪れることができて、小説に登場する茴香豆(ウイキョウといっしょに煮込んだソラマメ)をおつまみに甕から柄杓でくむ紹興酒を飲んだのもいい思い出です。

でも『吶喊』のなかでいちばん心に残っている一篇といえば、やはり『一件小事(小さな出来事)』です。たった2ページほどしかない短篇なのでそれほど労せず読めたということもありますが、翻訳者を志して学んでいた頃に自分で日本語へ訳してみたことがあるからです。学校の先生に「まずは自力で訳してみて、それをプロの訳文と比較してみると勉強になるよ」と言われてのことでした。

それでさっそく取り組んでみた私は、訳し終えてから竹内好氏の訳文を読んで衝撃を受けました。中国語の原文の読み込みから語句の同定、日本語の語彙や表現の豊富さと巧みさ、文体とリズム、文学作品としての香りや格調の高さ……どれをとっても雲泥の差、いや、そんな形容ではまったく足りていないほどの隔たりだったのです。

いまから顧みるに、初手から名訳の誉れ高い竹内好氏の訳と引き比べるというのがまずもって傲岸不遜なんですけど、とにもかくにもしばらくは翻訳をする気にもならないくらい打ちのめされたことを覚えています。


阿Q正伝・狂人日記 他十二篇: 吶喊

魯迅の『吶喊』に収められた作品はどれも、どこか胸を絞めつけられるような哀愁とともに、前を向こうとする精神の強靭さやある種の明朗さをも感じさせるところがあって、なんとも味わい深いです。人生で折に触れ拳拳服膺するに足る文章もそこここに。『故郷』の最後に出てくるこの一節もそのひとつです。

我想:希望本是無所謂有,無所謂無的。這正如地上的路;其實地上本沒有路,走的人多了,也便成了路。


思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし、ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。(竹内好訳)

魯迅のこうした作品は、現代の日本の教科書にも収められているのでしょうか。現代の中国の学生さんたちもいまでも読んで(読まされて?)いるかな*1

*1:留学生クラスのみなさんに聞いてみたら、いまでも小中学校で必ず学ぶそうです。中国大陸だけでなく、香港や台湾でも教科書には必ず魯迅作品が出てくるのだとか。