インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

翻訳という「愉悦」

私が担当している留学生の通訳翻訳クラスには「英日班」と「中日班」の学生がいます。つまり英語・日本語間の通訳や翻訳を勉強している人たちと、中国語・日本語間のそれを勉強している人たち。みなさん、通訳や翻訳に興味があるのに加えて、言語を活かして日本の企業や日本と関連のある企業に就職したいという希望を持っています。

低い生産性・収益性にジェンダーギャップ、年功序列形式主義、あいもかわらぬ一斉横並びの就活にリクルートスーツ……ネガティブな評価の視線が注がれているのになかなか改善できない日本企業ではありますが、それでも日本で就職したいと思ってくださる留学生のみなさんがいるのは、本当にありがたいことだと思います。

それはさておき、先日は通常行っている実務的な通訳翻訳訓練から少し離れて、お楽しみ企画として文芸翻訳をやってみました。素材は村上春樹氏の『ノルウェイの森』の冒頭部分です。ご承知の通り、この作品の英訳・中訳ともに、これまでそれぞれお二人の翻訳家が訳したものが出版されています。英語はアルフレッド・バーンバウム氏とジェイ・ルービン氏、中国語は林少華氏と頼明珠氏です。

授業では、最初に村上氏の原文だけを読んだうえで各自英語と中国語に翻訳したのち、プロの訳文を配布しました。プロが訳した文章と自分の翻訳を照らし合わせて自分との違いを確認した上で、自分はどちらの翻訳者の訳文がより好みか、そう思うのはなぜか……などを考え、話し合ってもらうという趣向です。

私はかつてこうした方法で自分の訳文とプロの訳文を比較したことが何度もありました。英語翻訳者の山岡洋一氏が書かれた『翻訳とは何かーー職業としての翻訳』*1を読み、勇んで取り組んだのでしたが、そのたびに打ちのめされること必定でした。プロの原文理解(私の場合は中国語の理解)とはかくも深いものか、プロの日本語能力とはかくも凄まじいものかが痛いほどよく分かって。

翻訳学校に通っても、一流の翻訳家に学べる確率はそう高くはない。ところが、書店に行けば、一流の翻訳家がみな、訳書という形で翻訳のノウハウを示してくれている。自分がほんとうに尊敬できる翻訳家を選んで訳書と原著を手に入れ、訳書を見ないで原著を翻訳していき、訳書との違いをひとつずつ確認していけばいい。この方法なら、翻訳学校で教えていない翻訳家からも、亡くなっていて学べる機会がないはずの翻訳家からも学べる。無料で添削を受けられる。一流の翻訳を真似ることができる。(『翻訳とは何かーー職業としての翻訳』158ページ)


翻訳とは何かーー職業としての翻訳

機械翻訳が飛躍的な進歩を遂げつつある現代、こうした作業に果たして意味があるのかと思われる向きもあろうかと思います。生成AIの長足の進歩を見越して「もう外語学習は必要なくなった」とおっしゃる方も登場する昨今ですから、こんな泥臭い作業になどなんの価値も見いだせないと思う方はいるでしょう。

でも実はこれは、言語と言語のあいだを往還しつつ、自らの母語とは異なる世界の切り取り方をする言語のダイナミズムを理解できる人だけに与えられる愉悦なんです。つまりは、分かる人には分かる、分からない人には分からない、そういったたぐいの作業なんではないかと。そう言っちゃったらこれはもう、教育という立場からは大きく逸脱してしまうのですけれども。

ともあれ、授業ではその愉悦をできるだけ言語化して学生さんたちに伝えるよう努力はしました。結果、みなさんけっこう楽しんで作業に取り組んでくれました。なかにはちょっと訳しただけでもう、プロの訳文を「たいしたことない」という人もいて若干驚きましたが、それもまあ若さゆえ。世界に対して物怖じしないその姿勢はよしといたしましょう。ただし、そういう方にはロシア語通訳者で文筆家の米原万里氏が師匠の徳永晴美氏に言われたという次の言葉もご紹介しました。

他人の通訳を聞いて、「コイツ、なんて下手なんだ」と思ったら、きっとその通訳者のレベルは、君と同じくらいだろう。「ああ、この程度の通訳なら、私だってできる」という感触を持ったなら、その人は、君より遥かに上手いはずだからね。(『不実な美女か貞淑な醜女か』120ページ)


不実な美女か貞淑な醜女か

傲慢は人の心を閉ざすものだと思うんです。人は謙虚になってこそ自分の視野を広げることができるのだと。だからこの作業は単なる翻訳の練習や訓練というより、言語による世界の切り取り方の違いを実感すること、その多様性の奥深さを教え諭してくれる「修養」みたいなものなのかもしれません。

そういう意味では、機械翻訳がどれほど進化しても、こうした愉悦はわれわれ人間に残されていくべきだと私は思っています。その言語間の差異を乗り越えようとして努力し、「それまでに聞いたことがなく、読んだこともない内容を理解し*2」たい、違う視点と切り取り方で世界を眺めてみたい……と望み続けてきた結果が人類の「知」というものではないかと思うからです。
qianchong.hatenablog.com

*1:もう20年以上も前に刊行されたーーつまり機械翻訳がまだほとんど実用化されていなかった時代ですーー本ですが、いまでも十分に説得力のある名著だと思います。

*2:『翻訳とは何かーー職業としての翻訳』帯の惹句から。