インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

機械翻訳は便利だけれど

昨年の夏、フィンランドを旅行した際に泊まった「民泊」のおかみさんからAirbnbのサイトを通してメッセージが届きました。フィンランド語なので、じーっと見つめて「こんな意味かしら」と見当をつけてから、おもむろにGoogle翻訳へ放り込んで文意を確認します。

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ふだんから、自治体や芸能プロダクションなどの公式サイトが英語版や中国語版のコンテンツをGoogle翻訳へ丸投げして、その結果奇妙奇天烈な訳文になっちゃってるのを批判しまくっているというのに、こういうときはちゃっかり活用しちゃう。自分でもちょっと首尾一貫してないんじゃないかなとは思います。

qianchong.hatenablog.com

お返事にもGoogle翻訳を活用します。でも、いきなり日本語で書くとかなり「ハイコンテクスト」な文章になっちゃうので、簡潔な英語で、主語や目的語をくどいほど入れながら書いて、それをフィンランド語に翻訳し、未熟なフィンランド語の知識で分かる限りのチェックを入れて送信。すると、また相手からお返事が来て……。ちゃんとコミュニケーションが成立するんですね。これは楽しい。悔しいけど、楽しいです。

こうした悠長なコミュニケーションであれば、もはやGoogle翻訳をはじめとする機械翻訳は、なんとか実用に耐えるレベルにまでなりました。そしてこれから先は、もっとその精度が上がっていくことでしょう。そんな悠長なことはやってられない音声によるコミュニケーションはまだまだですが、それでも「ポケトーク」や「イリ―」などの通訳機がすでに商業ベースに乗っています。旅行でのちょっとした会話ならほぼ充分に役割を果たせるそうですし、これも精度の向上は時間の問題なのでしょう。人間の音声を認識する部分でかなり手間取っているそうですが、少しずつでも進歩向上していけば、そのうち一気にブレイクスルーが起きる時代が来るのかもしれません。

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https://www.irasutoya.com/2019/10/blog-post_6.html

こうした現状を背景に「もはや外語学習の意義は失われた」とする主張も、時々目にするようになりました。機械通訳や機械翻訳が高度に発達した未来(それも自分たちが生きているうちの近未来)では、誰もが自分の母語を話すだけで、様々な外語となってアウトプットされるような、そう、『ドラえもん』に出てくる「ほんやくコンニャク」のようなシチュエーションが現実のものになるのだと。

でも私個人は、そうなったあかつきには、つまり誰もが自分の母語の内輪内でしか話さない・話せないようになった世界では、逆に人類の知はもうそこから深まっていかないのではないかと思います。外語を学ぶということは、自分の母語ではできない「森羅万象の切り取り方」を身につけるということであり、その差異を乗り越える営みにこそ知は宿るのではないかと思っているからです。科学的な根拠はなにもないんですけど。

冒頭でご紹介したフィンランドの、民泊のおかみさんとのメールのやりとりは、楽しいけれどもどこか隔靴掻痒感が伴います。当たり前ですよね。Google翻訳という一種のブラックボックスを通してやりとりをしているんですから。外語学習をしたことがある方ならお分かりかと思いますが、実際に自分の身体を駆使して発せられた外語が相手に届き、すぐその反応が帰ってきたときのあの一種の高揚感は、機械翻訳では味わいにくいものです。今後技術が飛躍的に進化して、現在の通訳機がもっと体感的に(例えばウェアラブル端末になって、タイムラグも極限まで短縮されるなど)なったら、そうした高揚感も味わえるようになるのでしょうか。

qianchong.hatenablog.com

分かりません。もしかしたらそうなって、ここに「バベルの塔の神話」以来の、人類の言語問題は集結を迎えるのかも知れません。ただ、外語を学んだものとしては、外語を話している際に特有な「もう一人の自分になった感」が失われるのは残念な気がします。私は中国語や英語を話しているときは、自分の性格が変わってしまうのをとても感じます。また日本語とはかなり異なる語順の中国語や英語で言葉を紡いでいくときのあのダイナミズムにいつも興奮します。

人間は誰しも意識の流れに沿って言葉を紡いでいくはずですが、それが日本語と中国語・英語とではかなり違う「流れ」になる。なのに意識している自分はもちろん同じです。同じ自分が、違う意識の流れで自分を表現するーーそこに外語を自分で操る魅力のほとんどすべてが詰まっているような気がします。そうして体感された「違う意識の流れ」がまた母語に還流して母語を質的に変え、豊かにしていく……そんな気がしているのです。

Google翻訳を通したやりとりは便利だけれど、なぜか空虚に思える部分が残るのは、それぞれがそれぞれの母語の内側に籠もっていて、こうした営みが欠けているからなのかもしれません。