先週職場の学校で「研究活動報告会」というものがありました。これはそれぞれの教員が日々行っている授業や教材作りなどの実践を報告し、広く共有しようという企画です。私は通訳や翻訳の授業を行っている教員を代表して、訓練や実習の実際をスライド資料にまとめてプレゼンしたのですが、最後に設けた質疑応答の時間に、このような質問がありました。
「AIが急速に発達している今とこれからにおいて、こうした通訳翻訳教育、あるいは語学教育じたいの意義が薄れていくことになりはしないか、それについてどう考えているか」。こういった報告会あるいは発表会にありがちないわゆる「意地悪な質問」ではなく、質問された方ご自身も語学教師なので、これはとてもクリティカルな問いなのだと共感しつつ受け止めました。というか、この質問は今回のみならず、これまでにもいろいろな方から問いかけられてきました。
私自身は、どんなにAIが発達して例えば通訳や翻訳の自動化が実現したとしても、外語や通訳翻訳を学ぶ意義はなくならないと思っています。それは外語学習が自分の意識を母語の枠外へ拡張する営みだと思うからです。人間は母語によって世界を切り取り、認識しています。その母語とは違うやり方で世界を切り取り、認識しようとするのが外語学習だと考えているのです。
ですから外語を学ぶこととは、自分の世界の切り取り方、認識の仕方にバリエーションを増やしていくことです。それは人間のものの見方や考え方に、多面的な思考や複眼的な思考をもたらします。それが人類にとってどれほど有益であるかは、狭い世界に閉じこもってフェイクな言説を撒き散らす人々の存在を見ても明らかです。外語学習は、AIが発達した未来にこそより必要とされるスキルあるいはリテラシーではないでしょうか。
牽強付会に聞こえるかもしれないけれど、自動通訳や自動翻訳が発展していけばいくほど、私たち生身の人間が外語を学ぶ意義はますます強まる。人が人であるかぎり、外語学習はなくならない。そう思うのです。そりゃもちろん、就職に有利だからとか、たくさんお金が稼げるからなどといった理由で外語学習に手を出す人は激減するかもしれません。でもそれらは、外語学習の動機としては元々いささか「不純」なものだったのです。
https://www.irasutoya.com/2016/12/blog-post_146.html
きょうび、ChatGPTなどの登場で、学生のレポートもそれに頼る輩がわんさか出てくるのではないかと、教育現場はある種戦々恐々としています。でも私は、この件に関してそこまで憂いていないのです。むしろこれからは、本当に学びたい人だけが学ぶ、そしてそんな真剣な学習者にこちらも刺激をもらうことができる、外語学習にとってはいまよりも理想的な環境になるんじゃないかと思っているからです。
もちろん学習者が激減すれば、そんな悠長な事を言っている間もなく日々の糧をどう稼ぐかという現実的な問題が降り掛かってくるわけです。でもそれも長期的に見れば、「自分の母語の内輪に閉じこもって教養や感性を磨かない→それなりの経済的達成しか享受できない」となって、つまりここにも市場原理が働いて、結局はやっぱりきちんと外語を学ぼうという人、外語学習のおおもとに備わっている意義を見出す人が復活してくると信じています。
逆にそういう人たちがまったく出てこなくなる未来が到来するのだとしたら、それこそが人間がAIに凌駕されてしまったという真の意味でのシンギュラリティなのでしょう。