インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

語学が楽器演奏や筋トレに似ている件について

集英社の季刊誌『kotoba』、現在発売中の春号は特集が「日本人と英語」で、合計百数十ページにわたって多彩な論者が登場し、とても考えさせられる内容です。その中で、マーク・ピーターセン氏とピーター・バラカン氏の「日本語と英語のはざまを考える」と題された対談の、語学を音楽に例えた部分が面白いと思いました。

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kotoba(コトバ) 2019年 春号 [雑誌]

英語に関して、日本で昔から繰り返し(性懲りもなく、と言うべきでしょうか)提起される疑問の一つ「中学から何年もやってきたのに、なぜ、英語がうまくならないんでしょうか?」についてピーターセン氏は「理由は簡単で、単に勉強時間が足りないだけです。一週間に四、五時間の英語の授業で、使える英語が身につくわけがありません」とミもフタもない、でも至極もっともな指摘をし、その上でこんな対話が続きます。

ピーターセン 「なぜ日本人は英語ができないのか」ということをよく日本人は議論するんですけど、そういうことを言うなら、例えば「なぜ日本人は楽器ができないのか」という疑問も考えるべきでしょう。音楽も英語と同じように何年も学校の授業があります。それでも楽器が一つもできない人はざらにいます。
(中略)
バラカン そうそう。語学と音楽は、そういう意味ですごくよく似ていると思う。ギターを上手くなろうと思ったら、とにかく手の筋肉を慣らす必要があるから。それも毎日毎日、数時間やらなければいけない。外国語は自分の母国語とは口の周りの違う筋肉を使うから、上手に話すためには、その筋肉を慣らさなきゃいけない。

この部分、語学にある程度取り組んだことのある方なら、おおむね同意してくださるのではないでしょうか。私は「語学は筋トレ」と思っているんですけど、確かに語学が上達するための営みには、楽器を演奏できるようになるための努力と似たようなところがあります。語学も音楽(楽器の演奏)も、そして筋トレも、煎じ詰めればそれまでの身体の使い方とは違う、あらたな身体能力を身につけていく——唇や舌や声帯や手足やらを動かす筋肉の動きを調整し、脳内のシナプスをつなぎ替えたり増やしたりする——プロセスに他ならないからです。

地道で大量のトレーニングを長期にわたって続けなければ、ギターやピアノは弾けるようにならないし、大胸筋が倍増したりお腹がへこんだりしません。「一週間であなたもマッチョに!」などと謳うジムがあれば、誰だって眉唾だと思うでしょう(「結果にコミット」の某ジムだって、そんな無茶なことは言いません)。なのにこと語学となると、すぐにペラペラになれるとか、小学校低学年から週に数時間でも長い時間をかければ自然に覚えられるはず……などと無邪気に思い込んでいる方が多いのです。

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https://www.irasutoya.com/2018/10/blog-post_87.html

もうひとつ、この雑誌には斎藤兆史氏と鳥飼玖美子氏の対談も載っているのですが、その中で鳥飼氏はこうおっしゃっています。

母語の獲得」と「外国語習得」の違いを全く理解していない人が多い。しかも「日常会話能力」と「学習言語能力」は違う。学習言語能力はいくら母語であっても勉強しないとできません。母語である限り、日常会話能力は誰であっても自然と身につく。その違いを文部科学省でも理解していない人がいるんです。「アメリカに行けば赤ん坊でもしゃべれる」んだから、と。

現在の日本は、外語教育、とりわけ英語を幼少時から習得させようと躍起になっていますが、本来なら個々の語学習得以前に、あるいは語学の習得と同時並行で、こうした基本的な知識を学んでいくべきなんですよね。昨日のエントリでも書きましたが、そもそも母語とは何か、母語と外語の違いとは、二つ以上の言語を往還することとは、通訳や翻訳はどういう営みなのか……などなど、いわば「言語リテラシー」あるいは「異文化・異言語リテラシー」とでもいうべきものを涵養していく必要があるのではないでしょうか。

それは個々人が語学を学ぶ際の取り組み方にも大きくプラスとなるでしょうし、多様な文化や価値観に対するフラットで寛容な接し方の基礎にもなるでしょうし、将来仕事をする際にだって、自分が語学を使う場合はもちろん、通訳者や翻訳者を雇用する場合や外国人と協同する場合などにも大いに力を発揮するのではないかと思います。

上記の斎藤兆史氏と鳥飼玖美子氏の対談の最後は、こう締めくくられています。

鳥飼 親が「自分の子どもには英語で苦労させたくない」とよく言うけど、外国語を習得しようというときに、何も努力しないで習得できると考える親御さんはまともに取り組んでいないということですよ。まともに英語を勉強した人は、それがどれだけ大変かわかっています。ただし、努力すれば少しずつ進むということも分かっているんです。
(中略)
斎藤 世の親御さんに言いたいのは「うろたえるな」ということですね。

筋トレも楽器の演奏も、そして語学も「努力すれば少しずつ進む」。逆に言えば、少しずつ、努力しながら進むしかないものです。私たちは「うろたえる」ことなく語学を冷静に捉え、本当にそれが人生の中で何を差し置いても取り組むべき課題なのかをそれぞれが見極めるべきだと思います。

その上でなおも取り組むと決めるのであれば「中学から何年もやってきたのに、なぜ、英語がうまくならないんでしょうか?」とか「アメリカに行けば赤ん坊でもしゃべれる」などというある意味語学を「舐めた態度」はきっぱりと捨てるのです。もっとも私は、語学は必要になった人が必要になった時から(ただしそうなったら、それこそ寝食を忘れて)でじゅうぶんで、それより先に上記のような基本的なリテラシーを育むべきではないかと思っているのですが。

付記

この雑誌には翻訳者の金原瑞人氏も寄稿されていて、AIによる通訳・翻訳マシンが「スマホくらい日常的に使われるようにな」った近未来を想像しています。

(そうなれば)道具としての英語の運用能力なんて、釜でご飯を炊く腕前程度のものになってしまうかもしれない。そんな時代になると、英語はふたたび選択科目に格下げになり、必修でなくてもいいよという扱いになるのだろう。教員としては、それはそれでのんびりと、教えたいことを教えられてうれしいような気がする。

一見、翻訳者が——AIによって仕事が奪われてしまうかもしれない翻訳者が——そんな呑気なことを……という感想を持つかもしれませんが、もちろん金原氏の視線はそんなところには注がれていません。

外国語を学ぶ目的は、母語以外の言語を知ることによって、母語そのものを知る、母語についての理解を深める、また、異文化への興味を広げることにあるのだ、という時代を懐かしんでいるうちに、ふたたびそういう時代に戻ってしまうのもそう遠い未来の話ではないような気がする。

ここには語学(外語を学ぶこと)の本質が語られていると思います。しかもこれは、何だか明るくて心安まる素敵な近未来ではありませんか。誰もが語学に(殊に英語に)狂奔しなくていい未来。仮にそうなれば、私などのような者も食えなくなってしまうかもしれませんが、それでも今よりはずっと健康的な教育環境になるんじゃないかと思うのです。