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「英語の学び方」入門

新多了氏の『「英語の学び方」入門』を読みました。第二言語習得研究の知見を踏まえて効果的な英語の学び方を指南する一冊ですが、手っ取り早い英語(あるいはその他の外語)上達の秘訣を教えてくれる本ではありません。この本が主張していることをちょっと乱暴にひとことで言ってしまえば「外語の習得には自律的かつ継続的な努力が必要」ということになります。この本に限らず、まっとうな語学書は多かれ少なかれ同じことを主張しています。極端なショートカットを謳う語学書は、まず疑ってかかったほうがいいですね。

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「英語の学び方」入門

この本で特に興味深かったのは、リンガフランカとしての絶対的な地位を確立した英語一辺倒の世界と、その世界に対峙する「複言語主義」が紹介されていることです。複言語主義という考え方は、多くの言語が混在しながらもひとつの経済圏を形成しているEUにおいて、欧州評議会が定めた「ヨーロッパ言語共通参照枠(CEFR)」で提唱されているものだそうです。私の理解では、ひとりの人間が複数の、それもさまざまなレベルの言語能力を持っていて、それらの言語を切り替えたり組み合わせたりしながら異文化・異言語の人々と交流できる能力……という感じでしょうか。

この本では「個人が複数の言語の『部分的』『複合的』な能力を持つことを重視する姿勢」と説明されているのですが、これは要するにほとんどの外語学習者が当てはまる状態ではないかと思うとともに、外語学習とは何も完璧な状態を目指すことだけではないのだという、ある種学習者にとっての福音的な響きを持つ考え方ではないかとも思いました。

新多氏は、複言語主義の考え方に立てば、私たちは英語を学ぶ際に必ずしもアメリカ人やイギリス人などネイティブスピーカーを目標にする必要はないと言います。そもそも母語話者と第二言語としてその言語を習得するものとでは、言語のあり方がかなり異なるのだと。なおかつ、母語と外語は個人の中でお互いに影響を与え合っているのだと。つまりどれだけネイティブスピーカーのようにその言語を使えるかどうかには価値を置かず、それぞれの母語とともにその言語がどれだけ有機的に機能しているかに価値を置くということでしょうか。

私はこの考え方に心から同意するものです。語学をやればやるほど分かってくるのは、自分はその言語のネイティブスピーカーにはなれないという厳然たる事実です。中にはネイティブスピーカーと見まごうばかりの達成を示す方もいますし、また周囲もそれを「ネイティブ並み」などといって誉めそやしたり、自分もああなりたいと恋い焦がれる方もいる。何を隠そう、かつての自分もそうでした。

まあ語学で目指すところは人それぞれで自由なのですが、私は外語というこの、時間も労力も膨大に使わなければ一定程度の達成をみることができないものにばかり人生の多くを傾けるという点については、いまは懐疑的です。さらには「ペラペラ」とか「ネイティブ並み」という評価には一種の知的虚栄心のような不健康さすら感じます。外語を学ぶ目標や意義は実はそこにはなく、外語を学ぶことで母語での思考がより豊かで深くなり、「『新しい自分』を構築していくこと(17ページ)」にこそあるのではないかと思うようになったのです。

「外語の習得には自律的かつ継続的な努力が必要」ということは、実はその言語の学習方法も最終的には自分が編み出していくものだということを示唆しています。結局はそこに行き着くしかない。SNSなどではあまたの語学の先達がそれぞれの学習法を紹介されており、ついついあれもこれも試したくなる衝動に駆られるものです。でもそれはその人ご自身がご自分で編み出した方法であり、私たちがすべきなのはそれに盲従することでもなければ、そんなのとてもできないと焦ることでもないのではないかと。

この本にも後半には「実践編」として語彙や文法、さらにいわゆる「四技能」についての具体的な学習法や教材が紹介されています。もちろんそれらも参考にはなりますが、これもまた語学の先達によるその方なりのメソッドであり、いきなり全部を実践したり、あるいは実践できなくて挫折感を味わったりする必要はなく、むしろその前段にある「理論編」の部分こそ読まれるべきだと思いました。

外語を学ぶことが「『新しい自分』を構築していくこと」であるとすれば、メソッドもまたこうした理論を踏まえて自分の中から発掘してくるべきものなのかもしれません。