インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

外語では「くよくよ」できない?

語学でアウトプットの練習をするときには、別に「本当のこと」を書いたり言ったりしなくてもいい。つまりは「別の自分」を作り出してどんどん語ればいいのであって、話の整合性とか無謬性などにはそんなに重きを置かなくていい。これは語学におけるちょっとしたコツというか心構えみたいなものですけど、誠実で真面目な人ほどそういうのが苦手……という話を昨日書いたら、今日はこんな記事を見つけました。

www.newsweekjapan.jp

外語を話すというのはいつもと違う自分を実感する瞬間で、「言語が性格を変える」とさえ感じると。なるほど、外語の学習が「うつ」に効果的かどうかを論じるのはちと早計かと思いますが、外語を話す自分の性格が母語のそれとは違っているというのは、多くの人が認めるところだと思います。私もこれは強く感じます。

特に外語の習得段階では(というか、かなり熟達してからでも)、それが母語ではないだけにアウトプットはそれほど巧みにはできません。つまり、かなり「素朴」で「プリミティブ」な自分をさらけ出すことを良しとせねばなりません。母語ではいくらでも自分を飾ったり糊塗したりできるのに、外語ではそれが語彙的にも表現のバリエーションとしてもやりにくい。

そういう普段とは違う「素」の自分をさらけ出す勇気を持てた時に、外語の能力は伸び始めるような気がします。語学にある程度の「芝居っ気」が必要というのも、要するに自分の恥やプライドをいったん捨てて、「素」の自分をさらけ出すほんの少しの勇気が必要ということなんですよね。だから、留学しても母語でしゃべり倒している人は、そういう恥ずかしさから逃れられていないんだと思います。もったいないです。

これは外語がまだまだ未熟な私だけかもしれませんが、外語を話しているときは当然、母語のように表現を工夫しきれないので、時に直截な物言いになったり、知っている表現にシフトして多少本意とはズレたことを言わざるを得なかったりします。でもそれが結局、新たな自分の側面を見つけることになるんですよね。言ってしまった後に「おや、自分はこんな大胆な事までしゃべっている!」と驚くことも多いです。

上掲の記事に書かれている、外語を話している自分は性格が変わっているような気がするというのも、そういう未熟さゆえに自分の殻が破られてしまう、軸が否応なしにブレされられてしまう……というような作用によるものなのかもしれません。いずれにしても、そういう自分が揺さぶられる感じ、心許なくなる感じを受け入れて、できれば楽しめるようになると外語の上達ははやいかもしれません。逆に、いつまでも母語で思考し、母語の枠内や母語の世界観に収まり続けようとする人は語学にあまり向かないのではないでしょうか。

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https://www.irasutoya.com/2013/06/blog-post_4926.html

余談ですが、上掲の記事にはこんなことも書かれています。

「わたしたちは誰でも母語以外の言語でくよくよするのは得意ではありません」(228ページ)と指摘するのは、本書の著者であるドイツ人臨床心理士のクラウス・ベルンハルト。

う〜ん、私は非母語である中国語でもよく「くよくよ」しているので、これはどうかなあ。例えば“世上沒有十全十美的事”という中国語(諺でも慣用句でもありませんが)があって、私は仕事や人間関係で悩むたびにつぶやくんですけど、これを母語である日本語で「世の中に完全というものはない」とつぶやいても、どこかよそよそしくて嘘っぽく感じます。中国語でこそしみじみと「くよくよ」できる。

“腰酸背痛”という言葉があって、この“酸”はふつう「酸っぱい」なんですけど、“腰”とか“肩”に使うと辞書的には「痛い」とか「凝っている」とか「だるい」という意味になるものの、私としてはそのどれとも微妙に違う独特な感覚です。何かこう、身体の奥の方から「つーん」と痛むような、なんとも形容しがたいあの不快な感じ。それが“酸”であって、私はこの中国語を手に入れてから自分の腰や肩の痛みにより実感のある形容を与えられるようになりました。

いずれも卑近な例ですけど、こんなふうにその外語を学んだからこそ言える、母語では表現しきれない領域みたいなものがあって、それもまた外語を学ぶことのひとつの魅力であると思います。翻訳などしていて、その外語が表現している内容は充分に実感できているのに、母語にどうしても置き換えられない……そうした経験をしたことがある方は多いんじゃないでしょうか。