インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

オンライン授業で失われるもの

久しぶりにオンライン授業を担当して、ひどく疲れてしまったーーそんな話をブログに書きました。オンライン授業では、少なくとも語学のそれにおいては、教師と学生の間の、さらには学生と学生の間のインタラクションが希薄になってしまうことが、学習効果を著しく損ねるというのが約三年ほどのコロナ禍における私自身の教訓でした。

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先日、電車の中でYoutubeの動画を見ていたら、メディアアーティストの落合陽一氏と対談されていた声優の緒方恵美氏が興味深いことをおっしゃっていました。コロナ禍で、声優さんたちがひとところに集まって一緒に録音することができなくなった結果、アフレコの質が低下してしまったというお話です。


www.youtube.com

緒方:人間が人間と喋って出す言葉というのは、こういう言葉を喋ろうと思って喋っている人って誰もいないじゃないですか。落合さんと話していて、落合さんがこういうふうに言ってくれたから、それを受けて、その表情とかを見て、自分の心が動いたから、たまたま口から出てきてしまったのがその言葉っていう。


落合:インタラクションと偶発性が非常に重要ですね。


緒方:セリフというのは全てそうなので、つまりはそれを発してくれる人が目の前にいるのといないのとでは全く質が違うものになってしまうということなんですよね。(中略)受ける呼吸の音とか、そこに動いている気配とか、そういうものも全て受けてお芝居というのは成立しているので、本来は。それがなくて音声だけを聞いてやるっていうのも、できなくはないけれど、それとはクオリティがもう全然違うんですよね。

もちろん声優さんのアフレコやお芝居という分野でのお話ですけど、私はこれは人間のコミュニケーション全体に関わる大切な指摘ではないかと思いました。コロナ禍の間に行われたオンライン授業に欠けていて、かつそれがコミュニケーションの質に影響を与えていると私が思ったのは、発話を行う者同士がその場を共有していることの有無でした。他人の気配を肌身で感じながら話すことの大切さが、自分の想像以上に大きいことを実感したのです。

「インタラクションと偶発性が非常に重要」と、落合氏がとても的確なまとめ方をされていますが、参加者全員の顔がグリッド状に並び、発話者以外全員が音声をミュートにしているなかでは生き生きとしたコミュニケーションは生まれにくい。発話したいときには自由にミュートを解除してもよいとはいえ、そのひと手間、ふた手間がインタラクションと偶発性をとことん削いでしまうんです。

とはいえ、私が非常勤で勤めている別の学校では、コロナ禍からこちら、ずっとオンライン授業を継続しており、今後も対面授業に戻す予定はないそうです。この学校は日本全国、さらには海外からも学生さんが参加しているため、学校側はオンライン授業のメリットのほうが大きいと判断しているわけです。また私自身も、自分の勉強のためにオンラインの語学講座を利用し続けていますから、一概にオンライン授業にはデメリットばかりだと言い募るつもりはありません。

それでもオンラインでのコミュニケーションが、なにか人間にとってとても大切なものを失わせているような気がしてならないのです。せっかくこれまでにはできなかったような遠隔コミュニケーションの技術が実用化されたのだから、使わないのはもったいないような気もします。教育以外の分野でも、その利便性は計り知れません。でも、人間はその利便性をいくらか犠牲にしても、めんどくさいリアル空間でのコミュニケーションが一定程度は必要なのではないか。

現在続けているオンラインの語学講座も、一部はリアルな教室の授業(マンツーマン英会話など)に切り替えたほうがいいかなとも思っています。授業の予約から録画から教材から、オンラインのほうがずっとずっと便利なはずなのに、またどうしてもとに戻るのか、退化してしまうのかと言われるかもしれません。でも私はそこには何か大切なものが欠けているような気がするのです。