インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

オンライン授業って何だったんだろう

一昨日の夜から昨日の朝にかけて、東京ではめずらしく積雪がありました。勤務している学校では交通の混乱などを予想して、昨日の授業はすべてオンライン授業に切り替えることを決定。私は火曜日に5コマも授業があるので、急遽Zoomでの出講となりましたが……ものすごく疲れました*1

コロナ禍の頃はこうやって毎日オンライン授業をやっていたわけですが、それからずいぶん時が経ってあらためてやってみると、これはやっぱり難しいなと。留学生のみなさんも、コロナ禍の頃はせっかく日本に留学したのにオンライン授業ばかりの日々という記憶がよみがえったらしく、一様にうんざりした表情を浮かべていました。

オンライン授業への取り組みと、そこで気づいたこと、なかんずくその弊害についてはこのブログでもずいぶんたくさんの文章を書いてきましたが、あらためて思いました。オンライン授業は、少なくとも今のようなシステムで行うかぎり、語学の授業としてはかなりつまらないものになってしまうと。

qianchong.hatenablog.com

一対一のオンライン英会話みたいな授業ならまだしも、一対多で、通信への負荷への懸念から教師以外全員の学生が音声をミュートにして行うそれは、通常の教室であれば自然に発生する“互動(インタラクション)”が決定的に欠けています。教師対学生間の“互動”だけでなく、同じクラスにいる学生同士の“互動”も消えてしまう(ブレイクアウトルームのような手段もありますが)。これがいかに学習効果を損ねるかを、約三年ほどのコロナ禍の間に痛感しました。

思い返せばコロナ禍でオンライン授業が始まったころ、一部の識者は教育の革命だ、学校というシステムが根本からひっくり返る、無能な教師が淘汰され、優秀な教師に多数の学生がオンラインで繋がり、これまでは不可能だった夢のような教育環境が実現する……といったような言辞をふりまいていました。そうした言辞にのせられ、ふりまわされ、現場にはものすごい圧力がかかっていました。アレは何だったんだろうといまにして思います。

たしか内田樹氏がおっしゃっていたことだと思いますが、「学校教育をビジネスの言葉づかいで論じてはならない」というのは、本当にそうだなあとコロナ禍におけるオンライン授業の顛末を体感してきたものとしては思うのです。そしていままた、ChatGPTに代表される生成AIをめぐる識者の意見や議論にも同じような「匂い」を感じます。


https://www.irasutoya.com/2015/11/blog-post_578.html

教育が変わる、学校が変わる、教師が変わる……ビジネス誌やネット動画などでは盛んにそういう声が喧伝されています。シンギュラリティは予想より前倒しになる、いやもうシンギュラリティは来ている。教師がいらなくなり、世界最高の知性からあまねく人は学べるようになる……。私は個人的な興味からそういう声にもできるだけ接して自分なりに考え、かつAIのサービスにも手弁当で課金したりしていろいろと試してみてはいます。でもその一方で、教師の端くれとして、決して浮足立ってはいけないと自分に言い聞かせてもいるのです。

*1:とはいえ、収穫もありました。ブレイクアウトルームに分かれた状態でホストが一斉アナウンスをしたり、動画を共有したり、その間に共同ホストの教師が各ルームを見て回って指導したり。これはなかなか便利だと思いました。欲を言えば、ホスト自身も動画を共有しつつ各ルームを見て回れるといいんですけど。現段階では各ルームに入ろうとすると、共有を終了するよう促されます。