インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

教育において身体と身体で向き合うこと

トマ・ピケティ氏いうところの「バラモン左翼と商人右翼」に興味を持って、職場の図書館で検索して引っかかってきた何冊かの本を読んでいます。クーリエ・ジャポン編の『不安に克つ思考』もその一冊でした。結果から言えばピケティ氏へのインタビューはほんの少ししかなく、ちょっと期待はずれでした。


不安に克つ思考

そのかわり、たまたま読んだルトガー・ブレグマン氏の以下の発言には共感しました。

今回の危機(引用者注:コロナ禍のこと)ではデジタル化の限界もはっきりしました。たとえば教育の分野ですが、かなり前からこんなことが言われてきたのです。「教育に関するもののすべてをデジタル化すべきだ。そうすればみんなが世界最高の教師の講義をユーチューブで見られるようになって、どんな教師もスーパースター教師にはかなわないから、世界中の教師が失職するぞ」
でも、パンデミックの数ヶ月で、身体と身体で向き合うことが大事だと身に染みてわかったはずです。人との出会いなしに、真っ当な教育はありえません。私たち人間は、まだ身体をもった生き物だったのです。脳をクラウドにアップロードする時代にはなっていないのです。今回の危機で、そのことを私たちは学べたと思っています。(20ページ)

私は、自分が職場でやっていることが「真っ当」かどうかについては自信が持てませんが、それでも教育業に携わっているもののはしくれとしては、この「限界」についてこの数年で心底実感しました。zoomなどによるオンラインミーティングを利用した授業は、少なくともそれが徹頭徹尾教師の講義を聞くだけというスタイルでない限り、成立しないのだと。

特に私が関わっている語学の授業の場合、そこには双方向のやり取りが必要不可欠です。そしてそのやり取りは、オンライン空間で単に映像と音声を共有すれば可能になるわけではなく、なぜか同じリアルな空間で「身体と身体で向き合う」場を共有しなければ発動しないたぐいのものであるようなのです。

そんなことはない、コロナ禍のずっと以前から、例えばオンライン英会話などの授業形態はかなりポピュラーなものだったじゃないかという反論もあると思います。またオンライン授業の登場で、それまでは地理的に参加するのが難しかった場所の人たちにも機会が提供されたというプラスの側面もあるでしょう。

それでも私は、こと語学の授業に関しては同じ場を共有することが、なにか学びに決定的な要素を加えているという気がしてなりません。例えば私の周囲では、コロナ禍で数年間オンライン授業を余儀なくされてきた外国人留学生の日本語力が、以前に比べて明らかに劣っているのではないかという感想をもらす人が少なからずいます。

もちろんそれらは「なんとなく」の心証の域を出るものではありません。でも教師たちが肌感覚で感じている学生さんたちの学力というものも、そうバカにはできないと思います。今後、コロナ禍における数年の実践を踏まえて、こうした心証を裏付けるような実証研究が出てくるかもしれませんが、もちろんいまの段階で断定的なことは言えません。それでも私個人としては、もうあのオンライン授業の日々に戻るのは勘弁、というのが偽らざる心境です。