インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

語学で身を立てる

語学関係者ならページをめくるたびにいちいち頷き、付箋を貼りまくり、「そうそう! この本に書かれていることは、この業界ではごくごく当たり前のことばかりなのに、一般に広く知られていないのはなぜだろう?」としみじみ思うはずです。

通訳者や翻訳者がやっていること、語学を少々かじっただけで翻訳「でも」やってみようかとなる心性、いわゆる「ネイティブ信仰」の落とし穴、英語という言語の特殊性、理想的な語学習得の方法、語学の「素質」について*1……。もう二十年近く前に出版された本ですが、内容はほとんど古びていません。それだけ語学の本質は変わらないということでしょうか。

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語学で身を立てる (集英社新書)

特に通訳者や翻訳者を目指す方に向けては、かなり厳しい言葉が並びます。

日本語の文章表現力が不足している人は、翻訳の仕事をするにあたっては手の施しようがありません。(中略)私の経験では二十五歳以上の人で、日本語の表現センスが大幅に改善された例を見ないからです。(21ページ)

語学ができる人は、しばしば自信過剰だったり、プライドの高かったりする人が多いのですが、つまらないプライドや見栄といったものは、特にこの仕事にはマイナスに働きます。(28ページ)

外国語がどのくらい習得できるかは、日本語がどれだけできるかにかかっている、といっても過言ではありません。(56ページ)

私はしばしば二流の通訳の人が、自分の勉強している言語を母国語とする国の地理や歴史、文化などについて、あまりにも無知なのに驚くことがあります。(73ページ)

私が教えた生徒の中には、語学のセンスがとてもよいのに、この雑学の知識が非常に浅く、即戦力となれない人がかなりいます。実にもったいない、残念なことだと思います。(85ページ)

熟年になると、自分が若い頃学んだメソッド、教科書や辞書に愛着があるので、どうしてもそれにしがみつきたくなります。現代は語学教育業界も十年一昔であり、どんどん新しい理論や優れた辞書が世に出されています。このような新しい情報に常にアンテナを張って、自分の中にどんどん取り入れていくフレクシビリティが必要です。(196ページ)

どうですか、ああ、耳が痛い。でもこうした物言いは、語学学校や通訳翻訳学校のバックヤードではごくごくお馴染みのもの。もちろん私は、そうした語学の性質に気づくことが大切なのであって、そういう意味ではこれらを「激励」として受け止めるべきだと思っていますが。特に最後の一節なんて、「昔取った杵柄系」に陥りがちな中高年にさしかかった私にとって、とりわけ身にしみます。

個人的には「英語の特殊性」に関する指摘が興味深かったです。いわく「現在の英語は他の西洋言語に比べて著しく語形変化が少なくなっている」と。

こうして英語は、語形変化や活用による、主語や目的語といった分の要素を明確に表す方法や、動詞の人称や数を細かく表す方法を失ってしまいました。それを補うために、語順がやかましくなり、動詞にはまめに主格人称代名詞をつけることになりましたが、全体的にはただ単語を並べているだけという印象を受けるようになります。実際、動詞の活用の複雑なラテン系言語の話し手や、ロシア語やドイツ語のような格変化が複雑な言語の話し手にとっては、特にそういう印象が強いことでしょう。(77ページ)

なるほど。私はいま英語とフィンランド語という全く違う体系の言語を同時に学んでいますが、これは日々感じていることでした。例えば一番簡単な例でいえば、英語では一人の「あなた」も複数の「あななたち」も同じ “you” で表したりしますよね。そして猪浦氏は「そうした英語の特殊性を知らずに語学学習をしているとどうなるかというと、文の構造や論理を考えられなくなってしまうのです」と述べます。

ここだけを抜き出すと、すぐに「そんなことはない」と反論されそうですが、確かに文を論理的にとらえ、分析するという態度は昨今の英語学習には著しく欠けている部分ではないかと思います。いわゆる「訳読」スタイルの学習法もずいぶん攻撃されていますし。

でも私はフィンランド語を学んでみて、この論理的な分析(主軸となる動詞はどれか、時制は何か、格は何でどこに掛かっているか、単数と複数、可算と不可算などなど……)と、その分析的な態度ないしは感覚を身につける(つまり、毎回う〜んと唸って文を見つめなくてもそれが体感できる)ことがいかに大切か、それは英語でも同じだということを悟りました。

げにげに語学というものは奥深く、面白いものであることよ。「語学で身を立てよう」とまでは思っていない方にもお勧めです。

*1:私はこれを「向き不向き」と呼んでいます。