あからさまな女性蔑視発言をして世界中から顰蹙を買い批難を浴びているのに、ちっとも反省の色が見えない森喜朗氏。氏のみならず、首相も与党幹部も、財界からも擁護なり黙認なりの声が次々に伝わってきて、本当に情けなく恥ずかしい気持ちです。女性蔑視発言って、国際的にはものすごい過ちと見なされる類いのもので、そんなことを公言したら二度と公の場に出られなくなるくらいのインパクトだと思うのですが、なぜかこの国では軽くスルーされようとしている……こんな言葉はあまり使いたくありませんが、これが私たちの「民度」というものなのでしょうか。
そんな中、JOCの理事である山口香氏の発言は光っていました。記事のタイトルは「天敵」などと戯画化した調子で、事の重大さがいまひとつ分かっていない空気も漂ってはいますが。
一応、発言を撤回、謝罪していましたが、心から謝ってはいないですよね。というか、もともと何が悪かったかを理解していないと思います。これって自分の生きざまや成功体験と結びついている気がするんです。自分はこうやって生きてきて、こういう考えでやってきたから「今」がある。そんな確固たるポリシーがあるから新しい考えを受け入れられない。だから謝れないんですよ。謝罪したら過去の自分を否定したことになるので。
これ、本当に怖いです。誰にでも、いえ、私にもこういうダークサイドに堕ちる可能性はじゅうぶんにあると思うからです。特に「自分はこうやって生きてきて、こういう考えでやってきたから『今』がある。そんな確固たるポリシーがあるから新しい考えを受け入れられない」という部分。いまの仕事の中で、自分はそんなふうに振る舞ってはいないだろうかと考えました。
……たぶん、そんなふうに振る舞ってる。
もちろん、今回の問題の根底にあるジェンダーや性差に関する部分ではフラットな考え方を持っている・持つように努力しているという自負はありますが、根拠のない自負ほど危ういものはありません。さいわい職場では私を除いてほとんどの職員が女性という環境なので、今回の問題を機に改めて「何か気になることがあったら、ぜひ『わきまえない』で指弾して!」と懇願しました。みなさんからは「任せといて! ぜったいに『わきまえない』から!」との力強いお言葉を頂きました。
しかし、自分の本務である語学の授業についてはどうだろう。私は中国語を主な仕事の道具として使っていますが、中国語や通訳翻訳の技術を学んだのはもうずいぶん前のことです。もちろん語学は学んだらそれで終わりというものではないので、いまでもふだんに学び続けているつもりではありますが、ついつい自分が学んだ当時の経験や、留学した当時の中国や、仕事をしていた当時の中国や台湾での経験がベースになっていることは否めません。
しかしそれらはもう何年も何十年も前の経験です。その後もアップデートしてきたとはいえ、少なからず現代の状況とズレている部分はあるはず。特に、確認して改善することが必ずしも簡単ではない「個人的な感覚や感性」の部分で、自分にはアップデートし切れていない部分があるのではないかと考えると、少々心許ない気持ちになりました。
そんなことを考えていたら、たまたまTwitterのタイムラインで、作家・ルポライターの安田峰俊氏がこんなツイートをされていました。
「ああ、中国といえばねえ。僕は大学の卒業旅行で中国に一人旅に行ったんだ、1988年に。天安門の前だよ。敦煌に行ったんだよ。あの頃はね、切符買うのが…」
— 安田峰俊|『現代中国の秘密結社』2/6刊、『「低度」外国人材』3/2刊 (@YSD0118) February 5, 2021
「(量産型80年代中国バックパッカー話はもうやめてくれよ)」 pic.twitter.com/2fCHPgzAlP
わははは。確かにこういう方はけっこういます。しかしすぐ、ひょっとすると私もそこに連なっているのではないかと思い直しました。私が中国にいたのはもっと時代が下ってからですから「量産型80年代中国バックパッカー」ではないのですが(むしろそれをまぶしく仰ぎ見ていた世代)、それでも現代とはかなり違う中国を知っている世代ではあります。だから、ついつい昔を思い出して隔世の感に浸ることがあります。例えば「外貨兌換券」とか「自転車王国」とか「学生食堂で使っていた食券」とか「カウンターに店員がいて背後にある本棚から本を撮ってもらう書店」とか……。敦煌にも行きましたし、当時は切符を買うのが大変というのも体験しています。
そうしたあれやこれやを、授業の「ネタ」として使うことが私にも時々あります。留学生のみなさんは、そのほとんどが自分が生まれる前の話ですから逆に新鮮な(?)驚きを持って聞いてくれますが、しかしこれ、ひょっとして老人の、若い人たちに対する「マウンティング」にもなり得るんじゃないでしょうか。「自分の国のことなのに、そんな直近の歴史も知らんのか。全く最近の若いもんは……」になっていないか。
昔話がすべて老人のマウンティングにつながるとは思いません。けれど、両側はダークサイドの深い谷になっているかなり危うい橋を渡っていることだけは確かなんじゃないか。山口氏と安田氏のお話を読んで、そんなことを思いました。