能の稽古を始めて十年が経ちました。十年といっても、実際には月に二度ほど師匠のもとにうかがっての稽古と、年に一、二度の発表会を続けてきただけですから、実質的にはたいした量ではありません。途中でもうやめようかなと思ったことも何度もありましたが、なんとなくその魅力にひかれて続けてきました。いまではMacBookの「ミュージック」に、謡のmp4が二百本ほど蓄積されています。
「魅力にひかれて」と書きましたが、十年経ったいまでもその魅力がいったいどのあたりにあるのか、確固たることは言えないように思います。もちろん、日本の伝統芸能を学べるとか、和服を着ることができるとか、能舞台で舞うことができるとか、仲間と一緒に謡うことができるとか、あと個人的なところでは中国との縁を、特に古典の面から感じることができるとか、あれこれあることはある。でもそれも本質的なところではないような気がします。
Webマガジン『考える人』に掲載されていた、安田登氏・内田樹氏・いとうせいこう氏による鼎談に、こんなくだりがありました。
安田 始めたときのお約束で、10年間はぼくが許すまで質問してはいけないと言いました。
いとう ええっ。
内田 あれ、驚いていらっしゃる(笑)。
安田 それから、10年間はどんなことがあっても、自分が死んだとき以外はやめてはいけない。この二つの約束がありました。
いとう あ、そうだった。
安田 この二つはとても大事だと思っています。
内田 質問してはいけない。
安田 だいたい質問の多くというのは、10年待つとわかることなので、先に聞こうとするなという話です。
能楽師の安田氏は「『そういうものなのだ』の枷の部分と、自由である部分の両方があることが、能の面白さなんです」とおっしゃっています。わかったようでわからない……と思われるかもしれませんが、私にはこれがとてもしっくり来る説明でした。
能はとにかく「型」ばかりです。型から外れることはまず許容されません。型を繰り返し稽古して、型どおりにできるようになることが求められます。演劇の一種ではあるけれど、そこに「個性の発揮」だの「アドリブ」だのの入り込む余地はまったくありません。なのに「自由である」とはどういうことなのか。
十年稽古してきて、とりあえず現時点でなんとなく理解できたのは、謡(うたい)や舞(まい)が上手になりたいけれども、上手にやろうとするとたいてい見ちゃいられないものになる、ということです。そんなことは思わず、ただひたすらに型を繰り返し練習して覚えることを続けた先に、その人なりの、そしてその人だけの、なにかきわめて個性的なものがあらわれてくるという感じ。
そのあらわれてきたものをあとから自分で振り返ってみたときに「ああ自由だなあ」と思える、それが安田氏のおっしゃっていることではないかと思います。もっとも、私自身は十年続けてもまだそんなものがあらわれる気配すら感じられませんが。
いまのところ私がいいなあと思えるのは、おそらくまだ謡や舞そのものですらなく、その前の段階、稽古をするときのあの立ち居振る舞いのひとつひとつが心地いいといったレベルのものです。正座をし、扇を抜いて自分の前に置き、それを手を添えながら前に回し、両手で取って膝の上に置き、謡いはじめる、あるいは舞いはじめる……その一連の所作をこなす流れが心地いい。
この先さらに稽古を続けて、そのレベルから上がることがあるのかどうかわかりません。でも「上手にやろうとするとたいてい見ちゃいられないものになる」という自分自身の教訓にしたがうなら、たぶんレベルを上げるとか、なにかの達成を期するとか、そんなことは考えないほうがよいのでしょう。なにがあらわれてくるのか楽しみにしながら稽古を続けるだけでいいような気がします。