インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

見るものではなくやるもの

先日、目黒の喜多能楽堂へ稽古に行ったとき、稽古場の前で二十代とおぼしきスーツ姿のお若い男性を見かけました。稽古場はいくつかあって、その日は私のお師匠以外にも稽古をされている能楽師の方がいらっしゃったのですが、たぶんその方のお弟子さんでしょう。

能の稽古をする素人衆(私もそのひとりです)は、たいがい年配のおじさんやおばさんたちなので(私もそのひとりです)、お若い方稽古にいらしているのを見て、おもわず「いいなあ」とつぶやいてしまいました。お若いビジネスパーソンが(スーツ姿から拝察するだけですが)能の稽古をしているなんて、何だかカッコいいではありませんか。

いったいどういうお気持ちで稽古をされているのか伺ってみたかったのですが、怪しまれること必定なのでやめました。大学のサークルなどで能に親しまれている学生さんもいますし、ひょっとしたらあの方も学生時代から稽古を続けてらっしゃるのかもしれません。

五月の連休に国立能楽堂で発表会があるので、いまはその稽古をしています。私は舞囃子「邯鄲」と、地謡で何番か出る予定ですが、先日はたまたま稽古をご一緒していた古参のお弟子さんたちが笛と地謡をやってくださって、お師匠の張り扇のあしらいで「邯鄲」をやりました。もう一年以上稽古しているのにいまだ心許ないですが、とても楽しいです。正直、稽古日は朝から憂鬱なことが多いのですが、稽古している最中は本当に楽しいのです。これは何なのでしょうか。

喜多実氏の芸談演能前後』を読んでいたら、夏目漱石のこんな言葉が引用されていました。「能は退屈だが良いものだ」。漱石氏が能、とりわけ謡曲の愛好者だったことはつとに知られていますが、その氏が能の前提として「退屈」を挙げているのがおもしろいです。ただこれは、何だかよく分からないが歴史ある伝統芸能だから有り難いものなのだ……というような意味ではまったくないんですね。漱石氏にとって能は、見ているだけでは「退屈」だが、自分で稽古すると「良いもの」だ、と。

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漱石氏が、いや、氏に限らず明治期に能の稽古、とりわけ謡曲の稽古にハマっていた素人衆のようすについて、ネットで検索しているときに偶然見つけたこちらの論文がとても興味深かったです。

人はなぜ謡の稽古に熱中するのか
https://juen.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=8445&item_no=1&attribute_id=22&file_no=1

いまの能楽を取り巻く状況とはかなり違う空気感。明治維新で存亡の危機に立たされた能楽が復活を遂げる過程でのてんやわんやという側面が多分にあったのでしょうが、ここに記された漱石氏をはじめとする素人衆の行状に驚くとともに、そのハマりっぷりというか熱狂の仕方に、どこか羨ましさを感じてしまいました。

『演能前後』にも、いったい稽古事を、例えばお茶(茶道)やお花(華道)をただ見物しているだけではおそらく退屈だろうという話が出てきます。

ところが、茶を立てるもの、花をいける人から言えば、それぞれにこんな楽しいものはないであろう。お茶なんか、本式にやればずいぶん時間もかかるし、無論足もしびれるにちがいない。しかしその道の中に在る人からすれば、あの中に実に深い、心の安らぎが感じられていると思う。つまり、それらのものは、みずから行うものであって、人に見せるということを目的としない。たまたまそれを見て楽しむ人があるとすれば、それはその人もその道をたしなむ人であろう。(56ページ)

そうなんですよね。稽古事って、それを習得して人に見せるなんてことよりも、それを稽古していることそのものが楽しいんですよね。「習得し→見せる」となると、そこには何か明確な目的のようなものがおのずから備わってきてしまうのですが、正直に申し上げてわれわれ素人の芸(のようなもの)はたぶん死ぬまで続けてもそれ相応のものでしかなく、ましてや人に見せて「どや顔」をするようなものでもないかなと。

そういう意味では発表会に出るとか、発表会を目指して稽古するとかいうのも、あまり大きな意味を持たせるべきではないのかもしれません。というわけで、私はあまり人に自分の発表会を見に来て! などとは言わない(言えない)です。他人のお稽古事の発表会って、誘われるとけっこう「微妙」じゃありません? 妻はいつも見に来ますが、私はまあそれくらいで十分かなと。能楽をもっと盛り上げたいと願っておられるお師匠やお仲間のみなさんにそんなことを言ったらお叱りを受けると思いますけど。