インタプリタかなくぎ流

いつか役に立つことがあるかもしれません。

能を見て爆睡するのは当然かもしれない

東京の国立能楽堂での能楽鑑賞教室、留学生のみなさんと一緒に行ってきました。当日は中学生の団体が数多く入っていて、能楽堂内はとてもにぎやかな雰囲気でした。上演前のお話もわかりやすくて面白かったですし、狂言は会場からも大きな笑い声が起こっていました。……が、能となるとやはり(?)眠りに落ちる留学生もちらほら。中学生のみなさんはかなりの数が爆睡しておられました。

う〜ん、まあ、仕方がないですよね。能の曲目は『羽衣』で、比較的分かりやすいストーリーであるうえに、能楽鑑賞教室というということで一部の詞章を割愛した短縮バージョンで演能されていましたが、それでも後半の舞の部分は眠りを誘いやすいみたい。なにせ静かな「序の舞」に続いて、終盤の謡とともに舞いながら天に返っていくところまで、15分から20分くらいは舞が続くのですから。


https://www.irasutoya.com/2016/04/blog-post_119.html

もちろん、お稽古をしている立場からすると、長い舞の間にもいろいろと見どころがあって、お囃子の変化や謡の詞章と舞の連関、それに拍子を踏むところまで、見飽きないのですが……やはりお能は、自分でやってみて初めてその良さとか面白さがわかるという、ある意味舞台芸術としては特殊な部類に属するものなのだなあと改めて思いました。

ふつう舞台芸術というものは、基本的に演者と観客はきわめて明確に別れていて、観客が演じる側に回るということはないですよね。それがお能では頻繁に起こりうる。もちろん玄人(プロ)の能楽師と我々のような趣味でお能をやっている素人とはその技芸に雲泥の差があり、その点では演者と観客に別れている状態と大差はありません。

ただ、それでも能という芸術は、観客側もその技芸を稽古することによってのみ体感できる面白みや味わいというものがあり、そうした面白みや味わいを知った観客が見ることによって演者もまた支えられているという特殊な側面があるように思います。私たち素人が玄人の技芸を支えているだなんておこがましい物言いに聞こえるかもしれませんが、私にはお能が持つこの演者と観客の往還性こそがその技芸の本質をよく表しているように思えるのです。

だからこれまた大変おこがましく聞こえると思いますが、こうした往還性を等閑視している能楽師がもしいたとしたら、それはお能の本質を捉えそこねているーーそれが近代以降の演劇の枠組みやありようと同じであると誤解しているーーことになるのかもしれません。

もっとも、お能はやってみなければ本当には分かり得ないなどと言ってしまったら、それこそ能楽の衰退は決定的なものになってしまうでしょう。はるか昔のように(私の祖父母の世代が若かった頃)趣味や娯楽の大きな選択肢のひとつとして謡曲があったという時代でもありません。だからこそこうした能楽鑑賞教室のような取り組みは本当に大切だと私も思います。

ただそれでも、それでもなお、本当はお稽古してみたら分かって楽しい部分がほとんどなんだよな、こうやって「演劇」という枠組みで「鑑賞」するのでは、伝わるものにも限界があるんだよな、という思いを禁じえないのです。ですから先日、たまたまネットで見つけたこちらの記事にはちょっと希望を感じました。「能楽は見るだけでなく習うことが大切」というコンセプトで開催されているワークショップです。

artexhibition.jp

予算や規模の関係で難しいところはあると思いますが、こういう試みにこそ留学生のみなさんをお連れしたい……。そしてお能で爆睡しちゃうのはある意味当然かもしれなくて、それは観客→演者というベクトルが欠けているからではないかーーきのうの夜、お稽古で『羽衣』の舞囃子の謡をうたいながらすこぶる気持ちがよくなりつつ、そんな考えても詮無いことを考えました。