先日、横浜能楽堂で行われた「デジタル若者能」という公演を見てきました。能楽シテ方喜多流能楽師の塩津圭介師が中心となって毎年開催されている、特に若い世代の方々に手軽な観劇料で能楽に親しんでもらおうという企画の、いわば「スピンオフ版」です。
能舞台横の、ふだんなら「脇正面」と呼ばれる客席に巨大なスクリーンが設置してあり、ここで「能の映像化」をテーマに取り組んでこられた試みを初披露という趣旨でした。能舞台に字幕などを映す小さなスクリーンが添えられるという形式は見たことがありますが、ここまで大胆なものは珍しいかもしれません。
最初に塩津圭介師とクリエイティブディレクターの近衛忠大氏、それに3Dデータ関連技術を使ったコンテンツ制作をされている長沢潔の鼎談があり、今回の催しの背景を解説されていました。
能楽の公演は一般的にその日一度限りであることが多く、他の伝統芸能のように数日間、あるいは数週間にわたる「興行」という形を取ることがありません。これが能楽の大きな特徴のひとつですが、その一回性や秘匿性から、かつての名人と呼ばれた能楽師の芸などもほとんど映像でアーカイブされていないのだそうです。これは後世にこの文化を伝えるという観点では非常に「もったいない」。まずはその点で、能を映像化することの意義を強調されていました。
また能楽の公演は大都市で行われることがほとんど(地方の神社などで神事として行われることはありますが)で、地方や海外の方々が能楽堂に足を運んで鑑賞するという機会はかなり限られています。そこで能楽堂全体を、楽屋などバックステージ*1も含めて3D映像化し、VR(バーチャルリアリティ)の形で体験してもらおうという試みも紹介されました。
塩津師はすでに能楽師の視点から見た能舞台上の様子を3D映像でコンテンツ化するという試みをされていますが、ここではさらに進んで、一人ひとりが自由に能楽堂の中を動き回ることができるという段階になったわけです。また鑑賞者だけでなく、能楽を趣味として稽古される方にも新しい道具として使える可能性があるのではないかというお話も興味深いものでした。
CGで再現された能楽堂はとてもリアルなものでした。長沢氏によると、できるだけリアルな質感を追求しながらも、データが重くなりすぎないようにするのが大変だったのだとか。データが重くなりすぎるとスムーズに動かす(ゲーム業界でいうところの「ヌルヌル動く」ですか)ことができないのだそうです。
鼎談の後には、仕舞二番と半能『熊坂』が上演されました。この仕舞では、能舞台横に設置された大スクリーンで様々なエフェクトをかけた同じ仕舞(同じ演者)の映像が流れます。仕舞は装束もつけず、ある程度抽象化された舞の型と謡の詞章だけでドラマの一部分が再現されます。このため多少の知識がないと理解するのが難しい(言い方を変えれば観る側の想像力の羽ばたかせ方にかかっている)のですが、これは補足的に具象化された映像を重ねることで、観客の理解を深めようという試みなのですね。
こうやって観客の理解を「補足」することの是非については鼎談でも語られていました。本来的には、観客それぞれが自由に想像を羽ばたかせるところにこそ能楽の深みもあるのに、そこにある程度の枷をはめてしまうのがはたして良いことなのかどうかと。しかし能楽の内容を観客の側から主体的に学ぶことのみに頼っていれば、ただでさえ様々なコンテンツが溢れている現在、能楽の受容層は今後ますます減り続けていくでしょう。その点で、こうした試みはどんどん模索されるべきではないかと思いました。能楽という、ある意味ではかなり伝統に縛られたジャンルであるがゆえに、なおさら。
もっとも、私自身は事前に「舞に映像的なエフェクトをプラスする」という漠然とした情報だけを聞いていた段階で、勝手にもっと「ド派手」なエフェクトを想像していました。でも実際にはとても控えめな映像処理でした。
能『桜川』の一部を演じる仕舞『網之段』では、身売りされた我が子を探して川面に浮かぶ桜の花を掬い集めるところに桜の映像がオーバーラップします。また能『海人』の一部である仕舞『玉之段』では、海に沈んだ宝珠を取り戻す海女(海人)が龍神の抵抗に遭うなか胸をかき切るところで血潮の映像がかぶさる……といったぐあいです。もちろん他にも抽象的な表現がありましたが、基本的には舞と詞章の内容を具象化するための映像が控えめに付されているという印象でした。
これは伝統の厚みと重みが他の芸能に比べて格段に大きい能楽ならではの課題かもしれません。塩津師自身も「これはまだまだα版で、これからどんどん模索して進化させていきたい」とおっしゃっていました。どこまで映像を用いるのか、さらには今回の催しのテーマでもある「能楽は映像化できるのか」について、取り組みは始まったばかりということですね。私は今後も、観客として鑑賞し続けることでこの取り組みを応援したいと思っています。
ちなみに私が最初に「舞に映像的なエフェクトをプラスする」と聞いてイメージしたのは、浄土真宗本願寺派の一乗山照恩寺で行われている、住職・朝倉行宣氏による「テクノ法要」です。
この法要について朝倉氏が解説している映像を、私は通訳訓練で使ったことがあります。そのときに感じたのは、その「ぶっ飛んだ」手法もさることながら、ここまで伝統から乖離しているように見えて、実はこれが新しい角度から法要の本質にかなり迫っているのではないかという新鮮な驚きでした。それは参拝者から寄せられたという「お浄土って綺麗ね、早く行きたいね」という感想に端的に表されているのではないでしょうか。
もちろんテクノ法要の場合は映像に加えて音楽の要素がとても強いです。これを能楽にそのまま当てはめることはできないでしょう。例えばお囃子の音楽を何か他の楽器や電気的な処理に預けてしまうことは無理なんですから。舞についても同じで、その型や動き、謡との連携そのものを改変してしまうことはできません。
それでもテクノ法要もベースにあるのは照恩寺の仏堂そのものであり、仏堂の建物や仏像などに改変をかけているわけではありません。あくまでもそこにレイヤーを重ねるようにして新しい表現と新しい感動を生み出している。能楽の世界でそれができるかどうかは分かりませんし、私が判断することでもありませんが、これくらい「ぶっ飛んだ」アプローチから能楽に親しんで、徐々に核心に迫っていくというのも面白いのではないかと思いました。
今回のデジタル若者能では、能舞台の横に独立したスクリーンが立てられていたわけで、能舞台上の舞(のビジュアル)には特にエフェクトがかかるわけではありません。であれば、スクリーンの方はもっと「ぶっ飛んで」いてもよかったのではないか。「ぶっ飛んだ、ぶっ飛んだ」と言葉の貧弱さが我ながら恥ずかしいですが、概略そのようなことを思いました。