能楽はできれば能楽堂に足を運んで観たいものですけど、コロナ禍でこの半年ほどは足が遠のいていました。遠のくも何も、ほとんどの公演が中止になってしまっていたのです。最近また徐々に上演されるようになってきたものの、演目の間の休憩時間に換気をしたり、客席は市松模様状だったり、能楽師の方々のみならずスタッフの皆さんも大変なご様子。できるだけ観に行って応援したいものです。
先日、目黒の喜多能楽堂に出向いたら、市松模様状の座れない客席に、さまざまな能の演目の詞章が印刷された紙が貼ってありました。私のとなりは「雲林院」でした。なかなか粋な計らいでありますな。
ところで、能楽堂での公演が中止や延期になることが多かったので、この間はよくテレビの番組を録画して観ていました。もとより能楽のテレビ放映は少ないんですけど、それでもNHKが時々やっているので、気がついたら録画するようにしています。先日も撮りためておいた一本の番組を観ました。「古典芸能への招待」です。
この回では、喜多流の能「湯谷」と舞囃子「田村」をやっていました。どちらも仕舞はお稽古したことがあるので、知っている謡が出てくるとそれだけで嬉しいです。そしてまた、玄人の能楽師の舞にももちろん圧倒されるのですが、この番組では解説をされていた能楽評論家の金子直樹氏のお話も興味深いものでした。
金子氏は、かつてもう何十年も前に、フランスの文化使節団が来日して観能した際「死ぬほど退屈だ」と評したというエピソードを引いて、実は能はリアリズム演劇ではなく、抽象的・象徴的な表現が多く、観客のイマジネーションに託されている部分があり、そのイマジネーションは謡を聞きながら行われるのだ……と、概略そのようなお話をされていました。
時間的制約のあるテレビ番組での簡潔な解説ですし、似たような解説は能の入門書的な書物でもお馴染みかもしれません。でも私はこのお話を聞きながら、あらためて能楽が今後も広く愛されていくためにどのようなことがなされるべきか、けっこう深いテーマを含んでいるのではないかと思いました。
そのひとつは謡を聞いて分かること、という問題です。謡の詞章を聞きながらイマジネーションをふくらませることが能の鑑賞において不可欠だとしたら、やはり能はすぐれて言語と深く結びついた芸能だということができると思います。能の詞章は昔の言葉ではありますが、そこはそれ日本語には違いないわけで、謡をよく聴けば、あるいは謡本をよく読めば私のような古文の知識にかなり乏しい人間でもけっこう理解できます。理解できた上に感動すらできる。
とはいえ、そこにはある程度、最低限の知識はやはり必要ですし、候文なども数をこなしてようやく分かってくるところがあります。要するに多少の努力が必要なんですね。その努力を今後の観客も払ってくれるかどうか。そして上述した「フランスの文化使節団」のような日本語が母語ではない外国の方にどうやって分かってもらうか。
国立能楽堂などでは、上演に際してリアルタイムで詞章の英語訳が流れたりしますし、そこまで行かなくても当日配られるリーフレットに英語の解説がついている公演もよくあります。でももっと能舞台に意識を集中して、謡を聞きつつ舞台上の光景に自分のイマジネーションを重ねていくためには、やはり最低限日本語の詞章をリアルタイムで理解する必要がある。
となれば、かなり違った発想の試みがあってもいいのかもしれません。例えば字幕ではなくリアルタイムの音声で、それも事務的な声ではなく多少の詩的な美しさを兼ね備えた外語が流れてくるようなイヤホンとか、VRみたいな技術で空間上にちょっとした補足説明が出るとか……。
もうひとつ、能を観る楽しみが本来的に「謡を聞きつつイマジネーションを広げること」であるとすれば、世上よく言われる「分からなくてもとにかく空間に身を委ねてみましょう」とか「面や装束の美しさに注目してみましょう」とか「なんなら寝てしまってもいいんですよ」といった、初心者向けのアプローチをあえて控えてみるという方向はないものかしら、と勝手な夢想をしました。
もちろんこれは暴論であって、初手から「本格」を求めればそれこそより一層敬遠されるではないか、だからこそ能の公演では新たなファンを呼び込むべくハードルを下げたアプローチを行っているのだと言われるでしょう。それは本当にそうなんです。私も最初はよく寝ていて(最近でも時々うつらうつらすることが……)、だから「寝てもいいのですよ」には励まされたクチなのです。だけれども、それではコアなファンになる人はごくごく稀で、大多数の方が「ああ、なんかきれいだった」とか「たまには和風趣味もいいよね」で終わってしまいそうで、それはすごくもったいないとも思うのです。
難しく考える必要はないんですよとハードルを下げるのももちろんアリなのですが、難しいからこそマニア心に火がつくこともありますよね。釣り堀で必ず釣れるフィッシングでは物足りなくて、渓流釣りの竿に傾倒したり、ルアー作りにのめり込んだり……いや、例えがよくないですけど、とにかく最初から王道の楽しみ方、一番欲張りで贅沢な楽しみ方にアプローチさせることはできないんだろうか。そんなことを考えたのでした。
さしたる提案もなくて申し訳ないのですが、能楽のファンには時折若い方々がいますよね。大学の能楽サークルなんてのも、学校によってはけっこう盛んだと聞きます。そういう若い方々に「どうして能楽にハマったのか?」をアンケート調査してみたらいいのではないかと思います。それも一度限りでなく経年的に何度も、幅広く。そうした研究の末に、単なる和風趣味ではない能楽が人を引きつけるメカニズムみたいなものが見えて……こないかなあ。
「古典芸能への招待」の録画を観ながら、そんなことを考えていました。