インタプリタかなくぎ流

“Might come in handy one day.”

能楽の「現場性」について

娯楽のジャンルが多岐にわたる現代。それも家から一歩も出なくたってネットで何でも済ませられるこの時代に、わざわざ数少ない能楽堂に足を運び、そこそこなお値段のチケットを買って、三時間も四時間もそこに座り、必ずしもすべてが理解できるわけではないように思える古典芸能の狂言や能を鑑賞する、そんな「奇特」な観客がこのさき増えていくことはあるのだろうか……先日お稽古に立ち寄った折、漏れ聞こえてきた「業界の声」です。

う〜ん、確かに、能楽は他の演劇や映画などと違って何日も連続で興行ということは基本的になく、通常はその日一回限りの公演であることがほとんどです。チケットも、例えば比較的安価でお求めやすい国立能楽堂での公演などは早々に完売してしまっていることが多く、たまさか興味を持った方がふらっと立ち寄る……なんてことがやりにくい状況*1。なるほど、そう考えてみると、ここまで「非効率」な娯楽は他にないかもしれません。

しかも、狂言はまだしも能は敷居が高そう。日本語ではあるけれど古い言葉なのでわかりにくそう。動きがあまりにもゆっくりで眠くなりそう。観客席にはお年寄りばっかりで「アウェー感」半端なさそう……これではますます新しい観客を獲得するのは難しいように思えてきます。実際には古い言葉であってもそこはやはり日本語で、よく聞いていればかなりのところまで理解できるものですし、曲(演目)によってはダイナミックな動きも多々あるうえに、お囃子などもある種のビートが効いていて血湧き肉躍る感じがしますし、見所(客席)にはいろいろな世代の方が観に来てはいるのですが。

能や狂言NHKEテレあたりでも時々録画が放映されているのですが、これは実際の舞台とは全く違った雰囲気になってしまいます。能楽はすぐれて「現場性」、それも一回限りのライブ性に大きく依拠した芸術形式なんですよね。能楽堂で演者と同じ空間に身を置き、同じ空気を呼吸しているときにしか分からない何か、それも、それを欠いてしまってはほとんどこの芸術が成り立たないとまで言えそうな何かがあるらしい。そんなこと言っちゃったら、じゃあ能楽堂がない、あるいは能楽の公演がほとんどない地方の方々は能楽を味わうことができないのかとお叱りを受けそうですが、その通りかもしれないと申し上げざるを得ません。ほんとうに申し訳ないですけれど。

能楽喜多流能楽師、塩津哲生師がご自身のウェブサイトに「能と私」というコラムを掲載されており、そのうちのひとつ「オスロ公演の充実感」にこんな一文があります。師は能楽の現場性はもとより、その現場の適正な規模にまで触れておられます。

能は客席の中に張り出し、横からも観ることができ、面の表情が肉眼で確りと捉えることが可能な能舞台という特殊な舞台で演じて初めて力を出すことができるもの。声も囃子の音も生で聞こえる、せいぜい四、五〇〇人に観せる広さが理想である。マイクを使わなくてはならない広さでは能のよさはとうてい解ってもらえない。ホールのステージのように緞帳で客席と舞台を区切った処などが初めから能を否定している。
Vol.07 「オスロ公演の充実感」 | 塩津哲生オフシャルサイト

私もそのとおりだと思います。でも、こうなると「興行」としてはさらに立ち行き難くなり、能楽がもっと普及してほしいけれどもその制約が半端ないというジレンマに陥ってしまう。私など一介の能楽ファンですからこうして無責任に文章を書き散らしていられますけど、玄人(くろうと・プロ)の能楽師の方々の、能楽の未来に対する心中やいかばかりかとお察し申し上げます。

しかし、そういう制約があるからこそ能楽舞台芸術としての(能楽には祭祀の側面もありますから、舞台芸術と単純に言い切れるかどうかは別にして)輝きを現代にまで保ち続けているのだとも思えます。そこで思い出したのが、授業の課題そっちのけで演劇に明け暮れていた学生時代に、みんながこぞって読んでいたので自分も競うようにして読み、しかし内容は全く覚えていない(というか内容を理解できていたかどうかも怪しい)、ピーター・ブルック氏の『なにもない空間』という本です。

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なにもない空間 (晶文選書)

先日その懐かしい本を図書館で借りて(閉架になっていたので取り寄せてもらった!)読み返してみたのですが、その第一章は「退廃演劇」と銘打たれています。私はこの章を読んで、上述のような一回性・現場性・ライブ性を常とする能楽は、その退廃演劇から最も遠いところにあるのではないかと思いました。もちろん能楽にも時に「退廃演劇」的なものが現れることは否定できないにせよ、です。それはあの、巨大鉄道会社と提携して大宣伝を打ち、ロングラン達成をやたらと強調するどこかの劇団(私は劇場で数作品を観て、そのあまりの退屈さにのけぞりました)のようなあり方とは真逆に位置するものです。

……おっと、筆が滑りました。悪口は慎み、最後に今回『なにもない空間』で見つけた(以前読んだ時には、いかに頭に入っていなかったかがわかりますね)能楽に関する記述をご紹介しましょう。

わたしはまえにコメディ・フランセーズ一座の稽古を見たことがある。とても若い俳優がとても年をとった俳優のまんまえに立って、まるで鏡に映った影よろしく台詞としぐさを真似ていた。これは、たとえば、日本の能の役者が父から子へ奥義を口伝してゆくあの偉大な伝統とはまったく別のもので、それとこれとを混同してはならない。能の場合は、口伝されるのは「意味」である――そして「意味」とは決して過去のものではない。それはひとりひとりがおのれの現在の体験の中で検証できるものだ。だが演技の外面を真似ることは、固着したスタイルを受けつぐことにすぎない。そんなスタイルは他のなにものにも関係づけることはできないだろう。
(文中の括弧は、原文では傍点)

わたしはこの一文に、能楽師のみならず、能楽に触れようとする私たちにも共通する、ある種の真理を見るものです。能楽堂の現場において、そこで演じる人々から私たちは「ひとりひとりがおのれの現在の体験の中で検証できる」なにかを「口伝」されるのです。これこそ能楽が一回性・現場性・ライブ性を重んじる所以だと思いますし、また素人の我々が能楽のお稽古をすることに何らかの「よきもの」がある理由でもあると思います。

*1:数年前、国立能楽堂に定例公演を観に行って、ネットで予約しておいたチケットを発券していたら、横にいたフランス人と思しきご婦人が落胆している様子でした。当日券がなくて観るのを諦めた、次回また日本に来るチャンスがあったらその時はぜひ……とおっしゃる。なので、私のチケットを差し上げちゃいました。